5.愛のうた
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教会の暦によりますと、今日は大斎前第一主日そして今週の水週日は大斎始日となっています。その日から今年の大斎節という季節が始まります。それは四月十日の復活日まで、主日を除いて四十日間です。これは御復活を迎える前四十日間特につつしみはげみ準備するための季節であります。
四十日というのは、主イエスさまがその公生涯(こうしょうがい※1)の始まりに荒野で四十日四十夜断食して祈り、サタンの試みにうちかちなさったことを記念し、またその四十日の終わりの一週間は、十字架におつきになる前後一週間、主イエスさまのお苦しみを記念するためのときであります。
でありますから主イエスさまの始めと終わりの最も大きなお苦しみを思い、神さまのおん独り子の苦しみを記念して、わたしたちはそれにどのようにこたえていったらよいでしょうか、と考え励みながら御復活を迎えましょうということでございます。
それで大斎節の間は、とくに祈りと断食と奉仕という三つのことに重点を置いて、信仰生活をつとめようとするのであります。
今日は断食ということについて考えてみたいと思います。断食とは、食べものとかあるいは見るものとか聞くものとか、いろいろなわたしたちの楽しいことを止め、またはひかえようということであります。
なにも食べ物だけを断つというのではありません。日本では一般に断食というのは、断食そのものに何かご利益があるように考えられているようです。願立てをして茶断ちをするとか、あるいは玉子を食べるのをやめるとか、いろいろの仕万で食断ちをなさる方があります。この頃は受験期に入っていますから、子供さんの入学のために断食をなさっている方もあるかも知れません。
昔から多くの人びとは、断食するそのことにききめがあるというふうに考えてきました。しかしそうではありません。おなかをすかすことに何かふしぎなききめがあるのではありません。
大斎節の間に教会では祈りと断食ということがすすめられますが、教会でいう断食とは、何か苦行という方面に重点がおかれている断食の考え方とは少し違っているのであります。
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食を断つというのは、欲をおさえて打ち勝つ、ただそれだけではありません。食べないだけが断食ということではありません。いくら食べ物を食べなくてもそれだけでは断食ではありません。何か食べたいとか何かしたいとか、そちらに向かうわたしたちの心の思いや体の力、あるいはそれに使うところの時間、それらをもっと違った方向に向けること、それが断食です。
断食というのば、わたしたちの心のはたらき、暮らしかたの方向をかえるということです。方向が変わること、それが大事なことです。方向を変えない断食は、ただの苦行にすぎません。それを積み重ね努力しても、どうということではありません。
断食によって方向を変えるのです。どういうように方向を変えましょうか、それは今朝の大斎前第一主日の特禱(とくとう)の中に言われており、また使徒書の中にありますように、愛の方向に向きを変えるということです。
わたしたちの生活の方向を、愛という方向に向けましょう、愛をもう一度深めてゆきましょう。愛をもっとたしかめ、愛に向かって生きる工夫をしましょうというのが、大斎節の目的だと思います。
どれだけ厳しく断食を励みお祈りしても、愛がちっとも深まらないならば、それは空っぽの大斎節だと思います。
昔から教会では、大斎節を忠実に守らなければ信仰生活の一年は不作となると言われてきました。どうかそうしたからの大斎節にならないように、この大斎説を実り豊かな時にしたいと思うのでございます。
大斎節が始まろうとする直前、今日の主日に読む使徒書としてパウロの「愛の歌」が選ばれてあります。
コリント前書十三章一節から読んでみましょう。
たといわれもろもろの国人の言葉および御使いの
言葉を語るとも、
愛なくば、鳴る鐘や響く”にようはち”のごとし。
たといわれ預言する力あり、またすべての奥義と
すべての知識とに達し、
また山を移すほどの大いなる信仰ありとも、
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愛なくば数うるに足らず。
たとい我わが財産をことごとく施し、
またわが体を焼かるるために渡すとも、
愛なくばわれに益なし。
愛は寛容にして、慈悲あり。
愛はねたまず、愛は誇らず、高ぶらず、
非礼を行わず、おのれの利を求めず、憤らず、
人の悪を思わず、
不義を喜ばずして、まことの喜ぶところを喜び、
おおよそ事忍び、おおよそ事信じ、
おおよそ事望み、 おおよそ事耐うるなり。
愛はいつまでも絶ゆることなし。
されど預言はすたれ、異言はやみ、
知識もまたすたらん。
それ我らの知るところは全(すべ)からず、
我らの預言も全からず、
全き者のきたらん時は、全からぬものすたらん。
我、わらべの時は語ることもわらべのごとく、
思うこともわらべのごとく、
