6.大斎始日の祈り


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 大斎始日となりました。今日から大斎節がはじまります。この大斎節のはじめの日のお祈りは次のようになっています。

 

限りなく生ける全能の神よ、

主は造りたまいしものを一つも憎まず、

悔い改むる罪人をことごとく赦したもう。

願わくは我らのために、新たなる悔ゆる心をつくりたまいて、

まことに罪を悲しみ、そのわざわいをさとり、

慈悲ふかき父の御手より、全きゆるしを受くることを得させたまえ。

主イエス・キリストによりてこい願いたてまつる。

 アーメン

 (祈祷書二一四ページ)

 

 祈祷書の中にいろいろな祈りがありますが、その祈りの始まりのところ、ここには大切なよく味わってみるべき言葉が多いようです。今日のこの祈りは「限りなく生ける全能の神よ」という呼びかけで始められています。

 わたしたちがいまお祈り申し上げております、このささやかな祈りを聞いて下さる神さま、その神さまは、限りなく生ける全能の神さまであることを、しっかりと信じてお祈りしましょう。

 わたしたちの祈りはささやかなものです。朝ちょっとの間お祈りしたことを、昼すぎにはもう忘れているかもしれません。しかし、その祈りを聞いて下さる神さまは限りなく生ける全能の方でいらっしゃいます。わたしからお聞きになったお祈りを、けっして忘れてしまう方ではありません。

 わたしの祈りを聞いて下さる方が「限りなく生ける全能の神」であるということは、これはまた大変なことではありませんか。祈祷書に書いてあるからと、それをすらすらと読み通らないで、よく味わいながら、しっかりと受け止めてお祈りいたしましょう。

 そうすると、限りなく生ける全能の神さまが、わたしの今の祈りをいつまでもおぼえていて下さる。そしてそれにたいして全能の知恵と力をもってこたえて下さる。

その方は今ここに近くいましたもうということが信じられ、祈りに自信が与えられ、望みが加えられます。

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 どうぞ、わたしたちの毎日の祈りを、その神さまを見上げなから、自信が与えられ、望みが与えられ、祈りから祈りへと、祈りついでゆく日々にしたいと思うのでございます。

 その次に祈っておりますことは、

 

 「主は造りたまいしものを一つも憎まず、悔い改むる罪人をことごとく赦したもう」

 

神さまは造りたまいしものを一つも憎まない。わたしたち人間はときどきお互に憎んだり、いやらしいなという思いを持ったりする。しかし神さまはお造りになったものを一つも憎みません。

 でもわたしは、ほんとうに神さまから憎まれないような具合になっているでしょうか、そんなことはないでしょう。わたしが自分の外に出て、ちょっと外から自分を眺めたら、まあなんてわたしは憎らしい人間でしょうか、いやらしい人間でしょうかと思うでしょう。

 そういうわたしでも、神さまはこれを憎まないで、ご自分でお造りになったものとしていつでも見ていて下さいます。

 「主は造りたまいしものを一つも憎まず」

その中の一つにわたしが加えられておりますことを感謝いたしましょう。

 お造りになったものを憎まないという、そのような神さまの善意といいましょうか、あるいは好意といいましょうか、そういうお気持をときどきじっくりと考え味わってみてはどうでしょうか。

 「主は造りたまいしものを一つも憎まず」

このことをこの頃の若い人たちが、早くから確信しておればよいと思います。主は造りたまいしものを一つも憎まず、ということは言いかえれば、わたしは主によって造られたものの一つだ、わたしはその憎まれないものの一つなのだ、という自信を持つことです。そうすると若い方たちかよく絶望的になったり、やけになったりするのを防ぐことができるのではないでしょうか。

 

 若いころから、わたしは主に造られたものだ、主から憎まれないのだ。自分で自分が嫌になり、自分自身が憎らしくなり、自分に愛想が尽きてしまうような時でも、神さまは決してわたしを憎みお見捨てにならない。というところに、わたしたちの最後のより場をしっかりと持っていたいと思います。

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 お造りになったものを一つもお見捨てにならない神さまは、罪人であっても悔い改めるなら一人も憎まず「ことごとく赦したもう」というのです。

 わたしはこの祈りから、神さまの前に亡びる者はないはずだと考えました。そしてそこから天国を考えるようになりました。

 これは救われた人だから天国に入れてもらえる、これは救われないから天国に行かれない。救われた中でも、これは聖人の位に座る人、これは凡人の座、というふうに天国の座が分けて考えられる。とにかく天国とは信仰の優等生たちが、ずらっとならんでおる世界のような所と思われているようです。わたしも始めのころはそんなものかと考えていました。

 

