12.宝を天に積む

 

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 収穫感謝の祈りをご一緒にする時となりました。新約聖書のルカ伝福音書第十二章に次のようなたとえ話が記されてあります。

 

ある富める人、その畑ゆたかに実りたれは、心のうちにはかりて言う

「われいかにせん、わが作物をおさめおく処なし」

ついに言う

「われかくなさん、わが倉をこぼち、さらに大いなるものを建てて、そこにわが殼物および善きものをことごとくおさめん。

かくてわが魂に言わん、

たましいよ、多年をすごすに足る善き物を貯えたれは、安んぜよ、飲み食いせよ、楽しめよ。」

しかるに神かれに、

「愚なる者よ、こよいなんじの魂取らるべし。さらばなんじの備えたるものは、誰がものとなるべきぞ」

と言いたまえりなり。

おのれのためにたからを貯え、神に対して富まぬ者は

かくのごとし。 (ルカ伝 12・16~21)     

 

 さて、このたとえ話でまず考えたいことは、「愚か」ということでございます。このお百姓さんは自分の仕事を綿密に計画し忠実に働いたからこそ、その畑がゆたかに実ったのでしょう。ほかの人とくらべて決して愚か者でも怠け者でもなかったはずです。それなのにこの賢い有能なお百姓さんが、どうして愚か者よと言われたのでしょう、この人のどこが愚かなのでしょうか。

 あり余るほどの収穫を得たこの人が、心の中で考え言ったことはこうでした。

 「われいかにせん。我が作物をおさめおく処なし。われかくなさん。わが倉をこぼち、さらに大いなるものを建てて、そこにわが穀物および善き物をことごとくおさめん。

 かくてわが魂に言わん、

 魂よ、多年を過ごすに足る多くの善き物を貯えたれは、安んぜよ、飲み食いせよ、楽しめよ。」

この中で、この人は、われ、わが作物、わが倉、わが穀物、わが魂、と言って、「われ」とか「わが」ということはを六回もくりかえしています。しかし神様のことは

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一言も言っていません。神様の恵みだとも、神様のおかげさまでとも何とも言っておりません。つまり神様抜き、神様無視なのです。これが「愚か」ということではないでしょうか。

 聖書の中に次のように記されてあります。

 

愚かなる者は心のうちに神なしと言えり(詩編53・1)

主をおそるるは知慧のはじめなり   (詩編111・10)

 

神様をおそれるとは、敬い愛するということです。恐れこわがるということではありません、神様を大切にし、お喜ばせすることです。それが知慧のはじめ、そうしないことが愚かということになります。心の中に神様を仰ぐ思いを持たず、神様を敬い愛することをしない、それがほんとうの愚かさ、そしてそれは恐しい、またまことに危険な愚かさであります。

 このごろの世界中の動きはどうでしょうか、世界中なんて遠いよそのことを考えるまでもなく、日本の国のこの頃の動きはどうでしょうか。この道はいつか来た道などと言ってながめてはおれないような、あぶなっかしいおそろしい日本の動きではありませんか。これは「神をおそるるは知慧のはじめなり」と言われている行きかた、すなはち神様をおそれ、神様を大切にし愛することを遠くはずれた、はずれたどころではなく、問題にしないで無視していこうとするところからくる動きではないでしょうか。でありますから私は、神様を愛することを忘れた、あるいは無視した愚かさが非常におそろしい危険なものであると申し上げるわけでございます。

 有能で抜け目のない「かしこ馬鹿」とでも言うべきこのお百姓さんの言うたことの中に、もう一つの愚かさが見られます。それは、「われ」や「わが」ばかりで神様が無いだけではなく、人もありません。天地創造の昔から、人は自分一人で生きるようにはなっていない。それなのに、この人は有り余る収穫を前にして、ただ自分のことだけを考え、わが魂よ、飲め、食え、楽しめと言っています。自分以外の人は見えず、あるいは見ようともせず、ただ自分と自分に都合のよいことだけしか考えない。それがこのたとえ話の中の人が示した第二の愚かさでしょう。

