5.永遠のあした


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上堀さんと田中さんのお命日を近くに迎えまして、こうして皆さんお集り下さり、ご一緒にお祈りをささげ、お二人をしのんで思いを新たにしていただくこと、本当に有難うございます。

 お命日とか記念祭はふつうよく行われますが、しかししっかりと信仰に立って、お命日とか記念祭をするということは、案外おろそかになつていることが多いのであります。どうかするとそれが一つの行事のようになって何年だから何年忌をせねばならない、今度は何年のお祭りをする、あるいは何年だからどのょうにするとか、お供え物に何を準備するとか、何のごちそうをするのだとかしないのだとか、そういうことにだけ心が取られがちでございますが、しかし死んだ方の記念をするとき、大事なことはそういうことではありません。本当に心をこめて記念し、本当にそのご冥福をお祈りするのでなけれぱならないと思います。

 そうなりますと一番はじめが大事でございます。お命日について考えるべき一番はじめのことは、死ぬるということは何か、ということです。この方々が昨年おなくなりになりましたがおなくなりになるとはどういうことでしょう。死ぬるとは何でしょう。そして死んでどうなったのでしょう。そこをはっきりしっかりさせておかないと、お命日とか忌日の祭りというのが、ただ空っぽにならないともかぎりません。そこで今日こうやって、上堀さん田中さんを記念します時に、ご一緒にそこからお考えをお願いしたいと思います。このことについては私が八月のお盆の時に大体お話し申し上げたのでございますが、今日はその時お見えになつていなかつた方も沢山いらっしゃるようでございますから、その時の話を簡単にもう一度かいつまんで申し上げて、それから先に進

みたいと思います。

 死ぬるということ、これは一般の社会では、大変縁起の悪いことというふうに考えられています。ですから人が死ぬると、ご不幸があつたと言います。死ぬることは不幸だ、幸でないというのですが、しかしそんなこと言っていたらちょっと困りますよね。死なない人がありますか。だれも死なない人は無いですね。皆死ぬのです。

じゃ皆ご不幸ですか。「幸な人は一人もありません。皆さんご不幸さんで」と考えられるなんて、こんなおもしろくないことはありません。死ぬるということはだれにでも起きることです。何年先か何日先かそれはわかりませんが、だれだって一度は死なねばならない、というこ

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の分りきった最初の第一歩がしっかりとふみ立てられていないのでしょう。ですから死ぬることは縁起が悪いのとんでもないのということになる。だから「死」なんて言葉を使わないでいち・にい・さん・よっつと言ってみたりします。病院に行くと、一号室・二号室・三号室・五号室と四を飛ばしてみたりして縁起をかつぎます。しかしいくら飛ばしたところでさけられないのです。死なねばならないのです。ですからこれば初めに思い切って思い切りよく、人はだれでも死ぬのだ、死ぬのがあたり前だ、とこう受け取ったらいかがでしょうか。死ぬのは特別なことではなくて、あたり前のことたと受け取ります。これが先ず大切なことでしょう。

 ではその死ぬるということを、どういうふうにあたり前の事と受け取ったらよいのか。神様のみ教えを書いた聖書を読んでみますと、死ぬるということば眠ることとされています。福音書の中にこんな話があります。イエス様のところにある人が来て、自分の娘の病気をなおして下さいと頼みました。そこでイエス様はすぐに行かれましたが、その家の戸口まで来るともうその娘は死んでおり、人々が集って大へん嘆き悲しんでいました。イエス様は皆に

「ちょっと通して下さい。このお嬢さんば死んたのじゃない眠っているのです起こします」

と言われた。死んでいるのに眠っているというので、人人はあざ笑ったが、イエス様はその家に入って、そのお嬢さんを起こしたということです。それから又ラザロという人が病気になって危篤だというのでイエス様を呼びに来ました。その使いの者が来たとき、イエス様は弟子たちに

「ラザロが眠っているから、私は彼を起こしに行こう」

と言われました。すると弟子たちは

「主よ、眠っているのなら助かるでしょう」

と言いました。イエス様はラザロがもう死んでいると言われたのですが、弟子たちは眠っているのだろうと思ったのでした。それでイエス様は、ラザロは既に死んたのだとはっきり弟子たちに言われました。そして弟子たちと一緒にラザロの家へ行き、死んでいたラザロをよみがえらせました。それから又、イエス様のお弟子たちのしたことを記した使徒行伝を見ますと、イエス様を信じた人の中で一番先に殺された人のお話かおりますが、そこでは「ステパノが最後の時にこう言って眠りについた」と書いてあります。

