6.輝かしき老年

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主よ.われなんじに寄りたのむ、願わくはとこしえに恥なからしめたまえ

なんじの義をもて我を助けいたし、なんじの耳をわれにかたむけて、我をすくいたまえ

願わくわなんじわが寄り頼む岩となり、われを救う堅固なる城となりたまえ、なんじはわが岩わが城なり

わが神よ、悪しき者の手より我をすくいいたし、不義残忍なる人の手より我をまぬかれしめたまえ

主なる神よ、なんじはわがのぞみなり、わが幼き時よりのたのみなり

われ生まれし時よりなんじに寄りたのめり、なんじは我を母の胎より取りいたしたまえる者なり、我つねになんじをほめたたえん

われ多くの人に驚かるる者となれり、されど我はなんじをわが堅固なる避けどころとなせり

なんじをたとうる言葉わが口にみち、なんじをほむる言葉ひねもす満つるなり

わが年老ゆるとき、我を捨てたもうなかれ、わが力衰うるとき、われを離れ去りたもうなかれ

わがあだはわがことを語り、わが命をうかごう者は互いにはかりていう

「神は彼を拾てたり、彼を助くる者なし、彼を追いてとらえよ」と

神よ、われに遠ざかりたもうなかれ、わが神よ、とくきたりて我を助けたまえ

願わくはわが敵は恥じ、かつおとろえ、われをそこなわんとする者はそしりと恥とにおおわれわれんことを

されど我はたえず望みをいだき、いよよ、なんじをほめたたえん

わが口はひねもすなんじの義となんじの救いのみわざを語らん、我その数を知らざればなり

我は主なる神の大能のみわざをかたり、ただなんじの義のみをほめたたえん

神よ、なんじ我を幼きときより教えたまえり、われ今なおなんじのくすしきみわざを宣べつたえん

神よ、われ老いて、しらがになるとも、我を離れたもうなかれ、さらばなんじの大能を世々に宣べつたえん

神よ、なんじの力と義は高き天におよぶ、なんじは大いなることをなしたまえり、神よ、たれかなんじに等しき者あらんや

なんじわれらを多くの重き悩みにあわせたまえり、されどなんじふたたび我を生かし、地の深き所よりあげたまわん

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なんじ我をいよいよ大いならしめ、ふたたび我をなぐさめたまわん

わが神よ、われまた立琴をもてなんじをほめ、なんじのまことをほめたたえん

イスラエルの聖者よ、われ琴をもてなんじをほめうたわん

なんじをほめ歌うとき、わがくちびるは喜びよばわりなんじの救いたまえるわが魂もまた大いによろこばん

わが舌もまたひねもすなんじの義を語らん、我をそこなわんとする者、恥じあわつればなり (旧約聖書 詩篇 第七十一篇)

 この九月は敬老の日で、皆さんよい時をおすごしになりました、おめでとうございます。敬老の日は、ただお年寄りがその日一日慰められたり喜ばされたりするだけの日であってはならないと私は思います。この敬老の日という言葉は私はあまり好きではありません。誰がつくった言葉が知りませんが、敬老の日とは、なんとまあ固苦しく、また、いかめしい言葉でしょう。敬老なんて、人さまにさし上けるのはまだ好いでしょうが、自分に向けられることになったら困りますよね。私などは敬老という字がふさわしくピタッと身につくょうな老人にはとうていなれないでしょうから、敬老の日なんて、ちょっとそぐわないですよねえ。私はもっとやわらかく「お年寄りの日」としたらいいと思うのです。「お年寄り」と言われる方がよっぽど気が楽ではないでしょうか。私は九月十五日敬老の日には、若い人も老人も、老年とは何か、老年を如何に生きて行くか、というようなことを考えるべきだと思います。そう思いながら私はこの詩篇の第七十一篇を読んで、ああ、これはいい詩だなと思いました。

 さて年取って目出たいとはどういうことでしょうか、七十より八十が目出たいのですが。八十より九十がもっと目出たいですか。百越せば更にもっと目出たいですか。

普通そんな具合に考えていますよねえ、年を取って目出たい。年が多くなる程もっと目出たいのですよね。しかし年取って目出たいとはどういうことでしょうが。私が敬老の日という言葉よりお年寄りの日という言葉が好きだという意味はそこにあるのです。年取って七十になりました、年取って八十になりました、年取った年取った、と言っていますが、年は取るものではないのですよね。年を取る。どこから取るのですが。泥坊みたいでしょう、おかしいですよね。年を取ると言いますが、しかし私たちが年を取るのではなくて、年が私たちに寄ってくるのです。私の願いや工夫によってではなく一年一年と年が寄ってくるのです。それで年寄りになるのです。では、その年はどこからどう

