10.良き羊飼い


 

(本文)

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復活後第二主日の福音書として読まれました、ョハネ伝の十章の所をもう一度読んでみましょう。

 

われは良き羊飼いなり、良き羊飼いは羊のために命を捨つ、羊飼いならず、羊もおのがものならぬ雇い人は、おおかみのきたるを見れば羊をすてて逃ぐ―おかみは羊をうばいかっちらす―彼は雇い人にて、その羊をかえりみぬゆえなり。われは良き羊飼いにして、わがものを知り、わがものはわれを知る、父のわれを知り、我の父を知るがごとし、われは羊のために命を捨つ、

(ヨハネ10・11~15)

 

主イエスさまは、

「われは良き羊飼いなり」

と言って、その良き羊飼いのことを話しておられます。主イエスさまとわたしたちは、羊飼いと羊という関係で示されております。これは大変大切なことです。信仰の基本といいますか、出発点を考えさせられることだと思います。

よく、キリスト教を信じておりますと言います。またキリスト教を伝えてゆきますとも言います。しかしこの羊飼いのたとえ話を読んでみますと、信仰とはそんなものだろうかと考えなおさねばならない思いにされます。

キリスト教を信じて生きるのではない、キリスト教を信じさせようといってイエスさまがおいでになったのでもない、わたしどもはキリストさまを信ずるのです。

キリスト教というのは、キリストさまについてのいろいろの説明であり、いろいろの議論でしょう。それを聞いてわたしの頭で「ああ本当だなあ」と納得する。それは信仰じゃないでしょう。それは別の言い方をすれば、キリスト教的信念を持つということになるのではないのではないのですか。

キリストはこう教えている、キリストはこう言った、キリストはこうした「なるほどなあ」と、そこにお手本を見る、というようなせいぜいその程度のかかわり方ではないのでしょうか。ところがわたしたちは、そういうキリスト教を信じるというのではなく、キリストさまを信じるのです。

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キリストさまを信じるということは、信仰ですから字のとおり、信じて仰ぐのです。キリストの教えを信ずるのではなく、キリストさまを信じて仰ぐのです。キリストさまの方にわたしの心を向けること、これが先ず出発点だと思います。

キリストさまを信じ、キリストさまに目を向け、キリストさまに心を向ける。それがこの羊飼いの話しに言われていることだと思います。

まず主イエスさまは、わたしはあなたたちのための良い羊飼いであると言っておられます。 一人の予言者だとか、あるいは信仰的指導者だとか、教師であるとは言っておられません。

わたしはあなたたちの羊飼いであり、あなたたちは羊です。と言われるのですから、主イエスさまとわたしたちの間柄は羊飼いと羊の間柄なのです。羊飼いと羊の間柄を生きるのが信仰生活なのです。そのためにはなにが一番大事でしょうか。

羊ですからねえ、羊が学校に行って勉強するというのはおかしいことでしょう。羊飼いは羊をかわいがって、一生けんめい算数を教えるとか、あるいは哲学を教えこむというようなことはしないでしょう。羊飼いが羊にすることは、この羊たちにどんなにしてよい草を食べさせようか、どんなにしてきれいな水を飲ましてやろうかということでしょう。羊たちが健康に育ってゆくことを羊飼いはいつも考えているのです。

だから羊たちは、この人のところにおればちゃんと食べさせてくれる、と信頼し安心して羊飼いのあとについてゆくのです。

羊飼いと羊の間柄とは、そんな間柄なのです。知識で結ばれ、理解で結ばれるという間柄じゃないのです。生きることで結ばれる、命で結ばれているのです。羊飼いは羊が病気しないようにと心をくばってゆく、羊の方はわたしの命を支えてくれるものとして、信じ切ってついてゆく、そのように、主イエスさまとわたしは命で結ばれねばならないのです。

信仰とはキリスト教を信じるのではないのです。しかしそう言えば、キリスト教の理論とか神学また教理は必要ないのかと早合点なさる方もあろうし、非難もおこるかも知れませんが、そうではないのです。 一生けんめい聖書の勉強をしたり、あるいは教会でのさまざまな勉強、これはその命のつながりを、どのように確かに生きてゆくかということを、知るために必要なことなのです。

