18.み栄えとわに

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 ただいま私たちが神様の前に集いまして、み国へとお見送り申し上げております郡山淳先生につきましては、すでに皆様よくご存知ですから、いまさらいろいろ申し上げる必要はないのですが、簡単に先生の歩みを振り返ってみますと。

 先生は明治十四年六月二日に お生まれになりました。今年で九十二のお誕生日をお迎えになったわけです。先生は学校をご卒業になりますと、すぐ山形県鶴岡市の鶴岡高等女学校に奉職され、それを振りだしに熊本県立高等女学校、鹿児島県立国分高等女学校で教鞭をおとりになり、その後津曲学園に招かれ、鹿児島高等女学校校長、家政女学校校長、付属幼稚園園長としてご活躍になりま

した。明治三十九年から昭和二十三年までの長い間、教育のためにおつくしになりました。

 その間熊本県立商等女学校に御在職中、三十才の時、熊本聖三一教会で洗礼を受け、信仰におはいりになりました。それから今日まで、六十三年におよぶ長い間忠実に信仰生活をおつづけになりました。学園を御退職になってからご自由になられたとき、先生は残りの生涯を、

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神様のために出来るかぎり用いさせていただきたいとご決心になり、日本聖公会の伝導師として奉仕したいとの希望を、日本聖公会の九州教区に申し出られました。

 教区では喜んでそれを歓迎しました。伝導師になるには、特別の教育と訓練を受け試験を受けることになっているのですが、郡山先生ば学識経験はもちろん信仰の面でも非常にすぐれた方でしたので、教区でば無試験で伝導師に任ずることにしました。しかし先生は、

 「私は長い間教育界で働いていたが信仰ではしろうとだと思いますから、どうぞ初歩から教え訓練していただきたい」

と言って、試験を受けることを強く希望されました。長年の間、名校長としておつとめになった先生が、一年生になったお気持で試験をお受けになり、九州教区の正規の伝導師として、鹿児島復活教会のために働きをおはじめになりました。ここに「ご謙遜」などいう言葉ではとうてい言いあらわせない先生のゆかしく偉大なお人柄が現われていると思います。

 その当時教会は戦争で焼け失せたあと、やっと小さい会堂が建てられただけで、定住の牧師はおらず困難な時でした。伝導師となった郡山先生は、次の牧師の来るまではこの教会を守り支えねはと、いっしょうけんめいおつくし下さいました。

 この先生を教会の人たちは「郡山老先生」と呼んでお慕いし、尊敬してまいりました。みんな老先生、老先生とお呼びしていますが、しかし、郡山老先生は決して老人ではありませんでした。老人というのは立ち止まり、後を振り返って、昔のことをいくらでもいくらでも繰り返し話すものです。郡山老先生ば昔話は滅多になさいませんでした。いつでも前向いた話をなさる方で、ひとつ所に立ち止まっていらっしゃいません、いつも私たちに背中を向け先に立って、どんどんお歩きになる感じの方でした。

 老先生という言葉は、教会の中では何とも言えない楽しい呼び名となっているのですが、それは御長男の正先生との関係で、老先生とお呼びするようになったのであって、老人先生という意味ではありませんでした。

 この先生には若さがいっでも躍動していました。先生にお目にかかりお話をうかがっていますと、いつも若さを感じ揺り動かされる、いわゆる気迫を感ずることでございました。

 本当にめずらしい九十二才という御高齢でありながら、

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どうして先生は若々しく気迫を失わずにお生きになったのでしょうか。私ばこの先生の若々しさの秘密が二つあると思います。

 一つは信仰です。先生とお話ししていますとよく、

 「天のお父様が一緒じゃないですか」

と、神様のことを天のお父様と言ってお話しになります。それがまことに自然で、そばでうかがっていると、お父様のそばにいらしてお父様の方を振り返りながら、話していらっしゃるような親しさをひしひしと感じさせるのです。先生にとって、天地の造り主、生命の支え主である神様は、お父様だったのです。神様のことを、天のお父様、天のお父様と言って、毎日毎日をおすごしになり

ました。ここに若さとたくましさの秘密があったのではないでしょうか。いくつになっても人は親のそばに居れば子供です、子供扱いされます。自分でも子供だと思っているから老人ぶったりしません。先生は造り主なる神様を天のお父様と仰ぎ慕い、子供のような気持でいらしたので、老いてもなお心に若々しい力が与えられていたのではないでしょうか。

 もう一つあのように若々しくたくましくお生きになったのは、いつでも心の中に歌を持っていらしたからだと思います。

 先生のお家のある皆与志(みなよし)から河頭(こがしら)までば、今では立派な道になり舗装されていますが、ほんの数年前までは石ころのごろごろしたけわしい山道でした。この教会がまだ終戦後立ち上がれず牧師がいなかったとき、先生は皆与志のお宅から河頭までごろごろの坂道、それば五・六キロ・・・・・あるでしょうか、その道を杖をついてお歩きになり、河頭から鹿児島までバスに乗って日曜ごとに教会においでになり、皆を励まし導いて下さいました。その頃あの坂道を上ったり下ったりなさるとき、杖をついて歩きながら聖歌を口ずさんでいらしたので、よく知らないその辺の人たちは、妙な年寄りが何かしら変な歌を歌いながら山を登って行く、あれば少し気が変なのではなかろうかとうわさをしていたそうです。

 日曜日の夕方は少し早くおいでになって、教会の入口のところに立ち大きな声で聖歌をお歌いになります。ところがあるとき、小学校の四年生だった私のうちの娘が、びっくりした顔をして帰ってきて、

