4.神さまのぶどう園
今日は西さんのお誕生日、ことに喜寿というなかなか得難い恵みの時が与えられたのです。この時に神さまの恵みを思いおこしながら、キリストさまのお体とおん血の養いを受けて強められ、これからを元気でおすごしになるようにねがっております。
先づ聖書をお読みします。マタイ伝二十章の一節から十三節、
天国は働きびとをぶどう園に雇うために、朝早くいでたるあるじのごとし。一日一デナリの約束をなして、働きびとどもをぶどう園につかわす。また九時ごろいでて市場にむなしく立つ者どもを見て、
「なんじらもぶどう園に行け、相当のものを与えん」
と言えば、彼らも行く。十二時ごろと三時ごろとにまたいでて前のごとくす。五時ごろまたいでしに、 なお立つ者どものあるを見て言う、
「なにゆえ、ひねもすここにむなしく立つか」
彼ら言う、
「たれも我らを雇わぬゆえなり」
あるじ言う、
「なんじらもぶどう園に行け」
夕べになりてぶどう園のあるじその家づかさに言う、
「働きびとを呼びて、あとの者より始め先の者にまで賃銀をはらえ」
かくて五時ごろに雇われし者来たりて、おのおの一デナリを受く。先の者きたりて、多く受くるならんと思いしに、これもまたおのおの一デナリを受く。受けしとき、家あるじにむかいつぶやきて言う、
「このあとの者どもはわずかに一時間働きたるに、なんじは一日の労と暑さとを忍びたる我らとひとしく、これをあしらえり」
あるじこたえてそのひとりに言う。
「友よ、われなんじに不正をなさず、なんじは我と一デナリの約束をせしにあらずや。おのが物を取りてゆけ」
(マタイ20・1~13)
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イエスさまはいろいろの話しをたとえ話しでしておられますが、これはその中の一つでぶどう園の主人のたとえ話しです。
このぶどう園で、一日一デナリの約束が朝早くできて働くようになった人、九時ごろにまた主人が市場にやってきて雇いこんだ人、またお昼の十二時ごろに雇われた人、三時ごろに雇われた人、また五時ごろ、それこそ一日の終わりになって、働いてくれと頼まれた人もありました。
さて、仕事がすんで支払いのだんになり、一番あとの五時から働いた人に一番先に一デナリ支払われます。それを見ていた朝早くから働いた人は、あの人は自分よりずっとあとから働いて一デナリなら、自分はもっと割りましが出るのじゃないかと思っていると、同じ一デナリしかもらえなかったという話しです。
さあ、これをどのように考え、味わったらよいのでしょう。この中に神さまの世界を見、わたしどもの信仰を持って生きるかてにしていけるでしょうか。いろいろと考えられるでしょうが、わたしどもの一生を、ぶどう園に雇われるようなものだと考えてみたらどうでしょうか。
ぶどう園に雇われる人生、わたしどもは生まれた時から神さまに雇われている。人は生まれる時、あの家に何年に生まれようと考えて生まれる人はいないでしょう。
神さまに呼ばれて生まれた家、神さまに召されて出て来た人生です。生まれてから、こんな家に生まれて自分の人生はつまらない、と思う人もあるかもしれませんが、神さまに呼び出されて生まれたのです。
神さまがご自分のぶどう園に欲しいから、朝六時にとか九時にとか、三時にとか、いろいろの時に欲しい者として、生まれさして下さったのではないのでしょうか。
ある人は北海道でこの畑をしてくれ、ある人は沖繩の海で働いてくれ、ある人は鹿児島の畑でと、神さまは広い世界で、あの人はあの場所、この人はこの場所とすべてをご計画の下でやっておられるのでしょう。
神さまのご計画の中で、人はそこで生まれて何年間か生きているのだとしたら、わたしどもの一生はまことに有難いものとなるのではないのでしょうか。神さまがわたしのためにこんな場所を備え、こういう仕事をするようにとわたしを求め待っていて下さるのだと思うと、有難い、と大きな気持になれるのだと思います。
