11.精霊なる神さま


(本文)

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聖霊降臨日を迎えましたので、きょうはそのことをご一緒に考えてみましょう。神さまのことは、なかなか分かりにくいと普通考えられています。しかし、わからないといってもあまり気にすることはないと思います。神さまは人間にわからないのはあたりまえ、人間が神さまのことを全部はっきりわかったらおかしいでしょう。こう始めから思って、神さまのわからないことを心配したり、あせったりなさらないことですね。

人間は、自分の思うようにならないことがいろいろあります。人は自分の体が思うようにならないということにぶっつかります。また自分の仕事が思うようにはかどらないということにもぶっつかります。人と人との間でもよく理解出来ず、折り合いがうまくゆかず、楽しくないというようなことにぶっつかります。

そういうことにぶっつかってみて、はて、これは?というので人は、どうしたらよいものかとさまざまに考え工夫する、そこから神さまということを考えるようになったのではないのでしようか。

人間の力だけではどうにもならない、人間の思いだけではどうにもならない。そういうことにぶっつかったときに、人間の力の及ばない何かあるものを考えるようになってきたのでしょう。そしてそれを絶対者とか、全能者とか、神とか仏とかいろいろと名を付けました。

やっぱり、神さまというか仏さまというか、なにかそのようなものが無くてはどうにも生きられない。人間の力以上の何かそのようなものを抜きにしては、わたしは自信が無いのだ。というようなことを、だれでもがどこででも考えたのでしよう。それが世界のいろいろの宗教の始まりではないのでしょうか。

そこからいろいろの仕万で神さまや仏さまを信ずるようになり、それはこういう方だろうと考えられるようになりました。その中の一つがわたしたちの信仰の仕方だと思います。

昔から沢山の人たちの努力のおかげで、今日わたしたちが受け継ぎいただいている信仰によって、教会では、

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神さまは、父と子と聖霊、即ち三位一体だと教えています。三位一体の神を信ずるのがキリスト教です。父と子と聖霊、三つで一つ、一つで三つ、だから三位一体、神さまとはそんな方なのだと言っています。

しかし、三位一体などと言ったって、これは学者がそんな言い方をしただけで、神さまが、

「わたしは三位一体だぞ、あなたたちはわたしを三位一体と呼びなさいよ」

と名乗ったわけではないのですから、三位一体がどうであるとかこうであるとか、難しい理屈や説明にとらわれなくてもいいのではないでしようか。

わたしたちにとって大切なことは、神さまを信ずることです。神さまが三位一体であると理解したり、確信したりすることではなくて、三位一体のお姿で、あるいはそのような仕方でわたしたちに向かって、昔も今もこれから後も、いつまでも働きかけて下さる神さまを信ずることが大切なのであります。

では、神さまとはどういうお方なのでしょうか。神さまとは、その方とつき合っていなければ、わたしたちが生きていけないというそんなお方なのです。

その方が下さる空気を鼻の穴から入れて出しておらなければ、わたしの体がもたないのです。その方が下さる水をいただかないと生きていられないのです。その水が少しても減ると、さあ大変だというので町でも村でも大騒動がおこります。

そのお方なしではわたしたちは生きられない。それが神さまです。神さまをそんなふうに考えてみたらどうでしょうか。その方のおかげで地球がちゃんと回っているのでしょう。地球が回っているおかげで朝を迎えます、夜を迎えます。 一日二十四時間がたちます。 一日一日が進み春夏秋冬がめぐってきます。朝になると明かるくなって起き上がり、夕方になると暗くなってよく休めるようになっております。

ただこうやって、毎日を目をさましたりねむくなったりする、これだって神さまとのおつき合いですよね。神さまがこういう世界を造って下さったればこそ、気持よく起きる朝もあり、静かにねむる夜もあるのでしょう。

わたしたちのどこをたたいても、神さまと関係のないところはありません。

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それなのに世の中には、神さまなんて必要でないような顔をして、いや、時には邪魔物扱いして、自分は無神論者だとかなんとか言っておる人もあります。しかし、いくら神さまに反対し無神論者といばってみても、「そのお方」無しては生きられないのです。

天地万物とその動きは勿論のこと、自分の命を支えるために鼻から出入りする空気、口から入れる食物の一切れ、水一滴でも、わたしたちが神さまと申し上げている、そのお方から与えられているのであって、無神論者が考え出し造り出したものではありません。

