8.一番の歌
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信仰生活で一番大事な事は何でしょうか。いろいろと考えられるでしょうが、わたしたちに一番大事なことはお祈りだと思います。
キリスト教の信仰から祈りを取ったらどうなりますか、聖書の教えの中から祈りをはずしたら、何が残りますか、何も残らないのではないのでしょうか。祈りを取ったらみんな無くなる、祈りとはそんなものです。わたしたちの信仰生活に、欠かせない大事なものがお祈りなのだと思います。
祈りとは誰にでもできる易しいことで、一番大事なことです。しかし、これはなかなか難しいことなのです。難しいということは辛抱がいるということです。一日や二日祈って、お祈りが聞かれたとか聞かれなかったとか、あるいは一週間や十日祈ってみて、お祈りはもう卒業しました、などとそんなことを言えるようなものではありません。
祈りとは一生の仕事です。一生かかって祈らねばならないのです。一生とは生まれてから死ぬまでです。
生まれるときわたしたちは何も知らずに生まれます。その新しく生まれてくる赤ん坊に、祈りがかけられているでしょうか。朝になり夜になりが次々に重なって幼子は成長してゆきます。その成長のどこにも祈りが入っているでしょうか。いつか大人になって、いろいろのことがおこってきます。その人が一生の営みを続ける中で、休みにも働きにも祈りが入っているでしょうか。そして何よりも大事なことは、この世の生涯を終わるその時、そこに祈りがあるでしょうか。
こう考えてゆきますと、祈りとは誰にでもできる易しいものでありながら、なかなか簡単にはできない一生かかるもの、一生かかってやらなければならないものだと思います。
ある時、大学病院に入院しておられた方の奥さんが、わたしを呼びに来られました。御主人が癌でもう終わりが近づいて、どうしたものかと思っていらしたら。
「牧師さんに会いたいから呼んできてくれ」
と言われたというのです。
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ご主人はクリスチャンではなくて、奥さんが信者で、その奥さんがわたしの所に来られたのです。それまでにわたしはその方にお会いしたことはありませんでした。ご目分でこの病気がどうにも離しいことをお悟りになって、奥さんの行っている教会の信仰というものに興味を侍たれるようになって、わたしが呼ばれて行ったということです。
さあ、これは難しいですよねえ、そういうときにどうしましょうか。キリスト教のことは少しはご存知だったのでしょうが、そういうとき何を求めていらしたのでしょう。わたしに何をお聞きになりたかったのでしょう。わたしも病室に入って戸惑いましたねえ、その方に何のお助けができるのでしょうかと思って。
そのとき一つの歌を考えましたので、歌を歌ってあげましょうかと申し上げましたら。
「はいどうぞ」
と言われましたので。
「おくさまもご一緒に歌いましょう」
と、聖歌の四百六番を開いて一緒に歌うことにしました。
一、いのりはくちより いでこぬとも
まことあるたまの ねぎごと(願事)なり
いのりはこころの そこにひそみ
かくるるほのおの もえたつなり
二、いのりはおさなき くちびるにも
いいうるたやすき ことのはなり
いのりはあめなる みくらまでも
けだかくきこゆる うたにぞある
三、いのりはくいたる つみびとらの
まよいのみちより かえるこえぞ
みつかはききて こと(琴)をかなでる
よろこびのうたを あわせささぐ
四、いのりはみたまの いのちをうる
きよけきみたまの かぜにぞある
いまわのきわには ちちのいえの
みかどのひらくる あいことばぞ
(聖歌四百六番)
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という歌でした。これを聞いておられたその方は大変お喜びになって、
「もう一ぺん歌って下さい、わたしも一緒に歌います」
ということで、もういっぺんくり返して一緒に歌いました。
わたしはその方に、
「今は大事なときです。すばらしい時です。向かうのですその時に一番いい歌はこの歌でしょう。どうかこれをよく味わってみて下さい」
と申し上げて帰りました。それから何回かおたずねしましてから、その方は静かに終わりを迎えられました。
その終わりのときまで、あの歌を歌え、あの歌を歌え、と言われるので、何の歌ですかと聞かれますと、
「神さまのあの一番の歌」
と言われるので奥さんは、
「一番の歌とはどれですか」
と聞かれると、
「いのりは口より出でこぬとも、これが一番の歌だ」
と、奥さんはびっくりして、「それは四百六番の歌ですよ」
と言われても、
「あれは一番の歌だ」
として、終わりまでその歌を、
