13.よみがえり
P94
皆さん御復活おめでとうございます。
金曜日の午後主イエス様が十字架の上で大声を出して息絶えこの世の生涯を終えられました。ちょうど安息日が始まり大きなお祭りになる時ですから、とにかくあとを急いで片付けねばならない。そのときに幸なことにアリマタヤのヨセフという人が、自分の新しいお墓に主イエス様のお体を移してくれました。そして土曜日が過ぎ安息日が終るのを待ちかねて、マグダラのマリヤやほかの女の人たちが、日曜日の朝まだ夜の明けきらないときに岡を登ってお墓へ行きます。そこでお墓がからになっておるのを見て驚きあわてまた悲しみ、どうしてよいかわからない。弟子たちに知らせる。弟子たちもびっくりして岡をかけ登ってくる。こういうことでその日曜日の朝は始まりました。それが主イエス様のおよみがえりの朝でした。そしてその後主イエス様は度々弟子たちに現われなさいました。この不思議な話がぱっとひろがってゆきました。
そんなことがどうしてあるだろう、と疑う人もあったでしょう、そんなばかげたことがあるものか、と笑う人もあったでしょう。しかし主イエス様がおよみがえりになったことを信じた人々は、笑われても馬鹿にされてもそれを一生懸命みんなに伝えました。主イエス様のお弟子たちが命がけになって、そのことを言い伝えてゆく、そのあとについてゆく人たちもまた、同じように命がけで復活を伝えてゆきました。
主イエス様がおよみがえりになったというそのことのために、どれだけ多くの人々が命がけになったことでしょうか。そしてそれが世界中にひろがって、ただ一時のはやりではなく、それから二千年にも及ぶ今日まで、主イエス様のおよみがえりを多くの人々が信ずるようになりました。そしてそれによって限りなき生命の幸ということがわかるようになりました。どんな時でも望が持て
る、どんな時でも慰めが得られる、どんな時でも自信が得られる、主の御復活を信じた人たちはそういう生き方をしてきました。
その人たちの群れの中に、お集りの皆さんもはいっておられます。キリスト様のおよみがえりはそういう意味で本当に おめでたいのでございます。それは単なる昔話ではなく、今あなたの生命、あなたの力、あなたの喜び、あなたの望みになっており、あなたの今の生活の基盤であり、また目標ともなっています。これからいつまでも、そうなってゆきます。そういう主のおよみが
P95
えりの恵みの中に、招き入れられて生きていらっしゃる皆さんのために、心から「御復活おめでとうございます」と申し上げます。
しかし、主イエス様がよみがえったということがどうしてそんなに大事なことなのでしょうか。人が死んで生きがえるなんて、何だかばかばかしい話のようだ、理屈に合わないよういだが、そんなことを信じなければいけないないのでしょうか。キリスト教とはどういうものでしょう 。と首をかしげる人もあるでしょう。
世界中にいろいろな宗教がありますが、その中でキリスト教の特色は何ですかと問われたらどうでしょうか、まず十字架があるということでしょう。
しかし十字架があると言うだけならば、「いやそれはキリス卜教でなくてもあるよ。日本だって佐倉宗五郎が農民たちを救うため犠牲になって死んだという話があるではないですか」と言う人もいるでしょう。ただ十字架があるというだけではなくて、よみがえりへと続く十字架がある、十字架とよみがえりがつながっているのです。これがキリスト教の信仰の独特な点でしょう。どの宗教にも十字架にかかって死んでよみがえったという救い主はありません。ですから主イエス様が十字架にかけられ殺されておよみがえりになった。これはキリスト教の信仰の一番大切なことなのです。
パウロはコリント人へ送った手紙の中で次のように言っています。
キリストは死人のうちよりよみがえりたまえりと宜べ伝うるに、汝らのうちに死人のよみがえりなしと言う者のあるは何ぞや。
もし死人のよみがえりなくば、キリストもまたよみがえりたまわざりしならん。
もしキリストよみがえりたまわざりしならば、我らの宣教もむなしく、汝らの信仰もまた空しからん。かつ我らは神の偽証人とみとめられん。我ら神はキリストをよみがえらせたまえりとあかししたればなり。もし死人のよみがえることなくば、神はキリストをよみがえらせたまわざりしならん。
