35.主のみ手にまもられて
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神さまを信ずるといえば、日常生活とはちょっと緑遠く、何だかわかりにくくて難しいことのように考える方が多いようですが、決してそうではありません。信仰とは、神さまについて勉強するとか研究することではなく、神さまとおつきあいをすることです。だからそんなに難しく考えなくてもよいはずです。
神さまを信ずるとはどんな儀式をどのようにするのだろうか、などいろいろと考えるかも知れませんが、しかし、そういうことはどうでもいいのです。神さまとおつきあいするとき、どんなものを着ていなければならないとか、どんな具合に手をたたかねばいけないとか、そういうことはあまり問題ではありません。とにかく神さまとおつきあいをする、それが大事なことです。
では、そのおつきあいはどんなふうにするのかということですが、それには特別なよそゆき顔をしてあらたまらないことです。特別に緊張したり気ばったりするとこちこちになってしまい、神さま参りとは骨のおれるものだ、肩のこるものだということになります。
神さまとのおつきあいというのは、朝も、晩も、ということです。お客さまを迎えて、「ああ、いらっしゃいませ」と挨拶して、「さようなら」と玄関から送りかえす、その間だけのおつきあいではないのです。神さまとわたしたちとのおつきあいは、朝から晩まで、晩から朝までです。ということは、わたしたらの毎日の生活、一日二十四時間のうちで、神さまとおつきあいしていない
時間は一時間もない、いや一分間もないということです。二十四時間みんな神さまとのおつきあいの中にあるということです。そういう暮らしかた、それが信仰ということです。
では、神さまと一日中つきあっているとはどんなことでしょう。神さまと一日中つきあっているなんて、さぞ骨のおれることだろう、きゅうくつだろうなどとお考えにならないでください。朝から晩までの間で、十分か十五分かちょっとだけ、わたしのまわりで空気がとだえた、ということがあったでしょうか。空気がきれました、さあ大変だとあわてたことはなかったでしょう。あるいは
いつか急に引力が無くなって、ふいと宇宙に浮かびあがり投げとばされた、さあ大変だとあわてたこともなかったでしょう。朝から晩まで一日中空気はちゃんと流れております。重力もちゃんと作用してわたしたちの体が浮かびあがらないように、地球にしっかりとくっつけてあります。そのようにしてわたしたちを生かし支えていて下さる方、それが神さまです。
その神さまとのおつきあいです。わたしたちは朝から晩まで空気をいただき、あるいは水をいただき、あるいは光をいただいてくらしておるのです。だから、ぐるぐるまわる地球の上にいながら、安全ではありませんか、楽しいではありませんか。二十四時間のうち、たった一時間だけ神さまとのおつきあいをするのだったらどうでしょうか、一時間だけは水がある空気もある光も照るけれど、そのあとはなんにも無いとなったら、わたしたちはどうして生きてゆきましょうか。一日二十四時間のうち一時間も一分間も絶え間なく、わたしたちを支えて生かしていて下さる方、これが神さまです。
信仰に始めての方が、神さまがよくわからないと言われることがあるのですが、それは神さまに名前をつけて、その名前にこだわって考えるから分らないのではないでしょうか。神さまは「何とかのみこ」ととか、「何とか如来さま」とか、「何とかの大明神さま」とか、そういう名前をつけて考えるからややこしくなり、分らなくなるのでしょう。
そうではなくて、神さまというのは、そのお方がいらっしゃらなかったら、わたしたちが生きておれない。そのお方です。そのお方がいらっしゃらなくては、わたしは一瞬間でも生きてゆけない、そのお方、それが神さまです。
そのお方とのつきあいが無ければ、わたしの命がとまるでしょう。そのお方がいらっしゃらなかったら、わたしがどんなに頑張っても、息をし続けることはできない、そのお方です。それを神さまと言ったり、何か耳なれない難しい名前をつけて考えるから、難しく縁遠くなるのです。
神さまと言わなくとも、ああ、このお方がいらっしゃらなければ、わたしは生きてゆけないのだ、このお方のおかげで昨夜もねむれました、このお方のおかげで適当に眠ったら今朝目がさめました、なんとまあ安心で、ありがたく楽しいことでしょう、そういうわたしたちの楽しい気持を受けとめて下さるお方、それが神さまです。
朝になったら、ああ有難うございました。ゆうベー晩いのちを守っていただきました。わたしが眠っている間も、呼吸が止まらないようにしていてくださって、ありがとうございました。今日もよろしくおねがいいたします。とあいさつする気持でおつきあいをする、これが 神さまを信ずるということです。
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そうですから、わたしたちは、生きているあいだいつも、このお方におつきあいを願わねばならないでしょう。そしてそのおつきあいを安心して楽しくできるようにしていただくには、どうしたらよいでしょうか。そのお方とのおつきあいはこの一週間うまくいっていただろうか、さて次の一週間は大丈夫だろうか、というふうにふりかえって見たり、あるいは向かうをのぞんで考え計画し予定を立てたりして生きる、これが信仰生活ということです。