「一番の歌」 「一番の歌」
と、求め望まれて、何回も何回も聞いておられたというのです。
わたしは聖歌を開けますと、聖歌のあれこれにいろいろの顔がうかびます。その中でこの四百六番をあけますと、これを一番の歌だと言った方を思い出さずにはおられません。そしてその一番だという意味もまた、あらためて味あわねばならない気持にされるのです。
この歌が、あの方にとって一番の歌だったということは、始めてキリスト教の聖歌、教会の賛美歌を聞いたという一番の歌だったのかもしれません。しかしそのことだけじゃなくて、この歌をずっとたどってみますと、この歌全部が、これは一番大切な、あの方にとって一番必要な、一番頼りになる歌だったなあと思われまして、一番の歌とおっしゃったか気持がだんだんとわかってまいりました。ほんとうにこれは一番の歌だったのだと、わたしはこれを開けると先づ、一番だと思って歌います。
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「祈りは口より出てこぬとも」
これは四節までありますが、それは全部祈りの歌ですから、これはやはり一番のはずです。
わたしどもの信仰生活に一番大事なことを歌い上げています。その一番の歌の一節、
「祈りは口より出でこぬとも、まことあるたまのねぎごとなり」
始めはなかなか祈りが口から出てきません。しかし一生かかって祈ろうと始めるのですから、あわてることはありません。
「まことあるたまのねぎごとなり」
神さまに心から申し上げる言葉です。神さまにお話し申し上げるお話です。神さまとお話ししておれば、
「祈りは心の底にひそむ、かくるる炎の燃えたつなり」
声になってはなかなか出てこないのですが、そういう気持で祈っているうちに、その祈りは心の底にたまってゆきます。その心の底にたまったものは、目に見えない炎となって燃え出してくるのです。
それが祈りの第一でしょう、祈りをしておれば自然に心が燃え出してくるのです。
その次の二節は、
「祈りは幼なき口びるにも、言いうるたやすきことのばなり」
祈りはいつから始まりますか、子供が生まれます。その時からお母さんの祈りがあります。(実際はお母さんの祈りはお腹の中から始まっています)わたしは赤ちゃんが生まれる方に必ずおすすめします。それは赤ちゃんにお乳をやるときは、祈ってお乳をおやんなさいということです。祈りをしてお乳をあげると、お乳の中にか祈りが注ぎこまれているのです。そんなつもりでか乳を飲ま
します。
赤ちゃんは、お乳とともにお母さんの祈りを飲みこみます。祈りとは言葉が言えるようになってからのことと悠長に考えてはなりまぜん。
赤ちゃんは、生まれたその日から祈りの注ぎこまれたお乳を飲んで大きくなっていって、やっと言葉が言えるようになります。その時何を教えますか、たいていの若いお母さんたちは、一番始めに言い易いパパとかママとか言わすでしょう。パパとかママとかと同じぐらい言い易いのばアーメンではないでしょうか。
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やっと口が動くようになったら、アーメンを言わせるのです。言わせる前に聞かせるのです。母親が何べんでもアーメンアーメンと赤ちゃんの耳に聞かせてやります。そうすると赤ちゃんはちゃんと覚えて、アーメンが言えるようになります。
パパよりママより先にアーメンだという、これは大変なことです。信仰の根本です。神さまが一番だということを子供は小さい時から身につけてゆきます。お乳を飲むときご飯を食べるときアーメンです。アーメンを言わなければご飯が食べられない、そういう習慣をつけてゆくことはとても大切なことです。
わたしは神学院のときおどろいたことがありました。それはアールデンーショー、ショー先生という方がいらして、これは大変な大学者でしてねえ、いろいろと学問を極めた方なんですが、その一つとして、その先生が英国の大学に居られる時、恐しいような大きな百科全書を全部読まれた方なのだという言い伝えが残っておりました。その先生の講義を受けるというとき、どんなに難し
い、いかめしい講義だろうと思っていましたら、第一回の講義は、児童の宗教教育についてその偉い大先生が。
「子供の生活の大事なことの一つは、先づ食前の祈りをすることです」
ということでした。そして。
「食前の祈りをしないでご飯を食べることは、神さまのものを泥坊することです」
と言われるのです。その大先生が、しかも大学の学生をつかまえて、日曜学校の生徒に話すような単純なばかばかしい話をする人だなあと思いました。しかし、だんだんと時がたつにしたがって、これは大変な偉い先生だなあとしみじみ思えるようになりました。
