10.ヤコブの涙
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皆様おめでとうございます。また新しい年を神様から加えていただきました。「史上最高」という言葉がいろんなことに使われていますが、どうか今年が史上最高の年になりますように、これからの一九八一年という年を、神様を仰ぎながらすごして行きたいと思います。さて、ただいまご一緒にいたしましたお祈りは顕現後第四主日の特禱でございました。
「神よ。我らが多くの危難に囲まれ、弱くして立つことあたわざることを知りたもう。願わくは、み力を与えて我らを守り、すべての危難に耐え、すべての試みに打ち勝つことを得させたまえ」
まことに年の始めにふさわしいか祈りのようです。どうか、み力を与えて私たちを守り、すべての危難に耐え、すべての試みに打ち勝つ一年にしていただきたいと思うのでございます。
さてこのお祈りの始めに、
「神よ。我らが多くの危難に囲まれ、弱くして立つことあたわざることを知りたもう」
とあります。これは大切なことだと思います。神様は私たちが弱くて立つことの出来ないことをちゃんと知っていらっしゃいます。一番弱い人間というのは自分の弱さを知らない人ではないでしょうか、逆に言えば、一番強い人とは自分の弱さを本当に知っている人でしょう。人は自分の弱さを知らなければ強くなれません。今日のこのお祈りはそうゆうことをわたしたちに考えさせてくれます。
神様あなたは「我らが多くの危難に囲まれ、弱くして立つことあたわざることを」よくごぞんじです、と申し上げるのです。まず自分の弱さを告白するのです。これは本当の強さの始まりでしょう。私の弱さを神様が知っていて下さる、というそこに慰めもあり、望みもあり、そこから新しい力も湧き上ってきます。神様の前に弱さを知られた自分自身をしっかりとみつめて、生活の第一歩をふみだす、そのとき私たちの人間が変わってきます。
「ええその通りですよ。確かにそうですよ」
と声をそろえて言うかのように、聖書の中には沢山の人たちが顔を出しております。そして多くの人たちがみんな、神様によって自分の弱さを知らされたとき、どのように強くなつたか、神様の前に弱虫だと知られている自
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分に気がついたとき、どんなに心の安定したつわものになったかを私たちに示しておりますが、その中で皆様よくご存知のあの創世記に出てきますヤコブという人の話、あれはまた神様の前に自らの弱さを知らされた人間がどのようになるかということを、はっきりと示している興味深い物語であります。それは遠い昔のヤコブのことではなくて、現代の私たちに自分自身をふりかえって考えさせるような迫力をもって書かれてあります。創世記の二十五章以下にずっと書かれてあるこのヤコブの物語をどうぞ皆さん、もういちどご自分の聖書を開いて読んでみて下さい。
先づ最初に二十五章ではヤコブとエサウという双子の誕生の物語が出ております。ところがその双子が生れるとき、先に生れたのは体が赤い色をした子であった、それでこれにエサウという名前を付けました。エサウとは「赤い」という意味であります。先に生れ出てきたこの兄エサウを引きずりおとそうとするかのように、弟はしっかりと兄のかかとを握りしめて生れ出てきました。これはなんということだ。生れるときから兄弟が争う姿勢になっているとは……と驚いた親たちは、兄の足を持ってひきずり落とし、押しのけていこうとする格好で生まれたこの子には、ヤコブという名をつけました。ヤコブとは「押しのける者」という意味だということであります。兄をも押しのけて行く、そういう名前をつけられて生きて行くことになりました。やがて大きくなるにつれてこの二人の男の子たちはそれぞれ違った性格をはっきりと現わしてきました。兄のエサウは野の人として狩りが得意で荒っぼい人、弟のヤコブは家におってこまごまと小さいことによく気がつく、まあいわば小賢しいおりこうさんになったのであります。その二人が大きくなってゆくある日のこと、兄が狩りからお腹をすかして帰ってきます。そして弟はお母さんのところで台所のことをやっておる。お腹をすかした兄エサウが。
「何か食べさせろ。おお、いいにおいがするじゃないか。それを食べさせろ」