神さまとのおつきあいがうまくいっているでしょうか、どうやったらもっとうまく楽しくなるでしょうか、といつも反省し調節しながら、今日を生き明日を生きてゆく暮らし、それが信仰生活です。ですから「わたしにはこれまで神なんて無かった」とか、「わたしは都合によってこれからもう信仰をやめます」などという人がありますがこれは少し感違いではないでしょうか。キリスト教
を理解したとかしないとか、気分的に共鳴できるとかできないとかで、信仰にはいるとかやめるなんて考えかたでは信仰は得られません、信仰とは「そのお方なくてはわたしが生きられない」そのお方のみ手の中で、生かされ支えられて生きること、そのお方との交わりおつきあいを生きることです。頭での理解や感情気分にたよることではありません。
わたしたちは、生れたときは、そんなことを何も気がつかなかった、けれどもそのお方が空気や水を与え、あるいは母親をとおして母乳を与えて下さいました。何も知らないときから、すべてのことをちゃんといいようにして成長させてくださいました。わたしたちは神さまのこのふしぎな恵みを、いつまでも知らず気づかずに成長してよいでしょうか。
それはなるべく早く気がつく方がよいでしょう。自分では知らないけれど生きてきた、わたしたらはどうして生まれてきたのでしょう。どうしてこんなに大きくなったのでしょう。さあ知りません分りません、では困ります。小学校、中学校、高等学校と進むにつれ、自分をみつめ考えねばならなくなるとき、生きることが分らなくなり自信と希望を失い、進む方向を見失なったりしないためには、まだ幼いときになるべく早く、「神さまあなたこそ、わたしの生命」というこの生きかたを、身につけている方が望ましいのではないでしょうか。
今ここで赤ちゃんのために洗礼式が行われました。幼な子の洗礼について、よくこんなことを言う人たちがあります。
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「赤ん坊に洗礼したってあれは何になるのだ。何も知らないのに洗礼をしても無駄だ。むしろ大きくなり中学生になったり高等学校の生徒になってから、自分で考えて自分で洗礼を受けた方がいいのだ。」
わたしはそういう人には、羊かんのことを考えていただくことにしています。羊かんを食べたら甘くておいしい。しかし世の親たちは、このおいしい羊かんというものをこどもたちには食べさせないでしょうか。まだうちの子供は羊かんという字が書けない、漢字だけではなく、ひらがなでさえ「ようかん」と書けない。また、羊かんの糖分糖度が何度あるかそんなこともまだ知らない、栄養価のこともわからない、そういうわからない子供に、わからない時代に羊かんを食べさせるのは無駄ですよ。だから家では、羊かんは子供には食べさせないことにしています、なんていう親があるでしょうか、どうでしょう。
自分が食べておいしい、ああ、これはたしかに健康のためにもよいと思って食べさせる。大根、にんじん、ごぼう、何でも知らなくても子供はそれを食べさせられて、ちゃんと元気に大きくなる。
信仰とはそういうことですね。わかるようになってから、キリスト教はどうでござる、こうでござると理屈を言って分ったような顔してはいってくる。それでは遅いのです。それよりもっと前から、よくは分らなくても、神さまのみ手の中でちゃんと生きている。神さまのおかげで生きているのに、そのことを知らないままで生きている。そしてわかるようになってふり返ってみれば、な
るほど、神さまのおかげで、わたしの今日がある、なるほど、わたしはこの神さまとのおつきあいのおかげで生きてきたのだ、と分るでしょう。そしてこれからのちも、きっと大丈夫だ、神さまがいっしょだ、大丈夫だ、という確信をもって力づよく生きられるようになるでしょう。
幼児の洗礼というのは、そういう神さまとのおつきあいの中にはいれられたしるしであります。今この洗礼式でお集りの皆さんは、お祈りをして、この赤ん坊を神さまにお預けしました。神さまの大きなみ手の中にみんなで幼な児をお預けして、神さまどうぞよろしくとお願いしお祈りしました。それが今日の洗礼式でした。神さまは、わたしたちみんながお願いしたこの祈りを決して無
にはなさらない。このお祈りは神さまのところまでとどいたお祈りなのです。神さまがお聞きあげになって、あのテモテ拓也ちゃんの洗礼のときには、あの人も来ていた、この人もお祈りの声を聞かせてくれたなあと、神さまの方ではおぼえていて下さるでしょう。そしていつまでもおぼえて幼な子を守り続けて下さるでしょう。洗礼とはそういうことです。
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いま洗礼によって、赤ちゃんが新しく生れ変りました。生れたままの赤ちゃんがそのままでなく、神さまの子として永遠の生命に生きる者とされ、そのみ手の中にあずけ入れられました、今までは両親の手の中で育てられてきたと思われるでしょう。しかし両親の手よりもっと大きく確かなみ手がそっくりと、この父と母と子をいだきこんで、大丈夫だぞと言って下さる。これが洗礼を受けた親と子のくらしなのでございます。
こうした新しい出発、永遠のみ手の中での新しい出発をなさいましたご家族のために、どうぞ皆さん感謝してあげてください。そしてこれからテモテ拓也ちゃんがだんだんと大きくなってゆくときこの幼な子が、神さまのよい子供になり、神さまの家族である教会の一員として、りっぱに成長されますように、みなさんで祈りと愛をもって、励まし導いていただきたいと思うのでございます。
1986年5月4日
復活後第5主日
大口塑公会にて
テモテ山下拓也ちゃん洗礼を受ける