9-5.受難週の日々

受難週第五日 木曜日 最後の晩餐


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聖週の木曜日になりました。

 

除酵祭の初めの日、即ち過越の小羊をほうるべき日、弟子たちイエスに言う「過越の食事をなし給うために、我らいずこに行きて備うることを望み給うか」

(マルコ14・12)

 

 ここから今日の話が始まっています。

 弟子たちが「今夜過越しの食事をどこでしましょうか」とたずねました。するとイエスさまは「都に入ればそこで水がめを持った男の人がおるだろうからその人に頼みなさい」と言って二人の弟子を行かせます。弟子たちがエルサレムの都に入って行くとイエスさまの言われたとおり、水がめを持った男の人に出会いました。そこで主イエスさまのお言葉を伝えると、その人は弟子たちを自分の家につれて行き二階の座敷を見せて「ここがよろしかったらどうぞお使いください」と言って貸してくれました、

 ただ「水かめを持った男の人」というだけで、目ざす人がどうしてわかったのだろう、とお考えになる方があるかも知れませんが、ユダヤの国では、台所用などに使う水汲みをするのは女の仕事でした。そしてそれを小さな水がめに入れ、頭にのせて運ぶのでした。男の人が水を運ぶときには、大きな羊の皮袋に水を入れて、それをかついで行くのです。男の人が台所用の水がめで水を運ぶ姿はめつたに見られません。それで、水がめを持っておる男の人がすぐに見つかったわけです。

 この水がめを持った人は誰だろうということになりますが、多分これはのちにマルコ伝福音書を書いた、と言われた青年マルコではなかろかと言われております。マルコがお母さんといっしょに暮らしておった、そしてお母さんのかわりに、水汲みの手伝いをしていたのだろうということです。その人の家で、主イエスさまと弟子たちはこの木曜日の晩、食事をされることになりました。

 さて、この木曜日のことをマルコ伝福音書では(除酵祭の初めの日、すなわち過越の小羊をほうるべき日)としており、マルコ伝をもとにして書かれたマタイ伝とルカ伝では(除酵祭の初めの日)・・・マタイ26・17また(過越の小羊をほうるべき除酵祭の日)・・・ルカ22・7、としています。即ち、三つの福音書はみんなこの日を、除酵祭の初めの日、すなわち過越の小羊をほうるべき日だったとしています。

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 しかしヨハネ伝を見ますと、そうなっていません。それは過越の夕食ではなかったということになっています。

 これはどういうことでしょうか。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を読みくらべてみますと、マルコ伝の記録は多くの点て史実的に正しく、他の福音書はそれをもとにして書かれているのですが、しかしこの日付けの場合にかぎつては、ヨハネ伝の方が正しい、すなわちこの木曜日は、除酵祭の日ではなかった、マルコ伝の方は一日感違いをしていたということになります。

 どうしてそういうことかと言いますと、マルコ伝によれば、今夜主イエスさまは過越の食をなさつた、そして捕えられたり裁かれたりして、明日は十字架につけられたということになるのですが、しかしそれはありえないことなのです。なぜかと言いますと、ユダヤの国の暦では、一日が、わたしたちの一日のように朝から始まるのではありません。夕方が次の日の始まりです。夕方から新しい日が始まって、次の日の夕方までがその日です。

 それで、もしも今晩過越の食をしたということになれば、今日の夕方からもう過越の祭りが始まって安息日になっていた、ということになります。そして明日はもちろんもう過越の祭り日になっているわけです。そうすると、そのような大切な大祭の時に、裁判をするとか、人を十字架につけて殺すとかいうよりなことは決してあり得ないことです。

 十字架の終わったときのことをヨハネ伝には次のように記しています。

 

 この日は備え日なれば、ユダヤ人、安息日に死かばねを十字架の上に留めおかじとて(ことにこのたびの安息日は大いなる日なるにより)ピラトに、彼らの足を折りて死かばねを取り除かんことを請う。

(ヨハネ19・31)

 

 主イエスさまが十字架につけられた(この日)は、安息日の準備の日即ち土曜日の前日、したがって金曜日ということになります。そうするとその前の晩木曜日の夕食は、ヨハネ伝以外の三福音書に記してあるように除酵祭の初めの日の、過越の食ではなかったということが明らかになります。このことについて、マルコ伝の日の数え方は一日違っており、ヨハネ伝の方が正確な日付けになっておるわけであります。

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 そうすると、主イエスさまが二階座敷で弟子たちと共になさったという今夜の食事、これは過越の晩の食事ではなかったということになります、過越の食とは別にまた一つの食事の習慣があったので、こちらの方だろうと言われております。そしてそれがはからずも、主イエスさまた弟子たちとの最後のお別れの晩餐となったわけであります。