もし死人のよみがえることなくば、キリストもよみがえりたまわざりしならん。
もしキリストよみがえりたまわざりしならば、汝らの信仰は空しく、汝らなお罪におらん、さればキリストにありてねむりたる者も亡びしならん・・・・・
されど、まさしくキリストは死人のうちよりよみがえり、眠りたる者の初穂となりたまえり。
コリント前書(15・12~20)
P96
パウロは「もしキリストよみがえりたまわざりしならば………」、とくりかえしくりかえし、たたみかけるように一言っています。
「もしキリストよみがえりたまわざりしならば」パウロの宣教も空しく、それを聞いて信ずるあなたたちの信仰も空しく無駄なことだ。私たちがこうやって命がけになる、これも無駄なことだ。そしてそれを信じていこうというあなた方も全く無駄なことだ。
「もしキリストよみがえりたまわざりしならば、あなたたちは罪から解放され救われる道がない」
と言っておるわけであります。これ程パウロが力をこめて言っておることからみても、キリスト様のおよみがえりということがどんなに大切なことであるかわかります。
十二人のお弟子の一人でありながら、銀三十枚でイエス様を敵に売りわたしたイスカリオテのユダは、自責の念に耐えかね、たまらなくなって首をくくって死にました。そのあと欠員になった一入を補充するために、お弟子たちはみんなで一生懸命祈り考え相談をしました。その時の選びの条件は、どの程度の学問を身につけているとか、社会的地位とか名声とか政治的手腕とか、あるい
は資産を持っているかというようなことではなかった。その時に選ばれて十二弟子の一人とされる人、それは、
「われらと共に主のよみがえりの証し人となるべき人」
だと、ぺテロは言いました。そして祈り、くじを引いたら、それはマツテヤに当り、マツテヤが十二弟子の一人となった、ということが使徒行伝第一章に書いてあります。
クリスチャンとは何でしょうか。お互クリスチャンは神を信ずるとかキリストを信ずるとか、それでクリスチャンですなんて安心しうぬぼれていてはなりません。証し人にならねばなりません。よみがえりの証し人です。
私は神を信じます、神はああですこうです、と神学の論説のようなものを勉強したり覚えてみたところで、それは信者ではないのです。クリスチャンというのは、およみがえりになったキリスト様を信ずる人なのです。しかもただ信ずるだけではなく、主のよみがえりの証しをする人なのです。イエス様がおよみがえり下さいました、そして今日も私と一緒にいて下さいます、とその証しができる。それがほんとうのクリスチャンです。
苦しみ悩み、あるいは迷っている人がありますか。
「キリスト様が一緒にいて下さいますよ」
と勇気づけて上げる。
淋しく心の沈んでいる人や、悲しい思いをしている人がおりますか。
「キリスト様が一緒にいて下さいますよ」
P97
と知らせ慰めて立ち上がらせる。
この世の生命を終ろうとしている人がおりますか、
「キリスト様が一緒ですよ」
と励まし助けてその臨終の瞬間を越えさせて上げる。
クリスチャンというのはそういう証し人にならねばならないと思います。こう考えてみると、よみがえりを信ずるということがどんなに大切なことかわかります。
今わたしたちはそのよみがえりの日を迎えたのですが、ではそのよみがえりとは一体何でしょうか。死んだ者が生きかえるものか、ばかばかしい、そんなことがあったはずはないと言う人は多いでしょう。しかしそれが確かにあったのだと、私たちは信じまた宣言する確信がありましょうか。十字架に死んだ人がどうやってよみがえったか説明してごらんなさい。その説明ができなくてよみがえりを信じられますか、と私たちは問われるかもしれない。しかしあわてることはありません。
「どうやってよみがえったのでしょう、私は知りません、説明はできません。」と答えたらよいでしょう。
「わからない、説明できない、それだのに信じている、なんておかしい」
と笑われるかも知れない。笑われたっていいではありませんか。どうやって?どのようにして?という難しい問いの前に、たじたじになり、まごまごすることはありません。どうして? ということを何とかしてつきつめて知りたい、そうでなければ安心して信じられないと考える人も多いでしようが、しかし、どういう風にして「よみがえり」ということが起ったのか、など言っても無駄なことです。誰も主イエス様の復活なさるのを観察していたわけではありません、また人間がどれだけ想像をたくましくし推理しても分ることでもありません。それが説明されねば一歩も進まれないというようんなことでもありません。どのようにして? などは、わからなくてもそれはおあずけしておけば好いではありませんか。
