22.洗礼の話
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洗礼をお受けになりましたリベカ由華さん、パウロ研一君、おめでとうございます。またこのために、祈りと愛をもって励ましお導き下さいました教父母の方々、またご家族のみなさん、ご同様におめでとうございます。
今日は日曜学校の生徒さんたちも、みなさんの先輩の方たちの洗礼に一緒に出席して、お祈りをして下さいまして有難うございます。なるべくみなさんがわかり易いようにお話しますから辛抱して聞いていて下さいネ。
人が生れてくることは、いうまでもなく神さまのお恵ですよね。
神さまのおめぐみで人が生れてくるのですが、さて、その人は生れたままだと、どうでしょうかねえ。生れたままで、そのままちゃんとなって行くのだったらいいのですがねえ。幼稚園もいらないし、学校にも行かなくていいでしょう。
ところがそうはいかない。人は生れるとすぐから、いろいろとこの世の中で生きてゆくためのことを習ったり、おぼえたりせねばなりません。まず始めにするのは、どうやって口からお乳や食へ物を入れるか、という、そんなことからおけいこせねばなりません。それはどうやっていいかまだわからないうちに、お母さんがちゃんとしつけて下きいます。そして体がだんだん大きくなる。
ところが、それではまだ足りないでしょうね。たとえば、道でぱたっと人にぶつかったとき、何と言ったらいいのでしょうか、習っていないと、どうしてよいかわからず、「ア、痛ッ」と言うぐらいでしょうね。
ところがそういうときは、「ごめんなさい」とか「失礼しました」とか言うのですよね。それからなにかうれしいときありがたいときは、「有難うございます」と言います。何かしてもらいたいときは、「どうぞ」と言います。そんなことをいろいろ私たちは習ってゆかないとうまくゆきません。
ですから生れてからだんだん私たちは体が大きくなるだけではなくて、心も成長して、人と会ったとき、人にものを頼むとき、人から親切にされたとき、どんなに言うのでしょうか、といろいろなことをだんだんおぼえて行かねばなりません。
それはお家でおぼえたり、あるいは幼稚園でおぼえたりします。それから、小学校や中学校に行って、だんだん私たち人間の暮らしかた、社会人としての暮らしかたを学んで行くのです。
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そうするとみんな立派になるはずなのですが、なかなかみんな立派にはなりません。
みなさんご存知の通り、毎日、新聞やテレビでいろいろと面白くないこと、面白くないだけじゃなくて、おそろしいこと、こわいことがありますよねえ、人間が人間同士殺し合ったり、あるいはまた国と国とが戦争し合ったり、いろいろあるでしょう。あのようになりたいな、とみんなが思って生れたわけではない、しかしそういうふうに今なっておる。これはどういうところで間違ったのでしょうねえ。何か調子が狂っています。
こういうふうに、私たちは生れたままそのままにしておけば、まっすぐスーッと心配なしに伸びて行くのではありません。生れたままで年がたつとともに立派になるのだったら、学校もいりませんよね。教育もいりません、家庭でのしつけというものもいりません。しかし実際にはそれが必要だ、必要だからいろいろそれをしてみたけれども、どうもうまくゆかない。このごろはそういう困った時代になっております。
人間は生れたままでは、スーッと立派に成長することはできません。それではどうしたらよいでしょう。それには途中でちゃんとやりかえたらよいでしょう。そのやりかえが、今おこなわれた洗礼です。
私たらは生れてそのまま放っておいては、正しく成長しない。そうですから、新しくやり直すために、洗礼を受けるのです。
だれがそんなことを教えたのでしょう。キリストさまです。キリストさまはおっしゃいました。
「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」
生れただけではなくて、もういっぺん新しく生れかわるならば、神の国を見ることができる、すなわち本当の人間生活ができるということです。そしてそのために、洗礼が行われるわけです。
今日みなさんのお友だちの由華さんや研一君が、洗礼を受けて生れかわりました。どこが生れかわったんだろう、みなさん見てごらんなさい。体重も同じぐらいだしねえ、身長も変ってないょうです。