 「わたしは若いころから、イギリスからお見えになった婦人宣教師の方のおみちびきで信仰に入りました。その先生はわたしにお洗濯の歌を教えてくれました。わたしはそれからずつと何十年も、お洗濯のときにはこの歌をうたいながらやることにしています」

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 「それはどんな歌ですか」

 「ほら教会で歌うでしょうが」

その頃(学生時代)わたしは延岡の聖ステバノ教会で、みんなからおつるさんと呼ばれている一人のおばあさんと親しくなりました。

 ある寒い冬の朝行ってみますと、おつる小母さんは、ちょうどお洗濯が終わったところで、縁側に腰かけて霜やけではれ上がった手をさすりながら、涙をぽろぽろと落としていました。

 「こんにちは」

と、わたしは声をかけました。するとおつる小母さんはかじかんだ手で涙をふきながら言いました。

  「よくいらっしゃいました」

  「こんな寒い朝の洗濯は大変ですね」

  「ええ、つめたいですよ、手が切れそうに……。でもわたしはうれしいのですよ、おかけさまで」

という答えです。どうして手が切れそうに冷たくてもうれしいのか、どうしておかげさまでなのか、さっぱり分からないわたしのために、おつる小母さんは話しをつづけてくれました。

 

イエスよ心にやどりて われを宮となしたまえ

けがれにそみしこの身を 雪よりも白くせよな

わが罪を洗いて 雪よりも白くせよな

 

「というあれですよ」

「ああ、あの歌ですか」

 

 イエスよ十字架のもとに われ伏してこいねごう

 流れいづる血しおにて つみの身を清めたまえ

 わが罪を洗いて 雪よりも白くせよな

  (聖歌四七〇 1・3)

 

 「とつづく、あれいい歌ですね。ほんとうにお洗濯にぴったりの歌ですね」

 「そうですよ、あれを歌いながらお洗濯していますと霜の朝でも冷たいの辛いのはなくなりましてねえ、うれしいですよ。ほんとうに信仰におみちびきいただいたおかげさまですよ」

 なるほど、わたしはおつる小母さんの″うれしい″ と  ″おかげさま″がわかりました。しかし、あの涙はどういうことだったのだろうと思っていると、おつる小母さんは問わず語りに話してくれました。

 「わたしには姉が一人ありました。わたしはおかげさまで信仰にみちびかれ救われましたが、姉は信仰を持たずにずっと前に死にました。天国に入ることができなかったでしょう、かわいそうでなりません。わたしもだんだん年老いて、そのうちに天国に召されるでしょうけれども、そこで姉と会うことができないだろうと思えば、折りにつけ事にふれて悲しくて涙が出てきます」

 これを聞いてわたしは、正面から切りこまれたような感じを受けました。

 天国という地図を描き、クリスチャンはこちら、そうでない人はあちら、こういうふうに線を引き区別するような、天国の考え方が根底からひっくりかえされるような感じがしました。

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 もしも、天国とはクリスチャンでなければ入れない所だとしたらどうでしょう、キリスト教の歴史のまだ始まらなかった昔の人はどうなるのでしょう。またキリスト教の時代になっても、それを信じない世界の多くの人たち、ことに日本のように仏教や神道で一生を終わった人たち、わたしたちの遠い先祖たちや身近な親しい人たちと、天国との関係はどうなるのでしょう。お姉さんのた

めに泣き悲しんでいたおつる小母さんの涙は、深くわたしの心にしみこんできました。

 わたしも始めのころは、天国とはクリスチャンが入る世界というように教えられていましたが、その考えがぐらつきはじめました。

 神学院で天国のことを教えられたとき、動物たちは天国に入れるかと質問しました、するとその先生は動物は入れない、それは問題外だ。天国はキリストの救いを受けた者の世界だ、動物にはそんな救いはない、との答えでした。これを聞いてがっかりしました。救われた人間ばかりがみんなクリスチャン顔をしており、その間に一段と神々しくいかめしい聖人さまの顔は見えても動物の

姿はひとつも見えない、もしそうだとしたら天国とは何と殺風景な味気ない世界だろう、そんな世界に入りたくない。しかし、天国がそんな世界であるはずはないと思いました。

 神学校では、救いという立場の神学論から天国というものを教えられてきましたが、どうにも納得ができません。そして実際に教会にご奉仕するようになって、折り折りに天国を考えるようになったとき、救い主から天国を考えないで、造り主なる神さまから天国を考える。いわゆる創造論ですね、創造論から天国を考える。神さまは造り主だということを長い間考え考えて、行きついた

