19.弓 の 歌
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郡山先生のご逝去のお知らせをいただきましたとき、何よりまずハッと心に浮かんだのは、サムエル後書の一章にある「弓の歌」の終りの句でした。
ああ勇士(ますらお)は
たおれたるかな。
たたかいの具(うつわ)は
失せたるかな。
(サムエル後書1・27)
それは日曜日の礼拝の日課に定められてある部分ですが、くすしくも先生は三年か四年つづけてその同じ日課をお読みになりました。
サウロ王はダビデを憎んで殺そうとしたのですが、ダビデはサウロを王として敬い彼を大事にし、傷つけないようにと一生けんめい心を砕き彼に忠誠をつくしました。サウロ王の子ヨナタンはダビデとは親友でした。このサウロ王とヨナタン父子が戦死したことを聞いたとき、ダビデはその死を悲しんで、サウロとヨナタンのために歌
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を作りました。それが弓の歌と呼ばれています。
旧約聖書のその箇所を主日礼拝のときに郡山先生が朗読なさいました。腹の底までビンビン響いてくるような力強いきれいなお声で読み聞かせて下さいました。まことに気合のこもった朗読でした。その時の先生のお姿とお声が先生の訃報を聞くと同時に私の心にひらめくように思い浮べられました。殊(こと)にその最後の部分を、
ああ、勇士は倒れたるかな。
たたかいの具(うつわ)は失せたるかな。
読み終りぬ。
と仰言ったお声がはっきりと聞こえるようでした。
郡山先生がおなくなりになりましたので、いま私はダビデにかわり、先生にかわって、弓の歌を皆さんの前で読まねばならない思いがいたします。
ああ、勇士は倒れたるかな。
たたかいの具(うつわ)は失せたるかな。
先生は信仰の勇士、信仰の戦いの具でした。長い生涯先生は戦ってこられました。神様の栄光のために戦い続けられました。九十二年の戦い終って、召された先生を思えば、
ああ戦いの具(うつわ)は失せたるかな、
と言わずにはおれません。感慨無量でございます。
見える形においては、勇士を失い戦いの具(うつわ)が失せてゆきました。しかし、このあとこれは大変だ、私たちがそのあとを継いで勇士にならねば、戦いの具(うつわ)にならねばならないと、強く求められる思いがするのであります。
ああ、勇士は倒れたるかな。
たたかいの具(うつわ)は失せたるかな。
先日葬送式でも申し上げましたが、
父み子、みたまのおおみかみに、
ときわにかきわに(※)み栄えあれ。
※かきわにとは 「物事が永久不変にあること」
先生はこの一点に生涯をしぼって見つめながら走った方でした。今日は先生をよく存じ上げているごくうちわの方だけのお集りですから、遠慮なしに申し上げましょう。こんなことを申し上げたら、それこそ先生はおり場がないように頭を低くし体を縮めるようにして、手を横にお振りになるだろうと思いますが、
この前の戦争で地蔵ん角の教会は焼け失せてしまい、どうなるかと思いましたが、ここにこうして新しい教会
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がまた建ちました。教会のこの場所は、西田町五二番となっていまずが実際は鷹師町なのでず。市役所の図面も鷹師町の番地が書いてあり、うしろの牧師館だけが西田町です。西田町の中に鷹師町がある。これは都市計画のためにこうなったのです。この鷹師町というのはもとは郡山先生の所有地でしたが、ここに戦後教会を再建しようとしたとき敷地がなかったので、郡山先生がご自分の鷹師町の土地をお献げになってここに移されたのです。
それで市役所の土地の図面上は今だに鷹師町となっているわけです。
つぎにこの教会の礼拝堂でずが、よそからお見えになった方がよく、今頃こういう教会はめずらしい、と言われまずが、これは正先生がご自分で祈りと思いをこめて設計をなさった教会です。教会のあちこち正先生の祈りと思いがこめられていまず。皆さんは教会堂の裏はあまり見られないでしょうが、うしろにまわりますと裏の外壁に子供の顔がはいっておりまず。セメントで子供の顔が作ってあるのでず。あれは正先生のお嬢さん晶子ちゃんの顔にそっくりです。正先生はこの教会がいつまでもいつまでも、この地域の子供たちの救いとみちびきのため、またその幸福のために奉仕するようにとの祈りをこめて、ご自分でセメントをねっておつくりになったものでございます。ご自分でお献げになった土地に、ご自分のご子息の設計にもとずいて建てられた教会で神様にお仕えになり、ここでお葬式をして天のみ国へお帰りになり、主の平安のうちに安らう先生は、本当に幸いな方だと思います。
信仰をもって生きた方々が、神様のみもとで憩うとか安らう(やすろう)というのはどういうことでしょうか。
憩うとは休んで何もしないでおることでしょうか、私はそうは思いません。先生はそんな憩い方、休みかたはしていらっしゃらないと思います。この世の思いわずらいから解放され、この世的なさまざまなブレーキをかけられることなく、この世で暮らしていたときよりももっとよく神様を賛美し奉仕できる状態にある。それが安らう(やすろう)という意味ではないでしょうか。先生はこの世にいらした時、あのように賛美の歌を歌われたのですが、今ではこの世にいらっしゃったときの肉体のブレーキから解き放たれたので、もう声を出してもお経にならない声で、賛えの歌、愛の歌をあの人を見つめ、この人を見つめながら歌っていらっしゃるでしょう。
私たちは信仰の目をもって見つめながら、信仰の耳を
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傾けながら、老先生の歌に和して、
父みこ、みたまのおおみかみに、
ときわにかきわにみ栄えあれ。
との祈りの歌を歌い上げながら進みたいと思います。
九十二のお年になるまで、肉体の声の最後まで歌いつづけられたその歌、肉の重荷を解き放たれて、天のみ国で歌いつづけておられるであろうその歌を、私たちみんなで受け継いで歌いましょう。先生の歌をたやさないように、私たちの口で、手で、足で歌い続けてゆきたいと思うのでございまず。
1973年 12月14日
郡山 淳先生記念式
「さしのべられた手」、「み栄えとわに」、「弓の歌」、この三つは「歌い上げし人」と題した小冊子にして、
1982年12月 郡山 淳先生 御逝去10周年を記念して捧げられたものである。
郡山老師をしのびて
たたへ歌口ずさみつつ杖ひきて
河頭(こがしら)の山を師は越えましぬ
師の君の行き交ひましし山の道
バスには乗らずひとり越えゆく