この世界に、人間が生活するようになって今に至るまで、人はわたしたちが神さまと申し上げている、「そのお方」無しでは生きられませんでした。

しかし、そのお方をどのように考えまた何とお呼びしてよいのか、それがわかるまでには長い長い年月を経なければなりませんでした。

そのお方なしでは生きられない、しかしそのお方を何んと申し上げてよいのかわからない。それはちょうど赤ん坊みたいなものでしょう。赤ん坊は生まれたらお母さんと朝から晩までつき合っていないと生きておられません。お母さんがいいようにしてお乳を飲ましてくれたり、おむつを替えてくれたり、着物を厚くしたりうすくしたりしてくれます。そのようにして毎日生きてゆき、だんだんと成長してゆきます。そしてやっと、ははあ、この人がいつもわたしのおなかがすいたら食べさせてくれるのだ、ということがちゃんと身をもって分かります。

そのお母さんとのおつき合いで、だんだんと大きくなってゆく赤ん坊に、

「あなたの母はこれですよ、この女の人に母と言ってごらん」

なんていったって、そんなことを言えるはずはない。しかし長いことつき合っているといつの間にか、ああ、これがわたしのママだなというふうに分かってくる。そしてママという言葉をおぼえたり、そのうちに、うちの母はどうとかこうとか、お母さんの説明が出来るようになったり、うちの母は何の何がしという名前だと分かるようになるでしょう。神さまとわたしたちとの関係もやはりそんなことでしょう。

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そのお方と、朝から晩まで、晩から朝まで一緒に生きている。そのお方のお蔭で生きている。神さまとはそういうお方です。赤ん坊がだんだん成長してきて、ああこの人をママと呼ぶのだな、これをパパと呼んだら間違いだなと分かってきたように、人間が長い年月の間、神さまのお守りと、お導きによって暮らしているうちに、だんだんと神さまが分かってきました。

それはどういうふうに分かったでしょうか、その分かってきた道筋が書いてあるのが聖書です。旧約聖書には神さまが分かり、神さまを信ずるようになったその信仰の動きが書かれています。それを読んで、それをよく味わってたどってきたときに、そこから分かってきたのは、神さまとは、天地万物の造り主だということです。そしてその方は、「父なる神さま」と言うのが一番適当だ、それが一番適切な呼び方のようだということでした。

ところがその神さまとのおつき合いが、どうもうまくいかなかったと聖書に書いてあります。聖書によれば、神さまに造られた人間が神さまのお心にそむいて、いろいろと失敗したり悩んだりアップアップしています。

そこで父なる神さまは、これはいけない、これはもう一ぺんやり直してやらなくてはいけない、というのでいろいろと方法を示して下さいました。しかし、 一度神さまにそむき脱線した人間を、本来の姿に立ち帰らせることはどうしてもできませんでした。それで最後に一番決定的な確かな方法をおとりになりました。それは神さまご自身が、人間の中に飛び込んできて引き上げて下さる

という仕方でした。

人間を救うのですからね、羊や豚など連れてきてもとうてい出来ることではないでしょう。神さまは人間を救うのには人間でなくては駄目だ、とか考えになったのでしょう、 一人の人をこの世に送って下さいました。その方は当時の人びとからは、ナザレのイエスと呼ばれました。その方は一生けんめい命がけで、ついには十字架にかけられて殺されるということまでして、世界中の人びとが救われるようにして下さいました。これで救いの道がちゃんとできました。

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ナザレのイエスという方を、神さまがわたしたちを救うために世に生まれさせた神さまのお独り子なのだと教会では教えております。そこでこの方のことを救い主、主イエス・キリストさまと呼び、また神さまのみ子さまだから、「子なる神さま」と申し上げております。

 

 この主イエスさまが、弟子たちと別れになるときが近づいたときに、一つの約束をなさいました。

 

 われ父に請(こ)わん、 

 父はほかに助け主を与えて、 

 永遠になんじらと共に、居らしめたもうべし。 

(ヨハネ14・16)

 

父なる神さまは、わたしが居なくなっても、ほかに助け主を送って、いつまでもあなたたちと一緒におらしてくださいますよ、ということでした。イエスさまが弟子たちの目に見えなくなり、その手で触れられなくなる、その耳でお声が聞こえなくなる。そのとき父なる神さまは、イエスさまの代わりにほかの助け主を与えてくださる。それが聖霊だというのです。

 

助け主、 

 すなわちわが名によりて、 

 つかわしたもう聖霊は、 

 汝らによろずのことを教え、 

 またすべてわが汝らに言いしことを、 

 思い出さしむべし。 

(ヨハネ14・26)

