28.福音にふさわしく
P183
新約聖書の中に、「ピリピ人への書」という手紙があります。これはただ四章だけの短いものですが新約聖書の中にあって珠玉のように輝いておる手紙であります。
パウロは町々村々に福音を宣べ伝えて歩き、そのために捕えられ、牢屋に入れられ、殺されたのですが、その死の時が近づいた頃に、ピリピの町の教会の人々に書き送ったのが、この「ピリピ人への書」であります。
その中でパウロは、自分のうれしい心境を述べ、ピリピ人たちに、喜び喜べと幾度もくりかえしすすめています。これは死を迎えようとしている人が獄中で書いたとは思えないほどに、明るく喜びの調子の高い手紙であります。それゆえに、同じ新約聖書の中のガラテヤ書が「パウロの怒りの手紙」と言われているのに対してピリピ書は「パウロの喜びの手紙」と言われています。
パウロは、この手紙のなかで、ピリピの人たちにすすめて、次のように言っています。
「なんじら、ただキリストの福音にふさわしく、日を過ごせ」 (ピリピ書1・27)
世間では一般に、キリスト教を信仰するとか、キリス卜教信者が何かをしたとかいうように、「キリスト教」とか「キリスト教信者」ということばが使われています。しかし、こんな言葉は聖書の中にはありません。
キリストさまは、キリスト教を信ぜよ、とは仰せにならず、「福音を信ぜよ」と仰せになりました(マルコ伝1・15)。パウロは、自分はキリスト教の教師だとは言わず、「神の福音のために選び別(わかれ)たれた」者であるから、その福音を恥とせず宣べ伝えているのだと言いました。彼は福音を信じ、福音に生き、そのために生命がけで伝道しました。
彼はその福音をピリピの人々に示して、遺言のような響きのする、おごそかなすすめの言葉を書き送りました。
「なんじら、ただキリストの福音にふさわしく、日を過ごせ」
キリストの福音にふさわしく生きる、それがキリストさまを信ずる人の生き方だというのです。福音とは、その字のとおり、祝福の満ちたよい音信(おとずれ)、うれしい知らせです。神さまが、主イエスさまによって与えて下さるその幸いなうれしい知らせを受けた者として、それにふさわしい生活をしなさいとパウロはすすめています。
「福音にふさわしく」、とはどういうことでしょう。
P184
それは言うまでもなく、喜ぶことでしょう。福音を聞かされて、うっとうしく悲しくなるばずばないでしょう。しかし、わたしたらはどうでしょうか、福音を聞いた者らしく喜びにあふれ、晴ればれと朗らかに毎日を過ごしているでしょうか、自分の思いも、言葉も、行いも、ほんとうに福音と調和しているでしょうか、もっともっとあふれるばかりに喜ぶべきでばないでしょうか。
では、どんなにしたら喜ぶことができるでしょうか。パウロは次のように書いています。
汝ら常に主にありて喜べ、
我また言う、なんじら喜べ。
すべての人に汝らの寛容を知らしめよ。
主は近し。
何事をも思いわずろうな、
ただ事ごとに祈りをなし、願いをなし、
感謝して汝らの求めを神に告げよ。
さらば、
すべて人の思いに過ぐる神の平安が、
汝らの心と思いとを、キリストイエスによりて守らん。
(ピリピ書4・4~7)
このように、パウロはピリピの人たちに、ただ、皆さん、喜びなさい、というのではありません。「常に喜べ」と言うのです。うれしい時だけ喜ぶのではありません。苦しい時も、悲しい時も、いつでも喜べというのです。
また、それは自分だけのたのしい喜びにならないように、すべての人におおらかな温い心を向けて、「汝らの寛容を知らしめ」てともに喜び合うようにつとめなさい、とすすめています。
それはすばらしいこと望ましいことです。しかし、わたしにはなかなかむつかしいことです。それはできませんと言わねばならないようなわたしです。
そんなわたしのために、パウロはさらに続けてこう言っています、「主は近し」。主キリストさまがあなたに近寄って来られます。主があなたと共にいて下さいます。
その主を仰ぎつつ、何事をも思いわずらわず、ただ事ごとに祈り、願い、感謝しながら神さまに御相談申し上げなさい。そうすれば、人の思い及ばないような、豊かな神さまの平安が与えられます。
パウロはこう言ってピリピの人たちをはげましています。彼はこのすすめの中で大切なことを言っています。
P185
