11.心の畑
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春を迎えていろいろのものがよく生長し花を咲かせ、夏が過ぎ秋となってよい実りが得られるために、今しなけれはならないことは、土を耕やし畑を良い状態にととのえることであります。それと同じように、今年一年魂の花を咲かせ、信仰生活の実りを豊かにするためには、心の畑の手入れをして整えることが必要です。心の畑、どのようにしたらよいでしょうか、主イエス様のなさったたとえ話を読んでみましょう。
種まくものその種をまかんとていず。
まくとき道のかたわらにおちし種あり。
踏みつけられ、また空の鳥これをついばむ。
岩の上に落ちし種あり。
はえいでたれど、うるおいなきによりて枯る。
いばらの中に落ちし種あり。
いばらもともにはえいでて、これをふさぐ。
良き地に落ちし種あり。
はえいでて百倍の実をむすべし。
(ルカ伝8・5~8)
種が四種類の土地に落ちました。一つは道のかたわら、一つは石の上、一つはいばらいっぱい生えておるところ、そして一つは良い土地でした。このたとえ話について主イエス様は説明をつけ加え、種とは(神のことば)のことであると仰せになりました。そして四つの土地とは神様のみことばというその種を受け入れる人の心の状態であります。
道ばたに落ち鳥に食べられたものは芽を出さなかったが、そのほかの種はみんな芽を出していますね。神様のみことばという種はどんな土地ででも芽を出すのです。
土のうすい岩地の上であろうが、ちゃんと芽を出します。
私たちはそうゆうふうにことばを受け止めておるでしょうか。そうでないことがあるのではありませんか。「あの人に信仰を……と思うけれど、あの人は聖書の話にはあまり耳をかさないだろう」というように、話してもみないで尻ごみしている。そんなことはないでしょうか。神様のみことばはどこででも芽を出すのです。発芽しないなんてことは決してない。必ず芽を出すという確信を私たちは持っているでしょうか。持っているなら思い切ってその種を蒔いてみたらどうでしょうか。あの人が病気している、さあお見舞に行きましょう。何を持って行
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きましょうか、花を持って行きましょうか、食べ物はどうだろうか、果物にしましょうか、なんてそんなことは心配するでしょうが、魂の心配をどれだけしておりますか。病気していらっしゃる人に何を持って行きましょうか、神様のみことばは一番慰めになるのではありませんか、一番頼りになるのではありませんか。私たちは神様のみことばに対してそんな確信を持っているでしょうか。きっと芽を出すことを信じて、病人さんという畑に神様のみことばという種を蒔いてはいかがでしょうか。
子供たちについてはどうでしょう。「子供はまだわからんからなア」と割引きすることありませんか。自分がこのみことばを信じて慰められている、このみことばが自分の力になっているというのだったら、それほど大事なもの、それほど頼りになっている有難いものだったら、どうしてそれを子供にやらないでしょうか。なぜその種を子供の心という畑に蒔かないのでしょうか。昔からクリスチャンの家では小さい子供のうちからみことばをたたき込んでおります。英国聖公会などではその習慣が非常に強く、生れた子供がやっとものが言えるようになり、言葉がわかるようになるその頃から、お母さんのひざの上で聖書のお話やお祈りを聞かされるそうです。ママとかパパとかバイバイが、やっと言えるようになるその頃に、いや、それよりも先に「アーメン」を聞かせ、「アーメン」を言わせるのです。まだこんな赤ん坊に、キリスト様のことやお祈りを聞かせたってわからないから……なんて割引きはしない、とにかく聞かせるのです。そして短いことばを一つづつ おぼえさせるのです。
これはだいぶ前にテレビで見たことで、皆様もごらんになったと思いますが、あのユダヤのラビたちが旧約聖書を子供たちに教え込むところがテレビに出ておりましたねぇ。そこでは先生が聖書のことばを言う、するとそれを子供たちが口うつしにその通りに言う、日本の昔の寺小屋のような場面が出ておりました。あれなんです。あれをユダヤ教だけでなく、キリスト教の世界でも昔からやってきました。日本にキリスト教が伝えられたとき明治・大正の頃の教会の人たちは同じようにしました。子供たちに聖書のことばを丸暗記させたのです。意味はわからなくてもいいのです、丸暗記するのです。ちょうど日本で漢学を勉強する時に諭語とか、孟子とかいうような難しい本をただ読んで聞かせる、そしてそれを聞いて丸暗記する仕方、それと同じように聖書をとにかく読
ませ、おぼえさせるのです、ことばを説明しなくてもい