と言います。するとヤコブは言います。
「そんなに お腹がすいているなら食べさせよう。しかし、ただでは食べさせないよ。兄さんが相続権を私にゆずるという約束をしてくれるなら食べさせよう」
そうするとエサウは、
「相続権だなんてそんなもの、今のおれに何になる。背に腹はかえられない、それはお前にくれてやるよ」
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と安受けあいをします。ヤコブはその言質を取って、それなら食べさせるといって一杯のあつものをご馳走するのであります。そういうことが創世記の二十五章に書いてあります。
それからしばらくたったあとのことでしょう、はなしは二十七章に移ります。そこを見ますとヤコブとか母さんのリベカが共謀して、もう年取って目が見えなくなっているお父さんのイサタをうまくだまして、長男エサウの受けるべき父親からの祝福すなはち相続権を奪い取ろうとします。ヤコブにエサウの着物を着せ変装させて、首のまわりや両手首を毛むくじやらのエサウのようにするために山羊の皮を巻きつけて、父親イサタの所に行かせます。ヤコブはエサウのような声を出してお父さんをうまくだまします。お父さんはちょっと変だなと思います。目が見えないから分からないが、どうも声が違うようだ「手を出せ」と言って、ヤミフの手をさすってみたところがそこには山羊の皮が巻いてあるのですから、がさがさしています。ははあ、これはやっぱりエサウの手だ。とまどったお父さんはひとりごとを言います。
「声はヤコブの声だけれど、手はエサウの手だ」
何だか変だなと思いながらも、お父さんのイサタはエサウに与えるはずの祝福をヤコブに与えてしまうのであります。こうやってヤコブはお母さんとぐるになって、まんまとか父さんをだまし、エサウが受けるべき祝福を奪ってしまいます。ヤコブが出て行くとひと足ちがいにエサウが入ってきて、そのことがばれてエサウがかんかんに怒ります。そしてエサウはこう言っております。
「あいつをヤコブとはうまく言ったものだ。まったくその通りだ、あれは二度もこのおれを出し抜いた。押しのける者という名前はあいつにふさわしい」
エサウは、なんとかしてあのひどい奴を殺してやる、生かしてはおかぬぞとかんかんになって、いつ殺してやろうかと折りをうかがう険悪な兄弟仲になります。それを心配してお母さんが、お父さんのイサタと相談して自分のお里の方に逃がしてやることにします。そこにお母さんの兄さんすなはちヤコブの伯父さんであるラパンという人がおります。そのラパン伯父さんの所へ行って身の危険を避けたほうがよいということになりました。それでヤコブは一人で伯父さんの家に行かねばならなくなります。
その途中で野宿をして夢を見たことが創世記二十八章に書かれてあります。ヤコブはさすがに一入ぼっちにな
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って寂しかったでしょう。やりきれない思いがしたでしょうし不安だったでしょう。今さらながら家庭というものの温かさを思ったでしょう。そんないろいろな思いで野宿をして、そこにあった石をまくらにして寝ます。その時に夢を見ます。天までとどくはしご、そのはしごの上を、天の使いたちが上ったり下ったりしておる夢を見たというのです。これは面白いですね。天の使いだから下ってきそうなものですが、「下ったり上ったり」ではなくて「上ったり下ったり」してると書いてあります。これは上って下るというその動きが大切なのではないかと私は思います。天の使いが上るというのは、まずヤコブの不安な気持や孤独と恐れの思いを持っては上ってゆき、それに対する天からの慰めと励ましとを持って下ってくる、ですから天の使いが「上ったり下ったり」したというのでしょうと思います。
ヤコブが見た夢について聖書には次のように書いてあります。
彼は夢を見た。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
そして主は彼のそばに立って言われた。
「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサタの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えようあなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福を受けるであろう。
わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語ったことを行うであろう」。
ヤコブは眠りからさめて言った。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
そして彼は恐れて言った、
「これは何という恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。
(創世記28・12~17)
孤独と不安を感じながら石をまくらにして眠ったヤコブは夢の中で神様のお言葉を聞いてハッとして目が覚めま
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した、もう不安も恐れもありません、祖父アブラハム、父イサタを常に守りささえ導きたもうた主なる神様が今自分と共にいてくださる。わたしがどこへ行こうとも共にいまして守り導いてくださる。決してわたしを捨てないと仰せられる。わたしは今までそれに気づかないでいた、何と恐れ多いことだ、おお、この荒涼たる山地、ここは神様の家だ、ここは天の門だ、と言ってヤコブはまくらにしていた石を立ててそれに油を注ぎかけお祈りをして、伯父ラバンの所へと旅を続けます。
神様がいつでもどこにでもわたしと共にいます、どんなときでも決してわたしをお見捨てにならない、この確信に立っておれぱ、今ここが神様の家、今ここが天の門です。夢によってこのことを示され立ち上がった今朝のヤコブは、もう昨日までのヤコブではありませんでした。夢の中で与えられたこの一握りの信仰が、これから多難な道を歩むヤコブの生涯の原動力となりました。
いよいよラバンの住んでいる所へ近ずいてきますと、あちこちで羊飼いたちが羊の世話をしております。だれひとり知っている人もなく、孤独な旅人として井戸のそばで休んでいる、そのとき羊に水を飲ませにきたラバンの娘ラケルと出会うのであります。どこのだれかと聞いてみるとこれは伯父さんの家の子供自分のいとこだとわかったので、ほっとしてラバンの家へ連れて行かれます。ラバンはああよく来たと迎えてくれました。しかしラバンは、お前は遊んでいるわけにはいかんのだ羊の世話をしろと言いつけます。ヤコブはそこで羊の世話をする仕事に従事します。そして一ヶ月程無給で働かされます。その間にヤコブはラバンの娘ラケルが好きになるのです。伯父さんのラバンはそこを見逃しません。これはちょうどいいことだ、これをうまく利用してうんと働かせよう、うんとしぼり上げてやろうと考えて労働報酬のことをヤコブと決めようとします。そのことが聖書に次のように書かれてあります。ラバンはヤコブに言った、
「あなたはわたしの甥だからといって、ただでわたしのために働くこともないでしょう。どんな報酬を望みますか、わたしに言ってください」。
さて、ラバンには二人の娘があった。姉の名はレアと言い、妹の名はラケルといった。レアは目が弱かったが、ラケルは美しく愛らしかった。ヤコブはラケルを愛したので
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「わたしは、あなたの妹娘ラケルのために七年あなたに仕えましょう」
と言った。ラバンは言った、
「彼女を他人にやるよりも、あなたにやる方がよい。わたしと一緒にいなさい」。
こうしてヤコブは七年の間ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただ数日のように思われた。
(創世記29・15~20)
こうして結納がわりにヤコブは七年間ただ働きをすることになったわけです。ヤコブはラバンと取り決めた約束を信じて一生懸命働きます。その長い七年間のヤコブについて聖書は次のように記してあります。
「こうしてヤコブは七年の間ラケルのために働いたが。
彼女を愛したのでただ数日のように思われた」
実に素晴らしいではありませんか。若者ヤコブが愛するラケルのためにと約束して七年働く。骨の折れる労働の長い七年。しかしその七年は、ほんの五・六日のような気がしたとはまことほほえましい、温かい含みのある書きかたではありませんか、いそいそと働く若者ヤコブの姿が目に見えるようです。
