11.新しき歌
(本文)
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えびの高原には人影もあまり見えず、静かな午後であった。
つつじの花はもうほとんど終わり、若葉が初夏の陽にかがやき、その緑色をうつして、不動池の水は青くしずかに澄んでいる。
池のほとりの石に腰をおろす。すると眼の前のやぶの中で、うぐいすが二羽交互に鳴きはじめた。
「ホーホケッキヨ」
という声は、
「ヨーク来ましたネッ」
と歓迎してくれているように聞こえる。池の向かう岸の繁みからは、
「コッコ、コッコ」
と、かっこうの声が聞こえてくる。
「ココニ来ナイカ」
と呼び招いているかのようである。
しばらくじっと聞いているうちに、わたしはうぐいすとかっこうが、
「いっしょに歌いましょうよ」
と、さそってくれているような気がしてきた。そして旧約聖書の詩第九六編を思い出し口ずさんだ。
新しき歌を主にむかいて歌え、
全地よ、主にむかいて歌うべし。
主にむかいて歌い、
そのみ名をほめよ、
日ごとにその救いをのべ伝えよ。
もろもろの国の中に、
その栄光をあらわし、
もろもろの民の中に、
そのくすしき みわざをあらわすべし。
主はおおいなり、
いともにめたとうべきものなり。
もろもろの神にまさりて、
おそるべきものなり。
(詩96編)
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新しき歌をうたうとは、どのような歌をどのように歌うことであろうか。不動池のさざなみを見つめながら、
わたしは考えた。
「十年一日のごとく………」
という古い言いかたがあるが、それどころではない、ずっと昔から何百年一日のごとくに、わたしたちの教会では、古い聖歌を歌いつづけている。
教会の歌は新しいだろうか。これを歌う人も聞く人も、つねに新鮮な感動をもっているであろうか、あるときは喜びに、またあるときは悲しみに、心をふるわせながら、歌ったり問いたりしているだろうか。
それとも、礼拝や集会のプログラムの中の一部として、ただ習慣的に聖歌につき合っている、というようなことはないだろうか。
歌は、生きている人の息吹である。いま、わたしたちの教会の歌には、いきいきとしたクリスチャンの息吹が感じられるであろうか、はつらつとした新鮮な生命の歌が歌われているだろうか。教会の歌は弱々しく古びきってはいないだろうか。
時は移り人も変わる。新しい時代、新しい世界にふさわしい新しい歌が作られ歌われるのは、当然であり望ましいことであり必要なことでもある。
それゆえに、古い歌は捨てて、新しく作詩作曲された斬新な歌を歌え、というのがこの詩第九六編の意味であろうか。
そうであるようにも見える、しかしまた、そうでないような気もする。
きのうのヒットソングは、今日はもうはやらない。きょうの歌はあすはすたれる。だから毎日新しい歌を作り出して歌え、というのではない。
わたしたちの歌が、たとえどのように古臭くなっていようとも、新しい歌になるように、高らかに歌い上げようではないか、というのが旧約の詩人の気持ではないのだろうか。
かならずしも新作の歌とはかざらない。古い歌も、歌う人によって新しい歌になる。古い歌でも新しく歌う、それが、
「新しき歌」
を歌うことになるのではないだろうか。
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教会では、賛美歌とか聖歌といわれる歌をたくさん持っている。たとえば、古今聖歌集の一八二、
「あまつ父よりいずる喜びの光なる」
という歌には註がつけてあり、
「この聖歌は第四世紀のころ既に古歌と称えられたものである」
と書かれてある。
多分第三世紀のころからギリンャ教会で歌われて、今日まで人びとに愛唱されているものらしい。
教会でうたわれている歌は、新旧さまざまであるが、それらは歌詞も曲譜も珠玉の名編と言われるべきものが多い。
ところで教会は、至宝とも言うべきこれらの聖歌、賛美歌を、どのように歌い用いているだろうか。
歌う人たちにとっても、聞く人たちにとっても、教会の歌は、古くさくて生気のないものになってはいないだ
霊的な感動のない、気の抜けた、ただの歌のようになってはいないだろうか。
もしも教会の人びとが、生命の躍動しない、弱々しい歌いかたをしているならば、その人たちは、
「新しき歌を主にむかいて歌え」
という詩人のすすめにしたがって、どの歌も、新しい歌として歌いなおすべきではないかと思う。
では、新しい歌とはどんな歌であろうか、新しく歌い直して、古い歌をも新しくするには、どうしたらよいだ
ろうか。
「主にむかいて歌い、そのみ名をほめよ」
まず心の姿勢、神さまに向かって歌う、つまり、神さまにこの歌をさし上げます、という気持で歌うのである。
そしてその歌は、み名をほめる、すなわち神さまを賛美することを第一の目的とするものである。
永遠にいます神さまにむかってささげる、このような歌は、決して古びたりすたれたりすることはない。
「日ごとにその救いをのべ伝えよ」
新しい歌とは、神さまに向かって賛美をささげるとともに、人に向かって、主の救いをのべ伝えるものである。
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すなはちそれは信仰のあかしの歌、伝道の歌である。
そしてそれは、日ごとの歌である。歌う日もあり歌わぬ日もありではない。日ごとに歌いささげるべきものである。
新しき歌をすすめた詩人は、さらに次のように歌っている。
もろもろの国のなかに、
その栄光をあらわし、
もろもろの民のなかに、
そのくすしきみわさをあらわすべし。
神さまのみ栄えが、世界のあらゆる国々にあらわれ、そのみわざが、地上のすべての人びとの中にあらわれるように、との願いをもって歌う、それは、
み国を来たらしめたまえ、
み心を天における如く、
地にも行わしめたまえ。
という、
「主の祈り」
の精神である。
この祈りの心をもって、主に向かって歌い上げるとき、どんな歌でも、永遠に新しい歌になる。
主に向かって、魂をふるいおののかせ、心を燃やしながら、日ごとに新しい歌を歌いつづけたい。
ふと気がつくと、いつの間にかうぐいすの声は止んでいた。そしてかっこうは、遠く馬頭観音の森に移って鳴きつづけていた。
1977年5月
えびの不動池のほとりにて