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キリストさまとの命のつながりが、固められ温められるために、聖書の勉強があるわけで、聖書の勉強がただ冷たい聖書の知識を受け入れる学問である間はなんにもなりません。聖書のみ言葉を読み味あうとき、わたしの心が養われ、心が温かく燃えてゆく、わたし共の生きてゆく命の力を得るために、役立つのが聖書の勉強でなければなりません。

ご復活日の午後、エマオヘ行く道でイエスさまと一緒に歩いた二人の弟子たちが、歩く途中で聖書の話しを聞いた時のことを思い返して、

「みちにて我らと語り、われらに聖書をときあかし給えるとき、われらの心、内に燃えしならずや」

(ルカ24・32)

聖書の説き明かしを聞いているとき、わたしたちの心は燃えたではないですか、と言っておりますがこれなんですね、これが聖書の勉強です。

聖書の勉強とか、キリスト教の研究だとか結構なことです。また神学も教理の勉強も結構でしょう。しかし、それをいくら極めても心がひとつも燃えない、温かくならない、燃え上がってイエスさまのためにと動き出さないならば、何にもならないでしょう。

大事なことは、主イエスさまによって養われ、力付けられて動き出すことです。こうしてはおられないと、主イエスさまのために動いてゆく、そのように生きて動いてゆくようにして下さるのがイエスさまです。

主イエスさまを信じたつもりでも、命が燃えて動き出さないなら、それは信仰とは言えないものでしょう。そんなのはキリスト教的信念とでも言いますか、信仰はそういうものではないと思います。

良き羊飼いは、羊に今何が必要かをよく知っているのです。羊たちに、今これを食べなさい、この水を飲みなさい、ここで静かに休みなさい、今度はこの山をかけ登りなさいと、その折り折りに、一番必要なことをちゃんと知って導いてくれます。

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主イエスさまは、わたしはあなたたちの羊飼いだ、あなたたちはわたしの羊だよと言っておられます。どうでしょうか主イエスさまの羊になってみたらいかがでしょう。主イエスさまという羊飼いが、わたしの命をちゃんと知って見守って支えて下さる。今日も主イエスさまが一緒だった、明日もイエスさまがいいように導いて下さるのだ、と信頼してあわてないで、おそれないで、今日という日を、主イエスさまについてゆく羊として生きてゆくのです。

羊というのは、おろかで弱い動物だと言われています。この頃砂漠を自動車が突走る時代になりますと、羊の事故がよくおこるのだそうです。羊飼いが何百匹も羊を連れて歩いていると、羊は前の羊について止まることを知らないので、途中自動車がブーブーならそうが、羊は止まらない、先の羊が行ったあとにぞろぞろついて行って、途中何がおころうが止まることができずに車にひかれる、という痛ましいことがおこると聞かされております。危ない、こわいということがわからないのだそうです。そのように羊はおろかなものだということです。

また羊は弱いものです。羊は武器を持っていません。羊の角は突くことができず、役に立たないのです。強い獣がきたらどうにもならない程無力なもの、この羊のおろかさと弱さを笑わないで、ああこれは、わたし自身のことだなあと受け取ってみたらどうでしょうか。

わたしたちは賢いような顔をしています。そして負けてはならないと核武装とかなんとかいうようなことまで一生けん命して、強くなった、強くなったと思っているでしょう。しかし、そんなことをしてもわたしたちの間に、不安やおそれや疑いは消えないでしょう。

思いきって羊になってみたらどうでしょうか。武器を持たない羊になったら、いっぺんに食い殺されてしまうでしょうか、羊は武装していない、武器を持っていない、つめやきばを持っていない、しかし、羊はちゃんと生きております。

これはどういうことでしょうか、動物の世界に、人間が学ばなければならないところがあるのではないのでしょうか。猛獣はほかの動物をおそうのだと言いますが

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聞いてみると、猛獣がほかの動物をおそうのは、お腹が空いた時だけなのだそうです。

動物は無駄なあらそいはしない。無駄におそいかかるようなことはしない。動物の世界では、本当に食わねば自分が死ぬ、というような時でなければ、猛獣といえどもほかの動物をおそうようなことはしないのだそうです。

それに比べて人間の世界はどうでしょうか、動物の世界にあるようなルールを持てないのでしょうか。本当は危険でも何でもないのに隣りの領地に攻めこんで危険をおこす。人間は必要以上に垣根を高くして、武器を並べないと生きてゆけないのでしょうか。