論ずることもわらべのごとくなりしが、
人となりては、わらべのことを捨てたり。
今我らは鏡をもて見るごとく見るところ おぼろなり。
されど、かの時は、顔をあわせて相見ん。
今わが知るところ全からず、
されど、かの時には、わが知られたるごとく
全く知るべし。
げに信仰と望みと愛とこの三つのものは
限りなく残らん。
しかしてそのうち最も大いなるは愛なり。
(コリント前13・1~13)
まことにすばらしい愛の歌であります。ここで始めに聖パウロは、どんないいことを言っても、愛がなかったらそれは何にもならない「愛なくば鳴る鐘や響く”にようはち”のごとしただやかましい音を出す鍾やシンバルのように意味のないものだと言い、また愛がなかったら、山を移すほどの信仰があっても「数うるに足らず」と。また愛がなかったら、どれほど慈悲深く優しく親切であろうとも、自分の体を焼かれるために渡しても「愛なくばわれに益なし」と。このようにくり返して、愛がなくてはどうにもならないことを言っております。
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そしてその次に「愛は寛容にして、慈悲あり。愛はねたまず、愛は誇らず、高ぶらず」とつづけて、愛とはどのようなあらわれかたをするのかと、愛の姿を、愛とはこんなものだ、愛とはこんなものではない。と肯定と否定の両方の面から書いてあります。
愛とはこういうものだと言っておりますその中に、「不義を喜ばずして真理(まこと)の喜ぶところをよろこび」
と、これは口語約聖書では「真理を喜ぶ」「真実を喜ぶ」となっていますが、古い文語体では「まことの喜ぶところを喜ぶ」となっております。
これは口語体の万がわかりやすいのですが、しかし聖書の言葉は、わかりやすいことが必ずしも本当の意味に近いとは言えないと思います。
「真理(まこと)の喜ぶところを喜ぶ」これはギリシヤ語の直訳で、まことにぎこちないわかりにくい言い方のようですが、しかしこれが聖書的な言い方ではないかと思います。
まことが喜ぶのです。そのところをわたしもよろこぶ、それが愛だというのです。
まことが喜ぶとはどういうことでしょう。まことというものがただ真理、正しいこと、と言うような一つの徳目(※2)のようなあつかいはされていないのです。まことというものが人格を持っている、ある生きたものであるかのように表言されてある。そのまことは何かというと、それは活ける神さま。神さまがまことである、最高の真理は神さまご自身だという考え方なのです。
真理(まこと)が喜ぶというのは、神さまがお喜びになる。神さまのまことが、神さまの正しさが、満足なさる。もっと言いかえれば、神さまの真理が十分にあらわれ満足するということ。それがまことが喜ぶということなのです。
わたしたちが、真理にかのうように真理を守ってゆくというのではなく、まことが喜ぶのをわたしたちが喜ぶのです。神さまの真理が、神さまご目身が満足なさる、それをわたしたちが喜ぶ、それが愛だというのです。
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愛というのは、まことがお喜びになる、神さまの真理神さまの正義が充分に満足なさる。その神さまのお喜びの中に、そのご満足の中に、わたしたちも入れていただく、神さまの正しさがわたしを支配し、わたしをすっぼり包みこみ、神さまの愛がわたしのものになり、わたしの愛は神さまの愛にされるでしょう。それが「まことの喜ぶところを喜ぶ」愛です。
愛というのは、わたしが親切にしてもらっていい気持になって、ああ愛された、というそうではないのです。あの人が親切にしてくれる、この人に優しくする、それが愛というような、ただ人間的なものではないのです。
神さまの真理が喜ぶ、神さまの真理が押し通ってゆく、それが愛だということです。でありますから「真理(まこと)の喜ぶところを喜び」という、このぎこちないような言い方は、まことに味わい深い、そして愛について考えるときに、最も大切な基本線、愛のすべてを言っていると言えるのではないのでしょうか。
そういう愛についてパウロは、その愛はいつまでも絶えることはない「預言はすたれ、異言はやみ、知識もまたすたらん」しかし愛はすたらない。と言い、
「信仰と望みと愛とこの三つのものは限りなく残らん。しかしてそのうち最も大いなるは愛なり」
と、愛について歌い上げております。
この大斎節の間、いろいろすることがあるでしょうが、このパウロの愛のうたを、毎日いちど読んでみるというのは、いかがなものでしょうか。それもりっばな断食でしょう。
朝起きたらまず新聞が来てるかな、はて何か書いてあるかなと、新聞に向かうところの目や思いを断食して、大斎の間は新聞よりもさきに、このコリント前書十三章を読みましょうということにしたら、すばらしい断食ではありませんか。
いかがでしょうみなさん、今年は四十日これを読み通しましょう、というようなことはどうでしょうか。そうすると、きのう読んだのに気がつかなかったが、今日はこんなこともあったのかと新しい発見があり、四十日の間には、パウロの愛のうたから、愛についてのいろいろな反省や、いろいろな思いを深められることも多いのではないかと思います。
