8.別れのとき2.葬送式
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お通夜のお祈りの時ご一緒に考えましたように、今日のこのお葬式ということは正確に申しますならば葬送式すなわちほおむりおくる式でございます。ただ今私たちはこの岩坪さんをほおむりおくるそのことをご一緒にいたしておるわけでございます。この世における朽つるべきもの、永遠に続かないところのもの、それを全部ほおむって、永遠に残るべきものを大事にして神様のもとにお送りしようというわけでございます。ここまで昨晩ご一緒に考えましたが今日はそれから先のことをご一緒に考えてみましょう。
この方を神様のみもとへお見送りします。そこでどのようになるのでしょうか、聖書の中にはこの時のことをこのように言っております。それはちょうど種をまくようなものです。麦の種でもあるいは米の種でも種をまきますとその種が土にはいって、そのままじっと種のままおるはずはありません。土にまかれた種は朽ちてその種の形が無くなります。そしてそこから新しい芽が出て新しい生命が伸び、そしてまた豊かな実を結んでゆきます。死ぬるということはそういうことです。土に入れられて朽つべきものが朽ちてゆきます。そして朽ちないものが新しく伸び出てくる。そういうふうに聖書は教えております。その生命、朽つるものが朽ちてそのあとに出てくる生命、これをよみがえりの生命、復活の生命と言っております。このよみがえりということが今この方にはじまっておるのです。神様のところにこの方をお送りします。そしてそこではこの世の朽つべきものが、いわば種粒が、この世ですごした七十年という種が、種の姿を無くしてしまう、よみがえりの生命が芽ばえたくましく伸びてゆく、そういうことが始まるのが今日今のときであります。お葬式の日はさびしい日、悲しい日、というようなそういう日ではなくなります。新しい生命への出発の日です。朽つべきこの体が終って、朽ちない栄光の生活が始まるお目出たい日といってよろしいでしょう。死んでよみがえるということを、種が土には入って朽ちて生きがえりよみがえってくることで示されておりますが、これを私共の身近にありますことで考えてみましょう。
あのお蚕さんどうでしょうね。お蚕さんはあゝいう姿で生きています。そのお蚕さんがまゆの中にはいってねむってしまいます。やがて時が来てそのまゆを食い破って出てきます。出てきた時はもうあの白いくにゃくにゃとした虫ではなくて、羽の生えた虫になっておるでしょう。よみがえりということはそんなふうに考えてみてはいか
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がでしょうか。私どもは大きな宇宙の中で地球の表面をうじゃうじゃと動いている虫けらのようなものでしょう。その私たちがまゆの中にはいります。お墓というまゆには入るでしょう。しかしいつまでもお墓にとじ込められたまま、動けないままにあるのじゃありません。お墓を突き破って出てくる。それがよみがえりということ。そんなことなにかお伽話みたいな作り話みたいなと言いたい賢ぶった人間に、賢ぶった事考えたって駄目だよというように、実際に死んで、実際にお墓を突き破って出てきた方、それがイエス・キリスト様でした。そしてキリスト様が「このようによみがえるのだ。人間死んで終りじゃないのだ。皆元気を出しなさい。そして私を信じて私のあとについて来なさい。一緒に墓には入って、一緒によみがえろうじゃないか」とお召しになり呼びかけて下さったキリスト様、このキリスト様のみ言葉を信じて岩坪さんはお若い頃に、一大決心をして洗礼をお受けになりました。岩坪さんはキリスト様を信じてキリスト様から生命を受け取って、この世の馳せ場を走り今その生涯を終えられました。そしてよみがえりの生命へとお進みになります。
よみがえりとはそういうことなんてすが、しかし皆様いかがですが、ご納得がゆきましたでしょうか、何か変だな分ったような分らんようなということはないでしょうが。死んでよみがえる、これはよくわからないのがあたりまえでしょう。私がいくら説明しても本当のことは説明は出来ないでしょう。つい昨日あるご婦人のか葬式をいたしました。私はその方とよくお話をしました。その方がキリスト様を信じ信仰をもって生きるということを、だんだんと理解なさったのですが、
「死んでよみがえる、本当に有難いこと本当にうれしいことですが、それがよくわからないのですよ、先生」
と何回も言われました。私はその方に答えて、
「よみがえりということ私もよくわかりません。私もこういう肉の体をもって生きているのですから、聖書に教えられ示されたそのところを、いわば受け売りして、よみがえりということをあなたにか話しているのですから私は神様のみ教えを受け売りするだけなのです。それを聞いてあなたがなるほどと合点がゆかないことがあるのは当然でしょう。まあわからないところは神様にあずけておいて、祈りおたずねしていなさい。そうしながら進むとわかるでしょう」
と申し上げておきました。ところがだんだんご病気が重くなったあるとき、
「先生私はキリスト様にお会いしました。キリスト様は
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私を迎えに来られたのでしょうか。」
とおっしゃいました。
「そうかもしれませんね」