 

日暮れて、イエス十二弟子とともに行き、みな座につきて食するとき言いたもう「まことに汝らに告ぐ、我らとともに食する汝らの中の一人、われを売らん」

(マルコ14・17)

 

この時、これを言わねばならぬ主イエスさまのみ心のうち、またこれを聞かされた弟子たちの思いはどんなだったでしょう。彼らは心配して、みんなひとりひとり、

 「それはわたしでしょうか」とおたずねしました。すると主イエスさまは仰せになりました。

 

十二のうちの一人にて、我と共にパンを鉢に浸すものはそれなり。げに人の子はおのれにつきて記されたる如く逝くなり。されど人の子を売る者はわざわいなるかな、その人は生まれざりし方よかりしものを。

(マルコ14・20~21)

 

 その人は「生まれなかった方がよかったのになあ」とおっしゃっています。しかしそれは「自分は生まれない方がよかった、わが生まれたる日はのろわれてあれ」と言ってなげいたあのヨブの嘆き方とはちがうようです。ヨブは自分の生まれた日をのろったのでした。しかし主イエスさまはそういう調子でおっしゃってはおられません。わたしを売るそういう人は「生まれなかったらよかったのになあ」ということは、ユダに対してその誕生をのろっているのではなくて、それは実はユダに対する温かい思いやりのお言葉ではなかったかと思われます。

 ご自分もつらい、弟子の一人から背かれて敵の手に渡されるのはつらい、しかしそういうことを自分の師匠に対してせねばならなくなったユダもさぞかしつらいことだろうと、ご自分を売るユダのつらさにたいして深い同情をもっていらしたのではないかと思います。この人はこんなことをするなら、生まれなかった方が、この人のためには幸いだったろうに、とユダヘの深い思いやりがここにうかがわれます。

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 ユダがどうして主イエスさまを売ったのか、これは昔から大きななぞでありまして、またユダから売られることを、神の子であるイエスさまが知らなかったのか、知らずにそんな者を弟子の中に入れたのか、などということも考えられるでしょう。

 しかし、おそらくユダは悪者ではなく非常に熱心なイエスさまの弟子だったのでしょう。それゆえに敏感にまた真剣に、この頃の空気はどうも変だと感じ取って、ユダも悩んだことでしょう。

 何かパッとイエスさまは旗上げをなさらないのかと、どうも気が気ではなかったでしょう。そしていよいよ状勢が悪くなるというときに、あるギリシヤ人が来てアンデレに会い、あなたたちの師イエスをわたしたちの所につれて行って王にしたいが、と申し入れたことなどを考え合わせて、機会があるのにその機会をつかまない主イエスさまは、ユダにとっては、はがゆくてたまらなかったのでしょう。そしてもう時間がない、時がせまっている、この最後の時、この時をつかまねば、というような思いで、ユダは、イエスさまを祭司たちに渡して様子を見ようとしたのではないでしょうか。

 主イエスさまが、四十日四十夜の断食ののちに受けなさったサタンの誘惑が、ここでまたふたたびあらわれてきておるような気がいたします。

 あの時サタンがイエスさまの前にあらわれて「この宮のてっぺんから飛んでごらんなさい、天の使いが助けてくれるでしょう」と言った。また「わたしの前に頭を下げてごらん。そうすればこの山の上から見える全世界をあなたのものにしてあげます」と言ったりして、サタンはイエスさまを誘惑しました。

 あの時の誘惑の場面の終わりに「この時サタンしばらくイエスを離れたり」と書いてあります。サタンが負けてしまった、居なくなったとは書いてない。「しばらくイエスを離れた」とあります。あの荒野でしばらく離れたサタンは、あれから三年の間いつもイエスさまと、弟子たちの群れにつきまとって、いろいろな仕方でおとしいれようとしてきた。そして最後の時にユダがつかまったのではないでしょうか。それでサタンはユダに、こんな思いを入れたかも知れません。

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 「あんたたちの先生はこんなふうにぼやぼやしていては、うだつが上がらんじゃないか、もっとパッと何とかしないか。大丈夫だよ、渡してごらん、大丈夫だよ」

 そういうようなサタンのささやきがあったのではないでしょうか。だからこそユダは取り引きをしてイエスさまを銀三十で売ったのでしょう。

 ユダはイエスさまを売って敵をゲッセネマに案内し、取り返しがつかなくなました。主イエスさまは、捕えに来た者の手からすらり抜けて、世界の支配者というような姿で、その人たちに立ちむかうというようなことはなさらなかった。それでイスカリオテのユダはがっかりして、ハッと目がさめたでしょう。しかし、もうおそかった、取りかえしがつかなくなった。銀三十は自分のもうけにも何にもなりはしない、それでそれを投げ捨てて、ついに首をくくって死んてしまいました。ユダはこうしてサタンの試みにおちいったのだと思われます。

