2.クリスマス
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みなさんクリスマスおめでとうございます。人はその生涯のどこかで、神さまがこんなとき一緒にいて下さったらいいのになあ、と考えることがあるでしょう。
また神さまなんてあてになるものか、と考えることもあるでしょう。
もっとひどいのは、神も仏もあるものか、と言い出す人もあるかもしれません。
しかし、何とかかんとか言っても、いざ、というとき、神さまがいるかいないかわからなくても、やっぱり神さまとかかわりを持ちたくなるものでしょう。例えば病気をしたとき、
「あゝ神さま!」
と言わないとやりきれない。
「神さまなんていうのはバカバカしい、あれは非科学的なことだ」
と得意になっている学校の生徒さんが、やがて正月になり、二月にでもなってくるとなにかそわそわしてくる。自分は何か知らないけれど、あちらの神さま、こちらの神さま、というところに行って、
「どうか受験に成功しますように」
と言ってお参りし、おみくじなどを引いたりする。
神さまがいたらなあ、神さまというのがあったらなあ、というような人間の心は、いくら表面をつくろっても、あるいは押えつけても、なおどこかに残っている。
そうした神さまを待ち望む、または神さまを仰ぐ気持、それに応えて下さった、その答えがクリスマスということでしょう。
しかしどうでしょうか、この頃のクリスマスは、そうした神さまのお答えとしてのクリスマスという色が、どれだけ出ているでしょうか。
ある時、若い男の方がいらして、びっくりしたような顔をして、
「先生、教会でもクリスマスをするのですか」
と言いました。びっくりしたのはわたしの方です。これは、これはと思いました。
しかし、それから何年間か、クリスマスを迎える度に、わたしはその人のいった言葉が忘れられません。
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「先生、教会でもクリスマスをするのですか」
さあ、わたしはこれをしっかりと受け止めねばならない質問だと思いました。わたしはその人の質問を少し変え、
「教会でもクリスマスをしますか」
ではなくて、
「教会はクリスマスをしますか」
と、こう呼びかけられておるような思いで、クリスマスを毎年迎えたのです。
教会はクリスマスをしておりますか、外ではクリスマスをしております。それは外の世界の人たちが考えているところの、外の考え方なりのクリスマスです。しかし教会のクリスマスは何でしょうか。
それは長いこと、神さまを求めていた人びとに対する、神さまからのお答えだったはずです。これは神さまが、人びとの願いに応えて下さったものです。
わたしたちは人間ですから、神さまのお言葉でお答えになっても、さっぱりわからないでしょう。そこで神さまは、わたしたちにわかるような、人間の言葉という仕方で、応えて下さいました。そのお答えを書き残してあるものを見ますと、
マリヤさんと言う一人のおとめの所に、天の使いがやってきて、
「あなたに男の子が生まれますよ」
と、神さまからのお告げがあったのです。
そのことを書いた聖書記者は、旧約聖書の中の言葉を引用して説明しました。
みよ、
おとめみごもりて子を生まん、
その名をインマヌエルととなうべし。
(イザヤ7・14)
イザヤ書にあるこれなんですよ、おとめがみごもって子供を生む、その子はインマヌエルと言われるでしょう。
そのインマヌエルとは何かと言うと、そこで聖書記者は注をつけて、
「神われらと共にいますというこころなり」
(マタイ1・23)
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一人のおとめがみごもって子供を生む、その子供が、
「神われらと共にいます」
という名前の人だというのです。
いよいよその約束された時が来ました。人口調査のために、ベツレヘムにはあちこちからの人びとが集って来ていたので、大変混雑してマリヤさんたちは宿がみつかりません。あちこち探してやっとのことで、村はずれの馬小屋がみつかったので、そこでマリヤさんは赤ちゃんを生むことができました。誰も知らないところで、赤ちゃんは生まれたのです。
近くで、羊飼いたちが夜中に羊の番をしていたら、突然天の使いが現れておしえました。