主イエスさまは、あなたたちは羊だよと言っておられます。武器を持たない羊の平安というものを思ってみたいと思います。武装していない羊たちは、羊飼いに導かれてちゃんと生きております。

わたしたちも主イエスさまの前で、武装をといてみたらどうでしょうか。わたしたちは案外気付かないで、武装しているのではないのですか、隣りの人とにこにこしながら、やわらかな話しをしているのに、心の中では、あの人はああ言っているけど油断は出来ないぞ、何か出たら負けてなるものか、と剣の先をといでいる。心の中で武装しているのですねえ。

思いきって主イエスさまの羊になってみたらどうでしょうか。わたしはイエスさまの羊になっているでしょうか。おろかで弱くても安らぎのある羊。主イエスさまはわたしが来たのは、羊に命を与えるためだと言っておられます。羊が今日を生きていけるようにおいで下さったのです。

クリスチヤンとは、主イエスさまが生きるために必要な食べものを与えて下さるのだと信じて、あとについて行く羊の群れです。良き羊飼いに守られて生きてゆける羊の群れです。 一口で言えば、主イエスさまがいらっしゃらなければ、わたしたちは生きておれない者たちなのです。

主イエスさまがいらっしゃらなければ、わたしの命に何の価値がありましょうか、わたしの命、わたしの生活のどこに安らぎがありましょうか、喜びがありましょうか、主イエスさまがいらっしゃらないと、わたしのすべてがないのです。だから信じて仰いでゆくのです。信仰するのです。

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主イエスさまの方に、目を向け心を向けるのです。

そうするとイエスさまがいいようにして下さいます。

「お前の目は少しにごっているぞ」

と言って、きれいな水の所に連れていって目を洗って下さるかもわかりません。

「お前の心は冷たいよ、もつと温かく燃やしなさい」

と言って、もつと元気の出る美味しい草のあるところに、

連れていって下さるかもわかりません。

主イエスさまという良き羊飼いに、見守られ導かれる羊たちのように、すべてをあずけてついてゆくとき、豊かに命が与えられ、目があきらかになり、心が温かくなって、はつらつとしたそしておだやかな生き方ができるでしょう。

主イエスさまが必ずいいようにして下さるのだと信じて、主イエスさまの呼ばれる方について行く暮らし、それが信仰生活ではないでしょうか。

その次にもう一つ主イエスさまは言っておられます。

「われは良き羊飼いにして、わがものを知り、わがものはわれを知る」

それは、

「父のわれを知り、われの父を知るが如し」

ということです。主イエスさまはわたしたちを、

「わたしの羊だよ」

と言われた上に、

「あなたを知っているよ」

と言って下さっておるのです。

わたしはあなたを知っているよ、と、わたしは主イエスさまに知られているというのです。これは何と有難いお言葉でしょう。

どうでしょうか、わたしたちは自分自身を振り返ってみて、わたしを知っているでしょうか。自分でも自分はわからない、だからずっと昔から偉い哲学者が言っていますよねえ、

「おのれ自らを知れ」

わたしは何ですか、あなたは何ですか。それを知りなさい、はてそれは何だろうかそれを何とかして知りたいと、知識を追い求めた、それが哲学。哲学というと難しい学問のようですが、わたしは何でしょうと、自分自身を知ろうとする人間の学び、努力でしょう。それがあのような深遠な哲学体系を作り出したのでしょう。

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哲学の中に仏教哲学というのもありますね、儒教哲学というのも出てくるでしょう。いろいろな哲学が出てくるでしょうが、そういうものは、つきつめてゆけば、それはみんな自分自身を知ることでしょう。

わたしは何でしょう、しかしわからない、自分自身を知れというけれどわたしにはわからない。わかったような顔をしているけれど本当はわからない、だから病気になった時は、お医者さんに頼んでみないとどうにもならない、自分自身を知っていると言っても、このうすい皮の下で心臓がどうなっているのか、今腎臓がどうなっているのか、身近なわたし自身も知らないわたしです。