と私は申し上げました。そういうことがあってからだいぶしばらく生きていらっしゃいました。そして、死んでよみがえるということがその方にわかりました。私にもわかりました。死んでよみがえるということ、よみがえりの生命に生きるということは、いくら入間の理屈で考えても説明してもそれはわかりはしない。わからないからこそキリスト様がご自分でその方に現われて下さったのです。それでもうそれからのち、その方はよみがえりということについてちっとも疑わなくなりました。キリスト様が死んでおよみがえりになった。そしてその方が私に近ずいてきて下さった。それで充分なのです。「なぜ。なぜ死んだあなたが、息を引き取ったあなたが、どうやって生きかえったのですか、死んだものがどうして生きられるのですか。説明して下さい。」もうそんなこと尋ねる必要はないのです。そんな説明はもういらなくなってしまいました。キリスト様がよみがえって今も私と一緒にいて下さる。こんな病気で私が駄目になることはないのだ。この病気を乗り越えていかねばという新しい勇気が湧きあがり心やすらかに最後の時をお迎えになりました。ご臨終を見守っていた人たちはそのおだやかな明るいか顔を見て、その方が病と死に打ち勝って復活されたことを信ぜずにはいおられませんでした。よみがえりとはそういうことでしょう。
今岩坪さんも同じそのよみがえりの道を歩いていらっしゃいます。しかしよみがえりの生命へとキリスト様に招かれては入っていったこの方をお見送りする私たちはどうしたらよいのでしょうか。
よみがえりについてもうちょっと違った角度から聖書は教えております。それはこういうことです。何もかも消えてなくなります。私たちの世界のいろいろなもの、なにもかも消えて無くなるでしょう。しかし無くならならないものがある。それは、
「信仰と望みと愛と此の三つのものは限りなくのこらん。しかしてそのうち最も大いなるは愛なり」
(コリント前書13・13)
こういうふりに教えてある。何もかも無くなり移って行く、しかし永遠に無くならないもの、「愛」がのこるのです。この体が朽ちても愛が残ります。この方をこれから火葬にしてお送りしてしまうとき、この方の手は見えなくなります。この方のお顔ももうそのままでは見えなくなります。なにもかもなくなる。しかし愛が残るのです。愛があったでしょう。あなたとこの方との間にどんな愛がありましたか。親と子という愛があったかもしれません。夫と妻という愛があった、兄弟という愛があった職場の同僚という愛があった、ご近所のおつき合いの中でいただいた愛があった。皆さんそれぞれにこの方との間に愛を持っていたでしょう。その愛は息が止まった、そのお姿が火葬場で消えてしまった、それで消えるのじゃありません。
「信仰と望みと愛とこの三つのものは限りなくのこらん。しかしてそのうち最も大いなるは愛なり」
愛が残ります。この方との愛が残ります。しかし、そこで簡単にああそうかとうのみしてはいけません。愛がのこる。どんな愛が残りますか。手を握り合って温かさをたしかめ合った、それも愛でしょう。あるいは食事を共にして暮してきた、それも愛でしょう。しかしそれがのこるのじゃないでしょう。もうお食事いただけなくなります。手も握れなくなります。では愛がなくなったのではないでしょうか。そうではありません。愛はいつまでも残ります。聖書にはその消え失せない愛について教えて、
「神は愛なり」 (ヨハネ第一書4・16)
と記してあります。愛とは何でしょう。愛とは神様につながることなのです。神様の愛につながってこそ私たちの愛があるのです。神様の愛が働いてこそお互の愛が出来てきたのです。神様の愛が働かなければ私たちの愛はありません。神様の愛の裏付けがなければ私たちの愛は簿っぺらなもの、そしてそれこそいっぺんに消えてしまようなものです。ことわざがあるでしょう「去る者は日々うとし」と。去り行くとともに日々にうとくなるような愛もあるようです。しかし、それは愛のよりに見えても、本当の愛ではありません。「愛」それは神様からくるもの。神様につらなっていてこそ愛なのでしょう。それは去り行くとともに日々にうとくなるようなものではありません。
今この方はこの世につけるものをすべて捨て離れて神様のもとにお帰りになります。その方と私たちの間のまじわりがいつまでも続く永遠なものになるためには、ここで私たち自身が自分の愛を確かめねばならないと思います。今この時は私たちが愛を反省せねばならない時です。私は本当にこの方を神様の愛で愛しただろうか。私はこの方に対して今神様の愛をもっているであろうか。
この方と私の愛をふり返ってみましょう。私が手で愛した、私が目で愛した、私が膚で愛してきたところのその愛は、神様につらなっておるだろうか。ここで私たちは
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自分自身の愛を確かめて、もし神様の愛につながっていないで、はずれていたところがあれば、修繕して、神様との愛に結び付け、この方との愛をもういちどしっかりと確かめること、これが大切ではないでしょうか。天のみ国へお見送りするとき神様を仰ぎながらその神様の愛を思い、私の愛を反省しながら、あゝ神様、この愛をどうぞ消えない愛にして下さい。神様、この愛をいよいよ深まるようにお導き下さいと、今ここで神様を中にしてこの方と自分自身との愛を反省し直し、新しく立ち直らせて、そしてみ国へとお見送りしたいのであります。
これが今この方と肉の別れをしてそれがそのままの別れにならないで、永遠の交わりになるために私達がなさねばならないことではないかと思います。どうか神様の前にこういう祈りをもって、願いをもって、この方をお送りしたいと思うのでございます。
1980年 6月5日
岩坪 厳 様 葬送式