9.受難週の日々

9-2.受難週第二日 月曜日 宮きよめ


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きのう聖週の日曜日に、ロバの子に乗ってエルサレムの都にお入りになった主イエスさまについて聖書は次のように記してあります。

 

ついにエルサレムに到りて宮にいり、すべてのものを見まわし、時はや暮に及びたれば、十二弟子と共にベタニヤに出でゆきたもう。

(マルコ11・11)

 

 神さまにつかえる都エルサレム、その中心である宮にお立ちになって、すべてのものを見まわされた主イエスさまは、感慨無量のものがあったのではないでしょうか。そこではいま過越の祭りのためにさまざまな準備がされておる、その光景を見まわして、ここに信仰のかけらでもあればよいが、と期侍されたのではないでしょうか。いま過越の祭りが近づきその準備で活気づいて、この世的にはりっぱに栄えておるように見えるこの宮を、やがて滅亡するであろう、恐ろしい悲しむべき運命のもとにあるものとしてごらんになったのてした。

 ですから今日聖週の月曜日に、ふたたびこの宮においでになった主イエスさまは、きのうとはまた違った人のように見えたでしょう。きのうは平和のシンボルと言われるロバに乗ってお入りになり、人びとから、ホサナ、ホサナと歓迎された主イエスさまは、今日は悲しみと怒りの気持でこのエルサレムの宮の庭にふたたびお立ちになったでしょう。そしてその宮を商売の場としておる人びとに対してはげしい怒りをぶっつけなさいました。

 

イエス宮に入り、その内にて売り買いする者どもを追い出し、両替する者の台、鳩を売る者の腰かけをたおし、また器を持ちて宮のうちを過ぐることをゆるしたまわず、かつ教えて言いたもう。

「『わが家は、もろもろの国人の祈りの家ととなえらるべし』、としるされたるにあらずや、しかるになんじらはこれを「強盗の巣」となせり」

(マルコ11・15~17)

 

 ここは神さまが(わが家)と呼びたもうところ(もろもろの国人の祈りの家)であるとして、エルサレムの宮の世俗化と腐敗を一掃しようとされました。

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 主イエスさまは祈りの家を確保しようとされました。

エルサレムの宮、これはイスラエルの民の信仰生活の中心である。これを守らなければイスラエルの民は亡びる、これを本来の姿において守り抜かねばならない、という激しい思いが燃えていたのでしょう。それで主イエスさまは世俗化してしまったそのエルサレムの宮を、もういちど清めようとなさいました。その行動は嵐のような烈しさでした。

 聖週の月曜日のこの出来事、主イエスさまの烈しいお怒りを今わたしたちはきびしく受け止めて考えねばならないと思います。

 「わが家は、もろもろの国人の祈りの家ととなえらるべし」

と聖書にあるではないかと主イエスさまがおっしゃったそのみことばは、今わたしたちの教会にもまた投げかけられているのではないでしょうか。

 いまわたしたちが招かれ、召し集められておるこの教会は神さまから(わが家)と呼ばれるべきものです。聖パウロはエペソの教会に宛てた手紙の中で次のように言っています。

 

 「なんじらもキリストにありて共に建てられ、み霊によりて神のみ住まいとなるなり」

(エペソ2・22)

 

 キリストさまに結び合わせられ、聖霊によって神さまのみ住まいとされておる、それが教会である、すなわち教会は神さまの家である、従ってそれはもろもろの国人の祈りの家でなければなりません。わたしたちの教会は果して神さまの家、もろもろの国人のために祈りの家として開かれておるでしょうか。

 ここで祭りということと祈りということを考えてみましょう。

 日本人は祭りが好きです。ですから何でも祭りにします。体育祭とか文化祭などは言うに及ばず、魚屋さんが魚を売りたいときは魚祭り、呉服屋さんは着物祭り、桜まつりや星まつり、雪まつり、何でも祭りにします。祭りにして楽しく交わり、商売をし、もうける、それはいいことでしょう。

 しかし、祭りというのは一体何でしょう。祭りはもともと信仰的行事でした。初めは神さまをお祭りする祈りの行事だったでしょう。昔から祭りといえば、神さまにお祈りをし、神さまの前でみんなが神さまと共に食事をしたり、神さまを楽しませるためにおかぐら(神楽)という踊りをしました。それが祭りだったのです。

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 ところがイエスさまがお立ちになったエルサレムのお宮はそのとき、もう本当のお祭りの場ではなくなっていました。外観だけは祭りは盛大でしたが、祈りの場ではなくなっていました。さあ過越の祭りだというのでみんながいっしょうけんめい準備をしていました。そこにはにぎやかな祭りの準備はあるが祈りはない、人間の祭りはあるが、神さまの祭りは影がうすくなっていました。