そこは神様の世界、神様のお働きの中と考えてはいかがでしょう。そんなことは神様にあずけておいたら好いではありませんか。しかし、こう言っても信仰とは無知になることだと言うのではありません。自分たちの知慧と力の限界までいって、どうしてもそれ以上分らないこと、およばない所はそれは神様の世界だと謙虚にシャッポを脱いで、神様のお示しとお導きを待つことにしたら好いでしょうと言っておるのです。イエス様はどんな仕方でよみがえったのでしょうか、手の方からよみがえったのか足の方からよみがえったのか、なんてそんなことを言ったってつまらないことです。よみがえりということを
P98
自然現像か何かのように考え脱明しようとするのは全く愚かなことです。それは脱明できません。しかし、説明されないから復活は作り話だとは言われません。
主の弟子たちは命がけで主の復活を宜べ伝えました。あの時あの弟子たちの言うことを本気で信じられるはずはながったのです。主イエス様が金曜日に十字架に死んで三日目によみがえりなさったということを、あの十字架のことのすぐ後にエルサレムで言ったのでしょう。あの出来事があってから何百年も後になってそういう話がどこからか言い伝えられて、それを人びとが信じたとい
うのならともかく、つい二・三日前にあの岡の上で死んだということを、実際に見て知っているその人たちの中にたって、殺されたあの人がよみがえったと言ったのでした。それだのにそれが信じられますか、信じられるはずがない。それだのに多くの人びとがその話を信じました。何故だか、どうしてだか、説明はできない。しかし、これはやっぱりそのことが本当だから説得力があっ
たのだろうと、私たちはそこでシャッポを脱がなきゃならないでしょう。
それだけでなく、まだ説明のできぬことがあります。どうしてあのガリラヤの田舎の漁師たちがそのために命がけになれたのでしょうか、作り話やおとぎ話と分っていながら命がけになるのでしょうか。どうしてあの十字架を見た人たちがバカバカしい、作り話だとして打ち消してしまうことができなかったのでしょうか。不思議でたまりません。
またそののち世界中にそのことが言い伝えられ、エルサレムから遥かに遠い日本でも、あの豊臣・徳川の時代からキリシタンバテレンと言って迫害されながらも、なおそれを信ずる人が多くなり、よみがえりの主を信ずる人たちは、迫害されつつも、迫害する人々よりもっと強くもっと幸福に生きて行きました。主イエス様のおよみがえりが事実でなかったならは、どうしてこんなことが起り得たでしょうか。主の御復活は事実であったと信ずることよりも、それを疑い否定することの方がもっと不合理のようです。主の御復活を記念し祝うときにまず、第一に大切なことは、キリスト様がおよみがえりになったことは確かに事実であったと信ずることであります。
つぎに、よみがえりとはどういうことかと考えてみましょう。
「イエス様はよみがえって弟子たちに現われた、と聖書に書いてあるように、ああいう風にお姿う見せてくれたら信じられますよ、しかし今は見えないでしょう、だから信じられません」
P99
と言う人たちが多いでしょうねぇ。そんな人たちは、弟子たちに現われた復活の主のお姿を復活と混同しているのでしょう。
では復活とは何でしょう。聖書では復活という字に仮名を付けて「よみがえり」としています。「よみがえり」、これは好い言葉です。復活とはよみがえりです。「生きがえり」ではありません。よみがえりと生きがえりとは違うのです。生きがえりとは息を吹きかえすことでしょう。死んだ者がまたそのまま生きて動きだすのでしょう。
よみがえりは違います。よみがえりは、よみがえり、即ちよみ(冥府)から帰ることです。単なる生きがえりではありません。私たちは使徒信経という信仰告白の中で次のように言います。
「………十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死にし者のうちよりよみがえり、天に昇り、父の右に座したまえり………」