 さらにもう一つの愚かさがあります。この人が安心して喜んでいたとき神様が、

 「こよいなんじの魂取らるべし」

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と仰せになりました。彼は自分の魂が今晩でも取られるという、そういう状態であることを知らない。自分自身の魂の状態を見失っておる。これもいま世界中のどこにでも多かれ少なかれ現われている状態ではないでしょうか。ヨハネ黙示録の中には、バビロンの都(実はロマの都を指しているのですが)で売り買いされたさまざまな商品が記されてありますが、その売り物の中に人の魂があったと書いてありますね(黙示録18・18)。人の魂を売り物にしたとは恐ろしいことです。しかしそれは黙示録の書かれた遠い昔のロマの世界だけじゃないでしょう。日本でも魂が売りものにされておるでしょう。国の政治を預かってやっていかねばならないところの大事な責任を持った人たちが、魂を売りものにしておる。魂を売り買いして、いろいろとあのようなまことに恥かしい、まことに腹立たしい出来事を次から次に起こしておるでしょう。魂を忘れたのはこのたとえ話のお百姓さんだけではありません。神様が「愚かなる者よ、こよいなんじの魂とらるべし」とおっしゃいました。このことばは、ただたとえ話だと聞き流してはなりません。私どもがしっかりと受け止めねぱならないことばだと思います。

 たとえ話の中のお百姓さんは自分の魂に「魂よ、多年を過ごすに足る多くの善きものを貯えたれば、安んぜよ、飲食せよ、楽しめよ、と言おう」、と言っております。飲んで食って、楽しめば、それでいいのだ、安心だ、幸福だ、というよりな考え方暮らし方が広まっている今の時代にとって、これは恐ろしい警告のたとえ話だと思います。イエス様はこのたとえ話の結論として、

 「おのれのために財を貯え、神に対して富まぬ者はかくのごとし」

とおっしゃいました。

 さて、私たちは今年もまた豊かな実りの秋をむかえ、収穫感謝祭をするときになりました。どんなにしたらよいでしょうか。まずその前に、収穫感謝祭とは何でしょう。それは感謝祭、お祭りだということを忘れないようにいたしましょう。お祭りとは、神様をお喜ばせし、その神様のか喜びに人々みんなが連なり加わらせていただくことだと思います。今年の収穫によって神様を喜ばせ、そのお喜びをみんなで共に味わい喜ぶためのお祭り、それが収穫感謝祭であります。

 まずしなけれぱならないことは収穫です。今年は田や畑や山や海だけでなく、わたしたちの家庭にも、職場にも毎日の生活のあらゆる面に、目に見ゆる実り、また目

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に見えない実りが豊かに与えられました。それをうっかり見落したり捨てたりしないで、確実に収穫したいと思います。

 今年私たちはどのような恵みを神様からいただいてきたでしょう。

 私が健康を支えられて、今日この日までこのような状態で生きられたこと、これは大きな今年の収穫でしょう。

 あるいは今年はああいうこともしました、こういう楽しいこともありました。今年与えられた時間をなんとまあ、有効にまた愉快に楽しく使わせていただいたことでしょう。この時間、これもまた大きな収穫でしょう。

 病気をしましたか、それもまた大きな収穫にしたいものです。病気をして損したなんて言ってはいけませんよねえ。お人形さんなら病気はしませんよね。しかし私たちは生きてるから、生身を持っているのですから病気するのはあたりまえでしょう。病気、それは私たちの生活の中のひとつのいとなみです。病気はしたくない、しない方が好い。しかし避けられない、病気になる、その時は病気も暮らしの中の営みだと受け取ってみたらいかがでしょう。神様の造って下さったこの体で生きてゆく、寒いときには寒さのため、暑いときには暑さのためにこの体が変化する、病気にもなる、その変化にどう対処してゆきますか。病気をすることも、神様からいただいたこの体を運営していく上のひとつの働きでしょう、ですから病気ということは、生身でもって生きる私たちの、神様に対する大きなおつとめの一つだと思います。そうするとこれは収穫ではありませんか。今年は病気した、その分だけマイナスだったと赤線を引かないことです。生きてるおかげで、生きてる証拠に病気もしました。だからこれも収穫です。かぞえてみればみんな収穫です。

 今年は結婚式がありましたか。これも収穫でしょう。結婚なさった方にとっては勿論のこと、そのご両家の方々にとっても大きな収穫、またそれに招かれて行って、「おめでとう」と言った人にとっても大きな収穫でしょう。いや、そんなことはない、結婚でめでたい収穫を得たのは、あの人たちだ、私には何でもない、なんてケチなことを考えないことです。あの人たちが結婚してくれなかったら私は「おめでとう」という言葉を今年は一つ少く言うはずだった。あの人たちが結婚したおかげで、私は「おめでとう」と言う言葉を一つ多く言うことができました。収穫ではありませんか。

 子供が生まれたとか大きくなったとかこれも収穫。な

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にもかも収穫。ですからそれをあたりまえのことととしておかないで、みんな今年の収穫としましょう。

