1.聖書の日曜
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今日は降臨節第二主日。降臨節と申しますのは、クリスマスを祝うその前の時なのであります。この降臨節の第二は聖書の日曜日と言われ、聖書のために特別な祈りをする時です。
降臨節と言われるクリスマス前の季節は、キリス卜さまをお迎えする、キリストさまにお会いする、そのことに信仰の重点を置く時であります。
キリストさまをお迎えする迎え方はいろいろあるでしょう。幼稚園の子供さんや、日曜学校の生徒さんたちは、クリスマスをお祝いして、クリスマスツリーを立てたり、サンタクロースを迎えたりというような迎え方でしょう。それも大変楽しい迎え方だと思います。
しかし、わたしたちの世界では、そうしたクリスマスツリーの夢や、サンタの夢がだんだんと遠のいてゆきますとき、一層近付いてくるもの、それが主イエスさまをお迎えする、主イエスさまをお祝いするということでしょう。
わたしたちの一生は、この世の終わるまで、毎日毎日キリストさまをお迎えする日々であるべきで、それがわたしたちの信仰のゆき方ではないでしょうか。
そうありたいのですが、わたしたちはそれを忘れますので、忘れてはならないと、思い出すためにこのような、クリスマスの季節があるのだと思います。
わたしたちに、こうやってキリストさまを迎えなさい、と教えられている一つの方法が、今日のこの降臨節第二週の迎え方です。
それは聖書に思いを向け、聖書を活用して、キリストさまをお迎えする支度をしなさいということです。そこで今朝は聖書についてお話し申し上げたいと思います。
聖書というのは、これはもう申し上げるまでもございません。書物の中の書物、世界の中の一番大事な書物でございます。
ではこの聖書には何か書いてありますか、どんなことが言われているのでしょうか、それはいろいろとあり、その分量は多く、これを読み通してゆくのはなかなか骨が折れますが、これを一口で言えば、わたしたちの生きる歩みを示してくれるものです。
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なんじのみ言葉は、
わが足のともしびなり、
わが道のひかりなり。
(詩119・105)
と言っておるように、この聖書は、わたしたちの一生の歩みを示してくれるともしびなのであります。
聖書をよく見つめながら生きてゆくとき、その中にいろいろと示されていますことは、わたしたちはどのように生きていったらよいのか、生きてゆくとき出会う、うれしいこと、苦しいこと、その祈り祈りに、うれしいことのあるときには、どのように喜んだらよいのか、苦しいことのあるときには、どのように苦しんだらよいのか、聖書は本当の喜び方、本当の苦しみ方、無駄にならない喜び方、実り豊かな苦しみ方を教えてくれる本です。
そして聖書はわたしたちが、喜びあるいは苦しみを繰り返しながら一生を終わる時、その終わりのときに一番安心して、目を閉じられるようにと導いてくれる書物であり、またわたし共がこの世の生涯を終わったとき、神さまが備え給う輝かしい場所へと、わたし共を指し示してくれる書物なのであります。
そういう書物については、いろいろと考えられ教えられることがありましょうが、今朝はこの聖書をどのようにわたし共のものにしてゆきましょうか、ということを考えたいと思います。
使徒行伝の中に、使徒パウロが伝道旅行をした時の事が書いてありますね、アジアから海を渡ってギリシャに伝道を始めました。そこでテサロニケという所で伝道した時のことが書いてあります。
パウロは、テサロニケに伝道した時大変苦労したのですが、そのパウロの働きをみじかい言葉で次のように書いてあります。
聖書にもとずきて論じ、かつ解き明かして、キリストの必ず苦しみを受け、死人のうちよりよみがえるべきことをのべ、
「わが汝らに伝うるこのイエスはキリストなり」
とあかしせり。
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聖書にもとずいて論じ、かつ解き明かして説明し、キリストさまは救い主だということをみんなに知らした。
これを読みますときいつも考えますことは、伝道者は、聖書にもとずいて論じ、説明すると言っておりますが、はたして今わたしたちは、聖書にもとずいて説き明かすという行き方をしているかということです。
いつもどうも遠慮なしに批評ばかりして恐縮ですが、教会の有名な話とか、立派な話を聞いていると、どことかの偉い学者の説にもとずいて、あちらの学者が何と言った、こちらの学者がこう言ったと、そういう学者の説の説明をしてくれます。