 

 その助け主がおいでになったら、今までわたしから聞いていたことで、わからなかったことやはっきりしなかったことを教えてくださるでしょうから、その方は、「真理のみたま」と言ったらよいでしょうと教えられました。 

当時弟子たちは何のことかよく分からなかったでしょう。それから間もなく主イエスさまは十字架に付けられて殺され、世の中は真暗にひっくり返ったようになり、弟子たちは散々なみじめな状態になりました。

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 しかし主イエスさまは、三日目によみがえって度々現われ、ご自分のよみがえったことをみんなに示し、四十日の間、弟子たちを勇気づけられてから天にお昇りになりました。

 天にお昇りになるとき、集まっていた弟子たちに言われたことは、

 

 「エルサレムを離れずして、我より聞きし父の約束を待て」 

(使徒1・4)

 

 みんな、エルサレムにいて、神さまからの約束のものを待っていなさいということでした。

 弟子たちにとってエルサレムとは、苦しい居心地の悪いところだったでしょう。あの十字架で殺された罪人の仲間だと白い目で見られ、後ろ指差され所、その逃げ出したいような所に留まって約束のものを待っていなさいということでした。

 それで弟子たちはエルサレムへ帰ってきて、皆で祈りを共にして待っておりました。するとそれから十日して五旬節、これは五十日祭とでも言ったらよいでしょうか。麦などの収穫のお祝いに皆が集まっていたとき、激しい風の吹くような響きがして、なにか火のようなものが舌のような形をして、弟子たちの上に落ちてきたと書いてございます。

 

 激しき風の吹き来たるごとき響き、 

 にわかに天より起こりて、 

 その座するところの家に満ち、 

 また火のごときもの舌のように現われ、 

 分かれておのおのの上に留まる。 

(使徒2・2~3)

 

 こうして約束の聖霊が下ったのです。この聖霊を受けて弟子たちは、とたんに強い力に満ちたというのです。ここで弟子たちは、ああ、これが約束の聖霊だったのだとわかったでしょう。

これをいただいてから、なるほどわかるようになりました。今までわからなかった神さまのお心、イエスさまのなさり方、苦しみ方、なぜあのようなむごたらしい殺され方をしなければならなかったのか。あの方のお墓が空っぽになってよみがえったそうだ。しかしこのよみがえりとは一体なんだろう。それもしばらくは分からなかったことですが、今それが分かるようになりました。

このナザレのイエスと言われた方こそ、実は神の子キリストだったのです。

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 今まで「あの罪人のともがら」と言われ、捕えられるのではないのかとびくびくして、戸を閉じて小さくなっていた弟子たちが、頭に火のようなものの止まるのを体験してから、何かしら腹の底から揺り動かされ、燃え出したのです。

 主イエスさまはよみがえって、聖霊として自分たちの中に宿り、いつまでも共にいてくださるのだという確信は、弟子たちに驚くべき勇気を与え、証し人として立ち上がらせました。

 この方こそ救い主だ!これを人びとに知らせねば、これを証ししなければという、やむにやまれぬものが心の中に燃え出したのです。

 聖霊によって新しくされた弟子たちは、そこに集まっている人びとの前で、力強く語り出しました。

 その時のことを聖書には、

 

 おのおのが国言葉にて、 

 使徒たちの語るを聞きて騒ぎ合い、 

 かつ驚き怪しみて言う、 

 「みよ、 

 この語る者は皆ガリラヤ人ならずや、 

 いかにしてわれら各々の、 

 生まれし国の言葉を聞くか」 

(使徒2・6~7)

 

 当時、世界中と言われる地中海沿岸の町々村々から集まっていた人たちを前にして弟子たちは話し出しました。

 その話は皆によく分かり、よく理解されたというのです。それでこれは弟子たちが、それぞれの国の言葉で話したからだろうということになりました。

 主イエスさまの出身地であるガリラヤから出てきていた弟子たちが、ローマやギリシャ、アフリカとあちこちの言葉を語るだろうか。これはどうも不思議だと言われますが、わたしはその通りであったろうと思います。

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 わたしは聖書を読むときには、あまり難しく考えないことにしています。乙女マリヤから生まれたとか、三日目によみがえったとか、海の上を歩いたとか、聖書の中でどうも分からんということにぶつかったときは、なぜそんなことがあるのかと詮索するより、神さまはどうしてこれを必要とされたのか、このことをどうしてお喜びになるのかと、神さまの御心をうかがうことが、聖書を理解するのに大切な仕方ではないかと思っております。