 このときのエルサレムの宮の様子は昔のこととは言えません。わたしたちの近くでやはりそのようなことがあるかもしれません。何とかの記念の祭りがはなやかにされるかもしれない。旗を立てたり、新しい標語を選んだり、美しい音楽で盛大な礼拝をしようと祭りの準備はされる。それもいいことでしょう。しかしその祭りのときに、もろもろの国びとたちのために祈りがされておるで

しょうか。

 「わが家は、もろもろの国人の祈りの家ととなえらるべし」

 もろもろの国人の祈りの家、と言われるその言葉のおごそかさきびしさを、わたしたちはいま感じ取らねばならないと思います。

 (もろもろの国人の祈り)というときに、その(もろもろの国人)の中からあの人のためには祈りはすまい、この人のための祈りは祈祷書から削除しましょうというようなことを、教会の会議で公に決議をしょうとする。それがはたしてイエスさまがおよろこびになることであるかどうか、わたしはこの聖週のときにそのことをまた考えさせられるのであります。

 教会は(神の家)そして(もろもろの国人のための祈り)の場である。それだのにそのもろもろの国人のための祈りの中から、誰かがはずされ、遠ざけられる、そして片方ではお祭りがにぎやかにはなやかにされようとしている。何だか過越の大祭りを迎えようとする混雑の中で主イエスさまを十字架につけたエルサレムを、今ここに見るような思いがいたします。

 

この月曜の朝、主イエスさまはベタニヤから出てエルサレムヘおいでになりました。

「あくる日(きのうの今日、月曜日です)かれらベタニヤより出で来りし時、イエス飢えたもう」

(マルコ11・12)

 

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 主イエスさまは、きのうエルサレムの都を出てベタニヤに行って、そこで一夜を過ごされました。そして今朝早く弟子たちといっしょに、ベタニヤからエルサレムにおいでになる、その時に主イエスさまは飢えておられたというのです。わたしは始めここがよくわかりませんでした。変だな、どうして朝早くから空腹だったのだろう、とふしぎに思っていました。

 イエスさまは、このとき日曜から水曜までの四晩はベタニヤで過ごしておられます。ベタニヤは主イエスさまにとって非常に親しみぶかい村でした。それは心おきなく交わることのできる親しい友達のおる村里でした。その村に一晩泊まって朝お出かけになったばかりのときに、お腹が空いていたとは変だなとわたしは思いました。それで聖書を読みかえしてみました、ところが、主イエスさまは、ベタニヤにお泊りになった、とは書いてありません。

 

イエスは、都を出でてベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。

(マタイ21・17)

 

時はや暮におよびたれば、十二弟子と共にベタニヤに出でゆきたもう。

(マルコ11・11)

 

イエス昼は宮にて教え、夜は出でてオリブという山に宿りたもう。            

(ルカ21・37)

 

 主イエスさまは、このときは人の家に泊めてもらったのではありませんでした。マタイ伝もルカ伝も主イエスさまと弟子たちは(そこで)または(オリブという山で)夜をすごされたと書いてあります。この(過ごされた)いうギリシャ語は野宿するとか、野営して夜をすごすという意味です。

 主イエスさまは、このときは人の家に泊めてもらったのではありません。弟子たちといっしょに野宿なさったのでした。それはそうでしょう、イエスさまは危険人物と思われていました。その危険な人物のグループがベ夕ニヤに帰ってゆく。ああいう者をかくまって泊まらせるのは一体どこの誰だろうかと、エルサレムの都から恐ろしい目が光っていたのです。

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 そういうときに主イエスさまは、親しい人の家に泊めてもらって迷惑をかけるというようなことはなさらなかったはずです。野宿をなさり朝食もなかったでしょう。それで今朝出てくるときに飢えておられたのは当然のことでしょう。

 春まだ浅く寒さのきびしいオリブ山で、四晩つゞけての野宿は、主イエスさまと弟子たちにとっては大変なご苦労さまだったにちがいありません。わたしたちはこのご苦労のほどを思わねばならないと思います。

 主イエスさまは、はるか向かうに葉のしげっているいちじくの木を見て、実がなっておれば好いがと思ってその木のところにお出になったが、いちじくの時期でなかったので一つも実がなっていませんでした。主イエスさまはその木に向かって言われました。

 

「今より後いつまでも、人なんじの実を食はざれ」

(マルコ11・14)

 