今日ダビデの町にて、
汝らのために、
救い主らうまれたまえり、
これ主キリストなり、
なんじら布にて包まれ、
馬舟にふしおるみどり子を見ん、
これそのしるしなり。
(ルカ2・11~12)
馬小屋に行ってみなさい救い主が生まれましたよ、とおしえました。羊飼いたちは馬小屋に走って行ったでしょう。そこで天の使いが言ったとおり、生まれたばかりの赤ちゃんを見たのです。
「あゝこの赤ちゃんが救い主だ」
羊飼いたちは、
「あゝこれで神さまが近くなったようだ」
という思いで大変よろこんだことでしょう。
ちょうどその頃、東の方で空を見ていた博士たちが、不思議な星を見ました。この星を研究した結果、これは救い主がお生まれになったしるしの星だ、というところに行きついたのです。それで博士たちは、ラクダに乗ってはるばると砂漠を越え、馬小屋に赤ちゃんを拝みに来たのです。
このクリスマスの物語は、神さまがわたしたちに下さったお答えなのです。
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赤ちゃんがあんなにして生まれた。
天の使いに知らされて羊飼いたちが来た。
不思議な星が光った。
星を見た博士たちは、
ラクダに乗って砂漠を越えてきた。
これならわたしたちによくわかりますよねえ、幼稚園の子供さんでもよくわかるでしょう。
こんな仕方で神さまは、わたしたちに語りかけて下さいました。このクリスマスの物語をわたしたちはよく聞き取らねばならないでしょう。
ラジオで放送されて流されてゆくのを、ただの物語として表面だけ取っているのでは、クリスマスだクリスマスだと騒いでいる世間の人たちと同じでしょう。それも一つの聞き取り方でしょうが、わたしたちには、わたしたちの聞き方があるのだと思います。
神さまは、これを種にしてパチンコでもうけなさいとか、この物語を聞いて大売出しをしなさいと、呼びかけられたはずではないでしょう。
外でもいろいろのクリスマスがあるでしょう。しかし、
「教会でもクリスマスがありますか」
と言われたクリスマスは、わたしたちの願いにたいする神さまのお答えとして、しっかりと聞き取りたいのです。
これを聞き取らなければ、世間の人たちから、
「教会までクリスマスをしますか」
と言われても、何も言いようがないでしょう。
「はい、わたしたちもあなたたちの真似をして、飾り付けをしたツリーを立て、サンタクロースを歩かせて、クリスマスをしています」
と、せいぜいそういう返事をしなければならないでしょう、そんな、なさけないクリスマスであってはならないと思います。
さあ、クリスマスとは何でしょう。それは今言ったように、一人の方がこの世に生まれて下さったその記念のことでしょうが、そのお生まれになるについての一番始めの出来事を思いおこして下さい。
みよ、
おとめみごもりて子を生まん。
その名はインマヌエルととなえられん。
それをとけば、
神われらと共にいますというこころなり。
(マタイ1・23)
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あの方が、あゝして生まれて下さった。そのことによって、わたしどもに、
「神われらと共にいます」
が始まったのです。
キリストさまがお生まれ下さって、イエスと名が付けられた。そのことによって始まった、
「神われらと共にいます」
を古びさせないように、そしてもっと新しく、もっと本当に充実した、
「神われらと共にいます」
にするために、毎年毎年クリスマスを迎えお祝いしているわけでございます。
今まで幼稚園の子供さんにでもわかり易いような、絵のような物語でわたしたちに示された、クリスマス物語を考えてきましたが、今度はそのことを内側から見てみましょう。
クリスマスとはこういうものですよ、と内側から示してくれたものが、聖書の中にありますので読んでみましょう。それはヨハネ伝の一章一節からのところ、
初めにことばあり、ことばは神とともにあり、ことばは神なりき。このことばは初めに神とともにあり、よろずの物これによりて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし。これに命あり、この命は人の光なりき。
(ヨハネ1・1~4)
「初めにことばあり」