 あるところではお葬式をしました。ああこれは不幸だったなんて、そんなことがあるものですか。親しい人が死にましたか、それは神様のところにおかえりになったのでしょう。お葬式、それはお見送りの式だったのです。天国へのお見送り、有難いことではありませんか、それも収獲。こういうふうに、今年一年のいろいろのことをふり返り、なにもかも収穫として拾い上げる、これが収穫感謝のときするべきことだと思います。

 さて、このように見つけ出し、拾い上げ取り入れた収穫を無駄にしないで。ちゃんとおさめ貯えるにはどうしたらよいでしょうか。たとえ話の中のか百姓さんは、倉を造りかえて大きくし、そこにしまいこんで安心だと思いました。わたしたちは、収穫をどこに置いたらよいでしょうか。せっかく与えられた収穫ですから、一番たしかな安全な仕方で、ちゃんとおさめておきたいと思います。そういう時に、主イエス様のおことばを思い出しましょう。マタイ伝の六章九節にイエス様はこんなふうにおっしゃっております。

 

なんじらおのがために宝を地につむな、ここは虫とさびとがそこない、盗人うがちて盗むなり。

なんじらおのがために宝を天につめ、

かしこは虫とさびとがそこなわず、

盗人うがちて盗まぬなり。

なんじの宝のあるところには、なんじの心もあるべし

              (マタイ伝6・19~21)

 

イエス様は宝を地に積まないで天に積めとおっしゃっています。そのみことばに従って私どもは今年の収穫を、数えおとしがないようによく数えて天に積みましょう。私はこんなものはきらいですと、自分の好きこのみで今年の収穫を捨てたり洩らしたりしてしまわないで、みんな積みましょう。

 しかし、天に宝を積むとはどういうことでしょう。天とは何でしょうか、天とは限りなく高く遠い青空の彼方とか、死んでのちの世界というのではありません。それは場所ではなくて、状態をあらわす言葉です。神様のみ心が充分に現われ、行われている状態、したがって神様の愛が満ちわたり、行われている状態が天であると考えてよいと思います。

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 それで「宝を天に積む」とは、宝を神様のみ心におまかせする、すなはち神様の愛の中に入れ、愛のために活用していただくということです。言いかえれば、神様がお喜びになるように、神様の愛が行われるように宝を用いるということであります。収穫を天に積み、そのように活用するにはどんなにしたらよいでしょうか。

 英語もフランス語も知らないで、世界を旅行してきたという人の話ですが、その人は外国語が自由でなくても、世界を旅行することはそう難しいことではない。「どうぞ」という言葉と「有難う」という言葉二つ知っておれば、世界中どこでも歩けると言っていたそうです。私はその人のまねをして言いますならば、宝を天に積むには三つの言葉を使ったら好いのではないかと思います。それは、「どうぞ」、「すみません」、「ありがとうございます」の三つです。

 この三つの言葉はまことに簡単ではありませんか。簡単なために見おとされたり、無視されたりしてかるのでしょうか。なんだか変に使われているようです。

 「どうぞ」というのはどうですか、買物に行ってお金を出すとき、「ではこれでどうぞ」ぐらいのことですか。あるいは「すみません」はどうでしょうか、心のこもった、ていねいな「すみません」は、あまり聞かれませんねえ。「有難う」これもずいぶん粗雑になってきたようです。「有難う」と言うべきところを「どうも、どうも」と言っています。「どうも、どうも」とは何でしょうかね。「どうも、どうも」と言う人も言われる人も、これで十分有難いのでしょうか。この頃はこの大切な三つの言葉がずいぷん粗末にされ、省略されて、消えかかっておりますが、しかし神様とともに生き、天に宝を積もうとするならば、この三つの言葉、失われかけているなら、もういちど取りもどして、ちゃんと使わねばならないと思います。

 まず「どうぞ」です。「神様どうぞ」と神様に私の今日を預けてみましょう。お顛いしてみましょう。難しいことにぶつかりますか、その問題を自分だけで背負って苦労していないで、神様どうぞ見て下さい、私の見方間違っていますか、私の仕方間違っていますか、神様どうぞ……と語りかけましょう。

 次は「すみません」です。神様の前に「すみません」と言わなきゃならないことが沢山ありますよね。一日だって、神様に「すみません」を言わずにすむ日はない私の毎日それだのにそんなことは忘れてしまって、すみませんと言

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う言葉は日本語には無くなってしまったかのような顔をしている、しかし、これも大切な言葉だと思います。