神さまのものを感謝しないで黙って食べるのは泥坊することだから、食前の祈りをちゃんと教えこまねばいけないというのです。そのように小さい時から、身近なところから神さまとつながってゆく、そしておりおりに神さまに声をかけながら暮らしてゆく、これはまだ子供が幼稚園にも行かず、小学校のお勉強も始まらないとき、ちゃんと始める、一生の一番大事な学びであると思います。
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「祈りは幼なき口びるにも、言いうるたやすきことのばなり」
そうやって育ってゆく幼子は、いつの間にかお祈りが言えるようになり、自分でお祈りをやります。そうすれば、
「いのりは天なるみくらまでも、けだかく聞こゆるうたにぞある」
その小さい幼子が、幼ない子供の言葉でするお祈り、それは気高く、神さまのみくらまで上がってゆくものです。本気でこれをやってみて下さい。
わたしは大口で楽しいことの一つは、幼稚園に呼ばれてお誕生会に出さしていただくことです。お誕生会ではその月に誕生日を迎える人たちに祝福をしなさいということで、わたしは一人一人園児の頭をつかまえてお祈りをします。それは短いお祈りで、
「誰それさん。お誕生日おめでとう、神さまの子供です。いつもイエスさまといっしょです」
そういう誰にでも分かるような言葉でお祈りをします。一人一人のお祈りを終わってから、みんなの園児たち、先生たちやお母さんたちも一緒に、この園児のためのお祈りの歌を歌ってもらいます。それは簡単な歌で、ただ、アーメンと言うだけです。
「アーメン、アーメン、アーアーアーメン」
それだけを二回くり返します。そしてわたしはみんなを祝福いたします。
その月に誕生日を迎えた子供さんたち、集ったほかの園児たち、またその中でも大事なのは、集って来られたお母さんたち、わたしは精いっぱいにアーメンを聞かせてあげたいのです。
この子供たちがだんだんと大きくなって、いつかどこかで何かにぶっつかったとき、このメロデーを思い出してくれたらと願い期待をしているのです。
あるいはこのお母さんたちが、いつかどこかで何かにぶっつかったとき、幼稚園であんな歌があったなあと、それがまた思いがけないところでよみがえらないともかぎらないと思うのです。
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そういう何て言いますか牧師の欲なんですよねえ、そのアーメンの歌を幼いうちから聞かしたい。お母さんたちにも覚えてもらいたいという願いと祈りで、毎月のお誕生会を楽しませてもらっております。
「いのりは幼なき口びるにも、いいうるたやすきことのはなり」
これを信じてわたしの歌えるかぎり歌い続けたい。わたしが歌えなくなったら、子供さんたちが歌ってくれるでしょう。もうこの頃では子供さんたちがよく覚えていてわたしが歌いはじめると、いっしょに十字をきって歌ってくれます。
次は三節です。
「祈りは悔いたる罪人らの、迷いの道より帰る声ぞ」
人を修繕する、迷い出た人を引き返すためにはどうしたらよいのでしょうか。それは難しいことです。しかしこの歌は、それは祈りだと言っています。祈りをすると道が開けるというのです。
「なぜこんなことをしたのだ、どうしてこんなことを」
問いつめ、とがめ、罪をせめるだけではよくならないでしょう。一番確かな方法は祈るのです。祈りを与えることなのです。
かねてから祈りのあることを知っておることです。誰でも間違いはあります。誰でも神さまの前にあいすまないことがあります。
そのときわたしはもう駄目だと、そちらに向かって一直線に落ちこまないことです。どんなになっても、ああわたしは地獄ゆきだなあというような気持になるときでも、そこで祈りがあれば帰れます。
「祈りは悔いたる罪人らの、迷いの道より帰る声ぞ」
イエスさまとならんで、十字架につけられていた盗人が言いました。
「どうぞイエスさま、あなたがみ国にお入りになるとき、今日ここでいっしょに十字架につけられた者がいたということをおぼえていて下さい」
その悔いた罪人の声を聞いて、イエスさまは苦しさの中から、そちらに顔を向けておっしゃいました。
「今日汝は、われと共に。パラダイスにあるべし」
十字架の上の盗人は、
「どうぞわたしを救って下さい」
じゃなかったのです。もうこの期に及んで救って下さい、助けて下さいじゃなかったのです。
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「せめてわたしを忘れないで覚えていて下さい」
あんな罪人が居たということを覚えていて下さい、という切なる願い、イエスさまはそれに対して、
「今日汝は、われと共に。パラダイスにあるべし」
これは三節の歌の通りと言えないでしょうか。
「祈りは悔いたる罪人らの、迷いの道より帰る声ぞ、み使いは聞きて琴をかなで、喜びの歌を合わせ捧ぐ」