まあそう言わないと、みんなが納得しないのですよねえ、古くさい昔の、古くさいと言っても本当に古くさい、二千年も前の話をむし返して、二千年も前にナザレのイエスという人が出て、こうやってあゝやった、なんてそういうことを言っていたら、今どきだれも寄り付かないだろう、と物分かりのいいつもりで同情するのですね、そして今の新しい時代に合うようにと、一生けん命に説明します。
聖書はそんな新しいことは言っていないのです。古い古いことを言っているのです。こんなことを思うとき、さあこの頃の教会の新しい教え、特に知的レベルの非常に高いと言われる、日本のキリスト教会の伝道とか説教とかいうものは、果たして聖書にもとずきてという立場を、しっかりと踏みつけているでしょうか、どうでしょうかということです。
わたしはこれをあやしいと思います。大変失礼な言いかたですが、そのために日本でキリスト教がひろまらないのではないかと思っています。
これ程物わかりの良い日本人に向かって、あれ程理論立ててちゃんと合理的に説明して、聖書を学ばしてくれる、それなのにクリスチャンは増えないでしょう。こういうところに原因があるのではないのでしょうか。
パウロはいたるところで、聖書にもとずいて論じ、説明して歩いていました。そのバウロにみんなが悪口を言っていますよねえ、ことにアテネのあの哲学の町で、
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「このさえずる者何を言わんとするか」
(使徒17・18)
パウロが一生けん命キリストさまのことを言うと、
「このさえずる者何を言うか」
とばかにされてしまった。
どうでしようか、今のキリスト教会のお偉い方々、伝道者たち、
「このさえずる者何を言うか」
とばかにされながらも、
「聖書にもとずきて」
という勇気を持って、福音のあかしをしてくれないものかと思っています。
そればパウロの場合ですが、そのパウロが一生けん命伝道したけれども、テサロニケの町でひどい目に会って追い出されます。次にベレヤという町に行って伝道しました、その時のことを聖書にこう書いてあります。
「兄弟たちただちに夜の間にパウロとシラスをベレヤに送りいだす」
(使徒17・11)
危ないから夜のやみにまぎれて、夜逃げをさせる。伝道者パウロは、夜逃げして次の町に行きます。行ったらそこでかくれていたかというと、そうではないのですね、ベレヤに行った二人は、
「かしこにつきてユダヤ人の会堂にいたる」
(使徒17・10)
そこでまた、ユダヤ人の会堂に行って伝道しております。
それを聞いた人たちのことを聖書には、
ここの人々はテサロニケに居る人よりも善良にして、心よりみ言葉を受け、このことのまさしくしかるかしからぬか、日々聖書をしらぶ。
(使従17・11)
前の所はパウロの聖書に対する姿勢、ここではパウロから話を聞いた人たちの姿勢が書いてあります。
「しかるかしからざるか、日々聖書をしらぶ」
聖書のみ言葉をパウロから聞いて、本当にそうだろうかどうだろうかと聖書を開いてしらべたというのです。これは大事なことだと思います。
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この事は本当に良い事か悪い事か、この事はすべき事か止めておく事か、というときには、やはり聖書に相談してみること、
「まさしくこの事しかるかしからぬか」
聖書を開いて調べてみることです。
聖書によって調べる、という聖書の使い方をわたしたちはしているでしょうか。国の事では何か問題を考える時、これは本当に正しいか正しくないかという時、じきにそれは憲法違反だ、どうだこうだという議論が出ますよね、憲法によって、あゝだろうかこうだろうかと一生けん命考えます。
聖書はまあそういうものでしょう。聖書は魂の決まりでしょうから、聖書によってああだこうだと考えようとする。それ程聖書がわたしにとって身近なものになっておるでしょうか。聖書を調べなければ安心できない、聖書を調べてそこで確かだと安心できる。そういう気持を持って聖書に近付いておるかということです。
聖書というのはそういうものですが、しかしそれをどういう風に受け取り、どういう風に読んだらよいのでしょうか、聖書の読み方使い方を考えます時、いつもしておりますお祈りは、今朝の降臨節第二主日のお祈りです。
我らを教うるために聖書をしるさせたまいし主よ、願わくは、これを聞き、これを読み、ねんごろに学び、かつ味わいて魂の養いとなさしめたまえ。
(祈祷書172)
これが、聖書をどのように受け取ったらよいかという、一つの手引きになると思います。始めの、
「聖書をしるさせたまいし主よ」
よく聖書を大事にする人たちが、あまり大事にしすぎて、少し変になることがあります。それは聖書は、
「神さまのみ言葉の書」
