23.鏡にうつるわたし
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ことしの夏季学校の主題は、「わたしは誰でしょう、あなたは誰でしょう」ということでした。
「わたしは誰でしょう」と自分にたずねて、自分で答えができるでしょうか。実は、これは大変むつかしいことなのです。数学がむつかしいとか理科がむつかしいなど言っても、とうていくらべものにならないほどむつかしいことです。世界でいちばんむつかしい問題です。
こう言いますと、変だナア、そんなことはないだろう。自分のことは自分が一番よく分っているよ。写真のアルバムの中に、最近写してもらったすばらしくカッコいいのがある。これがわたしだ。とその写真を見せてくれる人もあるでしょう。しかしそれがほんとうにその人の姿でしょうか。
まあ、それはそれとして、今は写真があるけれどもネエ、写真の発明されない昔々、写真とかカメラというものがまだ無かった時代にも、「わたしは誰でしょう」と考えたり、たずねだりしたのです。そのころの人たちはどうやって「わたし」を見つけ出したでしょうねえ。カメラは無かったのですからねえ。
大昔の人たらは池のほとりに行きました、池の水がきれいに澄んでいました。きれいな水だなと思ってのぞきこみました。するとそこに顔がうつっていた。それがわたしの顔だな、とわかりました。「わたしは誰でしょう」。私はここに目があり、鼻があり、横には耳が二つついている。これがわたし。わたしの顔はこんなだというのが池の水でわかりました。
それからのち、だんだん時がたってみんなが石を使う時代になりました。石器時代ですね。このごろよくテレビや新聞のニュースに出るでしょう、丘や畑を堀ったら石のやりが出てきたとか、石の小刀が出てきたとか、生活の道具に石を使う時代になりました。人びとは石をみがいてその表面がすべすべし、ピカピカ光る石のかがみを造りました。それに自分の顔をうつしてみました。ボーッとではあるが、池の水かがみよりはたのしかったでしょう。石の鏡で自分の顔が見えるようになりました。
そのうちにまた時が過ぎ、石の時代が終って銅やら鉄の時代になりました。銅の板で鏡を造ったらピカピカで、石の鏡にうつったときよりも、もっとはっきり見えるようになりました。今でもそんな鏡がありますよねえ、古い神社の奥のほうに大事にしまってあります。
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それからまた時代がたって、今度は今みなさんか使っているような、立派な鏡の時代になりました。その鏡で見るとよく見えますよねえ。昔の鏡にはよく映ちなかったようなところまで、はっきりとうつります。昔はぼやっとしていて、あれがほんとにわたしでしょうかと、目をこらして見なけれぱはっきりわからなかったのに、今は立派な鏡ではっきりわかるようになりました。
さてそこでみなさんは、その立派な鏡にうつった顔を見て、「わたしはあれです」と言えますか。「あの鏡の通り、あれが私です」と言えますか。あの鏡にうつっているわたし、実はわたしではありません。私のようなものがうつっているのです。
昔ある武士か写真にうつりました。その時そのさむらいは、左の腰にさしていた刀をはずして右の腰にさしかえて、写してもらったそうです。どうしてだか分りますか。左の腰にさしたままで写ると、出来あかった写真では右の腰に刀をさしていることになるからです。
写真は右と左が反対にうつりますね。鏡もこれと同じことです。ですから私たち鏡にうつしてあゝこれは私の顔、私がうつっていると思っても、それは右左反対の顔なのです。鏡の前で自分の耳つまむと、鏡も耳をつまみますが、どうでしょうか。私は右の耳をつまんでいるのに、鏡の中の私は左の耳をつまんでいる。おうちに帰って鏡の前でやってごらんなさい。右の耳をつまんでうつ
れば、鏡の中では左の耳をつまんでうつる。ですかち鏡の中の私は、私らしいけれども私ではない。そうなると、どうやって本当の私を探したらよいでしょうか。「あなたは誰ですか」と言われたときに、どうしましょうかねえ、鏡のわたしを見せて、「わたしはこれです」と言えますかね、あるいはまた、アルバムの中の写真を見せて「これです」と言えるでしょうか。どちちも似ているか、右と左か本物とは反対です。
本物のわたし、本物のあなた、それを見せて下さる立派な鏡を神さまが用意して下さいました。その鏡は右と左か反対にうつらない、そのものズバリにうつる、そういう鏡を神さまが用意して、これを見なさい、これを見れば本物がわかる、と私たちに与えて下さいました。「わたしは誰でしょう」と自分自身を知りたいと思うわたしたちに、神さまか見せて下さる鏡、それはイエスさまです。この鏡を見なさい、イエスさまというこの鏡にうつってごらんと、この鏡をわたしたらにさし示し与えて下さいました。
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イエスさまという鏡の前に立ってみると、ちゃんと本物の私が見えてきます。そしてまた本物のあなたが見えてきます。そうすると、あなたと私と本物のお友だちになることができます。
そういう素晴らしい鏡、その鏡のことを教会の日曜学校や夏季学校で、みんなで考えました。そしてその鏡がよごれたりくもったりしないように、よくみがいて、それにうつるけいこをする。それが日曜学校です。教会です。
この鏡にうつるとき、始めのうちは、慣れないためにうつりかたが下手で、はっきり見えませんが、だんだん慣れて、何回もその鏡にうつりみつめてみると、やがてほんとうの私がはっきり見えてきます。不思議な鏡です。
だんだんはっきりしてきます。はっきりしてくるだけじゃなくて、あゝ、これがわたし、本物のわたし、と分ってきます。そうなると不思議なことに、わたしだけでなく、その鏡をとおして「あなた」や「あの人」のほんとうの姿まで分るようになります。今まであなたが自分で、私はこうだと考えていたのと全然違った、ほんものの素晴らしいあなたや私の姿が写し出されてきます。
そしてその鏡で見ておると一年生の時に見るのと、四年生になって見るのと、五年生になって見るのと、高等学校の生徒になって見るのとだんだんかわって、素晴らしくなってゆきます。鏡にうつる姿は見るたぴに素晴らしくかわってゆきます。そんな素晴らしい鏡のこと、みなさんもお母さんたちに知らせてあげたらどうでしょうねえ。うつるたびにきれいになる鏡、そんな鏡があったら楽しいでしょうねえ。イエスさまという鏡はそういう鏡です。うつるたびにきれいに、そして楽しくなります。そしてこの鏡にうつる顔がみんな神さまの子供の顔になって輝くようになるのです。どうぞこの鏡を使って、みなさん毎日毎日きれいに楽しくなってください。大きくなるまで、おじいさんおばあさんになるまで、この鏡に自分をうつして「わたしはこれです」と言えるようにして下さい。
1983年 8月19日
夏季学校にて
WPSのspread sheetsで第一軸と第二軸の目盛りの両方が右側にあるのですがどうしてそうなったかわかりません。第一軸の目盛りだけを右側に移動させる方法を教えてください。