7.荒野の試み


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 今朝は大斎節に入りましての第一の主日でございます。

先程お読み致しました福音書(マタイ4・1~11)は、みなさまご存知の通り、悪魔が三つの試みをしてイエスさまをおとしいれようとしたときのことでございます。

 

ここにイエスみたまによりて、

荒野に導かれたもう、

悪魔に試みられんとするなり。

四十日四十夜断食して、

のち飢えたもう。

(マタイ4・1~2)

 

 イエスさまが、長い間の断食のためおなかをすかしておられるところに、試みる者であるサタンがやってきて挑戦をいたします。

 

「汝、もし神の子ならば、命じてこれらの石をパンとならしめよ」

(マタイ4・3)

 

それに対して主イエスさまは、

 

 「『人の生くるはパンのみによるにあらず、神の口より

 出ずるすべての言による』としるされたり」

(マタイ4・4)

 

と、聖書(申命記8・3)の言葉を引用してお答えになります。

 すると悪魔は、イエスさまを聖なる都に連れていってその宮のてっぺんに立たせ、

 

 「汝、もし神の子ならばおのが身を下に投げよ」

(マタイ4・6)

 

とイエスさまが聖書で答えられたのに対し、悪魔も聖書の言葉を使って次の挑戦をします。

 

そは汝のためにみ使いに命じて、

なんじが歩むもろもろの道にて、

汝を守らせたまえばなり。

彼ら手にてなんじを支え、

なんじの足を石にふれざらしめん。

(詩91・11~12)

 

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聖書にこう書いてあるよ、神さまの子供だったら飛び下りてもけがしないはずですよ、神さまが守られるはずだから、と言うのです。

 そこで主イエスさまは、

 

 「『主なるなんじの神を試むべからず』と、またしるされたり」 

(マタイ4・7)

 

そんなことはできないよ、聖書には神さまを試みるようなことをしてはいけないと、また聖書(申命6・16)の言葉でサタンに答えられます。

 悪魔はしばらく案を練ってからまたやってきます。今度はイエスさまを高い山の頂上に連れていって、世界中のいろいろの国とその繁栄を見せて、

 

 「汝もし平伏して我を拝せば、これらをみな汝に与えん」 

(マタイ4・9)

 

ところが主イエスさまは、それに対して、

 

 「サタンよ、退け」(マタイ4・10)

 

と厳しく追い払っておられます。

 

 「『主なる汝の神を拝し、ただこれにのみつかえまつるべし』としるされたるなり」

(マタイ4・10)

 

ここでも主イエスさまは聖書(申命6・13、サムエル前7・3)の言葉でサタンの誘惑をしりぞけられました。

 これが、悪魔と主イエスさまとの戦いの話でありますが、大斎にはやはりここを読み味わってみることです。

ただ一ぺんだけ読むというのではなくて、折りがあればくり返し読んでみることが、わたしどもの信仰の助けになると思います。

 この悪魔との戦いは大変なものでありまして、それこそ何日も続けて考えないと味わいつくせないものですが、その手引きにでもなればと思って、その中の一部分だけでもごいっしょに考えてみたいと思います。

 イエスさまはヨルダン川で洗礼をお受けになり、そのとき神の霊が鳩のように下るのをごらんになり、そして神さまの声を聞かれました。

「これは我が愛しむ子、わがよろこぶ者なり」

(マタイ3・17)

そのあとですぐ荒野に行かれたということになっています。マタイ伝では、

 「ここにイエス御霊によりて荒野に導かれたまう」

  (マタイ4・1)

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ここのところをマルコ伝は次のように書いてあります。

 

御霊ただちに、

イエスを荒野においやる。

荒野にて四十日の間、

サタンに試みられ、

獣とともに居たもう、

み使いたちもこれにつかえぬ。

(マルコ1・12~13)

 

イエスさまが洗礼を受けてホッとしたあと、しかも、

 

「なんじは我が愛しむ子なり、我なんじをよろこぶ」

(マルコ1・11)

 

という天よりの声をお聞きになって、いわば祝福の頂点にまで上げられた法悦状態のとき、

「みたま ただちにイエスを荒野においやる」

激しい言いかたですねえ、こうして四十日の戦いが始まったわけです。そこは、

「けものとともに居たもう」

けものが猫のように おとなしくしていると、有難く言う注解者がいますが、わたしはそうは考えていません。のどかな所で瞑想にふけられたという景色ではないと思います。命の危険にさらされた食うか食われるかの恐しい状態です。