イエス様が十字架にかかって死に、昔から死人の魂がとぢこめられていると考えられていたよみに下り、そしてよみから帰られた、即ちよみがえられた、それが復活でした。
ペテロは手紙の中で次のように言っています。
キリストも汝らを近づかせんとて、
正しき者、正しからぬ者にかわりて、
ひとたび罪のために死にたまえり。
彼は肉体にて殺され、霊にて生かされたまえるなり。
また霊にて行き、獄にある霊に宜べ伝えたまえり。
これらの霊は、昔ノアの時代に方舟(ハコブネ)の備えらるる間、寛容をもって神の待ちたまえるとき、従わざりし者どもなり。
(ぺテロ前書3・18~20)
死の時がきて柩(ひつぎ)のふたがされ、墓に入れられたら、もう万事おしまい。死んだらどうにもなりません。ところが主イエス様はそのどうにもならないものを突き抜けて、死の世界の中にとりこになっている魂に、福音を聞かせ、救いの道を開き、帰ってこられました。これがよみがえりです。ですからよみがえりは、よみの厚い壁を打ち開いて、死の世界から人びとを解放したことで
す。死の力を打ち砕き、死に勝ったことです。ですから今日の復活日の祈りで私たちは、
「全能の神よ、主はひとりのみ子主イエス・キリストをもって、死に勝ち、限りなき命の門を開きたまえり」
とお祈りいたしました。復活とはただ単なる生きかえりではなく、死ぬべきものが死に亡ぼされないで、それに打ち勝ちよみがえることです。
昔から教会でのお葬式には一うの古い仕方があります。
P100
礼拝堂の中に柩を置くとき、足の方を正面の祭壇の方に向けて置くのです。昔の人はどうしてそんなことをしたのがというと、やがて栄光のキリス卜様がおいでになる世の終りの時がきて、主キリスト様が死んだ者を生きかえらせ、召し集めなさる時に、立ち上がって主のお顔を拝みお迎えできるようにという考えかたから、柩をそんなふうに置いたのでしょう。ですから昔の人たちは死ん
だ肉体がまたその姿で生きかえるようにと望んでいたのでしょうねぇ。
私は三十年くらい前に鹿児島に参りましたが、その時一人の知らない人がたずねてきて言いました。
「今うちの息子が市立病院で死にましたからお葬式をして下さいませんか」
「どうして教会に頼みにいらしたのですか」
と私はたずねました。するとその方は、
「私はカトリック教会の者だから、教会でお葬式をしていただきたいと思いまして………。」
「それならカトリックでお葬式をしてもらったらいいでしょう。すぐ近くに教会がありますよ」
と言うとその人は言いました。
「いやよく知っています。実は私は引揚者です。終戦後帰国して以来あの教会に行っていたのです。それで頼みに行ったのですが、断わられたのです。」
「どうしてですか」
「私は鹿児島の者でないので、息子を火葬にしてその遺骨を郷里へ持って帰らなければなりません。ところが、火葬にするなら教会の葬式はしてやらないと断わられました、困っています」
私はすぐにその方について病院に行きお葬式のことを全部いたしました。これは何百年も昔でなく、ほんの三十年位前のことです。
このようなことは復活を生きがえりと考えることから起ってきたことではないでしょうか。何故かと言うと火葬にしておくと、よみがえりの時に困るでしょう。
私がもし火葬にされたら、よみがえりの時に、ああこいつをよみがえらせてやりたいが、指の骨を三本火葬場に落としてきている。骨が足りないとか、右の足の骨が焼けて無くなっているので立たれないとかということになれば困るので、どうしてもこうしても土葬でなけれはいけないというような、まことに幼稚な考え方ですけれども、そんなことが本気で考えられていたのでしょう。火葬にしたら生きがえりの時に骨が紛失していて困ると言いますが、私はそれでもなおいいと思うのです。たとえその時私の骨が足りなくて出来上がらなくても、神様が
P101
もとどおりに生きがえらせたいとお考えになれば、新しく骨を造りチャンと補い、新しい肉をつけて下さるだろうと思います。
しかし、私はそういうのをよみがえりとは思っていないのです。それは生きがえりです。よみがえりというのは死の門を打ちこわして永遠の生命を生きることです。死によって束縛されないということ。肉体から解き放たれてよみから帰る。すなわちよみがえるのです。