 イスカリオテのユダについてわたしたちはどう思ったらよいのでしょうか。ユダが悪者であったように思う人もあります。しかしどうでしょうか。

 ユダについて主イエスさまは「この人は生まれなければ幸いだったろうな」と言われました。ここで幸いというのは、イエスさまの幸いではないのです。ユダの幸いなのです。このイエスさまの深い思いやりをわたしたちは見すごしてはならないと思います。主イエスさまは、今この食事の時に「わたしといっしょにパンを鉢に浸す者の一人がわたしを売る」と仰せになる。しかし、それが誰だかだれにもわからない。十二人の弟子たちみんなが同じようにパンを鉢に浸すのですから。このようにして主イエスさまは、ユダをみんなの目からかばっておられます。それは、ユダにもういちどチャンスを与えて。

 「このパンを食べて考え直さないか」とうながすためのあたたかいか気持だったのでしょう。

 しかし、ユダは一つまみのパンを受けても食いなおしをし心をかえようとはしない。それで主イエスさまはユダに「お前のすることを行ってしなさい」と言われる。するとユダは黙って出て行きました。

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 「お前のすることを行ってしなさい」と言われたことは「今行ってわたしを売れ」と言ったのではなかったでしょう。そのように読み解釈しておる人も多いようですが、わたしはそうではないだろうと思います。

 「汝のなすべきことをなせ」それはユダに悔い改めをすすめるみ言葉だったでしょう。いま汝のなすべきことは何であるか、もう一度よく考えてからせよ、との最後的な呼びかけではなかったでしょうか。このみ言葉をかけられて、ユダにはグサッと心に刺さるものがあったでしょう。しかし、ユダはもう思い直そうとはしなかった。

 食事がすんで主イエスさまと弟子たちは、賛美を歌いながらゲッセマネの園に入って行きました。その途中で主イエスさまは、

 「『羊飼いがうたれる、そうすると羊の群れがパッと散ってしまう』と聖書に書いてある、そのように今夜羊飼いがうたれて羊の群れが散るだろう」

と仰せになる。するとペテロが、

 「いやとんでもない、わたしはあなたのために死にまでも獄にまでもまいります」

と言う。それに答えて主イエスさまは、

「いやペテロ、今夜にわとりがふたたび鳴く前に、お前は三度わたしをいなむだろう」と仰せになる、

 「いやそんなことはありません」

とペテロは言いはる。弟子たちもみなそう言いました。

 ゲッセマネの園は主イエスさまと弟子たちとの、いわば祈りのかくれ場だったのでしょう。しばしばここにしりぞいては祈って考え、教えられたり励まされたりしていたところでしょう。

 ぺテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて森の奥の方に行きそこでお祈りをされます。主は弟子たちに「君たちはここでいっしょに祈っておってくれ」と言われて、彼らから少しはなれたところでお祈りをなさいました。

 そのときのことをルカ伝福音には次のように記してあります。

 

常のごとくオリブ山に行きたまえば、弟子たちも従う、そこに至りて彼らに言いたもう。

「まどわしに入らぬように祈れ」

かくてみずからは石の投げらるるほど彼らよりへだたり、ひざまずきて祈り言いたもう、

「父よ、御旨ならば、この杯をわれより取り去りたまえ、されどわが心にあらずして、御心のならんことを願う」

時に天より御使いあらわれて、イエスに力を添う、イエス悲しみ迫り、いよいよ切に祈りたまえば、汗は地上におつる血のしづくの如し。 

(ルカ22・39~44)

 

 このような折りを終わって、主イエスさまが弟子たちのところへ来てみますと、彼らはみんなぐっすりと寝こんでいました。ペテロは目をさまし、びっくりして恐縮してしまいます。

 しかし、主イエスさまは「おまえたちは疲れているのだよ、心は熱すれどもその目が疲れている」と言ってその弟子たちをいたわっておられます。しかしもう少し辛抱して祈ってくれよと言って、主イエスさまは少し離れたところで祈りをなさる。

 お祈りがひとしりきりすんで、きてごらんになるとまた眠っておる。三度も眠っていた。それでイエスさまは、「いや、きみたちは疲れているねえ、心はいっしょうけんめいなんだが、しかし疲れているからねえ」と弟子たちをなぐさめられます。

 しばらくするとユダが、捕り手の者たちを連れて来ます。その者たちは主イエスさまを引きたてて行こうとする。弟子のひとりはあわてて刀をとり一人の人の耳を切りおとす、そして皆逃げてゆく、そのあとから一人の若者が出てきます。麻布をまとっていました。今で言えばシーツのような麻布を体に巻きつけていたのでしょう。麻布を引っぱられたので、くるくるとまわるようにして  脱ぎすてて逃げてゆく、この場面のことを聖書はひとこと、