このような祈りがあるということを、かねてから知らせておくことが必要じゃないでしょうか。どうにもならない時になってから、
「さあ悔い改めなさい」、「さあこれを救いましょう」
と言ってもおそいのです。そうならないうちにかねてから早く、お祈りをすればいいのだということを知らしておくのです。
かねてお祈りをしない人でも、行きずまった時お祈りをすれば開ける道があるのだ、ということを知らせてあげるのが伝道じゃないですか。
伝道というのは、聖書のあちこちを知らないだろうからと教えてやるというような、キリスト教のことを教えるのが伝道じゃないのです。それは学びでしょう。伝道は学びではなくて一番大事な祈りを知らせることです。
困ったとき祈る、苦しいとき祈る、今は何でもなくても祈る、子供には小さいときから祈ることを教え、祈る習慣をつけるのです。それが伝道でしょう。
わたしどものいろいろなおつき合いの中でも、祈る習慣を知ってもらうのです。あそこの家に行ってご馳走になったところ、食事の前にお祈りがあった、何かわからず目をつむっていた、そんな経験をさしてあげていいじゃないですか。
あの人はそんなことを知らないのだからと、お祈りを遠慮することはないのです。このごろのクリスチャンはエチケットがどうのこうのと言ってお祈りを遠慮しますが、誰もお祈りしなくても一緒に食事することがあれば、そこでお祈りをして、お祈りを知ってもらうのです。
また病気の人をお見舞するとき、二人とか三人とか同室の患者さんがいると遠慮してお祈りをしなかったり、お祈りをしても小さな声でボソボソと祈って帰ってくる。それでいいでしょうか。
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わたしはお見舞するときは、一緒に入っている患者さんの所にも行って一言お祈りの言葉をかけます。相手が仏教の人であろうが無神諭者であろうが、そんなことは、関係はないのです。
「わたしはこの人のためにお見舞に来ました、一緒にあなたのためにもお祈りします」
と言ってお祈りします。迷惑かどうかしりませんけれど、神さまにお願い申し上げますと言えば、いやですと言う人はありません。
お見舞に行った時などはやはり、同室の人にもお祈りのめぐみをちょっとおわけしておくことですね、いざというとき大きな力になってきます。
それから次は四節、
「祈りはみ民の命をうる、きよけきみたまのかぜにぞある、いまわのきわには父の家のみ門の開くる合言葉」
祈りは神さまの家の戸びらを開くかぎです。わたしどもは、一生が終わって神さまのところに行くときは何を持ってゆきましょうか。
「神さま、わたしは一生かかってこれだけの富をたくわえました」
と富を背負ってゆくのでしょうか。
「神さま、わたしはこれだけ頭につめました」
と言って、頭をふりながら神さまのところに知識を持ってゆくのでしょうか。
ヨブが言ったように、
「われ裸にて母の胎を出でたり、また裸にてかしこにかえらん」
(ヨブ記1・21)
その裸でかえるときに、ただ一つ持ってゆくものがあります。生まれたときからいただいたもの、一生大事に使っていたもの、それは祈りです。
「わたしの祈りをお聞き下さい」
祈りを神さまの前に差し出します。それは天国のとびらを開くかぎです。この確かな祈りというかぎ、これを持っておれば、こんな心強いことはありません。
この世の暮らしを終えたときには、天国の門を開くことができるのです。
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「いまわのきわには、父の家のみ門の開くる合言葉」
生まれてから死ぬまで、わたしの一番大事なのは祈りです。それは神さまのみ国まで持ってゆけるもの、そして神さまの家の門を開くかぎです。
その祈りとはどんなものでしょう。祈りとは始めから申し上げましたように、誰にでもできるやさしいものです。それは神さまとお話しすることです。それは神さまと顔を合わして話し合っているようなつもりになることです。神さまの前でわたしのことをなんでも出してみるのです。
神さまにああして下さいこうして下さいとお願いしていいのです。いろいろ言っているうちにぼこっとつまることがあるかもしれません。つまってお祈りができないときは黙って、神さまの声を聞いておればいいのです。
「いまわのきわには」
この世で終わりになって声が出なくなっても、祈りが終わりになるのではありません。その声の出なくなったわたしを神さまの方から声をかけて下さるのです。その声に支えられ乗せられて、天国の門を入ってゆくのです。
お祈りとはそういうものでしょう。わたしの一番大事なお祈りを、一番大事にしてゆきたいものです。
1988年2月28日 大斎第二主日
大口教公会にて