こうして七年たちました。それで約束どうり結婚ということになりました。ラバンは近所の人たちを呼んで盛大な結婚式をしました。ところが翌日の朝になってみたら、お嫁さんが違っているのです。姉さんのレアだったというのです。姉娘のレアについては、「レアは目が弱かった』と書いてありますが、これは美人でなかった、器量がよくなかったという意味です。それでレアは結婚相手がない。そこで父親ラバンは、レアをヤコブに押しつけたわけです。
ヤコブは驚きそして怒ります。こんなひどいことをする。自分はラケルをもらうために七年間働いたのだ、それだのに誰ももらってくれないレアをこんな仕方で押しつけるとは、ひどいとかんかんにに怒る。ところがラバンは平気なもので、
「これはあたりまえだよ、この土地では姉より先に妹を嫁にはやらないという習慣だから、それでいいのだよ」。
と言うのです。そんな無茶なことを、といくらヤコブが言っててもどうにもならない。ラバンはこう言いました。
「ラケルをやらぬと言うのではない。ラケルは約束どおりお前にやる、しかしそれには先づレアを妻にしなければならない。結婚のお祝いというのは一週間続けるこ
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とになっている。その一週間のお祝いはレアのためにしてもらわねばならない。それがすんだらラケルをやろう。しかしラケルが欲しいならば、ラケルのためにもう七年働かなければいけない。これまでの七年はレアの分だからなあ。」
とこうやられたわけです。ヤコブは伯父のラバンにひどい目にあわされて残念だったでしょう。しかしラケルを愛しているからどうしても拒むことはできない。また七年間働くことになりました。ヤコブは働きながら思ったでしょう。自分はこんなひどいことを人からされたのは始めてだ。いつでも自分が先手を打ってやってきた。兄エサウとの争いがそうだった。エサウをあんなふうにうまくだましてやってきた。しかしだますことはしたけれど、自分がだまされ、負かされることは始めてだ。人からだまされ裏切られることがどのようにつらいものであるか。
エサウが自分を生かしておかぬ、殺してやるとかんかんに怒ったのも無理はないなと、ヤコブもエサウの気持がだんだんわかるようになったでしょう。
さてヤコブと結婚したその二人の妻、レアとラケルはなんとかして自分の方がヤコブから愛されるようにと互いに争います。これはまた聖書の中で一番みにくい女の争いの場面だろうとおもいます。創世記の二十九章から三十章にわたってその事が書かれてあります。姉のレアに子供が生れたときレアはこれで自分の方がヤコブに気に入るようになるだろうと言う。すると一方妹のラケルは負けておらない。子供を生まねばと一生懸命工夫して、はげしくみにくい妻たちの争いがくり返えされます。何でもうまく処理できる賢さと自信を持っていたつもりのヤコブも、家庭内のこのごたごたには困り切ったことでしょう。
しかしそのうちにここでこうしていてもどうにもならない。なんとかしてラバンを離れて自立しようと思います。しかし何度頼んでもラバンは言うことを聞いてくれません。そこでヤコブはラバンと交渉をします。ヤコブはこう言いました。
「おじさん、白い毛の奇麗な羊が生まれたらおじさんが取りなさい。きたないぶちの毛や黒い毛の羊が生まれたらそれは給料がわりに私に下さい」
ラバンはそれを承知しました。それからのちヤコブは羊が水を飲むときには注意深く見ていて、ちゃんと仕分けをするのです。強くて丈夫な羊にはこの水を飲ませてぶちが生まれるようにする。病気などで弱々しい羊には、
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あちらの水を飲ませて白い羊が生まれるようにする。そうしたら、白い羊は、皆弱いひなひなしたものばかりとなり、黒い毛やまだらの毛のものは皆たくましい羊になりました。それで大変なもうけになったわけです。こんなことをして、お嫁さんのことで自分をあんなひどい目に合わせた伯父さんラパンに仕返しをしています。負けるものか、負けはせぬぞ、と歯を食いしばって、ヤコブというその名前のとおりに伯父のラパンであろうが誰であろうが押しのけ、争い勝って行こうとするヤコブでした。