ところはまことに漫画みたいな世界でした。

 その天国には、鹿児島に行って以来十匹ほど飼った、あの迷い犬がおります。それから何匹か数えられない程今までに飼ったねこたちがおります。それからにわとり小鳥沢山飼いました。最後のめんどりは十七年の長寿を全うしました。それらはみんな動物、鳥、草花たちまでそれぞれにふさわしい天国のくらしを楽しませてもらっておる、明かるく、楽しいところ。それがわたしの天国。

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 人間だけが、人間の中でも立派なクリスチャンであると人から言われるような人間だけが、ずらっと顔を並べているようなそんな窮屈な天国じゃないのです。わたしの天国にわたしが入るときには、かわいがられていたねこやら犬やらが旗を立てて、ワンワン、ニャンニャン言ってみんなで迎えてくれるであろうと、こんなふうに考えるようになりました。本気でわたしはそんなふうに考

えております。

 ですからこの大斎始日のお祈りを読みますとうれしくなるのです。

 

 「限りなく生ける全能の神よ、主は造りたまいしものを一つも憎まず、悔い改むる罪人をことごとく赦したもう」

 

 お造りになったものを一つも憎まない神さま、ご自分お造りになったものは、ゆがんでおろうが間違っておろうが、おしくてたまらない。そういう温かいほのぼのとしたお気持の神さまが、急に身近に感じられるようになりました。

 その神さまは、お造りになったものを一つも憎まずおしんで、天国の門を開いて下さる。そこでわたしはまた妙なところまでゆきました。

 地獄なんていうのはどうですかというのです。わたしは地獄も天国のうちだというところまでいってしまいました。どうですかねえ、とんでもないということになるかもしれませんが、わたしはそう思っております。

 地獄とは亡びてしまう場所と聖書のあちこちに見えますよねえ。亡びてしまう地獄という考え方もありますけど、わたしはそういうところだって神さまの場所だと、神さまを離れて地獄もありやしないだろうと思うのです。永遠の亡びになる地獄、まあそれが地獄かもしれませんけど、そんな地獄があったら大変だという思いです。無いとは言えませんが、あったら大変だと。永遠の亡びになるような地獄があるかもしれないけれども、その地獄と言っても、神さまのみ手の中にちゃんとあるものなのだと信じられるようになりました。

 ですからそこに入ったらもうおしまいという地獄でなくなったのです。地獄というのはちょうど昔の人たちが言った、練獄という考え方に非常に近くなってまいりました。

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 教会は地獄を永遠の亡びの場というふうに教えていますが、わたしは永遠の亡びの場として神さまが地獄をおつくりになったとは思っていません。

 逆に、神さまは造らんだろうがサタンが造ったのだ、と言う人があるかもしれませんが、わたしはサタンが神さまに対坑して、そんなものを造りうるはずはないと思うのです。

 人が地獄だというところ、亡びの場だというところ、それもみんな神さまのご支配の中、神さまのそのみ手の中でおさめていて下さるでしょう。

 地獄という言葉はあるかもしれない、実際に亡びの場に入ることもあるかもしれない、しかし、神さまが亡びの場としてそこにぶちこんで亡ぼしてしまう。そのように聖書を読むと読まれるようなところも沢山ありますが、わたしはそうではないと思います。

 神さまが亡びの場を造って、亡びとしてそこにぶちこむのじゃなくて、そこに入らねばならない人があるかもしれないが、そこからは帰ってくることができる。そこに入ったら終わりになる人があるとしても、神さまが終わりにするのじゃなくて、その人が自分で終わりにするのです。いいですか、神さまが地獄を造るのでなくて、人間が地獄を造るのです。わたしはそういうふうに考え

るようになりました。

 じゃわたしたちが、地獄だ地獄だというそこは何かというと、別の言葉で言えは訓練の場、と思ったらいいではないでしょうか。ある人は神さまがここでちょっと訓練してこい。あるいはここで少し考えてこい。というように、神さまがそこですごさせて下さるという所。そのうちにそこから帰ってくると「よう帰ってきたな」と神さまは迎えて下さるでしょう。

 地獄と言われているところは、神さまを離れた亡びの場じゃなくて、しばらく行っておれと言われても、そこで与えられた時間をすごすと神さまは呼び返してくださる、いわば天国の待合室じゃないかと考えるようになりました。

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 神さまは天国をお造りになりましたが、地獄もお造りになった。地獄と言っても神さまのみ手の中なのです。

  「主は造りたまいしものを一つも憎まず」

あれはもう地獄に行ったのだから関係ない、と言われるはずはないでしょう。

 「悔い改むる罪人をことごとく赦したもう」

ここで地獄に光があるのです。

 人は地獄だ真暗だ、と言うかもしれないが、そこに悔い改むる罪人をことごとく赦したもう「出てこいよ、もういいよ」という道が備えられている。悔い改むる罪人がみんな赦されるのです。