外から見たらかわりありませんけれども、内側の魂が変ったのです。心がかわったのです。神さまから喜ばれる人になるようにと、生れかわらせていただきました。これが洗礼です。ですから今ここで洗礼があった、それによってこの二人が生れかわる、という大変な出来事がおこったということです。
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生れかわったというこのことをもうちょっと話しましょうねえ。
どんなふうに生れかわったかというと、それはちょうど箱舟に入れちれたようなものだというのです。昔ノアの大洪水で、誰もかれも、また何もかも、みんな流されたという話を聞きましたねえ。その時に、箱舟にはいったノアさんと家族たら動物たちは助かりました。
ちょうどそれと同じように、洗礼というのはそのまま放っておいたらどこに流されて行くか、どこに曲って行くか、どこで脱線するか分らないような私たちを、神さまが、これにはいりなさい、この箱舟にはいりなさい。そしてこれからのちあなたの生きるかぎり、そうですねぇ、いくつまででしょうか、五十まで、六十まで、八十まで、おじいさんおばあさんになるまで生きて行くでしょうねえ、その長い暮ちしの間、長い人生の間、そこでいろいろな風が吹きます、波がおこります。そんなときに、私たちの生活の上に、どんな風が吹いても、どんな波が押し寄せても、それで吹きまくられ、押し流されたり、おぼれたりして駄目にならないように、ちゃんと立派な箱舟におはいりなさい。その箱舟にはこうしてはいるのですよ、とキリストさまがお示しくださったのが洗礼です。
この箱舟とは何でしょうか。それは教会です。教会すなわち聖公会、聖なる公会といわれているものです。それは神さまの教会、私たちのための箱舟です。斎条さんと中村君はいまここで洗礼を受けて、聖公会すなわち教会という箱舟の中にちゃんとはいりました。
ですから、これかちのちどんなことがあっても大丈夫です。洗礼は新しい人生、新しい暮らしの出発です。今まではただ斎条由華さんだったでしょう、あるいは中村研一君だったでしょう、しかしこれからはただの斎条由華さんではなくて、新しく生れかわり、リベカというクリスチャンネームを与えられた神さまの子供、リベカ由華という生き方、また新しい名前をいただいたパウロ研一という生き方なのです。そういう新しい生活が今日から始まりました。それが洗礼です。
このお二人が今入れられた聖公会という箱舟の中には、
「いつでも私がいっしょにいますよ」と言って下さる方がおられます。それはキリストさまです。
「私がいっしょですよ、私といっしょに歩きなさい、私についてきなさい」とキリストさまが、いつも私たちに呼びかけながち、いっしょに、この箱舟を進めてくださいます。
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今日からのちはいつでも、あなたたちの行くさきざきに、キリストさまがいっしょにいて下さいます。若いあなた方の前途、これかち長い一生のあいだには、いろいろなことがあるでしょう。骨のおれることもあり、けわしい山を越えねぱならないこともあり、深い谷を渡らねばならないこともあり、つらいことや悲しいこともあるでしょう。いろいろあるでしょうけれども、キリストさまがいっしょにいて下さいます。
今日いまかち、いつでも、どこにでも、キリストさまがあなただちと一緒にいて下さいます。
しかし、もしもこんな信仰を持っていなければ、骨の折れることや苦しいことにぶつかると、すぐに疲れ切って、生きてゆく希望も気力もなくなり、いわば、人生の旅の途中で坐りこんで、私はもう一歩も進めない、絶望だ、死ぬよりほかに道はない。などと考えたり言ったりするかも知れません。そして自分で自分の一生を棒にふり、終わりにするかも知れません。いや、実際そのような例が世の中には多いのです。
しかし、主イエスさまは折り折りに私たちに呼びかけて下さるでしょう。
「私はいつでも君と一緒にいるのだ。私は洗礼のとき君の額につけられた、十字のしるしを決して忘れない。いつでも、どこにでも君とともに行くのだよ」
と。そして私たちの毎日の歩みの先となり後となって、はげまし助けて下さいます。
洗礼というのはそういう素晴らしい生活が始まることです。ですからまだ洗礼を受けていない方たちは、なるべく早く洗礼をお受けになり、このような希望と確信と喜びあふれる新しい生活へとお進みになるよう、おすすめいたします。
1983年8月28日
三位一体後第十三主日
大口聖公会にて
受洗礼者
リペカ 斎条由華 様
パウロ 中村研一 様