その後ヤコブば故郷に帰りたいと思いラパンに申し出ます、しかしいくら頼んでも駄目なので、ヤコブはある時妻や子や雇人たちや羊などを引きつれ、財産をまとめてラパンのもとを逃げ出します。これが三十一章の物語です。逃げたヤコブをラパンは追いかけてきて山の上で激しい談判をします。ヤコブはこの危機をうまく乗り切ってラパンと和解をしていよいよ自分の故郷へは入ろうとします。
川ひとつ渡ればもう自分の故郷になります。自分の故郷といってもそこには兄のエサウが勢力を張って待ちかまえています。あとから追っかけてくるラパンをやっとしりぞけたと思ったら、行く手にはあの恐しい。エサウが待ちかまえている。殺してやるぞと言っていたあのエサウです。しかしもう後にはひかれない。この川どうしても渡らねばならない。ヤコブはエサウと対面するときの万全の策略を考え陣容をととのえてから、皆のものに川を渡らせます。持ってきた財産も、けものも羊も渡らせます。多くの雇人たちや妻や子供たちを渡らせます。ところがその渡らせかた、いかにもヤコブらしいずる賢い渡らせかたをします。妻や子供たちを渡らせるときには、一番先にはレアとその子供たち、すなわち自分の気に入らない奥さんと子供たちを渡らせる。そして安全をたしかめて一番後から、一番愛しているラケルとその子供たちを渡らせる。こうして全部渡らせました。人も家畜も物も全部渡してしまいました。残っているのはヤコブの自分の体だけです。いよいよ自分が渡る番になりました。ところが渡ることができない。全部渡らせて身軽になったから渡れるはずだのに渡れない。ヤコブば立ちすくんでしまいました。どうでしょうが、私たちもそんなことがあるのではないでしょうか。あの心配、この心配、あのことも処理した、このことも整理した。しかし渡れない、前進できない。そういうことがあるでしょう。その時のことを聖書には、
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「ヤコブはひとりあとに残った」
と書いてあります。ただ一人残った。私たちはいろんなことをするときに、ただひとり川のふちに残ったヤコブのように孤独と不安を味あわねばならない時があるのでありませんか。
今ヤコブば孤独でした、それは実に恐しい孤独でした。何とも言えない不安と恐怖におそわれました。うしろの方のラパンとのことばもう済んだ。しかしこれから会わねばならぬエサウ、これはこわい。それでエサウと対決して負けないように万全の策を立てた。それでもなお不安だ、この川が渡れない。エサウよりももっとこわい何者かがあるようだ。そう思っているときに何者だか分からない人が出てきて立ちはだかりヤコブに挑戦し、ヤボクの渡し場と言われているその川ぶちでひと晩中取っ組み合いをしました(創世記32章)。
これは一体どういうことでしょうか。聖書の研究者たちは、おそらくこれはこの聖書の書かれるよりもずっと前から言い伝えられていた古い民話伝説の中の一部分がヤコブ物語に取り入れられたのであろう、何の話であったのかわからないが、あるいは川にまつわる水神の伝説であったかもしれない、この川の主である水神が怒って渡らせんぞと、通せんぼをする。そんな昔話の影響かもしれないと言っております。
それに似たような話ですが、私は田舎の小さな山村で生まれました。家の裏を大きな川が流れていました。そしてその川にはカッパが住んでおるということでした。カッパがおるから一人で泳ぎに行ってはいけないとか、夜川を渡ってはいけないとか、いつも言われていました。川のそばを通るとカッパが出てきて「すもうをしよう、すもうをしよう」と言う。その時うっかりすもうをしたら川にぶち込まれて死んでしまうということでした。うす暗いランプのもとで裏の川のせせらぎを聞きながらカッパ話を聞くことは幼い私にとって恐ろしくもまた楽しいことでした。そのときこんなことを聞かされました。
カッパが出てきて「すもうをしよう」と言ったら「おお、しよう」と言ってはいけない。まずカッバを馬鹿にすることだ。
「お前のような細腕でおれにかのうものか、そんな細い腕でおれの相手になれるか」
とさんざん馬鹿にするのだ。そうするとカッパが怒って言う。
「馬鹿にするな、おれの腕ば小さくたって力があるの