 イエスさまは神の子としての自覚をもって、救い主としてお立ちになるために、どうしたらよいのか、いったい何をすればよいのかと、しばらく考え、案をねらなければならなかったのです。

 今どきの言葉で言えは、人はどうやったら幸福になれるかということに取りくまれたとき、この三つの試みに会われるのでありますが、これは、この三つの問題をイエスさまがいっしょうけんめい考えられたということでしょう。

 四十日四十夜というのは、二十四時間の四十倍と考えるよりも、長い長い間と考えた方がよいでしょう。その長い長い間イエスさまは断食して祈っておられたので、おなかがすいてへとへとになられました。その時悪魔は第一の試みを持ってやってきます。

 

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悪魔の第一の試み

 

 「あなたは自分がそんなひょろひょろの格好で何か出来ますか、まず石をパンにして食べなさい。神の力を持っているなら、石をパンにしてみんなに与えて満足させなさい」

と呼びかけます。

 先ず、衣食住の問題を解決しないで人は救われないでしょう、というのです。イエスさまご自身貧しさを味あわれ、その弟子たちに日ごとの糧のために祈るように教えられたのですから、日々の暮らしの大事なことが頭をかすめたのでしょう。

 サタンは先ずパンが大事なことを言いました。これが一番大事だからここから手をつけなさいというのです。

 イエスさまは、

 

 「パンのみにあらず」 (マタイ4・4)

 

パンが悪いというのではないがパンが第一というわけにいかない、その前に置かねばならないものがあるのだと、サタンの誘惑にパンはその次であると順序を立てられました。

 

「神の口より出ずるすべてのことばによる」

(マタイ4・4)

 

神さまの口より出る言葉とは、神さまが口をパクパク開いて言われると考えなくてよいのです。口から腹の中にある思いが出るのであって、口から出るというのは、神さまの御心のあらわれることを言うのです。神さまの御意志のことです。

 パンの問題は大切であるが、その前に神さまのご意志がどこにあるかを考えるのが先だというのです。そのパンも神さまのお考え、神さまのお心に添って右に動かすか左に動かすか決めて使われるのでなければ、パンが人を生かす力にはならないというのです。みことばの線に乗せてこそパンは活きるということです。

 経済の問題をただ経済の問題として解決できるものではない。生活の問題をただ生活の問題として解決するだけでは不充分なのだ、信仰にかたく立ってその問題は取りくまねばならないのだ。と言ってイエスさまは第一の誘惑をしりぞけられました。


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悪魔の第二の試み

 

「それ程神さまが大事であるなら、何もかも神さままかせでいったらどうですか」

と、悪魔は信仰なんて止めなさいとは言わないのです。

なるほど結構、それではそれを徹底的にやりなさい、と言ってイエスさまをお宮の頂上に連れてゆきます。

「本当に神の子だったら、神さまがけがしないように守られるはずだからここから飛びおりなさい」

聖書に神さまが天の使いに命じて助けられる、と書いてあるのだから飛びおりてごらん。飛びおりきれないのは、信仰がまだ足りないのではないかというふうに持ってゆきます。

 

「主なる汝の神を試むべからず」(マタイ4・7)

 

イエスさまは、神さまを試みることはできないと断わられました。

 試験するというとき、試験される方は試験する方の下にいることでしょう。神さまがやれるかやれないか試験してみるということは、神さまを下にすることでしょう。信じているということではなくて、ためしに使ってみようとすることです。

 神さまを信じお任せしますというときは、わたしはこれより出来ませんというところまで、わたしのできることをやってみなけれはならないでしょう。

 飛び下りなくても、神さまにいただいた足があるのです。それを使って下りられます。神さまにいただいた手、足、頭があるのです。それを使って、つなでもはしごでも、裏からでも下りられます。人がやれば出来ることで神さまをわずらわすことはないでしょう。何も自分の努力をしないで、あなたまかせにすることは、神さまを試すことになるのです。

 飛べないのは信仰が弱いのだという考え方はよくあるのですねえ、病気などすると出てくるのではないですか、そこがよく信仰の感違いされるところです。極端に言えば、信仰があるならどうして医者に行くのか、医者や薬にたよらずおがんでいなさい。治らないのは信仰が足りないからだ、もっと信仰しなさい、もっと信仰しなさいと息が切れるまですすめる。