ということをあまり大事に強張しすぎますので、神さまのみことばだから、一言一句間違いないのだという、大変几張面な難しい考え方が昔からあり、そんな方たちは、聖書は、
「神さまのみ言葉」
であるから、これはおろそかに扱ってはならないのだというのです。
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そういう行き方からすれば、この頃の聖書の翻訳などについても批判的になってくる、軽々しく翻訳してはならないということになってきますよね。そういうように、
「神さまのみ言葉」
ということが、ちょっとのことでずれると、聖書の一言一句は間違いがないのだとか。あるいはこれを妙な風に解釈してはならない、聖書の研究なんてそんなことはとんでもない、とずい分片よった考え方になります。
しかしここでわたしたちは、聖書は、
「神さまのみ言葉」
ということを、正しく受け取らねばならないと思います。
聖書はこの通り一言一句間違いないのだと、そんな形の上で聖書の尊さを考えてゆくと、時々間違います。
わかり易い例を申しますならば。旧約聖書の中にネブカデネザル王さまというので、日本語でネブカデネザル王さまと言って、日曜学校の子供さんたちにお話をしてきました。ところがそれがヘブル語聖書のアルハベットの読み違いで、ネブカデレザルの間違いであったと、学者たちが教えてくれました。そしたらそれに猛然と反対があったのです。聖書の言葉が間違いだなんてけしから
ん、と大変なおしかりでした。
しかし間違いはあるのです。
「我らを教うるために聖書をしるさせ給いし主よ」
わたしたちを教えるために聖書をしるさせて下さった神さま、と言ってお祈りをして聖書に近付きます。神さまは、聖書をしるさせたのであって、ご自身で手を動かして聖書を書かれたのではないのです。人間に、この人にここを書かせ、あの人にあそこを書かせて下さったのですから、聖書にもあちこち人間の書き間違い、人間の思い違いがあります。
しかし、その間違いがあるからといって聖書の値打は下がりません。そういうところは段々と世の中が進み、研究が進めば更にまた間違いを正し、正しい読み方を教えてくれるでしょう。
では聖書は何かと言うと、神さまのみ言葉であり。
「神さまのみ言葉の書」
と言えるでしょう。
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「神さまのみ言葉を書いた本」
と言ったらいいでしょうか、それでもどこかで脱線しそうですから、もうちょっとわかり易く、
「神さまの語りかけの本」
としたらどうでしようか。
神さまが語りかけて下さった本ですから、語りかけを聞いた人が、聞き間違いをしたかもしれません。それを書く時に、その手が間違ったかもしれません。
そういう間違いはどうでもいいのです。大事なことは聖書は神さまが語りかけて下さった本だということです。聖書を自分のものとして受け取るときに、神さまがわたしに語りかけて下さっているお言葉の本だ、という思いを、心の中に温めてみることが必要だと思います。
聖書という本をただ読むだけじゃなくて、これを通じて神さまがわたしに語りかけて下さる、呼びかけて下さっているのだなあ、という受け取り方をしてみる、それが聖書を読む一つの姿勢だと思います。
聖書は神さまが昔々二千年前、あるいはもっと前にあそこの人たちに語りかけたのではないのです。今、わたしに語りかけていて下さる語りかけ、呼びかけです。わたしはこれを聞いてみましょう。
そうすると、天地創造の話から始まりますよね、こんなことはなんだったのでしょうか。神さまが天地をお造りになった、そしていろいろなものをお造りになって、人間もお造りになった。これは神さまがわたしのためにお造り下さった世界。造られたその人間は、わたしのことではないのか、とそんな風にあの天地創造の物語を、読み返してごらんになると大変楽しくなります。
このお話の中で、どこでわたしたちが出会っておるでしょうか、聖書の中で神さまと、どこかで出会ってみることです。
その次に、その聖書をどう取るかということです。次の祈りを見てみますと。
「願わくは、これを聞き、これを読み」
この順序はおかしいと思いませんか、願わくはこれを聞きでなく、願わくはこれを読み、これを聞き、とこういきそうなものですが、そうではなくて、これを聞きと、聞くことが一番先に来ております。これはどういうことでしょうか。