なんです。始めに人間があったのじゃありません。この頃のテレビでは、始めに歌あり、始めにおどりありと言った方がいいかもしれませんが、そんなことではないのです。
「初めにことばあり」
です、そしてそのことばは、
「神とともにあり」
そして、
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「これに命あり」
神さまのみ言葉に、命があるのだと書いてあります。
もっと強く生きたい、もっと有意義に生きたい、生きたいと願うなら、
「これに命あり」
という、この命につながってみたらいかがでしょう。この命にちゃんとつながっておれば、わたしどもの毎日毎日は、命に満ち満ちたものになるでしょう。続けて、
「この命は人の光なりき」
と書いてあります。
今お話ししましたクリスマス物語の中にある赤ん坊、イエスと名付けられた赤ん坊は、神さまのみことば、そして光なのだというのです。
照り輝くこの光は、人の光です。イエスと言われる赤ん坊は、人の光になって下さる方、そのことをまた次のように書いてあります。
もろもろの人を照らすまことの光ありて、世にきたれり。彼は世にあり、世は彼によりて成りたるに、世は彼を知らざりき。
(ヨハネ1・9~10)
イエスさまは、もろもろの人を照らす真の光です。その光が世に来たのに、多くの人たちは知りませんでした。しかしその光を受けた人、それを命として受けた人たちは、神の子となる資格が与えられたのです。そしてもう一度くり返して聖書は、
ことばは肉体となりて我らのうちに宿りたまえり、我らその栄光を見たり、げに父のひとり子の栄光にして恵みと真理とにて満てり。
(ヨハネ1・14)
これはクリスマスを内側から見た人の信仰の告白なのですね。
インマヌエルと言われる方、神と共にいます方、わたし共の光であり命である方、このクリスマスを迎える時、この方を、これがわたしの光、これがわたしの命、としてお迎えしたいのですが、もうあまり時間が無いことですから、光のことだけを考えてみたいと思います。
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よく教会ではクリスマスになりますと、皆が集ってキャンドルサービスというのですか、ローソクを立てた礼拝をします。もう少ししたらきっとまたわたしが、一つの質問を投げかけられるのではないかと思っています。
「教会でもキャンドルサービスというのをしますか」
「教会でもローソクを立ててお祝いをしますか」
そのように言われそうだから、言われない先に、わたしはそのローソクの話しをしてかきたいと思います。
そうでしょう、この頃は結婚式だというと、終わりの方で、ローソクを立てて花婿さん花嫁さんをお祝いする。だから今にそう言われますよ、
「教会も、結婚式みたいにローソクを立ててお祝いをしますか」
その時に、
「はいします」
という返事をしないために、ローソクのことを考えてかきたいと思います。
今この教会では、ローソクを立てて礼拝をしていますが、わたしが来るまでは、ローソクを立てる習慣は無かったのです。
来た時、この祭壇には花びんがあるだけでした。今のこの花びんじゃありません。これは桜井さんの奥さんがあとでお献げになったもので、以前のものは小さな花びんで、それにお花が入っているだけでした。
わたしはここに参りまして、このことはどなたにもお断りしないで、委員さん方にもはからないで、勝手に祭壇にローソクを立てたのです。ところがあとで誰も何ともおしかりが出ないので、そのまま続けてまいりました。
続けています間に、ハッと気が付いてみたら壁に油煙が残っていました。
「これはわたしの祈りのしるし」
だという思いとともに、
「あゝ、きれいな壁をよごしてしまってあいすまない」
という両方の思いで見つめているのです。
まあ壁はあとできれいにしていただくこともできるし、邪魔になれば取り去っていただいてもよいのですが、わたしの心の中では、やはりローソクは残しておいていただきたいと思います。
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なぜローソクを立てるのでしょうか、これはわたしが発明して、持ってきて立てたのではありません。教会は古い昔から、こうしてローソクを立てて礼拝をしてきました。ただこの教会だけがそういう仕方をしなかっただけのことです。