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いのです。子供はそれをわかってもわからなくても、そのままおぼえる。たとえば(神は愛なり)という聖句をおぼえます。神とは何か、神が愛であるとはどういうことか、そんなことが子供たちにはわからないでしょう、いや大人にだってよくはわからないでしょう。それでも小さい時からその聖書のことばを打ち込まれておりますと、それが力になります、神様のみことばという種が蒔かれてあれば、大きくなって中学になった時、ある時ある事にぶつかって、そこでその種が芽を出す。あるいは大学になって、社会に出て、そこでまた芽を出す。とにかく神様のみことばという種は、どこに落ちても芽を出します。
このたとえ話をただのたとえ話として読まないで、私の身近なこととして読んでみたらいかがでしょうか。私の家庭という庭にはこの種を蒔いているでしょうか。私の友達とのつき合いという広場に、この種をいくつ蒔いたでしょうか、お互に交わり話し合ったり、手紙を書いたりすることによって神様のみことばという種を蒔くことができる。そしてそればどこに蒔いてもきっと芽を出すということを考えておきましょう。神様のみことばはそのような種ですから、自分の頭の中だけに入れておかないで、自分の聖書のページにだけくっつけておかないで、あの人の心の畑に、私たちの家族や友達の中に入れておいてみたらいかがでしょうか。
さて、四つの土地のことですが、まず第一に、道のかたわらがありました。そこに落ちた種はふみつけられたり、空の鳥から食べられてしまいました。道のかたわらに落ちたとは、通りすがりの所にちょっと落ちたということでしょう。みことばを通りすがりにちらっと見る、新聞をざっと見たり、本屋でちょっと漫画の立ち読みするようなああいう仕方でさっと目を通す、それは通りすがりの道のほとりでしょう。すぐに鳥から持っていかれてしまいます。
また、道のほとりとは、ふみつけた堅いところでしょう。人間の足のふみつけた所ではなかなかうまくゆきません。足でふみつけた堅い土地、それは自分の経験にたより、それにもとずいて、みことはを受け取り或は捨て去ろうとする心でしょう。みことばを聞くとき自分の経験を基準にして、自分の都合のいいように解釈して受け取ろうとしたり、自分の考えに合うようにまげて味わって行こうとする。これは道のほとりの種ではないでしょうか。それはうまくゆきません。
その次は岩の上すなわち土のうすい石地です。土のう
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すい石地でも芽は出ます。しかしすぐ下は固い岩ですからなかなか種が苦労します。育ちにくいのです。そういうこともあるでしょう。私たちの畑はどうなっているでしょうか、土があって受け入れそうですけれど、ちょっと行くとカチッと固い岩にぶつかります。柔かい土が少しはあるが、その下には自我という岩が頑固にひろがっております。表面から少しは入るが、そこから先は頑固な我のために、押しても引っぱってもどうにもならない、そのような畑では種の生長は行きずまり、とまってしまいます。私たちの心の中はどんなでしょうか、石地になっていないでしょうか。
その次はいばらがはびこっている土地、いばらが畑にあると、土の養分をみんな吸い取ってどんどんふえ、ほかの作物は育ちません。私たちの心の畑にも、いばらが生えてはいないでしょうか。からだや心のいろいろな欲望といういばらが、神様のみことばという種の生長をさまたげてはいないでしょうか。神様の方に向かう思いを引っぱって、神様の方に目を向けさせないようにするものが沢山あるのです。そのようないばらが私たちの畑に生えてはいないでしょうか。どうでしょうか。聖書を一ペ一ジ読むよりはテレビのドラマを三十分見る方が楽しいですというような、そんないばらも生えているかもしれません。いろいろなかたち、いろいろな姿のいばらが私たちの畑の中にないとはかぎりません。心の畑をしらべてみて、いばらがあったら堀り出して外に捨てねばなりません。
いま三つの土地を考えました。道のほとりの土地、土のうすい岩地、石地の土地、そして又いばらが沢山ある土地、さあ、私の心の畑はそういうものでなければよいですがねえ。そういうものになってなければよいのですがと、ここでよく見まわり調べ、手入れをしましょう。そのために教会では大斎節という季節を定めてあります、この期間によくわが心の畑を見まわり、手入れをして春のご復活をお迎えしたいというわけでございますが、どうやって手入れをしましょうか。
つぎには良い土地のことが書いてあります。良い土地に落ちたものは大変よく出来て百倍の実を結んだとあります。私たちの畑もなんとか良い土地にしたいのでありますが、良い土地というのはどういう土地でしょう。