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わたしはあるとき、まだ学生の頃でしたが、なぜこれを聞きか、と聞いたことがあります。すると聖書は今のように簡単に手に入るものではなかった。聖書はそれこそ持ち運びも出来きないようなもので、あそこの教会に行かないと無いもの、あの家には聖書が少しはある。というようにそういう不便な時代、そしてそれを誰でも読めるわけではない難しいもの、だから昔の人は聖書は読んでもらって聞いたのだと、そういう風に教えてもらいました。
多分そうなのでしょう。昔の人は皆が読めるわけではないから、皆が集って、会堂にある聖書を読んでもらう。それを皆で聞いたから、これを聞き、なのだと教えられました。歴史的にはそうなのでしょう。
しかしわたしは、もう今みなが自分の聖書を持って読める時代になったときに、このこれを聞くがどう生きてくるのか、これを聞き、の祈りを自分なりに考え直し、読み直して今に使っております。
わたしたちは聖書に向かうとき先ず大事なことは、
「これを聞き」
なのです。わたしの目は見るでしょう、しかしこれは見て読む本じゃないのです。これを聞くのです。これを読む時、これを通して語りかけて下さる、神さまの呼びかけを聞くのです。だから聖書を読むとき、これを聞き、の祈りは今にわたしに生きてくるのです。
「これを聞き」
この祈りを厳しく受け取らねばならない思いがします。聖書を読む時、これを通して今神さまがわたしに呼びかけておられる。わたしの目が一字一字を見ているのではなくて、これを聞くのです。神さまの呼びかけ語りかけを聞くのです。聞きのがしてはならないと思いながら、これを読ませていただくのです。
その次は、
「これを読み」
です。ただ聞いて、あゝそうですかと聞いているだけではなくて、目で読んで、心に受けてゆく、自分で読むということです。この自分で読むということが、時代と共に変わってきたようです。
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この大口の教会では、始まりの頃の人たちのことを思い出してみて下さい。宮原さんのお父さん、松崎先生のこと、市来さんのおじいさん、あのおばあさんのこと、皆さんでどうぞ、この大口教会の一番始まりの頃の人たちのことを思い出して下さい。
どなたもみな大きな聖書を手に持っていらっしゃいました。それをどんな風に、それと親しんでいらしたですか、これを聞き、これを読み、をよくなさっていらっしゃいました。
あの炉端で、ベレー帽を頭にのっけて背中を丸くし、色エンピツを持って、聖書を読みながら赤線を引いたり青線を引いたりしていらした、市来さんのおじいさんの姿がいつも頭にうかんでまいります。
それからまた、それを読み、という聖書の親しみ方をしていらした宮原さんは、これはまた大変勇ましい方でした。聖書を片手にして開きながら、わたしたちに一生けん命すすめて下さった方でした。
松崎先生は、あの忙しい病院のお仕事をしながら、それこそ寸暇を惜しんで、聖書を始めから終わりまで、読んで書いた方でした。二十数年かかってこれを聞き、これを読み、してお書きになり、ご自分のものとしていらしたのです。
こうした大口教会の先輩たちは、「特別な仕方で聖書を読み」、を示して下さいましたが、あの頃はたいていの教会は、聖書を読み、ということをよくしていました。ことに九州を伝道した宜教師たちは、聖書を読むということを厳しく訓練した人たちでした。
ところがだんだん時代がたちますと、聖書を読み、がおろそかにされるようになりました。礼拝で第一日課、第二日課と旧約聖書から新約聖書と、日課が読まれますとき、会衆一同が皆パッと聖書を開いて、その読む所を聞きながら目で読んだものでした。この頃は、そういうことが少くなり、聞く方ばかりで、聞いて読む方はあまりしなくなりました。これは都会の方にいちじるしいようです。
わたしは神戸で、ある大きな教会に時々出ておりましたが、そこではたいてい二三百人の人が礼拝に来るのですが、聖書の日課の所が読まれる時、聖書を開いている人はほとんど居ない、都会の教会はなおさらそうなんでしょう。
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ある時、芦屋の教会に招かれたことがありました。ここは神戸より小さい七八十人ぐらいの教会でしたが、ここでは、おじいさんもおばあさんも、みなちゃんと聖書の日課が読まれるとき、そこを開いて読んでいるのです。それでわたしは、あゝまだここに教会が残っていた、という思いをいたしました。
それはあの教会の伝統でしょう。やはりあそこは九州と同じ宜教師たちが伝道し、あそこで婦人伝道師の学校を経営するという、活動をしていた所なのですね。やはり、
「これを読み」
これは大事なことでしょう。その次は、
「ねんごろに学び」