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だぞ」。
「なに力があるかわかったもんじやない。あるなら見せてもらいたいものだ。お前は自分の体を支えられるか、やってみろ。逆立ちしてみろ、逆立ちして自分の腕で体
を支えることができるか」と言い返してやる。そうするとカッパは。
「できるとも、よく見ていろ」
と言って逆立ちをするというのですね。カッパの頭にはお皿があってそれに水がは入っているから力が強い。逆立ちするとその水がこぼれるから力が無くなる。そうやっておいてすもうをすれば勝つ、カッパはきっと負けるのだ。とこんな話を聞かされておりましたが、私はこの川のそばですもうをしたヤコブの話を読むと、小さな子供のときに聞いたカッパの話を思いおこして愉快になるのですがね。
とに角ヤコブは何者だか全然わからないものとひと晩中すもうをした。ところが相手は強くて強くてどうにもならない。ヤコブも強い。相手も強い。ひと晩中すもうをしても勝負がつかない。そのうちだんだん夜が明けかかる。相手の人は「もう帰らねばならぬから、やめよう、離してくれ」と言う。しかしヤコブはどうしても離そうとはしない。そこでその相手がヤコブのももをたたいて、ももの関節をはずす。ヤコブはそこにへたへたとすわりこむ。すわりこんだけれど、これは離してはならないと一生懸命手でつかまえておる。もう勝負かあったから離して帰せと言うのだがヤコブは離さない。自分を祝福してくれねば帰らせないと言う。祝福とは神様の力を受けるということでしょう。ヤコブはこの相手がただの人間でないことを感ずいたので、祝福しなければ帰さないと頑張る。するとその人が、
「じゃそうしよう。しかしお前の名前は何か」
とたずねる。
「ヤコブです」
と答える。するとその人は、
「その名はいけない。イスラエルという名にかえろ」
と言う。イスラエルという名は、神様につくとか、神様とあらそうとか、神様と一緒に励むとかいうような意味だそうです。ヤコブすなはち「押しのける者」という名をやめて、イスラエルすなはち「神様の御支配のもとにはげみつとめる者」となってこそ、祝福をいただけるのでしょう。やがて夜が明けます。負けて祝福されたヤコブは、ひと晩中渡れなかった川を渡って行きます。川を
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渡るヤコブの足はもものつがいがはずされたために、痛んで歩みははかどらなかった。その足で歩いて今度はエサウに会う。久しぶりに帰ってみれば自分の一番味方であったお母さんは死んでもうおらない。自分をいちばん助けて、自分にこの道を歩かせてくれたその母と、もう二度と会うことができなかった。ヤコブはここでもまた自分が思うままに自分の都合の好いように歩く道が、いかに苦しくつらいむくいをもたらすかということを思い知らされたでしょう。
このヤコブの物語を読んで私は二つのことを思います。一つはあの石をまくらにして寝た時のこと、一つはあのヤボクの渡し場の川岸でのすもう。神様が守って下さる、神様が一緒なんだ、どこへ行っても一緒なんだということをまだはっきりと知らないで旅に出たヤコブは、石をまくらにして寝たあの晩にそのことを示された。そして神様がいつでも一緒にいらっしゃるのだ、神様がどこにでもいらっしゃるのだ、この信仰に立って行かなきや駄目なんだとわかったでしよう。
しかし神様がともにいらっしゃる、神様と共に行くという生きかたがほんとうにできるためには、ヤコブにはまだ何か足りないことがあったようです。ヤコブは自信と勇気を与えられて、いろいろなことをやってみたけれどもなかなかうまくゆかない。そしてその行きずまりがあのヤボクの渡し場でした。ただ一人残ってどうしても渡りきれないそのおそれ。何のおそれ、何の不安だったのでしよう。なぜ孤独になったのでしょう、なぜあそこが渡れなかったのでしょう。そして、どうしてそれが渡れるようになったのでしょう。