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朝起きたとき、また夜やすむ前これを読む。これは手がるにだれにでもできる断食ではないでしょうか。
あるときこんな話を聞きました。ある方が大変苦しいことに出会いました。そして、どうしてもわたしはここから抜けられない、あの人をゆるすことができないと苦しみました。それでどうしたらよいだろうかと、ある牧師のところに相談に行きました。するとその牧師は、
「わたしはそれをどうしてあげることもできない。わたしにいい知恵が出てくるわけでもない。しかしあなたは、このコリント前書十三章を毎日読んでお祈りをしなさい」
と言ってすすめました。その方は、そのすすめに従って、毎日聖書のそのところを読みました。涙をポトポトと落としながらこれを読んだそうです。
涙とともにこの愛のうたを読み、その涙が、たたみの上に落ちて、しみこんでゆく幾日かをすごしました。そうしているうちに、涙がたたみの目にしみこむとともに、だんだんとこの愛のうたが、その方の心にもしみこんでゆきました。
そうしていつの間にか、どうしてもあの人はゆるせないと言っていたその問題が、不思議に解決できるようになったということでございます。
どうでしょうか、このコリント前書十三章をお経のようにしてみたらいかがでしょう。仏教の方は、お経をくりかえし唱えるでしょう。わたしたちもお経を唱えるように、この愛のうたを読んで、読んで、読んで、そして祈って、というような大斎節の一つの励み方をしてみたらどうでしようか。
とにかく最も願わしいことは、どうかここに言われております愛を、大斎節の間に少しでも身につけていただきたいと思うのでございます。
またこの愛については、今日の大斎前第一主日の祈りをもう一度読みかえしてみましょう。
主よ、
我らを教えて、愛なくば、いかなる行いも益なし、
愛は平和ともろもろの徳の帯なりとのたまえり。
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また愛なき者は生けるとも死にたる者と認めたもう。
願わくは聖霊をくだして、この最も尊き徳(※3)を、
我らの心に満たしたまえ。
ひとりの御子イエス・キリストのために聞こし召した
まわんことをこいねがいたてまつる。アーメン
(祈祷書212ページ)
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大斎を迎える直前の祈りですが、ここで二つのことが言われております。
「愛は帯だ」ということと、もう一つは「愛なき者は生けるとも死にたる者と認められる」ということであります。
愛は帯だということは、パウロの手紙コロサイ書から出ています。そこに
「すべてこれらのものの上に愛を加えよ、愛は徳を全うする帯なり」
(コロサイ書3・14)
と書いてあります。すべてのものの上に愛を加えなさい、
一番上に愛を置きなさいということです。
「愛は徳を全うする帯なり」わたしたちはいろいろと着る物を身につけます。どんな立派なお召し物を身につけても、あるいは十二単衣を身につけましょうとも、その上に帯をしていなかったらさっぱり台なしで、それはどうにもならないでしょう。
着物を着る時に、帯は大事なものでしょう。帯をちゃんとしめないと、着た物はみんな駄目になるでしょう。またどんな立派なものを着ても、帯はどうでしょうか、そこいらにあるボロ切れをもってきてちょっと結びつけたのでは、せっかく今まで何枚もかさねて着た物が、ちっとも生きてこないでしょう。「愛は徳を全うする帯なり」とはそういうことです。
わたしたちは、人生でいろいろなものを身につける事をします。それによって人間としての輝きが出てくるでしょう。あるいは人間らしさというものも出てくるでしょう。しかし、いくらいろいろなものを身につけましょうとも、その上にちゃんと帯をしていなければ、すべては生きてこないというのです。
言いかえますならば、どのようなしつけをして育て上げましょうとも、あるいは幼稚園の頃から、小学校だ中学校だと、いっしょうけんめい教育しましても、また文化というはなやかな着物を身につけて、文化人のような顔をしたところで、愛という帯がその上にちゃんとしめられていなければ、その身につけたものはみんな駄目だということです。
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「愛はもろもろの徳を全うする帯なり」どのようなりっぱな教育も、文化も、美徳も、愛がなければ、昔のあの偉いオーガスチンが言ったように、それはただ″輝いているボロ″でしかありません。
その次に言われておりますことは、
「愛なき者は生けるとも死にたる者と認めたもう」
これはまた大変なことが言われておりますね。生きていても死んだ者とみなされる。死んだような者とのたとえだろうとかるく考えてはならないと思います。「死にたる者と認めたもう」なのです。死んだような者とは書いてありません。死んだ者と認められる。それも人間でなくて神さまが認めたもうのでしょう。これと同じことがヨハネ第一の手紙の中で、
