9.受難週の日々
9-3.受難週第三日 火曜日 論争の日
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今日、聖週の火曜日、主イエスさまはまたエルサレムにおいでになりました。
今日は大変な日になりました。ナザレのイエスという男がやってくる、どういうふうにして来るだろうか、あれをどうやってつかまえようか、と手ぐすね引いて待ちかまえている悪意をもった人びとのいる都に入ってゆきます。待ちかまえていた人たちは主イエスさまにいろいろな問題を投げかけ、どうかして言葉じりをとらえておとし入れようとします。そのために今日は様々な問題について質問し、答え、論じ合う論争の日となりました。
(マルコ11・27~18・37)
まずパリサイ派の人とヘロデ党の人たちがいっしょになって、税金の問題を出して、
「みつぎをカイザルにおさむるはよきか悪しきか」
とたずねます。
ローマの帝国に征服され支配されているユダヤ人の一般大衆は、ローマの皇帝カイザルにわれわれユダヤの人間が税金を納めねばならない、これは、いまいましい屈辱だと思っていました。その民族感情を利用しておとしいれようとする質問でした。
もし、税金をおさめるのがよいと言えば、ユダヤ人同胞から売国奴として憎まれ、もし納めるのは悪いと答えれば、ローマの官憲から捕えられ処罰されるでしょう。どちらに答えても危ない。
主イエスさまは、そのおさめる金を持ってきなさいと言われます。持ってきたか金を見るとそれに像がついている、
「これは誰の像、誰のしるしか」
とおたずねになりますと、
「それはカイザルのです」
と答えました。主イエスさまはそれに対して、
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神におさめよ」
と仰せになりました。反対者たちはそれ以上攻める手が無いので、引き下がって行きました。それでこの税金の問題はもう終わったようです。
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しかし、ほんとうに主イエスさまのこの一言でこの問題は、はっきりしたのでしょうか。パリサイ派の人やヘロデ党の人たちはそれで納得して退いたのでしょうか。彼らはこのみ言葉の真意を理解したのでしょうか。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」
これはのちになって、政治と宗教の関係を考える時、その基本的また決定的な考え方を示すものとして、多くの人びとに引用され、政治と宗教とは引きはなして別個のものとして解決せよという意味だと考えている人もあるようですが、果たしてそうでしょうか。
主イエスさまの反対派たちに、ローマ帝国への税金をどうするか、これを納めるのは愛国者であるか売国奴であるか、というような攻め方をしている彼らに対して主イエスさまは言われました。
「そのお金にカイザルのかたちがあれば、カイザルのものだから、これはカイザルに納めなさい」
彼らに対する答えはそれで終わるはずです。ところが主イエスさまはそのあとにつづけて「神のものは神に」と言われました。これはどういうことでしょう。反対者たちは、カイザルに納める税金のことだけをたずねたのでした。それだのにどうして、たずねられもしない答え、(神のもの)ということが出てきたのでしょう。
「カイザルのものはカイザルに納めるのはあたりまえだろう、しかしカイザルのものばかりだろうか、そうでないものがあるのではないかナ。神さまのものがあるはずだがなあ、あなたたちはカイザルに税金を納めるとか納めないとか言っているが、カイザルのものならカイザルに、で好いだろう。しかし、神さまにも何か納めるべきものがありはしないかね、あなたたちは大事な忘れものをしていないか」
というふうに、主イエスさまはユーモアをふくんだしかもきびしい問いかけをもって、反対者が出していなかった問題を堀り起こしなさったのではなかったでしょうか。
(神のもの)については問われていないのですから、「神のものは神に」など言う必要はないはずです。これは、あなたたちはカイザルのものについて言っているが神のものはどうなんだ、と質問者の心をたたかれたお言葉でしょう。
これは大変なお言葉だと思います。反対者たちがカイザルのものだと思って見せているそのお金が、本当に百パーセント全部が全部カイザルのものと言ってよいか、という意味でしょう。
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「神のものは神に」ということは、あなたたちはこのお金が全部百パーセント、カイザルのものだと思っているかもしれないが、どれだけが本当にカイザルのものだ、いったい、神のものでないカイザルのものがあるか。カイザルのものは神のものではないか、神のものでないカイザルのものがあると思うか、という鋭い質問を投げ返したお言葉ではなかったかと思います。
