徳倫理学

1.導入:「行い」よりも「人」を見て評価する

次のケースを考えてみましょう1

あなたは病院で長い療養生活を送っているとしよう。あなたはとても退屈していて、手持ち無沙汰で、何もすることがないときに、スミスが二度目のお見舞いに来てくれる。あなたはスミスはいいやつですばらしいやつであり、親友であるとかつてないほど強く信じる。スミスはあなたを励ますことに多大な時間を費やし、隣町からはるばる来てくれているのだから。あなたが溢れんばかりにスミスの行いに感謝すると、スミスは水を差すように、義務だと思っていることや最善の帰結だと思うことをいつもしているだけだ、と言う。はじめのうちあなたは、スミスは……謙遜しているだけだと思っている。しかし、話せば話すほど、スミスは本気でそう思っていることが明らかになる。スミスがあなたのお見舞いに来たのははっきり言ってあなたのためではない。

このケースで、あなたのお見舞いに来たスミスは正しい行いをしていると言えるかもしれません。しかし、スミスが「いい人」だとふつう言わないでしょう。スミスに欠けているものは、少なくともいい人ならもつだろう適切な動機です。では、スミスが「あなたを励まそう」という意志をもってお見舞いに来れば、いい人だと言えるでしょうか。

アメリカの小説家ジョン・ハーシー(John Hersey)の作品のなかに『一つの石ころ』(Single Pebble,)という小説があります。残念ながら日本語訳は出版されていません。この小説は、中国の長江にダムを建てようと調査する主人公を描いた作品です。そのなかで、河に飛び込んで子どもを助ける案内人のリーダー(この人は石ころじいさん(Old Pebble)と呼ばれていてタイトルも彼のあだ名からつけられています)の勇気ある行動に感動する場面があります2

私がまず賞賛の思いを抱いたのはリーダーの驚くほど素早い反応だった。痛みの叫びを聞いた彼はただちに心配し、負傷した男の子を助ける唯一の手段をいわば空中で見いだした。しかし、それだけではなかったのだ。彼の行為は、まったくどんな躊躇もなくなされたのだが、本能的に深い命への愛、同情、楽観主義を示していた。それに感動したのだ……

イギリスの倫理学者フィリッパ・フットによれば、この描写が示しているのは、人から賞賛されるいい人(フットの言い方では「有徳な人(徳ある人)」)は、たんに正しい行いをする(たとえば正直な人は本当のことを言う)だけでなく、その人らしい動機、感情、価値観を伴っている、ということです。

第二次大戦後、このようなかたちで「有徳な」人という存在に注目して、これまでの「行い」ばかり見ていた倫理学を反省し、「人」の評価に注目していこうという動きが登場します。この動きのなかで登場したさまざまな立場はのちに「徳倫理学」という名称でまとめられてゆきます。

2.キーワード:徳

もちろん古くから徳(virtue)は強調されてきました。古代ギリシャで基本的な徳だとされたのは、節制、正義、勇気、知恵の四つ(四元徳)です。キリスト教では、これに博愛、謙虚、信仰心の三つを付け加えて、七つの基本的な徳が重要視されます。他方、儒教では、仁・義・礼・智・信が五つの基本的な徳(五常)だとされます。

倫理学において、このような徳を最初に強調したのが、古代ギリシアの哲学者アリストテレス(前384−前322、写真)です。アリストテレスは四元徳以外にも、温和、羞恥心、義憤、鷹揚さなどさまざまな徳を挙げています。アリストテレスは、徳は行き過ぎてしまうと徳ではなくなってしまうので、ほどほどであることが大事だと言います。たとえば、「勇気」という徳は足りなければ「臆病」という悪徳になり、行き過ぎれば「無謀」という悪徳になってしまいます。この「ほどほどさ」は「中庸(メソテース)」と呼ばれます3

アリストテレスは徳を積むことでわたしたちはよく生きることができると論じています。よく生きている状態を古代ギリシア語では「エウダイモニア」と呼びます。今日では「幸福(happiness)と訳されたりもしますが、人間の開花繁栄(flourishing)あるいは直訳すれば神々によきとされる状態を指します4。いずれにせよ、ただ生きる(ゼーン)のではなく、よく生きる(エウ・ゼーン)。そのためにこそ、徳を積む必要がある、とアリストテレスは説きます。

ただし、アリストテレスがいた古代ギリシアの社会は奴隷制を採用していました。アリストテレスも「人々のなかには生まれつき奴隷である人がいる」などととんでもないことを言っています。そのため、しだいにアリストテレスの考え方は人気を失ってきました。

3:理論:徳倫理学とは何か

ところが第二次大戦後、こうしたアリストテレスの考え方を部分的にですが、倫理学で復活させる動きが登場します5。アリストテレスによる徳の強調が、「行い」ばかり見て「人」を見ていない近代道徳哲学の欠点を指摘することにつながったからです。