ところが主イエスさまは、わたしはあなたを知っているよ、と言って下さるのです。今信仰とは、信じて仰ぐことだと申し上げましたが、次のことは、

「わたしはあなたを知っているよ」

と言って下さる言葉を受けることです。 一言で言えば、知られているという確信を持つことです。

わたしは主イエスさまから知られているのです。知られているということは有難いことです。どうでしょうか、何でもないような誰にも知られていない自分だと思っていたらある年、自分の作った歌を出したところが、それが宮中でのお歌会に取り上げられた。天皇さまに知られることになった。というようなことはどうでしょうか、あの宮中でのお歌会。本当に光栄にあふれ、歌人たちが集って天皇さまに知られるという光栄を味わっている。何も天皇さままでいかなくても、どこかの歌の研究会で発表でもしてもらえば喜びでしょう。それが天皇さまの所までいって知られたとなると、大変な光栄でしょう。

これは一つの例ですが、知られておるということはうれしいことです。知られたい、知ってもらいたいと思っているのです。

知られたいのに、うまく知ってもらえないから、腹を立ててむくれ難しくなってゆく、これが子供たちの反抗期でしょう。親は反抗期だ、反抗期だと言っているけど、それは知られたい、知られたい、自分をお母さんが知ってくれない、学校の先生が知ってくれない。それが反抗期と言われていることでしょう。知ってもらったら問題は解決するのです。知られる、知ってもらえることは大事な事なのです。

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主イエスさまは、わたしは良き羊飼いで、わたしの羊をよく知っていますよと言って下さいます。ではそれで安心かというと、そうではなくてその次があるのです。

「われは良き羊飼いで、わがものを知り、わがものはわれを知る」

わたしたちは主イエスさまから、知っているよ、わたしのものだよ、と言われている。ところが主イエスさまは、

「わがものはわれを知る」

と言われる、わたしはイエスさまを知っているそうです。

しかしどうですかねえ、本当に知っているでしょうか、なかなか知ってはいないですねえ、イエスさまのお気持はよくわからないし、イエスさまのおっしゃることもよく理解できない、イエスさまのなさり方もよくわからずに、まごまごしておりますが、それなのに、

「わがものはわれを知る」

と言っておられます。わたしが主イエスさまを知る者として受けて下さるのです。

その知るは、今知るじゃないでしょう、これからだんだんと知って行くのだろう、とわたしはそのように受け取っております。わがものはわれを知る。わたしの羊はわたしを知っている、今小指の先程知っているが、だんだんとその次には、隣りの薬指まで知るかもわからない、それからだんだんと、片うでまで知るようになるかもしれない。主イエスさまは全部知り切るまで、わたしを知らないとはおっしゃらない、これは有難いことだと思います。

「わがものはわれを知る」

そう言われている、イエスさまのものであるわたしですが、本当におはずかしいながら、イエスさまの小指の先程もまだ知っておりません。それにもかかわらず、イエスさまの方では、お前はわたしをよく知ってくれているなあ、とわたしを知る者として扱って下さいます。

これは完全な理解でしょう。お互の間の完全な理解です。どのくらい完全かというと、その先にイエスさまは言っておられます。

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「父のわれを知り、われの父を知るがごとし」

父なる神さまが、主イエスさまを知っておられるように、神さまと主イエスさまは、父と子という完全な深い理解のもとにある。そのように、あなた方とわたしの間はあるのですよ、と言っておられます。

いやとんでもない、そんなことはありませんよと言いたいわたしに、いや、今はそうではないかもわからないが、そういうふうにわたしがしてやるのだよ、と言って下さるのです。

わたしについて山に行ったり、谷に行ったり、わたしの与える食べ物を食べていたら大丈夫だよ、と言って下さるのです。

そのお言葉を信じて、何も知らないわたしですが、じゃあそうしましょう、と主イエスさまのあとについて行く、そのお言葉に望みをおいて、そうですか、じゃあそう願います。と主イエスさまのあとについて行く、それが信仰者ではないのでしょうか。

この羊のおろかさをわたしは持ちたい、何か理屈を言って、とんでもない、とんでもないと言わないで、

「われはわがものを知り、わがものはわれを知る」

それは、

「父のわれを知り、われの父を知るがごとし」

そういう間柄なんだよと言われることを、そのまま有難うございます、どうぞそのように願います。とこう言って、主イエスさまにすべてをおあずけして、主イエスさまのあとについてゆきたいものです。

これが主イエスさまについて行く羊のゆき方ではないのでしょうか。どうかわがものと言って下さる方の羊として、今日を生きる者となられますように、おすすめいたします。

 

1985年4月21日

復活後第二主日

大口聖公会にて