 科学的にはどうだこうだと、それも言えるかもしれませんが、神さまがそうなさることが必要だったのでしょう。わたしは神さまが必要なら、どんなことでもなさるだろうと信じております。ここでも大風の吹く音を起こし、あるいは弟子たちの頭に赤い舌のような火を舞い下りさせるというような光景を皆に見せられました。そしてガリラヤの田舎から出てきた弟子たちが、あちこちの国の人たちに分かる話ができました。こんな不思議なことがどうして必要で、神さまはそうなさったのでしょうか。

 ついこの前イエスさまが取り去られ、よみがえったというので、ああよかったと思えたのもつかの間、まもなく天にお昇りになったという出来事、次から次に起こるこれらの出来事を通して、弟子たちの心も揺れに揺れ、望みを失っていたでしょう。

 絶望のどん底から自信を持って立ち上がるためには、目に見える仕方で、燃える火が自分の頭に下りてくるという経験が必要だったのでしょう。

 またそれを見ていた人たちも、天から力を受けたというのはどんな力かと、興味と驚きを持って、何を言うかと次の瞬間を待ったでしょう。

弟子たちは言いました。

 「十字架で殺されたイエスさまこそ神の子ですよ。約束の聖霊が下ったのです。今大風の吹く音がしたでしょう。今燃える火のようなものが落ちてくるのを見たではないですか。神さまのみ力が働いているしるしですよ」弟子たちの語ることが皆によく分かりました。

 国連総会というのでは、世界中の人が集まって、それぞれ自分の国の言葉で話すと、同時通訳という大変便利なものができていて、それぞれが自分たちの国の言葉で聞いている。

 同時通訳という言葉も知らず、そんなものは発明されていない二千年前に、神さまは弟子たちの話を同時通訳で、聞く人に自分たちの言葉で受け取れるようにしてくださったのではないでしょうか。

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 しかし、ここで大事なのは、弟子たちが話したのはアラビア語だろうか、ラテン語だろうか、ギリシャ語だろうかということではないのですね。言うことが皆に分かったということです。心が通じ合ったということです。聖霊のお助けがあると、話が通じ、心が通じ合うということです。みんなが分かり合えたのです。

聖霊が下ると心が揺り動かされます。皆さんはそんな経験をしたことはありませんか。わたしがわたしでないような感じで、こうしてはおられないという思いで動き出す。わたしの好むと好まざるとにかかわらず動かす何かの力で、わたしの願いでないものに押しやられていった。しかしそれを後で静かに振り返ってみると、神さまの御旨に動いた動きだったのだ、というようなことがあるでしょう。そんなときは、ああ、聖霊の働きかけがあったのだと思えばよいでしょう。

 わたしは神さまのために歩かねばならない、神さまのために役立ちたい、というような思いにされてゆくとき、今聖霊が働きかけているのだと考えて、その押しやり引っぱる力に従って祈りをもって歩いてゆくことでしょう。

 もっとわたしは動かねば、もっとわたしは進まねば、ここで立ち止まってはいられないという思いにかられるとき、もっと聖霊を与えてくださいと聖霊を祈り求めることです。祈ると心が動き出します。祈ると心が燃え出してきます。

 聖霊を受けると心が燃え出すのです。聖霊はわたしたちの心を燃やしてくれます。ある時にはその人の一生を燃やすかもしれません。

 ああもったいない、あの人はあんなことはしないで、教会の主教さんだとか、ローマの法王さまだとか、みんなのものにならないで、あんな人が総理大臣にでもなっていたらよかったろうに、と思えるような人があるでしょう。しかし聖霊はその人をとらえて、総理大臣にもせず、大学の学長さんにもせず、大財閥にもせず、教会の仕事をさせた。まあ世の中から見れば、さっぱりうだつの上がらん仕事に一生を働かせる。あの人をあのようにと、多くの人がそんなふうにして燃えていったでしょう。

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例えばフランシスコ・ザビエル、スペインで平和に暮らしていたらよかったのに、神さまはあの人を燃やして、東洋の端までも福音を伝えねばと、それよりほかどうにもしようがないというような思いにかられて、わざわざ日本国までやってきて苦労し、ついにはそれが実を結ぶところを見るでもなく帰っていって、また中国の伝道に打ちこむ。そしてそこで死んでしまう。