これはまた今もわたしたちに問いかけられていることではないでしょうか。経済のことは経済、信仰のことは信仰と分けて考えている人もあるかも知れない。しかし神さまのものでない経済があるでしょうか。神さまのみ手に乗っていないで、儲けられる事業があるかということです。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」
教育にしてもそうでしょう、現代では教育と宗教とは分けて考えられておりますが、しかし、神さま抜きで教育ができますか、神さまのものでない教育がありますか、神さまのものでない学校がありますか。いや経済や教育のことだけではありません。人間生活のすべての営み、世界のすべてのこと、神さま抜きでやっていけるでしょうか、神さまの世界でない世界がどこにあるでしょうか。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」
は、そのことをわたしたちに語りかけ、反省を求めているみことばではなかったでしょうか。
つぎにサドカイ派の人たちが来ました(マルコ12・18)
彼らは復活信仰を否定し、人は肉体が死んだらよみがえることはないと主張していました。それで、よみがえりということについてイエスさまをやりこめようと一つの作り話をもってきました。
モーセの律法によれば、家系をたやしてはいけない。それで、家の名を絶えさせないためには、もしも、ある家で子供が生まれず世継ぎがなくて長男が死んだ場合には、その弟が兄の妻をめとって長男の家の世継ぎとなるべき子供を生ませねばならない?というきまりになっていました。(申命記25・5~15)サドカイ派の人たちはこのきまりをもとにしてイエスさまに質問しました。
「あるところに七人の兄弟があって、七人とも皆子供が無くて次々に死んでしまったので、長男の奥さんはつぎつぎに弟たちと結婚し、結局その七人の兄弟たちみんなの奥さんになった、そして終にその女も死にました。もしも復活ということがあったらどうしますか。その女の人は一体誰の奥さんということになりますか」
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こういうまことにばかばかしい話をしました。これを聞いていた人たちは、どっと大笑いをして、イエスさまがどんな返事をするだろうかと待っていたでしょう。
こんなことをたずねた反対者たちは、どうだ、これで答えようがないだろう、というような顔をしていたでしょう。すると主イエスさまはお答えになりました。
汝らのあやまれるのは、聖書をも神の力をも知らぬ故ならずや。人死人のうちよりよみがえるときは、めとらず、嫁かず、天にあるみ使いたちの如くなるなり。
(マルコ12・26~27)
聖書を知らず、また神さまの力をも知らないために、そんな間違った考えになるのだ、よみがえりというのは子肉体がそのまま生き返るというのではない、その時は、天にあるみ使いのように、めとり、とつぎすることが必要でない状態になるのだ、とおっしやっています。
そして、死人のよみがえりがあることを信じようとしない人びとに対して、主イエスさまは旧約聖書出エジプト記の第三章を引用して次のようにお答えになりました。
死にたる者のよみがえることにつきては、モーセの書の中なる柴のくだりに、
神モーセに「われはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり」と告げたまいしことあるを、いまだ読まぬか。
神は死にたる者の神にあらず、生ける者の神なり。
汝ら大いに誤れり。
(マルコ12・26~27)
神さまはモーセに「われはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり」と仰せになった、とあなたたちの読んでいる聖書の中に書いてあるだろう。あなたたちはそれを読んではいるか、よく理解していないから間違うのだ。
神さまは「われはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり」と言っておられる。
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「われはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だったのだ」とは言っておられない。
神(だった)ではなく、神(なり)と現在形の言葉で言っておられる。
この(なり)という現在の言葉を現在として聞いていないのではないか。
「神は死にたる者の神にあらず、生ける者の神なり」
神さまは死んだ者アブラハム、イサク、ヤコブの神だったのではなく、今もなお彼らの神である。だからこの神さまのみ前に、アブラハムもイサクもヤコブも今生きているということになるのです。
人は死んだら、もう神さまと関係が無くなるのではない、神さまの前にアブラハムもイサクもヤコブも神さまと共に生きておる。神さまの永遠の現在の中に入れていただいておる、これが復活でしょう。
聖書を知らないだけでなく、神さまをも知らない。神さまはアブラハム、イサク、ヤコブの神であったではなくて、神なりである、この(なり)は、神さまは永遠の昔からずっと(なり)でありたもう現在の神さまということである。これを信じないから復活が分からないのだというお答えのようです。