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やって寄ってくるかというと、それは神様の方からくるのです。年が寄ってくるというのはどういうことかというと、これは地球がまわって三百六十五回朝と昼とがあつて一つの年になるということでしょう。地球が三百六十五回ずつ何べんも何べんも回って、ああ八十になりました、九十になりましたという年になったというわけでしょう。そうやって年が寄ってくる。それは私の工夫とが私の力で寄ってくるのではありません。人間がどこがにスイッチを持っていて、ちょいとスイッチを押すと地球がぐるぐるっと早く回って二つぐらいよけいに年を取ることができるとが、あるいはスイッチの押しかたを変えると今年は地球が逆に回つておがけで私は年を取らず三つほど若返る。なんてことにはならないですよね。こうして地球がひとりでに回るようにし、朝がきて、夜がくるようにして下さる。それば神様でしょう。私たちが信じている(天地の造り主なる神)

とはそういうお方なんですよね。その天地の造り主なる神様が地球を回らせ太陽を燃えかがやかせて三百六十五日を加えて下さいます。そして年を一年寄せて下さるのです。

こうしてお年寄りになるのです。神様のおかけで年が寄って来たのです。だがら有難いのです、お目出たいのです。私は年寄りの日の目出たさの理由をそこに見ております。私が元気で気張っだから今年もすぎたのではなくて、この大きな地球をまあ神様よく回して下さいまして、そして今年も一年を加えて下さいました。この頂いているいくつかの年、どの年だって神様がこの働きをなさらなかった年は無いのです。あの年は神様は働がないでだれかに地球を回してもらったなんて年は、一年だってありはしない。今までの年は、みんな神様のおはたらきでめぐまれた年、寄せられた年なのです。こうして寄せられる年を私はただ、有難うございますといただいていくのです。だがらお目出たい年、どの年もお目出たいのです。そういう年を重ねたある人が歌った詩がこの第七十一篇だと思います。まずはじめにこう言っています。

 ―節(主よ、われなんじに寄りたのむ、願わくば恥なからしめたまえ)

 神様私はあなたによりたのみます。どうかいつまでも恥の無い暮しをさせて下さいということです。段々年を取りますとそんなことになりますよね。恥の少い老年でありたいというようなことだれでも思います。この人は神様どうが恥の無い暮しをさせて下さい、と祈っています。どうでしょうか、これがこの頃言う麗しき老年という、あれではないでしょうか。麗しき老年と言っても、段々年取るにしたがって、しわが伸び白毛

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が黒くなってピカピカ奇麗になる、それが麗しき老年ではないでしょう。麗しき老年の姿は、このように「願わくはとこしえに恥なからしめたまえ」神様の前に人様の前にはずかしい思いの無いような毎日をさせて下さい、神様。とお願いするいかにもお年寄りらしいつつましい祈りであります。そしてその次はこう言つておりますね

 3節(願わくはなんじわが寄り頼む岩となり、われを救う堅固なる城となりたまえ、なんじはわが岩わが城なり)

 神様あなたは私の岩です。神様あなたは私の城です。私の足はちょっと不安になりました。ヨロヨロよろけたりしますが、しかしいくらよろけても岩にしっかりよりかかれば大丈夫です、岩までよろけはしません。神様あなたは私の岩です。私の城です。私の足がふらふらするときあなたによりかかります、神様。

 5節(主なる神よ、なんじはわがのぞみなり、わが幼き時よりのたのみなり)

 神様あなたは私の望みです。年取れば望みが少くなる。いいえ、そうではありません。年取れば、いよいよ神様からの望みが豊かにはっきりと見えてきます。若い時は自分の若さの望みだったでしょう、人間の望みだったでしょう。しかし年取るにしたがつて「主なる神よなんじはわが望みなり。」 神様あなたが私の望みです。私の体に自信が無くなり私の体に望みが薄くなるとき、神様、あなたが私の望みです。この神様は「わが幼き時よりのたのみなり。」いま年取って神様を仰ぎながら考えてみれば、あなたは私の幼き時からの頼みでございました。私が生れる時、私は知らなかったけれど神様、あなたが知っておられました。私が幼い時まだ何もわからなかった、しかし神様、あなたはすべてご存知で、その折り折りに私の体を守り心を守り今日までにして下さいました。神様あなたは「わが幼き時よりのたのみ」です。