まず、イギリスの倫理学者G. E. M. アンスコムが、このような近代道徳哲学批判を行い、アリストテレスに還って徳に基づいた倫理学が可能であることを示唆します6。アンスコムが展開した議論は二つです。一つは、キリスト教支配が弱まり世俗化した現代社会において近代道徳哲学の効力(「べし」という言い方に表される倫理の法的な捉え方)も弱まっているという分析(歴史分析)です。もう一つは、「べし」の代わりに「徳」という概念に注目するにしても意図や動機についての心理学の哲学が必要であるという分析(概念分析)です。

アンスコムの歴史分析のほうをさらに展開したのが、アメリカ(イギリス出身)の哲学者・歴史家アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』(After Virtue)です7。この本の冒頭では、科学文明が崩壊したナウシカ的世界が登場します。その世界でも「原子」という言葉はあるのですが、それがかつて何を意味しているか人々はわからなくなってしまっているのです。そこで人々は遺跡調査などして、かつては何を意味していたのか、そして今の意味がどうできたのかを明らかにしようと試みます。ここまでは空想ですが、マッキンタイアによれば、キリスト教世界でなくなった現代(美徳なき時代)において、類似の事態に私たちは陥っていると言うのです。もはや人々はかつての「正しさ」や「徳」などが何を意味しているかわからず、今の近代特有の道徳がそこからどうできあがったのかを調査すべきだと。じっさい徳の変遷を辿ってゆくこの本の内容は非常に面白いです。

功利主義やカント主義/義務論に対抗して、理論化する動きも登場しました(この動きはアンスコムの概念分析のほうの発展形だと捉えることもできるように思えます)8。たとえば、ニュージランドの倫理学者ロザリンド・ハーストハウス(1943-、写真)は、徳倫理学を次のように定式化しています9

ある行為が正しいのは、もし有徳な人がその状況にいるなら行うであろう、その人柄にふさわしい行為である場合、その場合にかぎる。

「その人柄にふさわしい」とは、その人に特徴的な動機や感情や価値観などを伴うことを意味します。ハーストハウスはこのような定式化をしつつ、失われてしまった徳の観念を甦らそうとさまざまな試みを行います(以下でその試みの一部を紹介します)。

このように「徳倫理学」という名の下にさまざまな主張やアプローチが寄せ集まっています。「徳倫理学」で一括りしてよいか疑義があるほどです10。以下では、ハーストハウスの徳倫理学に話を絞って、その特徴を挙げてゆきます。

第一に、上のように必要十分条件で定式化した正しい行為それ自体はそれほど重要視されないということです。ハーストハウス自身、そうした行為をとおして、人生全体においてよく生きること(エウダイモニア)のほうを強調します。

第二に、実際の状況で何をしたらよいのかには実践的な知恵(practical wisdom)が求められます。アリストテレスはこの知恵を古代ギリシア語で「フロネーシス」と呼び、経験を積まなければ身につかないものだと言います。したがって徳倫理学によれば、有徳な子どもは基本的に存在しません(たしかに、いい人といい子で私たちの「いい」の基準がちがっているように思えます)。ただし、ハーストハウスはさまざまな経験をせざるをえない境遇に置かれた子どもは例外だと言います。たとえば、パキスタンのイクバル・マシーくん(1982-1995)は4歳の頃から奴隷労働を強制され、その苛酷な経験を通してわずか10歳で児童労働に反対する世界的な運動家になりました。彼の功績はすばらしいことですが、早く大人にならざるをえなかった境遇は悲しいことかもしれません。

第三に、いわゆる道徳的ジレンマを抜け出すとき、「心残り」が伴うことを認めます。徳倫理学は、もし有徳な人がそのジレンマの状況に置かれたとすれば、どちらの選択肢をとるにせよ、心残りを伴うだろう状況があることを認めるのです。たとえば、トロリー問題(トロッコ問題)などはそうした状況になりえるでしょう11。そして、どちらを選択するにせよ心残りをもたず平然と生きることは、よく生きることだとは言いにくいと思います。もちろん、有徳な人はそもそもその状況には入らず、その前に対処するでしょう。ここでは、もし有徳な人がそうした状況に置かれたとすれば、という反実仮想がミソです。

第四に、徳倫理学はたとえ同じ状況でも、ある有徳な人がその人柄にふさわしい行いをするのと、別の有徳な人がその人柄にふさわしい行いをするのとでは、違ってくる場合、極端に言えば答えが矛盾する場合も認めます。ハーストハウスは、意識不明の母親の延命措置を停止するかしないかというジレンマを例にこの点を説明しています11

