3.わたしの日をかぞえる


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 中摩さん、八十才のお誕生日おめでとうございます。

お正月、お誕生日とか目出たいことが二つ続きましたね、良い事は二つあると三つはあるものだと言いますが、今日はまた日本晴れの気持の良いお天気です。このお目出たい日に、詩編九十編を見てみましょう。その中の一節と二節、

 

一、 主よ、なんじは我らの住みかなり、

   いにしえより世々われらの住みかなり。

二、 山いまだ成りいでず、

   なんじいまだ地と世界を、

   造りたまわざりし時より、

   なんじは神なり、

   とこしえよりとこしえまで、

   なんじは神なり。

    (詩90・1~2)

 

神さまが住み家だというのですね、わたしたちは住み家を神さまに持っているとは、まことに有難いことです。神さまがわたしの家、わたしどもは神さまの中で暮らしているのだというのです。

 その家は新築の家ではなく、わたしの生まれ出る前から、生まれ出て今に至るまで、住み家になっていて下さったのです。どこに行っても自分の家程良い安心な所はないでしょう。ある所で子供たちに、

 「お家とは何をする所ですか」

と聞いたら、

 「安心して裸になってよい所」

と答えたそうです。

 家とは本当に安全な所、裸でもあぶなくない所ですね、神さまがわたしの住む家ですから、そこでは一番安心で安全です。裸でも恥ずかしいことも恐ろしいこともないのです。

 桜島が出来ない前から、わたしの神さまだったとは、これは大変なことですね。わたしが生まれない前から、そして生まれてきて今に至るまで、それからこの先はいつまでも、八十九や九十まででなく、いつまでもいつまでもわたしの神さまであるとは、なんと有難いことでしょう。

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 わたしどもは神さまの中で生きてゆける、神さまの中で生きてゆける、神さまの中で歩かせていただけるのです。

 次は四節

 

四、なんじの目には、

  ちとせもすでに過ぐるきのうのごとく、

  また夜の間のひとときにおなじ。

   (詩90・4)

 

千年もきのうのようなもの、中摩さん八十になったと思いなさんなよ、千年も夜の間のひととき、一晩すごしたぐらいだというのです。これからまだまだ長いのですよ。

 「とこしえよりとこしえまでなんじは神なり」

と、永遠から永遠まで、いつまでもいつまでも、わたしどもは神さまの中で守られ、導かれて生きていけるとは何とうれしいことでしょう。

 次は十節、

 

十、我らが世にあるは七十年にすぎず、

  あるいは健やかにして八十年にいたらん、

  されどその誇るところは、

  ただ悩みと悲しみとのみ、

  その去りゆくことすみやかにして、

  我らもまた飛び去るなり。

   (詩90・10)

 

七十年、八十年生きたとしても誇ることはないでしょう。人生は苦しいこと、悲しいこと、いっぱいありました。そしてそれは消えて去ってゆくのです。わたしたちの苦しいこと、悲しいこと、次々に消えて去ってゆきます。

 こんな人生です、わたしたちはいつも神さまの手に支えられていたのです。神さまはその折りその折りにいつも助けて下さいました。

 次は十一節、

 

十一、なんじの怒りのちからを知るものはたれぞ、

   なんじをかしこみ恐れ、

   その憤りを知るものはたれぞ。

   (詩90・11)

 

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わたしたちの会っているいろいろの災い、苦しみ悲しみ、それを神さまはお喜びになるはずはないのです。わたしたちのために神さまは怒っていて下さるでしょう。わたしたちが苦しみから抜け出したいと願っている以上に、その苦しみ悲しみから抜け出さしてやりたいと、神さまは手を添えていて下さるのです。

 わたしたちに苦しくつらい、悲しいことがあっても、神さまは、わたしたち以上に悲しんで心配していて下さるのです。この者に、この悲しみ、この重荷を負わせたくないと思いやって、手を添えて下さるのです。それを信じて生きてゆきましょう。

 次は十二節、

 

十二、ねがわくはわれらに、

   おのが日をかぞうることをおしえ、

   知恵の心を得しめたまえ。

    (詩90・12)

 

わたしは毎年、お正月と暮れと二回は、この詩編のこの言葉を読み返し味わい返しております。お正月味わって有難く、暮れに味わって有難く思うのです。

 神さまどうか自分の日をかぞえることを教えて下さい。そして知恵の心を自分のものにして下さい、という祈りです。わたしたちに自分の日をかぞえさして下さい、ということはどういうことでしょうか。