まず第一に日当りの良い土地でしょう、日当りが良くなくては作物は出来ません。それから風通しも良くなくてはならないでしょう。風が通らないと種は土の中でく
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さってしまいます。日当りの良い土地、風通しの良い土地そしてまたうるおいのある土地でしょう、かさかさしていたら駄目でしょう。
さて、私たちの心の畑は日当りがよくなっていますか、神様の方からの明るいあたたかい日が差し込んでいるでしょうか。日当りの良い畑になるにはどうしたらよいでしょう。そんなに難しいことではありません。日の光に照らされておればよいのです。どんな時でも神様の愛という光が照り輝いておることを信じて、その光のもとに自分をさらし、いつでも神様に愛されているのだと感謝しつつ生きてゆくとき、私たちの心の畑は良い土になるでしょう。
しかし日当りが良くても、日照りつゞきで乾燥しすぎては、作物はよくできません。このたとえ話の中で、岩の上に落ちた種は(うるおいなきによりて枯る)と言われています。雨が降り、その雨水が土の中に適当に保たれて、畑にうるおいを与えます。私たちの心の畑も雨でうるおいます。淋しい雨、悲しい雨、苦しい雨、嬉しくてたまらない雨、折々にいろいろな雨が降ります。今日も雨降り、うっとおしいお天気で………などと愚痴を言わないで、受けとめてみましょう。やさしい雨だれの音を聞かせてくれたり、庭の草や木のほこりをそっと洗い落してくれたり、七色の虹を見せてくれたりする雨です。それが私の心の畑に降れば、神様のみことばの種が芽を出し生長するのに必要なうるおいを与えてくれます。
あなたの心の畑は風通しはいかがでしょう、風が吹いていますか。風が吹くといろいろなものを吹きはらってくれます。ごみがあればごみを吹きのけてくれます。或はまたよくないガスがたまっておればそれを吹きのけ換気してくれます。風はいいものです、そういう風が私たちの心の畑に吹いているでしょうか。
聖書の中には聖霊を風にたとえておりますが、私たちの心の中にはくしゃくしゃ、もやもや、イライラなんてガスが発生することが多いのですが、聖霊という風が吹き通るようにしてあるでしょうか。私たちの心の畑は風通しをよくしてあるでしょうか。そういうときに風がは入らぬように戸をしめて、カーテンを張り、目張りして、だれが何と言っても開こうとしない人もありますが、そんなにしていたら、風が通らず、くさって自滅してしまいます。まず風通しをよくすることですよね。いつでも聖霊の風が吹き通るようにすることです。
私たちの心の畑の良い土地というのは、神様の方に向
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いていて日当りがよく、上からくる恵の露を受けてよくうるおい、かさかさしていないで、聖霊なる風がよく吹きとおるようになっている土地だと言ってよいでしょう。
しかし、お天気しだい、雨風まかせだけでは、良い土地にはなりません。人が働かねばなりません。よく耕作せねばなりません。石があれば石を、いばらがみつかったらいばらを堀り出し取り除き、適当な肥料を入れねばなりません。そのためにいろいろな農具を使うでしょう。シャベルで堀りますか、鍬(くわ)で堀りますか。いろいろ堀りかたがあるでしょう。心の畑を堀る時の道具は何でしょう。そのとき使う一番よい鍬は懺侮と悔改めという鍬だと思います。懺悔と悔改めというこの鍬を使って堀れば、石ころや雑物があれば、すぐそれにカチッとあたります。そこでそれが取りのけられて良い土地に変えられてゆくでしょう。そしてまた、聖書を読み祈りをすることによって、心の畑に肥料を加えます。
大斎節の間に、このような土地の手入れをよくしておきたいと思います。しかしその手入れは一日や二日ではできませんよね、短気にやっては駄目でしょう。この種まきのたとえ話の一番終りに、こう書いてあります。
良き地なるは、みことばを聞き、正しくよき心にてこれを守り、忍びて実を結ぶところの人なり。
(ルカ伝8・15)
(忍びて実を結ぶ)これは大切なことでしょうね。忍耐するのです。一度鍬を入れたとか、二度耕やしたとか、それくらいですぐに畑が立派になるわけではありません。
(忍びて)、よく忍耐して辛抱強くやりなさいということです。
どうかいま大斎節を迎えます前に主イエス様のたとえ話をもう一度味わい直して、私どもの心の畑は今どうなっているでしょうか、この畑はどうしたらよい土地になり、今年は百倍の実を結べるでしょうかと、よく考えながら祈りながら手入れをして行きたいと思うのでございます。
1980年2月10日
大斎前第二主日
鹿児島復活教会にて