 もし赦されない地獄というのがあるとするならば、それは悔い改めないからです。悔い改めない人には永遠の亡びがあるでしょう。しかし、永遠の亡びの一歩手前まで行っても悔い改めるならば、その罪人を神さまはことごとく赦したもうのです。

 このような神さまが、今日も明日もじっと見守っていて下さることを感謝したいと思います。

 大斎始日の祈りは次のようにつづいております。

 

 願わくはわれらのために、新たなる悔ゆる心を造りたまいて、

 まことに罪を悲しみ、その災いを悟り、

 慈悲ふかき父のみ手より、全き赦しを受くることを得させたまえ。

 

 「新たなる悔ゆる心を造りたまいて」

とはどういうことでしょうか。わたしは、悔ゆる心を新たに造りたまいて、と読み受け取っております。

 きのうはあのような悔いを神さまに申し上げました。今日はまたきのうとは違って、こういうことをお赦し願わねばなりません。今日は今日の新しい悔いがある。明日になれば明日もまた新しい悔いがある。それは悲しいことですけれど、人間のあわれさですよねえ。毎日神さまの前に悔いの多い歩みを続けております。

 きのうはあのことで悔いた、今日はまたこのことで新たに悔いなければならない。明日はまたあす、生きている間じゅう悔いをくり返してゆく、それも同じ悔いではなく、その日その日にいろいろな悔いがあるでしょう。

 それが、新たに悔ゆることではないかと思っております。あなたの前に新たに悔いを申し上げさせて下さい、との祈りだと思います。

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 悔ゆる心を新たに造り「まことに罪を悲しむ」ようにして下さい。罪を悲しむ心を与えて下さい。悔いて悲しみをもつ、それが懺悔でしょう。

 今日は今日、新しく罪をおかしました。これを新しく悔いてゆく。明日はまた、こんな人間ですから、どんなふうに罪をおかさないともかぎりません。そのとき新しく悔ゆる心を与えて下さい。悔いをさして下さいと、罪を悲しむのです。

 罪というのは、神さまとちぐはぐになっている状態のことでしょう。(ここで言う罪は刑法上の罪とは違うのです)神さまとちぐはぐになっていてしっくりしていないことを、痛みとして悲しむのです。

 罪を悲しむとは、わたしのことだけ見て、わたしはなんてまあなさけない人間でしょうかと、自分をかこち悲しむのではなくて、神さまのことを悲しむのです。

 わたしは神さまとちぐはぐになっていることは悲しい。しかし、それよりも神さまの方がもっと悲しいことでしょう。わたしが残念と言うだけじゃなくて、神さまはどんなに残念な思いをなさっておられるでしょうか。ご自分で造った人間が、神さまの心にそわないで、ちぐはぐになって生きている、そのことはどんなに悲しいことでしょうか、と神さまの悲しみを思って悲しむ。神さまあ

いすみません、という悲しみ。わたしたちはこんな悲しみかたをしているでしょうか、どうでしょうか。

 

「まことに罪を悲しみ、その災いを悟り、慈悲ふかき父のみ手より、全き赦しを受くることを得させたまえ」

 

神さまの前に罪を悲しむ。神さまの方を見て罪を悲しむ。その罪がどんなに神さまのみ心を痛めまつることであるか、ということを知って、それを恐れて悲しむ。そうすることで全き赦しが与えられるでしょう。この悲しみが深ければふかいだけ、全き赦しがはっきりとわたしたちに与えられるでしょう。

 そのためにどうぞ、いつも新たに、新しく悔ゆる心をお与え下さいと祈りましょう。

 この大斎節の間に、新たに悔ゆる心を与えられて、神さまの前で、神さまとわたしとの間のちぐはぐを悲しみ悔ゆることをつとめたいと思います。

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 わたしは神さまとのちぐはぐをあまり悲しいとも思わないで、ときどき、あゝどうもしっくりゆかんねえ、困ったことだ、とそれくらいの軽い気持でいるかもしれない。しかし神さまにとっては、それは大変な不幸であり、痛みでしょう。大変な悲しみであったからこそ、これはどうもしようがないというので、独り子を十字架まで追いやりたもうたのでしょう。

 わたしたちはそれほどの悲しみを、神さまに与えているのだということを知って、申しわけないことだ、どうぞおゆるし下さいというお祈りをしましょう。というのが大斎始日のこのお祈りだと思います。

 どうか今年の大斎節には、

 

 「願わくはわれらのために、新たなる悔ゆる心を造りたまいて」

 

と、日ごとに新たな悔いを、神さまに申し上げてお赦しをいただきながら進んでゆきたいと思うのでございます。

 

1988年2月17日 大斎始日

 大口聖公会にて