「愛せぬ者は死のうちにおる」
(ヨハネ第一書3・14)
と、きびしく言われております。聖書は死んだような者とは言っていないのです。「死のうちにおる」現実に死んでおるというのです。
「愛なき者は生けるとも死にたる者と認めたもう」
この祈りは、はっきり「死にたる者と認めたもう」と断定してあります。だから愛がなければ死んだことになるのです。
そのことは、今のヨハネ第一の手紙の四章をお読みになってみると、愛ということについて、どうして愛がないと死んだ者であるかということが、よくわかるように書いてあります。
愛というは、我ら神を愛せしにあらず、
神われらを愛し、
その子をつかわして、
われらの罪のために、
なだめの供物となしたまいしこれなり。
(ヨハネ第一書4・10)
神さまがわたしたちにみ子をお下しになったのが愛だと言っております。愛というのはわたしたちが神さまを愛したのではない、神さまがわたしたちを愛して、わたしたちのために独り子をお下しになり、それによってわたしたちは愛を知ったというのです。
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神さまはその独り子を、わたしたちの罪のためになだめの供物となさったので、わたしたちは死から命によみがえってゆく、永遠の命へと入れられました。そこに愛があるのです。みてごらんなさい、それが愛ではないですか、とヨハネの手紙は言っています。
そうすると今日の祈りにありました、
「愛なき者は生けるとも死にたる者と認めたもう」
という意味がはっきりしてくると思います。
神さまが御子をつかわして下さった、その愛がなければ、救い主となって下さって、わたしをよみがえらして下さる方がいません。その方がいらっしゃらなかったらわたしは生きてゆくことができないでしょう。
わたしのためにおいでになった。わたしのために死んで下さいました。わたしのためによみがえって下さいました。その主イエス・キリストさまをわたしの中に迎え入れ、主イエスさまの中にわたしが入れられる、そして生きてゆく、そんな間柄になるのでなければ、わたしに命はないのです。主イエスさまがいて下さらなかったらわたしは生けるとも死にたる者でしょう。
「愛なき者は生けるとも死にたる者と認めたもう」
とは、そういう意味です。神さまの愛をいただかないと生ける者になれないのです。
神さまが独り子を与えて下さった愛。御子によって救われるようにと、神さまがわたしどもに与えて下さった愛。これはわたしどものもとめてゆく愛ではないのでしょうか。
こんなわたしであっても、主イエスさまがなだめの供物となって下さいました。その神さまの愛を思いその愛の中に精いっばい入れていただいてみる。それも大斎の祈りだとおもいます。
「愛せらるる子供のごとく」
(エペソ書5・1)
愛とは、愛されないとわからない。愛とは、愛しないと育だない。うんとうぬぼれて、愛されている自分を見つけてみましょう。どんな時であっても、どこかに神さまの愛がひそんでいるものです。それを探しましょう。愛されたものとして生きるとき、愛するものとなることができるのです。愛するものとなって愛を外に向けるとき、そこに奉仕が生まれてくるでしょう。
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どうか今年の大斎節中に、わたしはどんな断食をして、その愛を身につけましょうか。先に申し上げましたように、コリント前書十三章を毎日くりかえし読んでゆく仕方で、この愛を身につけるという方法もあるでしょう。しかし、これは一つの例であって、もっとよい断食の仕方があるかもしれません。それぞれ自分に適した断食を工夫してつとめ、
「もろもろの徳を全うする帯である」愛、
「愛なき者は生けるとも死にたる者と認めたもう」
という命である愛を、養い深めていただきたいと思うのでございます。
1982年2月21日 大斎前第一主日
鹿児島復活教会にて
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※1(ウィキペディア 日本語版より)
公生涯(こうしょうがい)とは、イエス・キリストの公の生涯という意味で用いられる。福音書の記述によるとイエス・キリストが30歳で荒野でサタンの誘惑に勝利し、ユダヤで公の活動を始めたことから始まり、十字架までの約三年半の期間を指す。
※2(コトバンクより)
徳目とは徳を分類した細目。儒教における仁・義・礼・智・信や古代ギリシャでの知恵・勇気・正義・節制、キリスト教における信仰・希望・愛など。
徳とは
1 精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。
2 めぐみ。恩恵。神仏などの加護。
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