 そして「有難う。」これは「どうも、ども」ぐらいではなく、念を入れて、ていねいに言わねはならない言葉でしょう。宝を天に積むその積み方はこの三つの言葉を正しくよく使うことではないかと私は思います。私たちの毎日、年の始めから今日にいたるまでの毎日を、神様に「どうぞ」とおあずけして、一日一日を過ごしたでしょうか、そして、その一日一日を「どうぞ」と神様にさし上げようとしているでしょうか。間違もあったでしょう、神様どうもすみませんでした、と言います。これが今収穫されたものをしっかりと受け取って、倉におさめるときの仕方でしょう。神様すみませんでした。ここはもうちょっとこうやって、私は受け取るべきでした。まあここは受け取り方が不十分でした、間違っていました、すみませんでしたと今年一年の恵みに対して「すみません」の思いをもって、反省しながら受け取ったらどうでしょうか。そして最後は「有難うございます」ですが、神様有難うございました、本当にその通り、「有り難い」のです。自分一人じや有り得ないこと、難しいこと、いや人が何人よっても難しい、有難いこと、それを神様のおかげで「有難い」ことでした。神様有難うございました。

 この三つで宝を天に積んでゆくのですが、そのうちの最後の感謝、今日は収穫を感謝する日ですが、心から感謝、有難うを神様に申し上げたいと思います。

 「有難う」ということは、思うだけではなく、口に出してはっきりと言わなきや駄目ですね。口に出して言わなけれは、ほんとうの感謝にはなりません。感謝の「謝」という字が好きではありませんか、「言を射る」と書いてあります。有難いと心に感じたことを言葉にして発射してこそ感謝です。はっきり「有難う」と言わないで受け入れたって、天の倉におさまりません。「有難う」というのは何のためでしょうか。それは相手の方がして下さったことに対して、確かにちょうだいしましたと、たしかめるしるしでしょう。有難うございますと言うことによって私はうれしくなります。言われた人もうれしくなります。いただく方の側ばかりでなくて、下さる方の側も思ってみましょう。その「有難う」、それは両方がうれしいです。一年の収穫を感謝して、有難うございますと言うとき、私がうれしい、それ以上に神様の方がもっとうれしいでしょう。神様がどんなに およろこびになるでしょう。

「あゝあなたはご苦労だったね、一年中健康がすぐれない

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でご苦労だったね、それでも有難うと言ってくれるか、「有難う」とそういうお気持で私の有難うを受け取って下さるでしょう。感謝をすること、有難うを言うこと、そうすれは神様のみわざが本当に私のものとして生きてきます。神様の恵みがちゃんと私のものになってきます。信仰生活で一番大事なことは、神様に感謝することではないかと思います。聖パウロは、コロサイ書の中で、あなたたちみんなが父なる神様に感謝するようになることを私は祈っておりますよ、と言っておりますね。(コロサイ書1・12)感謝すること、それが私たちの生活の究極の目標、何がなんでも神様に感謝ができれはこんなよいことはありません。どれだけ豊かに収穫があっても、倉を建てなおす程あっても感謝がなければまことにつまらないことでしょう。一生を歩いてきて終るとき、神様有難うございましたという思いで目をつぶれる人もあり、ぐちを言ってこぼしながら、これでは死ねないぞ、死にたくないぞともがきながら死んでゆく人もある、それを思うと感謝ということがどんなに大切かわかります。私たちの信仰生活はなにか神様のことを勉強するとか神様のことがわかるとか、教理がのみ込めるとかのみ込めないとか、そんなことが第一ではありません。キリスト教の神学とか哲学とか勉強して、それをしっかり持っていなければ、天国へ入れてもらえない、というのではありません。そうではなくて、何を見ても、あゝ神様有難うございます、と言えるその楽しさ、素晴しいではありませんか。神様もっとあなたに感謝申し上げたいのです、もっとあなたに有難うを言いたいのです。感謝するこそわが生きがいです、という生き方が信仰生活の極致ではないでしょうか。

 収穫感謝のこの時、どうか、ご一緒に今年一年の神様のお恵みをよくふり返りましょう、見おとしのないように、そしてどれにも私の好ききらいを言わないで、刈り取り拾い上げ、みんな「有難う」とし、その「ありがとう」が天のみ座まで届くように、高らかに感謝をささげましょう。その時私たちの今年の収穫すべてが、天国の倉にちゃんとおさまることになるでしょう。そして、それを私が喜ぶよりも、もっと神様がお喜びになり、また多くの人たちが喜んでくれるでしょう。そうなるならば、神様のお喜びにみんながつらなり喜ぶ本当の収穫感謝のお祭りとなるだろうと思うのでございます。

 1981年11月15日 収穫感謝祭

      大口聖公会にて