ローソクをなぜ立てるのでしょうか、ローソクを立てるとムードが出て、お祈りしているような気分になれて有難いからと、そう思っている方もあるでしょう。
日本の教会で、昔からずっとローソクを立てて礼拝をしていた教会は、天主教とも言っていましたが、ロマンカトリック教会、またギリシャ正教会、それと聖公会の教会です。
いわゆる日本で新教と言われる沢山の教会は、ローソクを使わなかったのです。この頃はあちこちでローソクを使うようになってきているようですが、そんな教会からよく悪口を聞かされました。
「聖公会に行ってみたら、ローソクを立ててお祈りをしていた。なんだかお寺さんにお参りに行ったようだ」
ローソクなんて、あれは偶像礼拝的だ、と大変厳しいおしかりもあったのです。ところが戦争後ですね、この前の終戦のあのあと、日本のいわゆる新教の教会でも、だんだんローソクを立てるようになりました。
昔、それは戦争のまだ始まらないちょっと前の話ですが、青山学院の神学院で、礼拝堂の中にローソクを立てたというので、当時、日本のキリスト教会で物議をかもしたことがあるのです。ローソクを立てるのは偶像礼拝だと言って大変だったのです。
それは青山学院の神学院が聖公会の神学院の学生と、よくテニスの試合をしたり野球の試合をしたりして、行ったり来たりしている間に、ローソクのある礼拝堂を見て帰って、
「あれはいいな、おれたちの所もやろう」ということになったのだろうと思います。
今ではだんだんとあちこちの教会にローソクが立つようになりましたが、なぜローソクを立てるのでしょうか、
やっぱり聖公会のような礼拝堂はいいな、気分が出ていいとというようなことが主な理由でしょう。
しかし、教会でこうしてローソクを立てて礼拝するというのは、何も気分が出るためではありません。礼拝気分を盛り立てるためにローソクを立てるとは、とんでもないことです。
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教会の始まりの頃のことを皆さんご存知でしょう、昔ローマで激しい迫害がありました。ローマの皇帝たちが大変な迫害をしたその話は、ネロ皇帝の話として残っております。
あのようにして追いつめられた信仰者たちが、おおっぴらに信仰ができなかったのです。聖書を持っているとか、お祈りをしているとかそんなことはできない、お祈りでも聞かれたら。
「あいつはお祈りをしているから、キリス卜信者だ」
というので捕えられるのです。
それでみんな、そっとかくれて信仰を守らねばなりませんでした。どうしたらこの信仰を守り続けることができるだろうかと苦労しました。その苦労の中の一つとして生まれたのがローソクなのです。
どこも危険で仕様がないから、ローマの人たちは地下にあるお墓に入ったのです。地下Q お墓にもぐって、そこで礼拝をする。いわゆるカタコムですね。今遺跡として残っている、あのカタコムの礼拝が始まるのです。
カタコムというのは昔のお墓です。地下にある洞窟のようなお墓の奥に入って、そこでみんながお祈りをし、聖餐式をして、キリストさまのおん体とおん血をいただくというそういう仕方で、命がけで信仰を守り続けてきた時代が続きました。
その時、地下の奥まった所は真暗でしたから、どうしても明かりがいるのです。火が必要だったのです。そういうことから火をともすよりになりました。
火をともして、その火のもとに集って皆で礼拝をする。その時は外で見張りが立っている。その見張りが、
「危いぞ!」
と声をかければ、ふっと火を吹き消して、みんなは身をひそめている。そんな仕方で信仰を守り続けていた、その名残りがローソクなのであります。
ですから、何かいい気持になるから、礼拝の気分がでるからローソクを立てましょうと、そんななまやさしいことではないと思います。わたしはこのローソクの生まれといいましょうか、それを大事にしたいと思います。
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このローソクを、今度は十字架のそばに合わせて置くようになりました。これは十字架のそばから光が出る、十字架のそばにこそ光がある。そういう信仰の一つのシンボルとなってくるのです。