それは「主は近し」ということです。十字架にかかって死に、よみがえって昇天された主イエスキリストさまは、またわたしたちのところへお出になる、といういわゆる再臨の信仰は、主イエスさまが弟子たちになさったお約束であり、キリストさまを信ずる人たちは、それを信じて、主を待ち望んで生きるべきでした。
しかし主キリストさまが再びおいでになるということは、十分に理解されず、誤解されたり曲解されたり、あるいはまた、そんなことはキリスト教信仰の重要点ではないと軽視されたり、否定されることすらありました。キリストさまの再臨ということについてのこのような誤解は既に早くもパウロの伝道活動の初期にも起っており、それについて説明し指導を与えるために、パウロばテサロニケの教会宛に手紙を書きました。それが新約聖書の中に残っている「テサロニケ人への書」であります。
再びお出で下さるキリストさまを、お待ちしお迎えする信仰態度をしっかりしておくようにと、ピリピの人たちに注意を呼び起しながらパウロは、
「主は近し、何事をも思いわずろうな」
と書きました。
主が再びお出でになることば、今から何十年またば何百年も先の未来物語ではありません。パウロは、「主は近し」と言っています。主は日ごとにわたしたちに近づいて下さいます。わたしたちは、その主を日ごとに待ち受け、お迎えし、主と共に生きるのです、今日も、次の日も、主をお迎えし、主と共に生きる、そうすれば、わたしたちば何事も思いわずろうことばなく、すべてのこ
とを喜ぶことができるでしょう。
そこでパウロはピリピの人たちに、日ごとに近づき、共にいて下さるその主にありて喜べ、と言っているのですが、「主にありて」とはどういうことでしょう。それはただ主キリストさまといっしょにいて喜べというのでばありません。
「主にありて」とは「主の中にあって」ということです。キリストさまをお迎えして、応接台を中にして向かいあってすわり、いっしょに喜ぶ、というようなそんな喜びかたでばありません。わたしたちがキリストさまを迎え、キリストさまの教えや力をわがうちに取り入れ、利用して、わが生命を安全にし、豊かにして喜びを味わうというのではなく、キリストさまの中にわたしたちを受け入れていただき、キリストさまの生命を生き、キリストさまのお喜びを喜ばせていただく、それが「主にありて」喜ぶということであります。
P186
更にパウロは次のようにすすめています。
「ただ事ごとに祈りをなし、願いをなし、感謝して汝ちの求めを神に告げよ」
「事ごとに」何でもお祈りしなさいということです。わたしたちの日常生活のどの部分にも、お祈りがかかっているようにしなさい、ということでしょう。働くことはもちろん、食べることも、寝ることも、赤ん坊にお乳を飲ませることも、料理や洗濯の仕事でも、「行っていらっしゃい」と家族の人たちを学校や職場へ送り出すことも、みんなお祈りがかかっている。一日のくらしのどの部分も祈りの中にある、祈りとともに、わたしたちの朝が始まり、祈りとともに、一日が終る。祈りなくしてわたしたちの一日は無い。この生き方が「事ごとに」祈りをなし、願いをなすということでしょう。
つぎにパウロは、「感謝して汝らの求めを神に告げよ」とすすめています。
ただ祈り願うのではなく、感謝しながちお祈りしなさい、というのですが、さて、何を感謝しましょうか、どのように感謝しましょうか。
心配していた病気がなおったとか、危うく交通事故になりそうだったが命拾いしたとか、むつかしい仕事がとんとん拍子にはかどったとかであれば、神さまのおめぐみで、と切実に感謝の気持が起りますが、特に何事もない平々凡々の毎日の生活の中で、感謝の種をさがし出すのは容易でない。と考える人も少くないでしょう。そんな人たちは、毎日の生活を、あたりまえのことと思って
いるかも知れません。
しかし、天地の造主全能の父である神さまを信じてごらんなさい、ものの見方、考え方、そして生きかた、また死にかたがすっかり変ります。そうすればその人にとっては、一日だってあたりまえの日というような平々凡ぼんの日は無くなります。
聖書の中に、次のようなことぱがあります。
「見よ、今は恵のとき、見よ、今は救の日なり」
(コリント後書6・2)
信仰に生きる人にとっては、「今」という時は、いつでも豊かな恵の時、たしかな救の日であります。このような「今」を生きておれば、きっと、どんなときにもなんとか感謝ができるのではないでしょうか。わたしたちの毎日が、「見よ、今は恵の時、見よ、今は救の日なり」と言えるような信仰の毎日になることが、まず大切なことだと思います。