しかしイエス様の弟子たちは見たではないが、復活されたイエス様は弟子たちにお姿を見せて、さわってごらん、私の手にさわってごらん、食べ物を持ってきなさい一緒に食べよう、と言って弟子たちと一緒に食べたという話まである。これはまさしく生きがえりではないか、と考える人もあるかもしれない。それがよみがえりでしょうか。いや、そうではない。あれは主イエス様のみ姿
でしょう。よみがえったみ姿を信ずるのではない。よみがえりを信ずるのです。
ではなぜ今イエス様は現われないのでしょう。復活の主の現われをどう考えたらよいのでしよう。私はそのことを、自分なりにこんな言い方をしておるのです。あれは「おまけ」だと。よみがえりの主イエス様が現われて弟子たちに見えた。あれはおまけです。必ずしも見える必要はないのです。イエス様のみ姿が弟子たちの目に見え、み声が弟子たちの耳に聞えることが、復活の必要条
件いちぱん重要なことというのではありません。けれどもあの時は、そうしなけれはお弟子たちは信じ得なかったでしょう。ついおととい死なれたあの方が、よみがえりましたよと言われたって信じきれない。だからああいうふうにみ姿を見せ、あるいはお声を聞がせて下さった。だがらあれは主の復活を信じやすくして下さるために、弟子たちに下さった「おまけ」なのです。その「おまけ」
のおかげで弟子たちはよみがえりをしっかりと信じました。しかしよくそれを信じ受け取ってみると、もう「おまけ」はいらなくなった。「おまけ」が無くても信じられるようになりました。その時まで主イエス様はたびたび現われて「おまけ」をして下さいました。聖書に四十日の間たびたび弟子たちに現われたと書いてあるのはそういうことです。主イエス様は長い間弟子たちにたびたび現われなさった、そして弟子たちがもう「おまけ」を見なくても、よみがえりを信じられる、み姿が見えなくても、み声が聞えなくてもよみがえりがわがるようになったときに、主イエス様はもう「おまけ」をしてやる必要はなくなったので、弟子たちの目に見えなくなった。それが昇天、天に昇ったということです。昇天の物語で大
P102
切なことは、「イエス見えずたもう」と記されてある、あのことであります。み姿が天に上がったの下ったのそんなことではない。「見えずなりたもう」が重要なのです。そして見えなくなった時、弟子たちはがっかりしたか、というとそうではない。見えなくなった時に、かえって弟子たちは復活の主が自分たちと共にいますことを、いよいよはっきりと固く信じて、主の証し人になりました。
よみがえりたもうた主イエス様、死に打ち勝って生命の門を開いて下さった主イエス様を私どもは今また新たにお迎えする。これが御復活祭です。
どうぞ皆さん主イエス様をお迎え下さい。主イエス様のみ姿をお迎えするのではありません。主イエス様ご自身をどうぞお迎え下さい。そしてその生命につながってあなた自身が死の門を突き抜けて、主イエス様と共に、よみに下り、よみから帰る、これが死ぬるということです。また復活する、よみがえるということです。死ぬる時も主イエス様と共によみにも下る、そしてそこに行っ
たままでなかった主イエス様と共に、よみ即ち死の世界をも突き抜けて、天のみ国へ帰って行く、そうした素晴しい生き方死に方に招かれておることを、この御復活の時に感謝いたしましょう。
キリスト様は私たちのためにおよみがえり下さいました。このよみがえりを大切にし、そしてそれをあの人にもこの人にも「あなたもよみがえれるのですよ。あなたもこのよみがえりの生命に一緒につながりましょう」と証しをし奨めをする者になりたいと思います。主のよみがえりの証しをしなければ、私たちの信仰は深まりません。証しをしなければ私たちの信仰はしっかりと根の生えたものになりません。どうか主のおよみがえりの証しをして下さい。
「ああ本当だ、主イエス様は今日も私と一緒だ」
と時々そんな独りごとを言ってみてはいかがですか、みなさん。一日が終る時「ああ、今日もキリスト様と一緒でした」あるいは夜ひょっと目がさめて「ああ、キリスト様が一緒だ」と、そりいう風に折々に、よみがえりの主をみつめ、よみがえりの主に話しかけてゆく、そういう生き方へと導かれたいと願うものでございます。
1982年4月11日 復活日
大口聖公会にて