7.別れのとき1・お通夜
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「我らは気落ちせず。我らが外なる人はやぶるれども内なる人は日々に新なり。それ我らが受くるしばらくの軽き悩みは、きわめて大いなるとこしえの重き光栄を得しむるなり。われらのかえりみるところは、見ゆるものにあらで見えぬものなればなり。見ゆるものはしばらくにして、見えぬものはとこしえに至るなり。我らは知る、我らの幕屋なる地上の家破るれば、神の賜う建物、すなはち天にある、手にて造らぬ、とこしえの家あることを。」
(コリント後書4・16~5・1)
ご一緒にお通夜のお祈りを致しますこのときに、お通夜とはどういうことでしょうか、そして私たちは何をしたらよいのでしょうか、ご一緒に考えたいと思います。
お通夜ということについてそれがいつどうして始まったのか、そういうことは専門的にくわしくは存じません。
私は古くからありますか通夜というこの習慣はいろいろのことからおこったのだろうと思いますが、おそらくそれは人が死にましてそして死んだときにどうなりますか、昔の人たちはそのことをいろいろ心配して考えたのでしょう。悪魔が、死んだ人の体を取りにくるのじゃないかというようなことを恐れたこともあったのでしょう。死んだ人を悪魔が奪って、その人が天国に帰るあるいは極楽に行くことを邪魔する、なんてことを昔の人は考えたのではないかと思います。そしてそういうものを近付けないように、夜の間ぢゅう遺体を守る、そんなことのために通夜というようなことが始まったのかもしれません。あるいはまた死んだ人がこれからどっちへ行くのでしょうか、死んだ人は自分でどうしたらよいか分らず困ることもあるだろうし、あるいは皆のところを離れて寂しいという気持もあるだろうと、まあ死んだ人に対する同情といったような気持から、皆で慰めて寂しい思いをさせないようにしてあげようというので、お通夜という習慣が始まったのかもしれません。どちらでもいいし、そのどちらでもないかもしれませんが、とにかくまあそれに似たようなことから昔の人たちはお通夜ということをしたのではないかと思います。今私共は`お通夜をいたします。それは昔の人が考えたかも知れないそんな幼稚な考えかたで、それを受けついでするのでしょうかどうでしょうか。
教会でも昔から習慣としてお通夜をいたしております。教会でお通夜をするというこの意味、そして今日ここでごいっしょにお通夜をするという意味はどういうことで
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しょうか。それは悪魔が来て持って行くからそれを防ぐとか、あるいは死んだ人が寂しいだろうからというようなそういうこととは少し違います。また違わねばならないと思います。ではこれはどういうことでしょう。何を私たちはしたらよいのでしょうか。先ず私たちがしなければならないことは、この人が今日死にました。その方のために私たちがこうして集っているのですから、この方が死んだとはどういうことなんですか。そして死んだ方のために明日は葬儀をするという、その葬式とはどういうことなんでしょうか。死ぬるとはどういうことでしょう。お葬式をするとはどういうことでしょう。ということをしっかりと考えて、私どもがせねばならない準備をする、そこにお通夜の意味があり、目的が、あると思います。ただ冠婚葬祭という習慣的な儀式の一つとしてお葬式をするというのでなく、本当にお葬式をしっかりとするための準備それがお通夜だと思います。
ここで二つのことを考えてみましょう。一つは死ぬるということ。生れたからにはだれでも死なねばなりません。ですから死ぬるということを何か縁起が悪いこと、いやなこと、恐しいこととして、なるべく考えないようにし押しやっておき、きりきりまで押しやって、いよいよとなったときには何か不安な気持で、あるいは恐しい気持で死というものを迎える。そうであってはならないと思います。どうせ皆生きているからには死なねばならない。今日この方がお死にになった。そこでこの方の死んだとはどういうことか、私もいつかはこうなるのですが、私にとって死ぬとはどういうことでしょう。そしてこの死んだ方をどうしたらよいのでしょう。私が死ぬるとき私はいったいどうしてもらうのでしょうか、というようなことを考えましょう。今お読みいたしました聖書の中では、死ぬるということそれは無くなることじゃないと教えてあります。「おなくなりになりまして」と言いますけれども、死ぬるということは無くなることではありません。