 「今教会で妙なおじいさんがお経をあげているよ」

と言うのです。私は郡山先生が聖歌を歌っていらっしゃるのだよとおしえたのですが、いやお経だと言うのです。

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先生の聖歌は子供にはお経としが思えないほどに歌ばなれした歌でございました。それからしばらくして、先生のお宅に上ったとき、そのことをお話しいたしましたら、先生は笑いながらおっしゃいました。

  「このあたりの山に囲まれた村の中では、神様を知らない人がたくさんいます。わたしの歌うこの歌を誰がが聞いて、神様のことを考えるようになってくれればいいがナア、と思って歌うのです。

歌は独り言のようなものですから、人に説教がましいことを言ってるようないやな気もしませんので、たのしく歌っていますが、それを聞いて気ちがいだと思う人もあるでしょうねえ」

また教会の玄関でお歌い になったことについても、

「道を通る人がひょっと妙な声がするゾ、と立ち止まって耳を傾けることがあるがもしれない。そしてその耳のどこがに、神様とか、イエス様とか、めぐみとがいう言葉のはしっこが、さわることができればいいがと願いながら歌っているのです。上手じゃないかもしれないが、教会の前を通る人がハッと気づいて下されは有難いのですが」

と話して下さいました。

 先生はご自分が天のお父様と言って、お慕いし、お頼りし、安心しているこの神様を、歌わずにはおれなかったのです。感謝の声を上げずにはおれなかったのです。そのようにいつでも、神様への歌を持っておられました。若い青年会の人々が集る時はいつでも、

 「みんな歌いなさい、歌いなさい、歌い上げるのだ」と言っておられました。ただ単に「歌う」というのではなく「歌い上げる」と言われるのです。若い者は神様に向がって歌い上げるのだ、とおっしやって下さいました。

 歌うことは先生にとっては祈りだったのです、伝導だったのです。

 ご病気が重くなり十二月二日の日曜日、先生は私に会いたいとおっしゃって下さいました。私は先生から会いたいとおっしゃっていただいたことを光栄に思っております。そして多分、私に別れのおつもりでお呼びになるのだろうと、心ひそがに思いながらおうかがいいたしました。先生は大変お疲れになっておられ、お話もできない状態だと御家族の方はおっしゃいました。極度にお疲れで目を閉じたままでいらっしゃいましたが、大変お喜びになって、驚いたことにいろいろとお話しをはじめられました。

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 「そうでしょう」

と私に呼びかけうながすように、人差し指をお立てになりました。それで私は、

 「あそこですよね。行くところはきまっていますよね」

と申し上げました。すると先生はにっこりされ、それからしばらく天のお父様の所に行くことをいかにも楽しそうにお話しになりました。私は先生に、長い間の神様のおめぐみを感謝して下さい。感謝しながら、賛美しながら天のみ国へお帰り下さいとおすすめして、

 「先生賛美を歌いましょうか」

と言いますと、にっこりしてどうぞと言われるので、私は耳もとに口をつけて大きな声で歌いました。御家族の方も一緒に歌って下さいました。

父みこ、みたまの おおみかみに

ときわにかきわに み栄えあれ

(聖歌・448)

神様を賛美する短いうたですが、私はこのうたは賛美歌のうちで一番大切な一番立派な歌だと思います。これは先生をお訪ねして帰るときはいつもお別れのときに歌った歌でした。それが歌われておりますときに、先生ははっきりと声を上げて、一緒に歌って下さいました。いつものお経のような歌ではなく、皆と同じく立派な調子の整った歌でした。それは先生の一生涯歌い上げられた歌のエッセンスなのです。神様にみ栄えがあるように、み栄えがあるように、それを念じつつ歌い続けておすごしになりました。それは先生のうたの、そしてながい生涯のすべ、くくりなのです。それを歌い終って大変お喜びになり、みんながびっくりしたことには、手をたたいてお喜びになりました。それは召される一週間前の日曜日のことでした。

 私は先生のうたは、神様の恵みを感謝する賛美の歌であったと共に、人々を慰め励ます愛の歌であったと思います。いつでも、心の中に感謝する賛美の歌を持ち、人を慰め励ます愛の歌・伝導の歌を持っていらしたことが、年老いても老人にならない、老いても気迫を失はない、あの素晴らしいご生涯の秘訣であったのだと思います。

 父みこ、みたまの おおみかみに

 ときわにかきわに み栄えあれ

郡山先生はこの歌を歌いながら生き、この歌を歌いおさめて、天のみ国へお帰りになりました。これは先生の毎

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日毎日の生活の歌であり、その長い生涯の終りに高らかに歌い上げられた歌であり、召されてみ国の門をおはいりになるとき天のお父様へのご挨拶となった歌だとおもいます。

 ときわにかきわに み栄えあれ

この肉体の声で歌いつづけ、歌い終り、いま肉の衣を脱ぎ捨てて、天の声で歌いながら天のみ国に帰っていかれます。肉の声で聞かれなくなったそのお声は、今天の声として私たちに響いてくるはずです。

 父みこ、みたまの おおみかみに

 ときわにかきわに み栄えあれ

これは先生が私たちの前に生涯歌い続けて下さった歌、神様のため、人のための賛美の歌、愛の歌でした。生きるための歌、死ぬるための歌でした。手をさし上げ指を立てて、まっしぐらにみ国へと歩み進みなさった先生の後に従って私たちもまた「み栄えあれ」と歌いつつ進みたいと願うものでございます。

1973年 12月12日

 郡山 淳先生葬送式