わたしは、はなはだあいすまないことですが、このローソクが壁をすすけさせる、そちらの方は見ないで、ローソクの燃えるのをよく見つめてきました。
きれいな一本のローソクがだんだんと燃えてゆく、そして燃え尽きてゆく、それを見つめていると悲しいような、また恐れ多いような複雑な思いがいたします。
わたしはここの礼拝堂で、ローソクは燃え尽きるまで使います。たいていの教会では三分の一ぐらいになったら、みっともないからと取りかえますが、わたしは全部燃え尽きるまで、時には礼拝中に燃え尽きたことも何回かありましたが、燃え尽きるまでローソクは取りかえません。ローソクはそんなものだと思うのです。それをわたしは、自分なりにこんなふうに表言しました。
ゆらぎ燃えくずおれ 消ゆるローソクの
あわれんもまたかしこかりけり
これはわたしのローソクを見つめての気持ち何ですが、なぜわたしはそれを見つめずにおれないかというと、今、お生まれになったキリストさま、先程読みましたように、光の君といわれる方。弟子たちは光の君として迎えました。迎えられたキリストさまはご自身で
「われは世の光なり」
(ヨハネ8・12)
と言っておられますね。次にイエスさまが言っておれれるのは、
「汝らは世に光なり」
(マタイ5・14)
それから、
「汝らの光を人の前にかがやかせ」
(マタイ5・16)
イエスさまは、わたしの世の光です。あなたたちも光るのですよ、その光を世の人びとの前にかがやかせない、と言われるのです。
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わたしはそれを思いながら、ローソクを見つめるのです。ローソクがいつまでもきれいに自分を保っていては明かりはともりません。ローソクがかすかな風にもゆらゆらと揺れて、今にも消えるかと思われる時もあります。しかしそれに耐えながら、ローソク自体はとけながら、くずれていって燃え続ける、自らは全部とけて無くなるまで、燃えて燃えて尽きてゆく、
「汝らは世の光なり」
と言われたイエスさまはさらに、
「汝らの光を人の前にかがやかせ」
と望んでがられます。
イエスさまご自身、燃えて燃えて燃え尽きて、十字架の上で燃え切って、わたしたちのために光となって下さいました。
わたしたちもまた、じっと自分を立派に保っていたのでは光は出ません。
「汝らの光を人の前にかがやかせ」
と言われたイエスさまは、
「とけるのだよ、とけるのだよ」
と言っておられるのではないのでしょうか。
この頃便利になりましたから、立派な教会に行きます
と、最新式の照明器具を使って、どこかでスイッチを入れると、十字架の中から明かりがパーツと差すとか、電気を使っていろいろの明かりが付くようにしてあります。
あれこそムードですね、あんなものに命はないでしょう。あんなものを見てもわたしは感激はしません。燃えているローソクを見てこそ、わたしはいつまでも感激を持つのです。
ゆらぎながら、自らはくずれ果てながら燃えてゆく、そして最後の最後まで燃えて尽きてしまう、そういう仕方で燃えてこそ、はじめてキリストの僕、救われた者、と言えるのではないかと思うのでございます。
そういう仕方で燃えてこそ、そこに命が満たされてゆくのではないのでしょうか。わたしはやはりさき程のあわれを感じます。しかしそれと共にかしこさを感じます、恐れ多さを感じます。
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クリスマス、それは光の君が、馬小屋の中にあのようなお姿でか生まれになって、わたしたちの間に照り始めたのです。照り始めたその光の君が、十字架にまで照り続け、輝き続けて、あなたもこうしてごらん、もっと明かるくなりますよ。あなたもこうしてごらん、もっと生き生きとしてくるのですよ。と招いて下さる。それがクリスマスの主の招きだと思います。
どうぞみなさん、それぞれの仕方で燃えて下さい。そして生きている限り、命の終わるまで、燃え続けてください。
クリスマスはわたしたちに、
「汝らの光を人の前にかがやかせ」
との、主のみことばを、思い出させるときではないのでしょうか。
1982年12月26日
降誕後第一主日
鹿児島復活教会にて
※これは村上豊吉先生、鹿児島最後の脱教でした。
司式を終え、先生は人に気付かれないようにそっと
裏口から出て行かれました。
(すでに十月大口に引越しておられましたから)