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わたしどもの神さまは夕方の五時まで雇っておられます。五時まで市場に立っていたのに雇ってもらえなかった人とはどんな人たちだったのでしょうか、きっと朝早く雇われた人より劣った人たち、いわゆるあぶれ者と言われ、世の中ではくずにされる人たちだったでしょう。そんな人たちでも雇って働かしておられます。神さまの世界には必要とされないくずというのがないのです。
人間の世界にはいろいろの制限があります。働いていても定年というのがあり、定年まで行かなくても体が続かないという終わりもあります。またこの仕事は向かない気にくわないという終わりもあるでしょう。ひどいのになると酒をのんで同僚とけんかをしたからという終わりなど、さまざまな終わりがあります。
神さまは人生のぶどう園の主人のようなものです。この主人は、一日の始めから終わりまで人を雇っています。一生の間、生まれてから死ぬる最後の時まで、もういっぱいだし仕事の終わる時間も近いから雇うわけにはいかない、とはおっしゃらないのです。
神さまはギリギリまで働くチャンスを与えておられます。人間的に考えると、もうわたしは手も足も言うことを聞きません、頭も恍惚になってしまいました、という状態かも知れません。しかし神さまは夕ぐれになっても、
「お前の働く場所があるよ」
と呼び出して下さいます。
わたくしどもは自分の手足を見て、もうこんな年だから何の役にも立たないのだろうと考えようとします。しかし神さまは六時まで人を働かして下さるのです。あなたにはこんな仕事がありますよ、と朝六時に雇った人とは同じ仕事ではなかったでしょうが、夕方の五時から雇う人にはその人にふさわしい仕事を与えておられます。
それぞれにふさわしい仕事。あなたは草むしりをしなさい、あなたは肥料をしなさい、あなた実をもぎりなさい、あなたは皆の働いたあとの掃除をしなさいと言うように、いろいろの仕事があるでしょう。いつでもだれでもぶどう園で終わりの終わりまで働かせて下さる、というのが神さまの世界です。
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わたしどもは神さまを見上げて生きるとき、その世界には仕事の終わりがないのです。年を取ったら年寄りの仕事があります。喜寿の誕生を迎えた人には七十七の人にしか出来ない仕事があり、八十八の人には八十八にふさわしい仕事と、神さまは折り折りにその人に何かをさせようとしていられるのです。
神さまが、わたしにどんなことをお望みになるのか祈りの中で考えたずねてみましょう。そしてこれからのちの歩みを、一歩一歩しっかりと踏みしめてゆきましょうというのが、誕生日を迎えたときの姿勢ではないのでしょうか。
西さん、本当にお目出たい日をお迎えになったのです。きっとこの時新しい仕事を神さまが与えて下さっていると思います。三時か五時かわかりませんがふさわしい仕事が与えられるのです。本当に良い誕生日を迎えられたあなたに、
「これ頼みますよ」
と求めていらっしゃるでしょう。
若い人には若い人でなければ出来ない仕事といっしょに、年寄りには年を取らないと出来ない仕事があり、また八十の人には八十にならないと出来ない仕事があるはずです。
例えば、あの人のためにお祈りしましょうというのもあるでしょう。また今まであの人のために感謝することをしなかった、あの人のため感謝することがありやしないか、とあちらこちらながめてあの人のために神さまに感謝出来る面を探すのもいいでしょう。神さまは、若い人には出来ない六十には六十の、八十には八十の、九十には九十にふさわしい仕事を用意して下さいます。
八十、九十の誕生日というのは、三時だ五時だという時間にぶどう園に雇いこまれた時だと思ったらどうでしょうか。新しい祈り心、新しいうた心、そして感謝をもって今日から元気を出してやって下さい。
「頼みますよ西さん」
1974年2月13日
マリヤ西 ハツさん誕生日
重富集会にて