 お正月を迎えましたとき、この年はカレンダー屋さんの造った年ではなくて、神さまがわたしに与えて下さった良い年だ、と受け取るということです。

 一月元旦からかぞえて、二日、三日、十日、……十月、十一月、と十二月三十一日までかぞえてゆくわたしたちに、わたしの日としてかぞえさして下さい。神さまがわたしに下さった大事な日として、しっかりと心をこめてかぞえさしていただきたいのです。

 いろいろのかぞえ方があるでしょう。

 「また雨か、もう三日も降り続いている、いいかげんお天気になればいいのに」

とかぞえたり、

 「あゝ今日はもうけた」

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とかぞえたり、

 「今日は損をした、又損をするといけないからもう店を閉めよう」

というようなかぞえ方もあるでしょう。いろいろなかぞえ方があるでしょうが、わたしたちはどのようなかぞえかたをしましょうか。

 かぞえかぞえて、いい加滅かぞえて、十月の頃にでもなれば、こんな年は忘れてしまわないといけないというので、忘年会のことを考え始める。ボーナスまで待っておれないで、もう忘年会をしましょうと、そんな一年をかぞえる人たちがあるでしょう。わたしたちはどうかぞえたらいいでしょうか。

 「知恵の心を得しめたまえ」

これはかしこくならして下さいという意味ではないのです。神さまのお気持がわかるようにして下さいということです。この詩は素晴らしい詩ですねえ。

 一日、一日を、神さまがわたしに下さった日としてしっかりとかぞえ、神さまのお気持がわかるようにして下さいというのです。 かぞえる時、涙の出る日、ぐちの出る日もありますね、また怒りの飛び出してくるような日、といろいろあるでしょう、しかしそれをしっかりとかぞえたいのです。

 かぞえるということを、整えるという意味だと言う人もおりますが、かぞえかぞえているうちに、いつか神さまのお気持がわかるようにして下さいというのです。そのように毎日をかぞえられたらいいですよねえ。

 それはどうやってかぞえたらいいのでしょうか、わたしは自分の子供の頃のことを思い出します。昔始めて小学校の一年生になった時、その頃は今のようにモダンでなかったので、小学校の一年生で始めてかぞえることを習いました。今そんな人は居ないでしょうが、昔は皆鼻を二本たらしてネ、両の手を出して一生けんめいかぞえたものです。ああ、このかぞえ方だなあと思いました。

 両の手を出して、しっかりと一つずつかぞえる。手は両方にありますから二つとも使うのです。一方の手は感謝をかぞえ、もう一方の手は懺悔をかぞえるのです。感謝ばかりかぞえ上げるというのでは、少し具合が悪いのです。懺悔がないといけないのです。懺侮の方の手を使わないと自分ばかり良くなって、自分はいいけどほかの者が皆間違っているというようになってしまって、世の

中がつまらなくなります。

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 懺悔はブレーキの役目をしてくれます。懺悔することで、つまらなかったと思ったことが、感謝の方へ移ってゆくことがあるのです。

 懺悔と感謝で今日をかぞえ上げ、明日をかぞえる。そんなかぞえ方で、新しい年を一日、二日、とかぞえていって、九日までかぞえてみたら誕生日をかぞえ当てた。

あゝこれは有難いことだと、感謝とかぞえておさめるのです。

 ある時は、何とつらい、何とつらいとかぞえているうちに、神さまのお気持がわかってきたら、

 「あゝあの時の悲しみ、あの時の苦しかったことが、こんな大きな大事な役目をしていたのだなあ」

ということに気付くことがあるでしょう。

 「知恵の心」

を得たら、マイナスとばかり思っていたことが、プラスだったということがわかり。感謝の数がもっと増えてゆくのです。

 お誕生日を迎えましたこの時、長い生涯をお守り下さったことをまず感謝いたしましょう。神さまのお守りの中で暮らしている一日、一日ですからね、良い日だけでなく悪い日もしっかりと、感謝と懺悔とでかぞえていって下さいねえ。

 次の誕生日までの一日、一日を、大事にかぞえ整えて神さまの帳面に栄光の日、と書き記されるようにどうかかぞえ上げて下さい。

 

1974年1月9日

 ナオミ中摩つやさん誕生日

       重富集会にて