 そうではないのです。信仰が深いということが、自分の考え努力をしないで、全部あなたにお任せということではないのです。悪魔は感違いさせようとします。

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 それからもう一つの意味は、なるだけ骨おらず楽な早道へのさそいかけです。

 宮の頂上からはでに飛び下りて人にアッと言わせる、何よりよい宜伝ではないか、飛び下りたのにけがしなかった、この人は神の子だと、人はいっぺんについてくるのではないかとのサタンのささやきでした。しかし、イエスさまはその手に乗られませんでした。

 

悪魔の第三の試み

 

 悪魔はイエスさまを高い山の頂上に連れて行きました。そこから世界中を見せて、

 「もし、この悪魔さまをおがめば、この世界の全部をあなたにあげよう」

と言ったのです。これは何ということでしょうか、それは世界の一番頂上でしょう。その場所から全都を支配し号令しようという仕方、それをイエスさまにさそいかけたわけです。

 宮の頂上から飛び下りることをしなかった、神さまに全部まかせてみることをしなかったのだから、今度は、神さまを少し横に置いて、わたしと妥協しょうじゃありませんか。政治と結んでやってごらん、この世界を全部手に入れたら、あなたの願っている神の国にすることができるのですよ。

 わたしと手を結んだら権力を手に入れられますよ、権力を手に入れたらすべての富を支配し、自由に施すこともできますから、いっぺんに全世界の救い主になれるでしょう。神さまの方は目をつむってわたしと妥協しましょう。というサタンのさそいかけです。

 権力を持つということは便利なことです。しかし権力は悪魔と結ばれやすい危ないものです。うっかりしていると悪魔と妥協してしまうのです。

 宗教も権力と一緒になった時代は栄えることができたでしょう。日本の仏教も時の朝廷と一緒になったとき、大変立派な仏教芸術を生み出し盛んになりましたが、その一方では仏教が堕落した時があったのです。

 キリスト教の歴史でも、ガリラヤの田舎で、もさもさしていた時代は良かったのですが、ギリシヤへ、ローマヘとひろがって行って、ローマの政治と一緒になったとき、大きなキリスト教会が現われました。その時教会は大名、大地主となり、修道院はお城のようになり、大きな仕事もしましたが、大きな害悪もありました。

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 この権力に反対してプロテスタントが生まれるのですが、これも違った権力のためにゆがんでゆきます。

 大きな権力と結びつく時、教会は大きくなりますが、その度にゆがんでよごれてゆくのです。

 サタンはわたしにちょっと頭を下げたら、らくに世界の救い主になれるだろうとさそいました。それに対してイエスさまは、

 「神さまだけにつかえる」

と、いう線から一歩も悪魔との妥協をなさいませんでした。

 

 今まで主イエスさまが戦ってこられた三つの試みを見てまいりましたが、これを二千年前の昔々のおとぎ話のようにしておかないで、わたしどもの今に活かすようにしたいのでございます。

 わたしどもは好むと好まざるにかかわらず、いろいろのことに出会わねばなりません。平坦な花園ばかり歩くことはないのです、思わぬ荒野があるのです。

 どうしてこのような目にあわないといけないのだろうか、というような悲しいこと苦しいことに出会った時、イエスさまの荒野を思ってみましょう。

 その時のことをマタイ伝では、

 「イエスみ霊によりて荒野に導かれたもう」

とありました。またマルコ伝は、

 「み霊ただちにイエスを荒野においやる」

とありました。

 イエスさまの荒野は、みたまにみちびかれ、みたまにおいやられたものでした。

 わたしどもの荒野も、仕方なしにこうなったのだ、という受け取り方をしないで、そこをみたまの働かれたものだと見ることです。

 みたまが、そこに行け、そこに行け、そこを乗り越えて渡れ、と前から導き後ろから押しておられるのだから、ゆきずまることはないのだ、駄目になるはずはないと信じてみるのです。

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 今わたしの目には見えない、わたしの耳には聞こえないが、みたまがこの事態をいいように導いて下さるのだと確信して、わたしの荒野を進むことです。

 

主イエスさまが悪魔に勝たれたポイントの一つは、いかに悪魔が動かそうとしても「神の子」の確信に立っておられたということです。

 イエスさまはヨルダン川で「これはわが愛しむ子、わがよろこぶ者なり」との声を聞いて立ち上がられるのでありますが、悪魔はこの「神の子」の確信を揺り動かそうとしたのです。