 あれほど有能な人がもったいないと思われる。しかしそうではないのです。あの人は福音伝道に燃えたのです。このように聖霊は人を燃やすものです。

 いろいろの燃え方があるでしょう。わたしはこの家庭を守るのだという気持ちで一生けん命打ちこむ。名もない家庭の人と言われるかもしれないけれど、それはまたそれで、素晴らしい燃え方じゃありませんか。

あるいは「あんなことをして何になるか」と言われるような、多くの研究者たちが、それぞれの持ち場で、自分の生きている間に実を結ぶわけでもないのに、そこに打ちこんで、これをしなければならないとの思いに燃えている。それもわたしはこれを聖霊だと思います。

 聖霊は燃える火が弟子たちに下ったように、心を燃やすものが来るということです。聖霊を迎えると心が明るく燃え上がって動き出します。しかし、聖霊はのぼせて半気違いのようにさせるものではありません。聖書に異言を語ったというようなことが書いてありますが、このことは誤解してはならないと思います。

 聖霊は「真理のみたま」。冷静になって最も正しい判断をさせてくださるものです。天地の造り主なる神さまに、一番調和した歩み方をさせる心の働き、頭の考え方をさせるものです。

今日の聖霊降臨日の特禱では、

 

 願わくは我らも同じ聖霊によりて、 

 正しく万事をわきまえ、 

 常に御力に満たさるることを、 

 得させたまえ。 

(祈禱書291~292)

 

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 正しく万事をわきまえさせてください。そしてその判断した道に勇気をもって踏み出す力を与えてくださいという祈りです。

 ある所で「あそこの牧師さんは異言を語ったそうな」と、そこの人たちが不思議がり大変ありがたがっておりました。しかしそんなことが聖霊の働きであるとは限らないでしょう。それもあるかもしれないし、ないとは言えませんけれど、

 「わたしは異言を語ったことがないから、聖霊は受けておりません」

と、そういうことはありません。

わたしどもには気づかないうちに、神さまはそれぞれの仕方で聖霊を与えておられるのです。

 「わたしはイエスさまと出会って前より明るくなりました」

と言うことができたら、そして、

 「イエスさまのおかげです」

と、まがりなりにもイエスさまに感謝ができるなら、それは聖霊の働いている証拠です。

 イエスさまは聖霊を「助け主」と呼ばれました。この「助け主」と日本語に訳されているもとの言葉は、ギリシャ語で「パラクレートス」という言葉です。「パラ」とは近くとか「そば」とかいう意味で、「クレートス」とは「呼ばれた者」という意味です。それで「パラクレートス」とは「そばに呼ばれた者」ということになります。

 聖霊とは、呼ばれたらそばに来て助けてくださる方です。呼ばれてそばに来るというのなら、逆に言うと呼ばないと来ないとも言えますね。やはり聖霊は呼び求めなければならない方です。

 病気の時、お医者さんを呼ぶように、苦しいとき、悲しいとき、

 「わたしはこんなに苦しいです。わたしはこんなに悲しいです。どうかなんとかしてください」

と呼びかけてみるのです。聖霊は呼びかけに応じてわたしの近くに来てくださるのです。「パラクレートス」という名前のお方なのですから。

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 聖書を読んでいて、ここはどうも分からない、イエスさまの言われることは納得できません、といって聖書につまずいたり、興味を持てなくなって投げ出す人も多いですが、そんなに短気を出さないで、聖霊は万のことを教えるとありますから、聖霊を求めて、教えてくださるまで待っていればいいのです。ちゃんと良い時に教えてくださいます。「真理のみたま」と呼ばれるお方ですから。

 聖霊を受けるためには、まず呼び求めなければいけないのですが、受ける方の受け皿、聖霊をいただく姿勢を整えておくことも大事でしょう。ここでもう一度二千年前にかえって、弟子たちがどのようにして聖霊の下るのを待ったか考えてみましょう。

 主イエスさまが天にお昇りになるとき、集まっていた弟子たちが神さまのお約束が現れるのはいつですかと聞いたのに対して言われたことは、

 

 「時また期は父おのれの権威のうちに置きたまえば、汝らの知るべきにあらず」 

(使徒1・7)

 

 いつ、ということは神さまがちゃんと定めご計画になっていることだから、「いつ、いつ」と焦らないことです。すべてを神さまにまかせなさいと言われました。

 わたしどもの心の中に、どこか一ヶ所はわたしの考えを入れない、神さまのものとして空けている場所、言いかえれば、神さまにすっかりまかせきったところを持っておることです。

 これは前にも既に申し上げたことですが、主イエスさまが天にお昇りになる時に命じられたことは、

 

