34.いのちのみことば


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 わたしたちは誰かある人を知りたいときはどんなにするでしょうか。

 その人について書いてある伝記とか自叙伝を読むのもよいでしょう。またその人と交わり親しくしている人たちから、その実際に見たり聞いたりしたことを聞かせてもらうのもよいでしょう。しかし、それでその人を十分に正しくわかった、理解できたとは言えません。それはどんなにくわしく本当らしくても、他人が見たり考えたりして知らせてくれたニュース、評判、うわさに過ぎま

せん。その人と親しく交わり、その心の中を直接語り聞かせてもらうことが、いちばんたしかな分りやすい方法でしょう。

 神さまを知りたいときもこれと同じです。

神さまについてのどんな学説でも意見でも、人が考え人が説明するものであるならば、それは神さまの本当の姿を示してはくれないでしょう。人の説明によるのではなく、神さまご自身から聞かねばなりません。神さまご自身が語りかけてくださるみことばを、よく聞き理解することによって神さまがわかります、そして信じられます。

 聖書の第一ページには「はじめに神天地を造りたまえり」と記されてあります。これは千万言のことばにもまさる重みのある一句、万世にわたって呼びかける堂々たる宣言であると思います。「はじめに神」です。天地のすべてのことを、人間中心的に、人間の立場とか都合とか幸福とかだけを主として考えてはならない、人間は、自分たちが天地の主であり、支配者であるかのような顔

をしてはならない、ということでしょう。

 そのように書いたあとに続けて、天地創造の話が書かれてあります。それによれば、まだ何も存在していなかった「無」と「くらやみ」に向かって、神さまは「光あれ」と言って、光を造り明るくし、そのあとつづいて、天と地と海の中のさまざまなものと人間とを、六日かかって造られた、そのとき神さまは毎日、今日は何々があれ、と言われた、するとそのみことばに従ってそのもの

ができた、そしてそれを「神は見て良しとされた」と記されてあります。

 神さまがみことばを語られるということは、ただ聖書のはじめの部分の創造物語の中だけではなく。その後につづく旧約聖書また新約聖讐の全体を通じて、いくたびも示されてあります。聖書は実に神さまのみことばの書というべきものであります。

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 それでもなお、なっとくしない人は言うかも知れません。

「神が人と話をするとか語りかけるなど子供だましのおとぎ話か迷信だ。神が人に語りかけるとき、どんな声を出すのだろう、どんな言葉を使うのだろう。神の声とかことばなんて聞こえるはずはないだろう」

 こんなように考える人ば、「話をする」とか、「語る」ということや、「ことば」ということがよく分っていないのだと思います。

 ことばとは、のどの声帯を空気がふるわせて出す音だけではありません。それは声ではあるが、必ずしもことばになっていないこともあります。ことばとは、心の中の思いを言いあらわし伝えるものです、意志表示の方法手段です。わたしたちは声を出し、それをことばにして話し合いをします。

 しかし、声だけがことばになるとば限りません。わたしたちは声無きことばで話をすることもあります。いくら大声を出してもとどかないときは、旗を振ったり、太鼓をたたいたり、かがり火をあげたり、電燈を点滅させたりして合図をし、ことばのかわりにします。耳や口の不自由な人たちば身ぶり手ぶりで自由に話ができます、遠くはなれている人たちは。手紙で語り合いができます。

たとえ字を読み書きできなくても、絵や音楽で言いたいことを発表することもできます。わたしたちは口から出る声だけではなく、いろいろなものをことばとして使っています。

 こう考えてみれば、神さまのみことばはどんな声で聞こえるか、などいうのはおかしなことです。大切なことは、神さまがどんな声を出すかではなくて、何をことばとしてお使いになり、どのように語りかけたもうか、それが大切なことです。

 新約聖書の「ヘブル人への書」の中には次のように書かれてあります。

 

神むかしは予言者たちにより、多くに分かち、多くの方法をもって先祖たちに語りたまいしが、この末の世には、御子によりて我ちに語りたまえり。神はかって御子を立てて、よろずのものの世つぎとなし、また御子によりて、もろもろの世界を造りたまえり。