新約聖書のヨハネ黙示録には、次のように記されてあります。
今いまし。昔いまし、後きたりたもう主なる全能の神言いたもう、
「我はアルバなり、オメガなり」
(黙示1・8)
アルバとはギリシヤ語アルファベットの最初の文字、オメガはその最後の文字であります。アルバ(始め)であり、オメガ(終わり)であり、昔も、今も、後も、昔から未来まで。即ち永遠の時間の始めから終わりまで、わたしたちと共にいましたもう、それが(神なり)と言われてある(なり)です。このように(なり)と言いたもう神さまを信じて、その(なり)の中で永遠の今を生きる、それが復活の命を生きるということであります。
次に反対者たちは倫理の問題を持ってきました。ある聖書学者がきて、すべてのいましめのうちでどれが最も重要なものですか、とたずねました。すると主イエスさまは次のようにお答えになりました。
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第一はこれなり。
イスラエルよ聞け、主なる我らの神は唯一の主なり。
なんじ心を尽し、精神を尽し、思いを尽し、力を尽し
て、主なる汝の神を愛すべし。
第二はこれなり。
おのれの如く汝の隣を愛すべし。
この二つより大いなるいましめはなし。
(マルコ12・29~31)
この質問をしたのはパリサイ派の学者たちのうちの一人でした。彼らは律法学者と呼ばれ、聖書の律法を研究し説明する人々でした。彼らは聖書に示されている神さまの律法を、一般の人びとに、少しも欠けなく厳密に守らせるために、一つの律法に多くの補足的な規則を作り加えて、結局人びとが律法をよく理解することも守ることもできないほどの煩雑なものとして、自分たちだけが
律法の専門家であり、人民の指導者であると自負し、結果的には人びとが神さまの律法を守ることを難しくし、妨げていました。
パリサイ派の人びとは、律法の素人であるナザレの田舎者イエスを困らせてやろうとしてたずねました。
「すべてのいましめ(おきて)のうち、何が第一なる」
普通の人には思い及ばないほど、数えつくせないほどたくさんあるいましめ(おきて)全部のうちで、どれが第一だと思うか、という質問、これは明らかに主イエスさまを、律法の素人、無学の普通人と見下げた学者の高慢な気持からのことばでした。
それに対して主イエスさまはお答えになりました。
第一は、主なる汝の神を愛すべし。
第二は、おのれの如く汝の隣を愛すべし。
この二つより大いなるいましめ(おきて)なし。
神さまの律法、いましめを守るとは、神と人とを愛することだが、しかしそれは、ただ「神」と「人」ではありません。汝の神、汝の隣人です。あなたの神さま、あなたの隣人です。この親しみ暖かさをもって、あなたは神さまの律法を守っていますか、と主イエスさまは律法学者に問い返されたのではないでしょうか。これを聞いた質問者とそこに居た人たちは、主イエスさまのこのみことばが、鋭く自分だもの心を突き刺していることを感じ取ったでしょうか。主イエスさまを、おとし入れようとしておる人たちに一番大切なことは、神さまをわが神として愛し、人をわが隣人として愛することだ、と知らせるためのお答えではなかつたでしょうか。
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聖週の火曜日は反対者たちからの論争で一日が終わり、夕方近くなり、主イエスさまは弟子たちとともにエルサレムの都を出てベタニヤの村へお帰りになります。その途中のことでした。
イエス宮を出でたもうとき、弟子のひとり言う、
「師よ、見たまえ、これらの石、これらの建物いかに盛ならずや」
イエス言いたもう、
「なんじこれらの大いなる建物を見るか。一つの石も崩されずしては石の上に残らじ」
(マルコ18・1~2)
このときのエルサレムの宮は、西歴紀元前二〇年に建築を始められ紀元七〇年エルサレム滅亡のときまで続けられて、なを完成しなかったほどに大きな立派なものでありました。ガリラヤの田舎から出てきた弟子が、目を見はり驚いたのは当然でしょう。ところが主イエスさまはこの積み重ねられた大きな立派な石が一つもそのままで残らないほどに、この宮は取りこわされてしまうであろうと仰せになりました。このようなひどいお言葉で、宮の滅亡を知らされて、弟子たちはどんなにか驚きおそれたことでしょう。
この時から約四〇年して西歴紀元七〇年、エルサレムの都はローマの軍隊によって攻め亡ぼされ、主イエスさまのみことばのとおり、一つの石も崩されずしては残されないほど徹底的にこわされ、神さまの宮が無くなるという大惨事となりました。
主イエスさまと弟子たちは都を出てベタニアに帰る途中で、オリブ山の山腹に腰をおろし、エルサレムの宮の方をふり返って見ておられました。そのとき弟子たちは、今主イエスさまの予言されたおそろしいエルサレムの滅亡のことについてたずねました。
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われらに告げたまえ。これらのことは何時あるか、また、すべてこれらのことの成しとげられんとする時は如何なるしるしあるか。