 ところが明日の朝ここを通るときに見たら、このいちじくの木が枯れていたというのです。

 このお話はどういうことでしょうか。多分これは、祈りについて主イエスさまが弟子たちに語られたお話が、空腹でいちじくの木のそばをお通りになったという話と結びつけられて、ここでイエスさまがいちじくの木をのろいなさったという話になったのだと、聖書学者は説明しています。

 明日(すなわち火曜日)の朝この同じ道を通ってエルサレムに行かれる途中のことがつぎのように記されてあります。

 

彼ら朝早く道をすぎしに、いちじくの木の根より枯れたるを見る。ペテロ思い出して言う、

「ラビ、見たまえ、のろいたまいしいちじくの木は枯れたり」

イエス答えて言いたもう、

「神を信ぜよ。まことに汝らにつぐ、人もしこの山に『移りて海に入れ』と言うとも、その言うところ必ず成るべしと信じて、心に疑わずば、その如く成るべし、この故に汝らにつぐ、

すべて祈りて願うことはすでに得たりと信ぜよ、さらば得べし。

また立ちて祈るとき、人をうらむことあらばゆるせ、

これは天にいます汝らの父の、汝らのあやまちをゆるしたまわんためなり」     (マルコ11・20~24)

 

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 これは、今敵が待ちかまえているエルサレムの宮に、

弟子たちと共に入って行こうとする時、その弟子たちのために一番大切なみ教えだったのだろうと思います。

「まず神さまを信じなさい、そして祈りをするときは、その祈りの中で願うことはすでに答えられた、と信じなさい。またうらむことがあれば、それはゆるして祈りなさい」

 うらみがいっぱい充満しておるようなエルサレムの都に、そのうらみをまともに受けようとしてのぼってゆく、そのとき主イエスさまは、弟子たちにこういう祈りの心得をお話しになったのでしょう。それがこのいちじくの木の物語となったのでしょう。

 きのうから今日にかけての主イエスさまのお心にあった大事なことは、祈りということだったのでしょう。エルサレムの宮が本当に祈りをもって祭りをする宮であってほしい。このエルサレムのお宮が、もろもろの国人の祈りの家であってもらいたい。そして主イエスさまは自分についてくる十二人の弟子たちが、みんな祈りの人になってもらいたい。山でも「移りて海に入れ」と言えば

移る、それを本気で信じてもらいたい、ということだったのでしょう。

 山が海に移るものか、そんなことはないよ、これはひとつのたとえ話だよ、とたいていの人が言います。しかしわたしはそう思っておりません。山でも海に移りますよ。これを信じなくてはお祈りはあまりありがたくないでしょう。お祈りがどこまで信じられるのですか。お祈りをいっしょうけんめいしたが山につきあたった、これでお祈りは終わり、というようなそんなお祈りは有難く

ありません。お祈りに限界がある、山につきあたるまでは祈るが、山があったらもうお手あげ、お祈りは行きずまり、というのでは本当のお祈りではありません。

 「移りて海に入れ」と言えば山でも移る、と主イエスさまは仰せになりました。わたしはこれをただたとえ話と受け取ってはならないと思います。

 山が移ります。山が乗り越えられます。どんなふうになりますか、これは自分で祈って祈って、祈って、祈り抜いてみることですね。きっとわかります。山が移るのです。水をブドー酒にした主イエスさまです。海をしずめた主イエスさまです。その主イエスさまが山でも移ると言われたのですから、山でも移ることを信じて祈りましょう。

 そういう祈りをするところがここ、この教会ですよ。この家、これは(もろもろの国人の祈りの家)です。ここに神さまがいます。ここで神さまと語ってごらんなさい、山でも移るのです。

 いちじくの実が無かったことから主イエスさまは、弟子たちと共に、祈りについて思いを深めながら、エルサレムへのぼってゆかれたことでしょう。

 そうしたら山が移るどころではありませんでした。エルサレムヘのぼっていって、そこで主イエスさまの祈りは絶頂にまで達して聞かれました。それは、ふつう一般の人たちがとうていそんなことはないだろう、とうてい望まれないだろうと思っていたこと、すなわち全世界の人が救われるという、その救いのみわざが完成したということです。

 十字架の上で主イエスさまは「事終わりぬ」と言われました。これは山が移るどころのことではありません。

 「事終わりぬ」これで世界のすべての人びとのための救いが完成したという宣言でした。その「事終わりぬ」に向かって進まれる道でいちじくの木に目をとめられ、祈りについて、弟子たちに教えたもうた主イエスさまをしのびたいと思うのでございます。

 

1987年4月13日 復活前月曜日

  大口教会にて