 (ヘブル書1・1~2)

 

神さまは昔かちわたしたちに語りかけて下さいました。

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自然現象や人間生活のさまざまなこと、国家社会の動き、ことに予言者と言われた人々の活動などによって語りかけられました。それらは信仰をもって聞きわけ、受け取るべき神さまのみことばでした。

 しかし人々は、いろいろな時にいろいろな方法で語りかけてくださる神さまのみことばを、正確に受けとり理解してそれに聞き従うことができず、罪を重ね不幸を招くこととなりました。この滅びへの道から人々を引き返えすためにおいでになったのが、人々からナザレのイエスと呼ばれた方でした。

 しかし神さまが、この方によって自分たちに語りかけ救って下さることを知ちずに、ユダヤ人たちはイエスさまを十字架につけて殺してしまいました。けれども神さまはこのイエスさまを三日目に復活させました。それでのちになって、イエスさまの弟子たちは、この方こそ神さまからのみことばであり救主である、と確信するようになりました。その信仰がヨハネ伝福音書の第一章に次

のように書かれてあります。

 

このことばははじめに神とともにあり、

よろずのものはこれによりて成り、

成りたるものに一つとしてこれによらで成りたるはなし。

これにいのちあり。このいのちは人の光なりき。

光は暗黒(くらき)に照る。

しかして暗黒はこれを悟らざりき。

 (ヨハネ伝1・5)

 

すべてのもののはじめに神さまのみことばがありました。神さまの意志表示がありました。それによってよろずのものが造られました。このみことばによって光が照り出で明るくされました。いのちが与えちれました。このみことばは「もろもろの人をてらすまことの光」としわたしたちの世の中にお出になりました。

 

これを受けし者、すなわちその名を信ぜし者にば、

神の子となる権をあたえたまえり。

 (ヨハネ伝1・12)

 

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この方が神さまのみことばとして来て下さったので、わたしたらは、そのみことばによって神さまのみ心が分り、信じられるようになりました。主イエスキリストさま、この方こそ、わたしたら人間にわかるように人となって下さった神さまのみことばです。

 

ことばは肉体となりて我らの中に宿りたまえり、

我らその栄光を見たり。

げに父の独り子の栄光にして、

めぐみと真理(まこと)とに満てり。

(ヨハネ伝1・14)

 

ヨハネ伝の記者はこのことを確信をもって力強く言っています。

 

我らその栄光を見たり、

実に父の独り子の栄光にして、

めぐみと真理とにて満てり。

 

肉体となって人となられた主イエスさまの栄光を仰いで信仰へとみちびかれることについて、ローマ人への手紙の中で、聖パウロもまた次のように言っています。

 

信仰は聞くにより、聞くはキリストのことばによる。

 (ロマ書10・17)

 

信仰は聞くことから始まる。そしてその聞くというのは、神さまのみことばである主キリストさまご自身を聞くことである、というのであります。

 主イエスさまによって神さまのみことばを聞き、信じて救われた人が次のように歌っています。


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いのちのみことば たえにくすし

見えざるみ神のむね(旨)を示し

つかえまつる道を教う

 いのちのみことば たえ(妙)なるかな

 いのちのみことば くす(奇)しきかな

主イエスのみことば いとしたわし

あまねくひびきて 世のちまたに

なやむ子らを あめにまねく

 いのちのみことば たえなるかな

 いのちのみことば くすしきかな

うれしきおとずれ たえず聞こえ

ゆるしとやわらぎ たもう神の

ふかきめぐみ世にあらわる

 いのちのみことば たえなるかな

 いのちのみことば くすしきかな

 (古今聖歌集454

 

わたしたちもこの信仰の歌人にならって、神さまのみことば、いのちのみことばなる主イエスさまに聞きしたがい、神さまから罪のゆるしと和らぎをいただき「たえなるかな、くすしきかな」と賛美のうたを歌う者となりたいと思います。

  1986年 10月