(マルコ13・4)
主イエスさまはこれに答えて、来るべきエルサレム滅亡とその後にくる世の終わりとその苦難、また主キリストの再臨のことについてお話しになり、警告と注意をお与えになりました。そのことがマルコ伝福音書の第十三章に記されてあります。(13・5~37)
聖週の火曜日の夕暮れがた、夕やみの中に消え入ろうとするエルサレムを見つめながら、その滅亡と世の終わりとに心を痛めておられた主イエスさまと弟子たちの語らいの中に、わたしたちも入れていただきたいと思います。なぜならば、わたしたちの生きている今の時代は、滅亡と終わりの危険をはらんでおるように見えるからであります。
今は、終わりを考えねばならないときのようです。平和だ安泰だ、経済大国になったなどで安心しておるべき時ではないでしょう。滅びがあること、しかもその亡びの時には、うっかり油断しておると地球が吹き飛びこわれるかも知れない、人間が妙な動物になって生まれるかもしれないというような、そんな恐ろしい世の終わりが来るかも知れない、と不安な気持のする時代になっています。その終わりの時をどのように考え、どのようにその時を迎え生き抜いて行くことができるでしょうか、マルコ伝十三章の中に主イエスさまのお答えがあります。
「かくて福音は先づもろもろの国人にのべ伝えらるべし」
(マルコ13・10)
この時、せねばならない大事なこと、それは先づ福音をのべ伝えることです。亡びが近づいており、いつ世の終わりが来るかも知れないという、危機感を感じさせられる今この時代にこそ、福音が先づもろもろの人びとに伝えられねばなりません。
その次にまた仰せになりました。
「汝らわが名のゆえにすべての人に憎まれん、されど終わりまで耐え忍ぶ者は救わるべし」
(マルコ13・13)
大切なことが二つ言われてあります。福音をもろもろの国人にのべ伝えることと、耐え忍ぶということです。
また次のように仰せになりました。
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「かくの如くこれらのことの起こるを見ば、人の子すでに近づきて門辺にいたるを知れ」
(マルコ13・29)
人の子というのは主イエスさまのことです。主イエスさまがもうあなたの家の門辺に立っておられるということを知りなさい。世の終わりが来るよりも先に、イエスさまが来て下さるということです。(人の子すでに近づきて門辺にいたるを知れ)それを信じ忍耐しなさい。終わりまで耐え忍ぶ者は救われますよと言っておられます。
主イエスさまはまた次のように仰せになりました。
「天地は過ぎゆかん、されどわが言は過ぎゆくことなし」
(マルコ13・31)
キリストさまのみことば、キリストさまのお約束は、決して天地と共にくだけ消え去ることはありません。時代が変わっても天地が消えても変わることのない主イエスさまのみことばを、正しく読み、信じ、受け、終わりまで耐え忍ぶ者は救われるから、忍耐をもって心を開き目をさましておりなさい、とのみことばです。
「目をさましおれ」
(マルコ18・37)
というのは、信仰をもって祈りの目をさましていなさいということです。
きょう火曜日、さまざまな問題について主イエスさまは求められるままに人びとに語り答えて、一日をおすごしになりました。しかしこの聖週の火曜にはうれしいことがありました。それは反対者たちが目をギラギラさせながら、一言一句どこかに穴はないか、どうしてあげ足を取ろうかとねらっておる油断のならぬ緊張した論争の一日でした。このきびしい一日のひととき、お宮の中での一つの光景が記されてあります。(マルコ12・41~42)
主イエスさまは、お宮のさい銭箱のところに貧しいやもめ女が近づいて行くのを、見ておられました。その女の人は身をかがめ人目をさけるようにして、そっとレプタ 二つをさい銭箱に入れました。レブタというのはギリシャの青銅貨で、二つで日本のお金の一円にあたります。
主イエスさまの目は、その女の人を見すごしにしなかった。そして弟子たちにおっしゃいました。
まことに汝らに告ぐ、このやもめはそのともしき中より、すべてのもちもの、すなはち おのがいのちのしろを、ことごとく投げ入れたればなり。
(マルコ12・44)
P104
レプタ二つ、ただそれだけ、しかしそれは、この貧しいやもめの生活費すべてであったというのです。そのレプタは、この女のいのちの血が通い力のこもっているレプタでした。彼女はそのすべてを神さまの前に捧げ、神さまの手にあずけてしまった。誰も気がつかなかったでしょう。しかし、主イエスさまの目はその女の人のレプタ二つを見のがさず、それを捧げた女の人の心の中まで見抜いて、この人は世界の誰よりもたくさん捧げたと言って、この女の人を祝福されました。
今もなお、主イエスさまの温かいまなざしは、どのような片隅でも、誰からもかえみられず、見捨てられておるところでも、見捨てられず見守っていて下さることをありがたく思います。
この火曜日、敵対するけわしい空気の動いているエルサレムの宮の片隅に、はからずも天の光を見せられた思いのする光景でありました。
1987年4月14日 復活前火曜日
大口聖公会にて