あのももの関節のはずされたことを考えねばならないと思います。くじかれたのは、ただももの関節だけではなかった。ヤコブその人が砕かれた。「ヤコブ」という名が消されてイスラエルという名に変えられた、そこではじめて祝福が与えられた。ヤコブは足をくじかれて川を渡りました。ヤコブはその時足の痛みにたえながらしみじみと、無力になった自分の平安と喜びを味わっていたでしょう。その弱さを味あわされたとき始めて勇気が出てきたのでしよう。エサウに会えるようになったのでしょう、足が砕かれない間はエサウに会う勇気も自信もなかった。エサウが攻めてきたらその強い足で逃げてやろうという姿勢だったのでしょう。しかしヤコブはももの関節をはずされて始めて、ああヤコブじゃ駄目だ、押しのけて行くのでは駄目なんだ、神様とともに励むのだ、
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神様が治められるのだと分かりました。勝った自分がほんとうは負けたのだと分かりました。
この出来事について、予言者ホセアはこう言っています。
主はユダと争い
ヤコブを、そのしわざにしたがって罰し、
そのおこないにしたがって報いられる。
ヤコブは胎にいたとき、その兄弟のかかとを捕え、
成人したとき、神と争った。
彼は天の使と争って勝ち、
泣いてこれにあわれみを求めた。
彼はベテルで神に出会い、
その所で神は彼と語られた。
主は万軍の神、その名は主である。
それゆえ、あなたはあなたの神に帰り、
いつくしみと正しきとを守り、
つねにあなたの神を待ち望め。
(ホセア書12・2~6→3~7)
神様を自分の味方と信じ頼り、その恵みと力を自分のものとして利用し、おのが知慧おのが力の限りをつくして、押して押して押しまくり、勝ち抜いて生きる、それが人間の生きがい、それが最高の幸福と思っていたヤコブは、夜通し必死の格闘をし、ももの関節をはずされて立てなくなったけれども、相手をつかまえて放さず、結局は勝った。天の使をも打ち負かすヤコブの力、人間の力はすばらしい。しかしヤコブの勝利は、あの川を渡らせ前進させてくれる原動力ともなるべきものを、彼に握らせてはくれなかった。それは人間の知慧と力のみで勝ち取ることはできないということを思い知らされた。そして、勝ったヤコブは泣いた。
強力ならぶ者なきヤコブが、無力な敗北者のよりに泣いてあわれみを求め、やっと与えられた「祝福」とは一体何でしょうか。結婚披露宴ではよく「お二人の前途を祝福して……」といわれますが、あれは「おめでとう」ということでしょう。しかし、聖書にある信仰の世界での「祝福」は、ただ単なる「おめでとう」ではありません。
祝福とは神様のご契約、御約束です。
「いついかなる時にも、またどんな所にでも、わたしたちと共にいて下さる、そしてわたしたちを、神様の民として受け入れて下さる」
という神様の御約束これが祝福です。この祝福をしっか
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りといただくために、ヤコブは、ヤボクの渡し場で苦しんだのでした。
世界中どこでも、人と人、民と民、国と国とが争いつづけている今日、天の使とヤコブのすもうのことを、また勝って負けたヤコブの涙の貴さを、読みかえし味わっていただきたいと思います。
ヤコブをあのようになさった神様は、いまわたしたちをどのようになさるでしょうか。
どうかすると、自分の知慧と力を誇りこれにたよって事を処理し生きて行こうとしがちなわたしたちを、神様は、思いがけない時に、思いがけない仕方で押しとどめるかも知れません。わたしたちの心と体に痛みや苦しみを与えられるかも知れません。そんなとき、ヤコブを思いましょう。ヤコブは名前を変えられ、古い自分を否定された苦しみと痛みのなかで、神様からの祝福をいただいたときに、あの川をびっこを引きながらも勇ましく渡ることができました。彼は勝って負け、負けて本当に勝ったのでした。ももの筋をはずされて重くなった足を心軽やかに引きずりながら、よろめきながら歩いて兄エサウに近づいて行くヤコブ・イスラエルの姿を思い浮べましょう。神様に弱くされた強者ヤコブ・イスラエルの歩みに目をとめてみましょう。
それは、
「神の愚かさは 人よりも賢く
神の弱さは 人よりも強い」
(コリントの信徒への手紙一 1・25)
ということを、身をもって示した人の歩みでした。
ここに私たちは今の私たちの歩みかた、新たに与えられたこの年を歩んで行く私たちの歩みかたが、示されているのではないかと思うのでございます。
1981年 2月6日
星塚敬愛園にて