 6節(われ生れし時よりなんじによりたのめり、なんじは我を母の胎より取りいだしたまえる者なり。われつねになんじをほめたたえん)

 神様私は生れてからずっと、いや生れ出てくる前、お母さんのおなかにいた時から、あなたのおん守りのうちにあった者でございます。それを思うと神様を賛美せずにはおられません。年老いた今こうして、生まれた時のことに思いを向け、ああ、あの時から神様が…………と思うと、どうして神様、あなたを賛美せずにおれましょうか。いつまでもあなたを賛美しましょう、といっております。こうして生れる前から今日まで、神様のお守りとか導きのうちにすごして来たのですが、しかしそれは安楽な一生ではありませんでした。楽しいことばかりの一生ではありませんでした。

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 7節(われ多くの人に驚かるる者となれり、されど我はなんじをわが避けどころとなせり)

 多くの人が私を見て、何と幸福だろう、と皆が言ったわけではありません、多くの人たちが私を見て驚きました。いろいろな驚きかたをしたでしょう「あの人はまあなんて不幸な目にあうのだろうか、あれで神様が守っているのだろうか」と笑われたこともありました。「なんであの人病気がなおらないのだろう信仰がおかしいのだろう」と疑われたこともありましょう、いろいろのことがあるのですね。多くの人から驚かれたり、ののしられたり、あざけられたり、けいべつされたり、いろいろのことがありました。

「されど我はなんじをわが避けどころとなせり。」

その折り折りに私はあなたを避けどころとしてあなたの中に守られてきました神様。とこういうふうに長い生涯を振り返ってうたっているわけですょねえ。

 8節(なんじをたとうる言葉わが口にみち、なんじをほむる言葉ひねもす満つるなり)

 今私は長い生涯をかえりみて、ああ、あの時、あの苦しい時、神様があんなに近くいらした。あんななさけなかった時、神も仏もないものかと言いたいような気持になった時、実は神様が私に一番近くいましたのだと、過ぎ去った長い歩みを振り返ってみると、どこも神様のおめぐみで満ち満ちております。神様、どうしてこの神様に賛美をささげないでおられましょうか。感謝しなくててはあいすまないとでございます。今私は一日中あの事を思っては神様に感謝し、この事を思っては神様を賛美する。こういう暮らしかたの毎日でございます。

 9節(我が年老ゆる時、我を捨てたもりなかれ、わが力衰うるとき、われを離れさりたもうなかれ)

 こういう私でございます、神様。だんだんと年老いて行きますがどうぞ私を捨てないで下さい。私の力が衰えてゆく時どうか神様、私を離れないで下さい。と祈りを重ねております。

 14節(されど我はたえず望みをいだき、いよよ、なんじをほめたたえん)

 これからもいろいろなことがあるでしょう。あるいは苦しいことがある。つらいこともある。悲しい日もくるかもしれませんがというのが十一節から十二節ですが、しかしそれでも私は「たえず望みをいだき、いよよ、なんじをほめたたえん」私はこのいよよなんじをほめたたえんという、ここを読んだときに、この頃はやりの麗しき老年なんてそんなことじゃないと思いましたねえ。これは輝かしき老年です。うるわしいどころのさわぎじゃない。かがやかしい老年です。私はこれからさき、百まで生きますか百二十までですか、とに角生きるかぎりは、「いよよ、なんじをほめたたえ。」ますます神様を賛美いたしましょう。

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 15節(わが口はひねもすなんじの義となんじの救いのみわざを語らん、我その数を知らざればなり)

 神様がどのように正しい方であるか、神様がどのように私を救いたもうた方であるか、またこれからも救いたもう方であるか、そのことを、わが口はひねもす語らん。と言っております。私は毎日それを話しましょう。なぜかなれば、「我その数を知らざればなり。」神様のめぐみの数、かぞえてもかぞえてもかぞえきれない。この神様のめぐみどうして私は話さずにおられましょうか。

 16節(我は主なる神の大能のみわざをかたり、ただなんじの義のみをほめたたえん)

 神様私はあなたのみわざをかたり、あなたの義を賛美いたしましょう。いやあなたの義のみを賛美いたしましょう

 17節(神よ、なんじ我を幼きときより教えたまえり、われ今なおなんじのくすしきみわざを宣べつたえん)

 もう年取りました弱くなりました、何もできません。なんて、そんなことは申しません。「われ今なをなんじのくすしきみわざをのべつたえん」です。

 18節(神よ、われ老いて、しらがになるとも、我を離れたもうなかれ、さらばなんじの大能を世々に宣べつたえん)