 「汝もし神の子ならば」 「汝もし神の子ならば」

悪魔はくり返し言ってつついております。しかし主イエスさまは、いつも堂々と神の子として受け止め、神の子である確信がくずれるようなことはありませんでした。

 わたしどももいろいろな不安におそわれるとき「それでもクリスチャンか」 「それで神さまに愛されている神の子と言えるのか」とサタンがつついているのだと思ってみるのです。

 わたしは「クリスチャンですよ」といつでもしっかりと答えられるようにしたいものです。わたしたちは、主イエス・キリストさまの十字架の血によってあがなわれた神の子に数えられているのです。胸をはってその確信に立たしていただけるのです。

 なにもわたしが修養して、聖書のお勉強ができたから神の子になりましたというのではありません。神さまのおめぐみで神の子に引き上げていただいたのですから、決していばれるものではありませんが、神の子であることがいつもうれしく、神の子であることがとても心強いのだという思いを、いつも持っていること、これが心にすき間風を入れない方法だと思います。

 神の子が光っていると悪魔は入れないのです。魂の錨(いかり)をしっかりと神の子におろしておくのです。 

 

主イエスさまが悪魔に勝たれたもう一つのポイントは、「と、しるされたり」 「と、しるされたり」と三回とも聖書の中の言葉で答えておられます。

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 わたしどもも聖書の中に答えを探したいのです。聖書に何とあるでしょうか、神さまのみことばは何と言っておられるでしょうか、と、みことばをわたしのよりどころとしたいものです。

 わたしどもはかねがね、みことばが自分のものとなるように、聖書をもっと読んで、読んで、味わって、わたしの中にみことばをいっばい貯えておくことです。

 そのときみことばは、わたしの進む道の折り折りで、迷わないように道しるべとなり、悪魔に切りこまれないように、わたしの魂を守る剣となって下さるでしょう。

 

なんじのみことばは、

わが足のともしび、

わが道の光りなり。

 (詩119・105)

 

 主イエスさまが最後まで妥協をゆるさず立っておられた立場は、

 「主なる汝の神を拝す」

というところでした。

 わたしたちはどれ程神さまを拝するということを大事にしておるでしょうか。神さまを拝するということは神さまをおがむことです。

 おがむとは、手を合わせるとか、かしわ手をうつとか、いくつ手をたたくかということではないのです。折れかがむことです。神さまの前に折れかがむことなのです。

 わたしどもは神さまの前には折れかがまなければならないということを、一番大事なこととしてそれを守っているでしょうか。

 例えば、今日の日曜日は神さまを拝する日です。神さまの前に折れかがまなければならない日です。その日にお天気が良いからどこかに行きましょうとさそわれる、また今日は居るだろうと思って来ましたと言って人が来られたとします。そのとき、神さまに折れかがむことをおあずけにして人の言う方に引きずられてよいでしょうか、ということです。

 主イエスさまは悪魔に折れかがんで世界の富をもらうより、神さまだけに折れかがむという立場を動かれませんでした。

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 わたしたちも神さまの前に折れかがむということを一番大事にして、これだけはゆずれない、これだけは妥協出来ませんという立場として、しっかりと自分の中に持つということは、悪魔に負けないように強くなることだと思います。

 

 それからもう一つ、悪魔はどんなときにイエスさまをねらったのかということです。

 イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、神の霊が鳩のように下るのを見、

 「これはわが愛しむ子」

との神さまの声を聞かれたすぐあとのことでした。人間的にはすべてがうまくいって希望にみたされ、これから輝かしい新しい出発をなさる時でした。

 わたしたちもすべてがうまくいって得意になっているとき、悪魔はすきをねらっているかもしれないのです。

わたしたちは何事もうまくいって調子の良いとき、うっかりしないように気をつけていることです。

 それとまた、イエスさまがおなかをすかしてへとへとになっていられるとき、弱っておられるのを見てさそいました。わたしたちもあまり体をくたくたに疲れさせないように、かねてから体の調子はよく気をつけておきましょう。悪魔にねらわれてさそわれないために。

 

 主イエスさまが、勝ち抜いてこられた一つ一つをお手本として、わたしたちも勝つ者となれるための精進をはげみ、今年の大斎を実り豊かなものとしていただきたいのでございます。

 

 1980年2月24日 大斎第一主日

  鹿児島復活教会にて

 

※これは他の年にされた話の一部が加えてあります。