「我らが外なる人は破るれども、内なる人は日々に新なり」外の人、この肉の体が日々に破れて行く。日を重ね月を重ね年を重ねて行くにつれて、この肉の体がだんだんとあちこち弱ってきます。動かなくなります。ついにもう駄目ということになります。これはだれでもそうでしょう。しかし聖書では、「外なる人は破るれども、内なる人は日々に新なり」と教えています。外なる人即ち肉体は日々に破れてゆく、その日々に破れてゆく人が極限になって、もうこれ以上駄目というとき、それが死というときでしょう。しかしそれは外なる人が死ぬのである。内
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なる人は日々に新になってゆく。そしてその日々に新になってゆく内なる人が、その外なる人すなはちこの肉体が極限にたっしたときに、内なる人は外なる肉の体を離れて一段と新しく飛躍して行く、その瞬間、それが死という時。ですから死という時は、死んで無くなる時、消えて無くなる時ではありません。この肉の体が行きずまって駄目になっても、そのとき内なる人は新しい生き方を始める。言いかえますならば、今までは「内なる人」はこの肉の体に包まれて生きてきた。ですから思うようになりません。時々手が痛い、足が痛い、風が吹いた雨が降ったなどいうのであちこち痛くなったり狂ったりする体です。そのようないたみ易い不自由な弱い体に支配されて、内なる人が思う存分に伸びられない状態です。いわば私たちが肉体というものに取りこになって閉じ込められて、内なる人が思いきり伸びられない、そういう状態になっています。ところが外なる人が行きずまった時には、もうそういう束縛がなくなって生きられる。難しいことを言いますならば、時間と空間の制限の中で生きておる、あるいは相対的な世界でしか生きて行けないような私たちが、その時間と空間の東縛を無くしてあるいは相対的な制限を無くして、生きられるようになるそれが外なる人が破れて内なる人が飛躍するということです。
死ぬるということを聖書では栄光の体にかわることだと教えてあります。私たちはこの肉の体が終る時、無くなるのではなくて栄光の体にかわるのです。栄光の体にかわるということは、こういうもので束縛されないもっと自由なもっとのびのびと生きて行ける生活には入るということです。
今日この世の生涯を終えられました岩坪さんは、そういう時をお迎えになったわけですね。そしてこのお通夜です。ですから私たちはここで「あゝあの肉の体でよくこの長い生涯をおすごしになりました。その肉の体を働かせてあのようにお暮しになり、このようなお仕事をなさいましたこと、この方のご生前に思いを向けましょう。しかしその肉の体から今はときはなたれて、こういうものに邪魔されないで束縛されないで、もっともっと素晴しいお働きが出来る状態におなりになった。死んで働かなくなったのではありません、死んで働かなくなったのは外なる人だけ、内なる人はこういうものに邪魔されないでもっと素晴しく生きて行かれるでしょう。その新しい歩みが今日から始まりました。そこに目を向けて、どうかこの新しい歩みがこれからますます輝く歩みになり
ますようにと心を込めて、お祈りをし神様にそのお導きをお願いするのがお通夜の目的でございます。
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そういう思いをこめて明日はこの方をお送りいたします。教会では葬式のことをただか葬式とは申しません。
祈祷書では正式の言いかた送葬式となっております。
ほおむり送る式というふうに言っているわけです。明日はこの岩坪さんのために私共は葬送式をいとなみたいと思っております。葬り送るのです。お葬式だけならただ葬るのでしょう。この朽つべき体が朽ちた。もう駄目になってしまった。だからこれを葬ります。墓に入れて土をかぶせます。あるいは焼いて灰にします。これは葬るということです。しかしそれだけじゃない、葬るだけではなくて送るのです。葬り送ります。どこに送りましょう、神様のみ国へ送るのです。