 しらがになったからとて、どうか私から離れないで下さい。私はあなたのみ力、みめぐみを世々に宣べつたえましょう。九十や百どころじやないですね、世々に宣べつたえるというのです。永遠に向かって宣べつたえてゆきましょう。これが年寄りの歌なのです。素晴しいじゃありませんか。

 「われ老いてしらがになるとも我を離れたもうなかれさらばなんじの大能を世々にのべつたえん。」

どうか皆さんこのゆきかたを一緒にやってみて下さい。神様のめぐみを世々に宣べつたえる。私か百になつても、百越えても、いや死んでも、と永遠をみつめて行く、永遠に向かつて宣べつたえてゆく。私の子供に私の孫に、そのまた孫にと、神様のめぐみは語りつたえ宜べつたえられて行くでしょう。それがいま年老いた私の願いです、祈りです。何とまあ、これは素晴しいか年寄りでしょうか。これが本当のお年寄り、輝かしき老年だと私は思います。

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しかし、このような輝かしき老年も、時には若い人々には迷惑がられることもあるでしょう。「またおばあちゃんが同じことを言いだした、うちのおばあちゃんは二言目にはじきに神様とかキリスト様というよ」と子供たちや孫たちから迷惑がられたり、馬鹿にされたり「あんなに神様神様ばかり言うのは、少しぼけたのじゃないか」と悪口まで言われる。いいじゃありませんか。何と言われましょうとも、この神様のめぐみ賛美せずにはおれないのです。何と言われてもこれを多くの人たちに、孫にもひ孫にも言い伝えておかねばならないのだ、というこの気持素晴しいではありませんか。とこしえに向かって神様のあかしをなし賛美をするという、この詩第七十一篇の作者は輝かしき老年というほかにないと思いますねえ。

さらにずつと読んで行くと二十三節に、

 23節(なんじをほめ歌うとき、わがくちびるは喜びよばわり、なんじの救いたまえるわが魂もまた大いによろこばん)

 大変喜んでおります。神様あなたをほめ歌うとき私のくちびるは喜びよばわり、あなたのめぐみをほめたたえる時私はもう嬉しくてたまらないのです。また私の魂も、もう心の底からうれしくてたまらないのですと言っております。こういう老年、輝かしい老年でありたいですよね。それは詩篇の記者だから出来たのでしょう。私たちにはとうてい出来ません、なんて言っちゃいけませんよ。こういう輝かしい老年を生きた方々私たちの身近に居られたではありませんか。有馬さんのおばあさん竹下さんのおばあさんがそうだったじゃないですか、藤田どんのおばあさんがそうだったじゃないですか。この詩篇は本当にあの人たちのためじゃなかったのだろうか、と思われる程あの人たちは輝かしいお年寄りでした。ああいう信仰の歩みをした人たちがこの私たちの小さな群の中から出た。そしてそれを見た私たちもまたそのあとを続いて行かなければならないと思います。これが年寄りの日の私たち若い者の思いです。あの人たちのあとに続いて、あの人だちと同じようにこの詩篇第七十一篇を身をもつて命のかぎり生きて行きたい。これがお年寄りの日を迎える私の思いです願いです。

 お祈りしましょう。

 神様、あなたのか守りとおみちびきのうちに毎日をすごさせていただいておりますことを感謝いたします。敬老の日という日を迎えましたこの九月の時、どうぞ年老いた方々はそのいただいた長い年月を振りかえって、どの年もどの月もどの日も神様のめぐみのお支えであったことをあらたに感謝し賛美する思いをおこさせて下さい。

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そしてこれからのち、この神様の深いめぐみを証ししながら、賛美しながら、ほめたたえながら、これからのち神様がお寄せ下さる年月を、主をみつめつつおすごしが出来ますように、どうぞその体に心に力をあらたに加えて下さい。またそのあとに続きます私ども若い者も、このような素晴しい、輝かしい老年を目ざして生きる方々のあとに続いて、同じ信仰の証しの道をあゆみ、賛美と感謝をもって毎日毎日しっかりと、ふみしめふみしめ進むことが出来るようにお導き下さい。また神様この九月の月は有馬さんお二人のお誕生日を迎えさせていただきました。神様がお二人にこうして健康を与え、また心にみ光をてらして今日までお導き下さり、お誕生の月をこうしてお元気に迎えさせて下さいましたことを感謝いたします。どうかこれからまたいよいよ豊かなめぐみのうちに、おすごしが出来るようにして下さい。主イエス様のみ名によってお願い申し上げます。  アアメン。

1980年9月26日  重富集会にて