 「エルサレムを離れずして、父の約束を待て」

 

 早く安全なところに隠れたい気持ちの弟子たちに、エルサレムを離れないで待っていなさいということでした。

 どうでしょうか、わたしたちも時々そういうエルサレムに入りこむことはないでしょうか。こういう暮らしから早く抜け出したい、こういう仕事から早く手を引きたい、こんな面倒なことにかかわりたくない、こんなうるさい家庭なんて飛び出したい、などいろいろあるでしょう。そういうところは今のわたしにとってエルサレムでしょう。苦しいとき、つらいとき、悲しいとき、そんなときには、わたしはエルサレムに居るのだと思えばいいでしょう。

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 エルサレムを離れないで待っていなさいというのは、楽しく気持ちの良い状態で、安楽椅子に腰かけているような姿勢で、神さまのお力をいただきたいなんて、そうではないのです。その苦しさのさ中で、その不安のさ中で、そこを避けたり逃げたりしないで待っていなさいということです。

 それからもう一つのことは、

 

「心を一つにして、ひたすら祈りをつとめいたり」 

(使徒1・14)

 

 弟子たちは心を一つにして、ひたすら祈っておりました。このように心を合わせて、一生けん命祈るということです。皆の心がばらばらではいけないのです。

 

 皆の心を一つにできるのは、皆が神さまに連なることです。皆が神さまに結びつくことで心が一つになれるのです。みんなで心を合わせて願い求めて祈るときに、聖霊が豊かに下るでしょう。

 聖霊は、そばに近く来てくださるだけではなく、わたしの中まで入り、わたしたちの外から中までいっぱいに満ちてくださる方です。

 聖霊は、いろいろの呼ばれ方をされています。そのお働きによって、「助け主」と言われ、「真理のみたま」と言われ、また「み子のみたま」、「イエスのみたま」、「キリストのみたま」とも呼ばれ、神さまの心とも言えるし、神さまの力とも言えるところから結局、「父なる神さま」「子なる神さま」と並びあがめられねばならない神さまですから、

 「聖霊なる神さま」と申し上げているのであります。

 その折々の願い、姿勢に応じて、「父なる神さま」ともなり、「子なる神さま」とも呼ばれ、「聖霊なる神さま」とも言えるのではないでしょうか。

 教会はこの聖霊降臨日を記念して、この日を教会の誕生日としております。教会は偉い人の下に集った宗教団体でもなければ、聖書を中心にして出来上がったグループでもないのです。

 主イエスさまが、離れるなと命じられたエルサレムで、弟子たちは約束の聖霊が与えられ、その聖霊に導かれた人びとの交わりが教会の始まりとなったのです。聖霊が下ったことで、それまではばらばらだった人びとが、一つの群となり、教会と言えるようなものになったのです。

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 教会で始まったことは、主のよみがえり(主イエスさまはよみがえって今わたしと共にいてくださるのですよということ)の証し人になれとの御言葉に従って、弟子たちや主を信ずる人たちが、地の果てまでもを目指して証し人となろうと努力したことです。

 使徒行伝は、別名「聖霊行伝」と言われるように、そこに通っている一本の線は「聖霊とわれら」ということです。聖霊によって実現されてゆく福音の伝道が、そこに記されております。

 常に聖霊によってその道は開かれ、その道が閉ざされたときは、

 

 「イエスのみたまゆるしたまわず」 

(使徒16・7)

 

 と謙虚に受け止めて、すべての動きは聖霊に聞き従ったものでした。初代の教会で最も大事にしていたものは聖霊だったのです。

 今の教会はどうでしょうか。それが失われているのではないでしょうか。「聖霊とわれら」より「マスコミの力に引きずられるわれら」、また民主主義というので、会議会議と「人の動きとわれら」であって、聖霊をおろそかにしてはいないでしょうか。

 わたしどもはもっと聖霊を大事にしたいのです。聖霊に力を仰ぐことを本気で求めたいのです。聖霊をすべての力の源としたいのです。

 

 聖霊降臨日を迎えましたこの時、昔の弟子たちがいただいたような、素晴らしい聖霊の賜物を、わたしたちもいただきたいものでございます。それには一生けん命祈り求めることでしょう。

 

 みたまよ、来たりたまえ。 

 みたまよ、わがうちに宿りたまえ。 

 みたまよ、われと共にいましたまえ。

 

1979年 6月3日 聖霊降臨日 

   鹿児島復活教会にて