 でありますから聖書によって見ますと、死ぬることは眠ることなんです。眠るのなら縁起が悪いのこわいのと

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さわぐことはないでしよう。どうせ死なねばならない私たちなんです。その死ぬる時を、「ああ、眠るときが近づいてくる」という気持で迎えたらどうでしょう。眠る時に「今夜こわくて」とばたばたするというような人はあまりないでしょう。『眠って、ひとねむりしたら又あしたの朝がある』という気持でやすらかに眠りにつくでしょう。眠るのがこわくてばたばたしてたら夜眠られません。睡眠薬のお世話になります。それでもなかなか眠れませんなんて人があります。これば異常です。これは眠る眠りかたがどこか狂っているのでしょう。安らかに眠ります。そしてあしたさわやかに目がさめます。死ぬるということはそういうことです。しかしそれが普通私たちが繰り返している、毎日寝て起き、寝て起きというのとどう違いますか。私たちの毎日の眠りは、この両方の目を閉じて、朝になったら又開けてという眠りかた。しかし「死」というあの眠りが来るときは、たた目を閉じて眠るのでばありません。目も耳も口も閉じるのです。そして体中のすべてのところがお休み、全部休みです。神様が全部お休みにします。あなたの体の機械、心臓も腎臓も脳も全部お休み、そして眠るのですよ。なぜ全部お休みなのでしょう。もうこれ以上は使えないからです。長い間使いました。ある人は六十年使いました。ある人は八十年使いました。ときにば十年とか二十年で使い終ることもありますが、いろいろな使いかたで長い間使ってきたこの体、しかしもうこれ以上使うのは無理ですからね、これ全部置いて眠りなさい。今度目がさめる時には、ちょっと寒いからといって風邪ひいたり、疲れすぎたからといって肩がこってしまったりというようなことになる、そんな体ではなくて、もっと素晴しい体で目をさまさせて上げます。と神様が招いて下さる。それが私たちの一番終りの眠りの時、死ぬる時でしょう。ここまで八月のお盆のときにお話を申し上げたと思っております。

 そこで、ではあした目がさめる時どうなるのでしょうこの世の生命の終り、眠ってこの体もうあしたは使えませんよ、と神様がおっしゃる。その眠りが来た時、あしたはどうなるのでしょうか、それがわからないから不安なのでしょう。それをつかんでないからこわくて不安で死にたくないというわけでしょう。イエス様は人間のそんな不安な思いをちゃんとご存知で、こうおっしゃって

います。

 「我はよみがえりなり、いのちなり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずる者ば、永遠に死なざるべし」 

(ヨハネ伝11・25~26)

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私はよみがえりです。生命です。私を信じていたら死んでも生きます。あしたがありますよ。この大きな眠りの時が来てもあしたがありますよ。とイエス様はおっしゃっているのですが、そんなこと言っても実際死んだらどうだかねえ、といいたいでしょう。そんな人が沢山います。そこでイエス様ご自身がそれを実際に示して下さいました。それがイエス様の十字架と復活ということです。それは作り話ではない。そうあればいいなあという望みから生れてきた考えとか空想ではなく、今から約二千年程前に実際に起こった出来事でありました。イエス様は捕えられてエルサレムの都のそとの岡の上で、十字架にうちつけられて、人々の目の前でたしかに殺された。それから三日目の朝およみがえりになってお墓は空っぼになり、だれが遺体を持って行ったのだろうか、どうな

ったのだろうかとうろうろし騒いでいる弟子たちに、ちゃんとイエス様が現われてご自身を見せて下さった。それでもなかなか信じられない人もいました。ああ、これは夢見ているのではなかろうかと思う人もあり、あるいはイエス様がおよみがえりになったとか復活したとかあの人たちは信じてそう思い込んでいるのだろうが、私はどうしても信じられない、そんなことは信じないぞ。私の目で見て私の手でさわらなければ信じないぞ。と言って頑固に言い張る人もいた。イエス様の弟子の卜マスはその一人であった。ある時イエス様ご自身が現われて、

「トマスよ、あなたは信じきれないのか。あなたの手を差し延べて私の傷のあとをさぐってごらん。私じゃないか」

と言ってご自身をお示しになった。

 こうしてイエス様が私たちに、死という眠りに続くあしたを見せて下さいました。この人間の一生という日が暮れて、眠らなければならない私たちみんなに向かってイエス様は「あしたがあるのだよ。そのあしたは今のこの命、この肉体によって生きる生命ではなくて、とこしえの命、永遠の生命、限りなきいのち、神様のいのちだよ」と呼びかけ招いておられます。