「弟子たちみなイエスをすてて逃げ去りぬ」

と書いてあります。

 

 この受難週の木曜日は、まことにどうも惨懺たるものでした。弟子が主イエスさまを敵に売り渡す。主イエスさまの一番信頼されていた弟子が、イエスさまを三度まで知らないと言う。そして主イエスさまが捕えられるときには「弟子たちみなイエスを捨てて逃げ去りぬ」、皆逃げてしまいました。この木曜日は、イエスさまの周辺におった人たちの失敗の一日であった、と言ってよいで

しょう。

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 この惨懺たる失敗の姿、それをわたしたちは、昔の弟子たちのむかし話としないで、わたしはそのときどこにおっただろう、わたしがその時その場におったらわたしはどうしておっただろうと、今日一日の出来事の中に、ことに、今夜の弟子たちの動きの中にわたし自身を入れて、わたしがどこでうろうろしていたか、それを考えるのが、この受難週の木曜日にすべき大切なことではないかと思います。

 今日、受難週の木曜日は、ゲッセマネの園での主イエスさまのお祈りと弟子たちの眠り、主イエスさまの捕われと裁判、弟子たちの退散、イスカリオテのユダの裏切りとペテロの失敗など、いろいろなことがありましたが、それらのことのうちで、わたしたちが最も大切に心にとめておかねばならないことは、十二弟子たちとの別れの晩餐でした。

 それが今聖餐式という仕方でわたしたちにずっと伝えられ守られてきております。聖餐についてはいろいろと考えることがあると思いますが、その始めのときのことを忘れてはならないと思います。主イエスさまと弟子たちみんなが、パンを一つの鉢に浸して食べる、そのとき弟子の一入は、そっぽを向いてイエスさまを裏切って離れて行こうとしておる、ほかの人たちはそれぞれみんなほかの人よりも重んぜられたい、偉くなりたい、われわれのうちで誰が一番偉くなるのだろうか、とせり合う気持いっぱいでした。主イエスさまが、またおいでになるというその時に、イスラエルの国が回復されるというあの夢が実現したならば、その時誰が主イエスさまの左右に座らされるだろうかと思い、心の内にもやもやしたものを持って、この最後の晩餐の席についていました。

 この場の空気を察知し案じられた主イエスさまは、パンを取って裂き、みんなに一切れずつを分け与えて食べさせました。また一つの杯からブドー酒をみんなに飲ませて下さった。こういう仕方で、みんな一つのパンだよ、一つの杯だよ、と弟子たちにしっかりと印象づけました。

 そしてそのあとで、主イエスさまは弟子たち一人一人の足を洗ってやりました。弟子たちは後になって、この最後の晩餐を記念し主が定められた聖餐として、のちの人たちにつぎつぎに伝えてくれました。

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 教会では、受難週の木曜日は聖餐の始められた記念日とされています。聖餐とは何でしょう。どのように考えたらよいでしょう。

 まず第一に聖餐という言葉、それは聖なる食事ということ、あらためて言うまでもないことですが、しかしそれは分かり切ったこと、と素通りをしないでこの言葉を大切にして下さい。「聖」とは、神さまについて言うことばで、神さまのもの、神さまのために取っておきのもの、というような意味です。たとえば聖書に「神さまのみことばの本」というように、それで「聖餐」とは、神

さまの食事すなわち、神さまが、主イエスさまによってわたしたちに下さった、そしてこれを食べなさいとわたしたちに命じておられる食事ということです。

 その意味で昔から「聖餐に天のふるまい」だとも言われてきました。天国のごちそう、天国の主食とでも言うべきものでしょう。

 それは主イエスさまか弟子たちにお与え下さった、一つのパンと一つの杯です、主イエスさまは一つのバンを分け与え、一つの杯をみんなにまわしてブドー酒を飲ませました。

 弟子たちはあの二階座敷で最後の晩餐のときに、あのようにしていただいた、あのパンと杯、あれはキリストさまのおん体とおん血であった。あれは天国の食事であり、それによって永遠の命が養われ、キリストさまの命を生きることができるのだと分かったでしょう。

 この天のふるまいに招待され、天の主食をいただいて生きるならば、あの晩、主が身をもって示し命じられた、互に足を洗い合う生き方ができるようになり、「おのれの如く汝の隣を愛すべし」との主イエスさまのみ言葉に従うことができるようになるのだと分かったでしょう。

 一つのパンと一つの杯、そして互に足を洗う奉仕、これが聖餐の意味だ、目的だ、と弟子たちは確信するようになりました。

 

1987年4月16日 復活前木曜日

大口教会にて