聖書の考え方によれば、死ぬるということはまた、この世のつとめを終った人を神様が天のみ国へ召し帰しなさることです。「私が造ってあげたその体を働かせて、五十年、六十年、八十年、よく生きてきたねえ。もうそれ以上はその体を働かせなくていいから、もうそれを置いて帰りなさい」と神様がお召しになる。それが死ぬるということ、ですから教会では死ぬることを天国に召されると申しております。神様のみ国に召されるのですね、召し帰される「さあ帰りなさい」と声をかけられる。そのお声が今日岩坪さんにかかりました。「さあもう帰ってきなさい」そこで今迄していた呼吸もやめて体もそこで終りにし、お召しに従って帰って行きます。その方を明日は皆でお送りしましょう。これが葬送式でございます。そのお送りしますときに、どういうふうにしてこの方をお送りしましょうか、どんな送りかたをしましょうか、と心を静にして考えるのがお通夜のひとときでございます。
明日この方をどのようにお送りしましょうか。長いご生涯おつき合いをして知っていらっしゃる方は、どうぞその長い間のおつき合いをここでもういちど考えて「あああんな楽しいおつき合いがあった。あの時はあんなにかんかんに怒ったこともあった。あの時はこの人が大変うれしそうに、にっこり笑っておられた。」その長い間のおつき合いのなかでのあのことこのこと思いおこして、そして声をかけてはいかがでしょう。「あゝあんなおつき合いさせていただいて有難うございました。私にあのようなつらい思いをさせて下さって、そのお蔭で私もいろいろ考えることが出来ました成長させていただきました口いろいろ苦しいにつけ楽しいにつけ、この方との交わりの中で私たちはいろいろなものを受けてきたでしょう。それを今もう一度胸の中で温めて「あゝ本当に有難うございました」という言葉になりますか。あるいはま
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た「あゝ本当にご苦労でございました。」という言葉になりますか。「あゝごめんなさいねあの時は」とおわびの言葉になりますか。私たちは今いろいろこの方に申し上げたいことがあるでしょう。その私たちの言葉を、神様の所に帰って行くこの方にプレゼントとして差し上げ、神様の所まで持って行っていただきたい。そういう気持でこの方をもういちど見つめながら、私共の感謝を申し上げたい。あるいはこの方に対する賛美もおささげしたい。この方に対するおわびもちゃんと申し上げておきたい。召されて帰るこの方をそういう思いをこめてお送りしたい。今になって考えますと、あの時は無我夢中でわからなかったということもあり、またある時は本当にしゃくにさわったということも、いろいろあるでしょうが、しかし今神様の所へお見送りしましょうというこの時になると、そのすべての思いが、皆美しい花のようになって来るでしょう。またそうしなければならない。私たちのさまざまな思いがみんな美しい花になるまで心の中で温めてみましょう。そして美しい花にして、感謝という、賛美という美しい花にして、この方にささげたい。そして神様のところまで持っていっていただきたい。お葬式というのは本当は葬送式です。葬るのです。この朽つべきもの、外についていたものを皆葬って、あるいはよごれたものを皆葬り去って、神様のところにお帰りになるこの方に、私たちの心からのものをさし上げてそれを持って天のみ国へ帰っていただくのです。ですからここで皆で、手をたたいて感謝しながらか見送りするような気持でするのが、本当のお葬式だと私は思います。お葬式というのは涙出して悲しんで、泣き面をして並んで行くのが葬式じゃあません。皆がそれぞれの仕方で手をたたくと、いろいろな手の音がするでしょう、この方のためにそれぞれの手をうちならして「さようなら」「神様のところへお帰りなさい」と皆がお送りする、その皆さんの感謝の手、賛美の手あるいはおわびの手の音が、神様のところまで天のところまで高らかに響くようにしてお送りする、それが一番まごころのこもったお葬式ではないだろうかと思います。どうか明日のお葬式を、ただ普通のお葬式のようにしないで、立派な葬送式にしていただきたいと思うのでございます。
1980年 6月4日
岩坪 厳 様 お通夜