これはよく学ぶということです。すると、あゝ研究会をしましょう、ということにこの頃のゆき方はなるらしいすが、学ぶとはそういうことじゃないでしょう。学ぶということはまねるということです。どうか聖書を学ばせて下さいということは、どうか聖書を真似さして下さいということです。これはまた難しい、聖書の真似をするのですから難しい。いろいろ難しいですが、
「人もし汝の右のほほを打たば、左をも向けよ」
(マタイ5・9)
これは難しいですね、聖書を学ぶというのは、聖書をまねしなければいけないでしょう。どうやって右のほほを打たれたら、左のほほを向けるのですか。そういう真似ができますか、まあそれは一つの例ですが、聖書はねんごろに学びましょうということです。
聖書を、神さまの呼びかけとしてつつしみ聞き、そして自分の目を動かして手でページをめくって読み、そして学ぶ、少しでも聖書の真似ができればと、わずかずつながらもまねることをやって、聖書に親しんでゆく。その時結果として次の祈りになります。
「魂の養いとなさしめたまえ」
これが聖書に接する目的だということです。
聖書が、わたしの魂の栄養になりますように、魂の力となりますように、というお祈りです。
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一番始めに申しましたように、喜びの時に、わたしの喜びを更に本物にして下さいますように。苦しみの時に、その苦しみを本当にしっかりと受け止めることができますように。魂を養わせて下さいということです。
そこで魂の養いとはどういうことでしょう。魂とは、わたしは子供さんたちによく言うのです。怠けますからね、鹿児島弁でよく言うでしょう。
「生魂(いっだまし)を入れんか!」
その魂とは何でしょう。精神ですか、心ですか、考える力のことですか、そう問いかけられると、ちょっと一口で言えないような、難しい。
聖書を読む時に、一番大事なのば魂の養いが得られるということです。聖書を読んだら、あゝいうことがわかった、こういうことがわかったとか、昔の歴史的なことを知ったり、昔の山や川のことを知ることじゃなくて、魂が養われることなのです。
では魂とは何でしょう。わたしは魂とは、神さまと、お交わりする力だと思っております。神さまとお交わりする力は、大学まで行って、まだ大学院まで行って専門の奥義を極めても、神さまと交わるということのできない人はいるでしょう。現代の知識を極め尽くしても、神さまと交わりのできない人はいくらでもいるでしょう。
逆にそんなことば何も知らない、NHKから放送される片カナの言葉は一つもわからない、ひらがなをたどって読むしかできないそんな人が、神さまと交わることができるでしょう。その、神さまと交わる力が魂だと思っております。
神さまと交わる心、もう少しひらたく言うと、愛する能力といいましょうか、愛する可能性と言いましょうか、愛する力を持っておるものが魂。その魂をもって人に応える、愛をもって人に応える、その魂をもって神さまに応える、神さまと交わりができる、神さまのことがわかる、神さまのことが理解できるそういう能力、力、少しややこしくなりましたが、結局神さまとつき合いが出来
る心と言いましょう。
聖書を通して、神さまが呼びかけて下さるその呼びかけに、アーメン。と答えることができる、それが魂です。
別の言葉で言えば、愛するということです。愛する力が魂です。
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わたしが子供さんたちに言っている、
「生魂を入れんか!」
そこに魂を入れなさいというのは、愛情をそそぎなさいということです。そのことが好きでたまらないように、愛が燃え立ってそのものに取り組む、それが魂を入れてぶっつかるということ。
愛を燃やして愛をぶっつける、愛のぶっつかりを感じられる、愛がわかり、愛が生きられる。その力が魂だと思います。
「魂の養いとなさしめたまえ」
どうか神さま、聖書を読んで神さまを愛し、神さまの愛がわかり、神さまの愛に応え、人さまを愛し、人さまの愛がわかりますようにというお祈りです。
神さまと人との間にあって、一番大事な愛がわかり、愛が受け取れ、愛に反応ができるような、そういう力が与えられますように。これが聖書を読む時の究極の目的なのだとわたしは思います。
我らを教うるために聖書をしるさせたまいし主よ、願わくは、これを聞き、これを読み、ねんごろに学び、かつ味わいて魂の養いとなさしめたまえ。
どうかこの祈りをくりかえしながら、聖書に親しんで、魂を豊かに養っていただきたいのでございます。
1987年12月6日
降臨節第二主日
大口教会にて
※8ページ上段「あの家には聖書が少しはある」の聖書は現在のように出来上かっていない頃の、あちこちに分かれて散らばっていたものを言っているのだと思います。