P187
何を感謝したちよいか、気がつかないとか、分らないということよりも、もっとむつかしく苦しいことがあります。わたしたちは何か困ったときや苦しいとき、いくらお祈りしてもどうにもならない、神さまどうしてこんな目にあわせて下さいますかと、不平を言い、つぶやきたくなることもあるでしょう。泣きごとを言い、神さまを非難して、神さま、あなたはなんてひどい方でしょう、
もうお祈りなんかするものか、やめたというようなことさえあるでしょう。
そんなときでも、感謝せねばならないでしょうか、「神さまありがとうございます」なんて言えるでしょうか。これはむつかしい問いです。このきびしい問いに対する答はどんなでしょうか、誰がどのように答えてくれるでしょうか。
感謝するどころでない、祈りもしたくない、神さまなんてもう考えたくない、という信仰のギリギリの線まで押しやられ、絶望的になっている人に、たしかな答えを与えてくれるのは聖書のみことばだけだと思います。
「すべてのこと感謝せよ。これキリストイエスによりて神の汝らに求めたもう所なり」
(テサロニケ前書5・18)
きびしい問いに対して、これはまたきびしいみことばです。すべてのことを感謝せよ。--------なんでもかんでも感謝しなさい、ありがとうと言いなさいということです。うれしくもたのしくもない、ありがたいことなどあるはずがない、と言いたいのですが、それでもなお「ありがとう」を言いなさい。それはキリストさまによって、神さまがあなたに要求なさっていることだ、というのです。わたしの方の都合が好いから「ありがとう」ではありません、神さまのお求めです、神さまが、わたしの口から「ありがとう」の一言が出るのを待っておられます。神さまが、その「ありがとう」をお聞きになりたいのです。
しかし、そんなことができるでしょうか。最後の一線にまで引きさがったような状態になっているとき、どうしたら神さまに「ありがとう」を言えるでしょうか。
神さまに向って不平とつぶやきと、泣き言と不信仰のことばのありったけをぶっつける、祈りとも言えないようなそんな自分の祈りのことぱの切れ間に、ちょっと静まって考えてみましょう。
P188
ありがたいではありませんか。こんな狂ったような乱暴な背信的なことばを。神さまはよくも黙って聞いていて下さいます。神さまでなくて、誰にわたしはこんな話ができるでしょう、神さまでなくて、誰がわたしのこんな話を、全き愛と忍耐をもって聞き、受けとめてくれるでしょう。あゝ神さま、ありがとうございます、と言わずにはおれません。
しかし、そこまでたどりついて、ありがとうを言う、それはわたしたら自身の反省とか思索だけでできることではありません。それは神さまとわたしたちの間に立って、取りなし、助け、導きだもうキリストさまのお働きによるのです。「キリストイエスによりて神の汝らに求めたもう所なり」とはそのことです。とにかく、神さまに「ありがとうございます」と申し上げる感謝の一言に
よってどんな行きずまりの道も開けて行きます。
このように、感謝をもって祈りなさい、そうすれば、人の思いのとうてい及ばない神さまの平安が与えられるであろうと、パウロは言っています。そして、その平安について、次のように書いています。
また飽くことにも、飢うることにも、
富むことにも、乏しきことにも、
一切の秘訣(ひけつ)を得たり。
我を強くしたもう者によりて、
すべての事をなし得るなり。
(ピリピ書4・11~13)
生活の条件や環境に支配されず、富や貧しさに振りまわされず、如何なる時、如何なる状態にあっても恐れず、信仰によって、一切の秘訣を与えられ、決して行きずまことのない福音の道を、我を強くしたもう主キリストさまにありて、常に喜びつつ歩いている自分自身の心境を、パウロは、このように語っています。
パウロは、ピリピの教会の人たちが、「ただキリストの福音にふさわしく」日を過ごすことによって、人の思いにまさる「神の平安」のうちに守られて生活するようにと、祈りをこめてこの手紙を書き送ったのでした。
皆さん、どうぞこの「ピリピ人への書」を、自分に宛てられた手紙だと思ってじっくりお読みになって下さい。
1984年9月2日 三位一体後第十一主日
大口聖公会にて