 上堀ノブ様も田中栄太郎様も、お二人ともこれをかたく信じて生きてこられました。そしてこれをかたく信じて、一年前のこの月の六日と十二日とに、その生涯を終って眠りにつかれました。ああ、くたびれはてた、という眠りではなくて、永遠の生命に目ざめるあしたを望みつつ、「あなたのために、ここに処が備えてあります。安心して来なさい」と招いて下さる主イエス様を見つめながら神様のみ国へ帰って行かれました。

 死ぬるということは、こういう眠りかたをすることです。そしてこういう帰りかたをすることです。帰って来

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なさいよ、と待っていて下さる神様のもとに召されて帰ることです。お二人ともこの信仰に立って、生きるということをしっかりにぎりしめ、死ぬるということをしっかりとにぎりしめて、生きるとはこういうこと、死ぬるとはこういうこととかたく信じ、信仰に立って生き死にをまっとうして、神様のところにお帰りになりました。

 死ぬることは神様に召されて帰って行くことです。神様から「この世で六十年、ああご苦労様だったなあ。八十年、よくつとめてご苦労だったねえ。もうそれでいいから帰ってきなさい」というふうに、招かれて帰ることです。私どもはこのお二人のか命日近くに集って、このお二人がそういう信じかたをし、そういう見つめかたをし、そういう歩みかたをされたことを、もういちど思い起こそうではありませんか。あの時この信仰が無かったら、あそこを乗り切れなかったかもしれないのに、なんとよく素晴しく乗り切ったことか。信仰が無かったらあのことはとうてい耐えられなかっただろうのに、そこを耐えただけじゃなくて、すべてを喜びにかえ賛美にかえて、普通なら涙を流し、ぐちを言うところを、歌を歌いながら乗り切って、生涯を全うされました。何と素晴しいことだったでしよう。皆さんどうぞご生前の上堀さん田中さんを、もういちど新たに思いおこして下さい。そして今神様のみ前にご一緒に「神様、この方たちは何とまあ素晴しい方たちでしょう。私たちもどうかそういうような歩きかたにお導き下さい。神様この方たちの魂は、今はもうあの不自由な肉体という着物を脱ぎ捨てて、あなたのみもとに召されています。どうぞあなたのところで天のみ国の幸にあずからせて下さい」と、こちらからお祈りをして上げようじゃありませんか。死んで無くなったのではありません。死を乗り越えて向こうで目がさめているのです。その方のためにどうぞ皆さんお祈りして上げて下さい。もっともっと楽しくなりますように、もっともっと清らかになりますようにと、その魂の平安のために祈りましょう。向こうに目ざめて復活のいのち、永遠の生命を生きておられるこのお二人は、この世にあるご遺族のために、またここで親しいか交わりをしていただいた皆さんのために、やはり神様の前で、祈り続けていて下さるでしょう。「神様、どうぞあの人を、ああ今あの人が歩きにくくて困っている、苦労しているあの道、神様どうぞみ力を添えて下さい」と向かうから祈っていて下さるでしょう。こうした祈りと愛によって、肉体を越え墓を通り抜けて、お互の交わりをもっともっと温め、もっと深めて行こうではありませんか。私はこのお二人のお命日を迎えますときに、主イエス様がおっし

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ゃったお言葉を思いおこします。そしてこれを読んで、どうかこれが神様のもとに召されましたあの方たちのところまで聞こえますように、又これを私どももお聞きして、神様を一層賛美出来ますようにと、そういう願いをもってお読みしたいと思います。

 「父の我を愛したまいしごとく、我も汝らを愛したり。我が愛におれ。

 汝らもし我がいましめを守らば、我が愛におらん。

 われ我が父のいましめを守りて、その愛におるがごとし。

 われこれらのことを語りたるは、

 我が喜びの汝らにあり、

 かつ、汝らの喜びの満たされんためなり。」

  (ヨハネ伝15・9~11)

 上堀さん田中さんか二人ともこの喜びをしっかりと持ってそれぞれに、この世の生涯をあのよりにすごされました。そして今天の御国でこの喜びを心ゆくまで味わっておられることでしょう。今日ここにか集りの皆さん、どうぞこの同じ喜びを、しっかりと握りしめ味わっていただきたい。そして世を去った方々とご一緒に、この天の喜びに満たされますようにとおすすめをいたします。

 

1980年10月3日

星塚敬愛園にて

 

故上堀ノプ姉

故田中栄太郎兄

一周年記念