たとえば、意識不明の母親の生命を、特別な延命措置を用いて、さらにもう一年延ばしてもらうように医者に頼むか、あるいはそのような措置をいますぐ取りやめるよう頼むか、そのいずれかの選択が、解消不可能なジレンマになる場合があると仮定しよう。その際、徳倫理学は、同じ状況下で同じ選択肢に直面した二人の有徳な行為者が、それぞれ違う行為をなす可能性を認めることによって、その例に具体的な肉付けをしてゆく。すなわち、一方は、やむをえず医者に延命装置にとる措置を続行してもらうように決め、他方は、やはりやむをえず、それを中止することを医者に申し出る。

このように徳倫理学はジレンマに解決を与えない場合があります。この点は徳倫理学の問題点だと批判されることがあります。実際の状況に適用できないので「適用問題(application problem)」と呼ばれたりします。しかし、徳倫理学側からすれば、安易な解決をしないことこそ、複雑な現実を忠実に反映した理論になっていると切り返されるでしょう。

4:実践:有徳な人ならどうするか

さて、冒頭のお見舞いの例に戻りましょう。徳倫理学の観点から、スミスはどう評価されるでしょうか。義務や最善の帰結だと思ってお見舞いに来ることは、有徳な人がその人柄にふさわしい仕方でする行為ではありません。つまり、正しい行為だとは評価されないはずです。優しさをもっている人なら、あなたの顔色がよくなったかを心配するでしょう。あなたに余計な気をつかわせないように、来る前に手はずを整えるはずです。また、あなたの感謝に水を差すまねはしないでしょう。スミスの行いに欠けていたのは、そのような人としてのよさなのだと徳倫理学は評価します。

練習問題

功利主義の導入で紹介した無人島での友人との約束のケース」を徳倫理学から考えてみましょう。このケースにおいて、律儀な人ならどのような行動をとり、そしてそれに伴うどのような気持ちをもつでしょうか、また親切な人ならどうでしょうか。

脚注

  1. (Stocker [1976] 462:邦訳37)から。ただし、訳語を一部変えました。

  2. (Hersey [1956] 100-101)。ただし、訳語はフットの引用の翻訳(Foot [2002] 4:邦訳52)を参考に適宜修正しました。

  3. アリストテレスの「中庸(メソテース)」は儒教の「中庸」とは違うので注意が必要です。

  4. (Crisp [2017])を参考にしています。

  5. 徳倫理学の登場が第二次世界大戦直後、そして女性倫理学者が中心的であることは偶然ではありません。たとえば、イギリスの倫理学者メアリ・ミッジリーは次のように当時を回顧しています。「その時期〔第二次世界大戦中〕、人文学課程の科目を受けている学生は、非常にわずかでした。とりわけ男子学生の数は少ないものでした。その結果、男子学生と女子学生の比率は同程度となり、女子学生にとって、講義中に口を開いて自分の関心事について話す機会は、ふだんの時期よりもずっと増えたのです。私は、アイリス〔・マードック〕や私だけでなく、エリザベス・アンスコムやフィリッパ・フットといった人たちが同じ世代から輩出したという事実は、決して偶然のことではないと思います。そして私たちはみな、当時広まっていた横溢な道徳哲学の息の根を止めるために、自分たちのできることをしよう、という方向へと歩みを進めていったのです。」(ミッジリー[2006] 205)

  6. Anscombe [1958]。

  7. MacIntyre [1981] 。

  8. 南アフリカ出身の哲学者ジョン・マクダウェルのように、徳倫理学の理論化に反対する人もいます(McDowell [1979])。功利主義や義務論を典型とした倫理学の理論化とそれに反対するタイプの徳倫理学の対比は、認知科学における古典的計算主義とコネクショニズムの対比とアナロジカルに考えるとわかりやすいと思います(たとえば、伊勢田[2012])。

  9. (Hursthouse [1999] 28:邦訳42)から。悲劇的なジレンマの場合は省きました。道徳的な正しさ・不正さに関する徳倫理学的な立場としてはほかに、行為の正しさを行為者がもつ動機の評価に還元しアリストテレスの考えから離れようとするアメリカの倫理学者マイケル・スロートの定式(行為者ベースの徳倫理学)や、価値に対して促進(功利主義)や尊重(義務論)だけでなく愛やニーチェ的創造性など様々な向き合い方を取り入れ、正しさを多元的に捉えようとするニュージーランドの倫理学者クリスティーン・スワントンの定式(多元主義的徳倫理学)もあります(Slote [1995]; Swanton [2005])。徳倫理学の理論化では、現在のところハーストハウス、スロート、スワントンの3人が代表的です。

  10. 私は内部告発に迫られる状況もこの種の道徳的ジレンマ状況になりうると考えています(杉本 [2017])。

  11. オークリー[2000]で、徳倫理学が整理されています(ただし本文でvirtue ethicsは「徳倫理」と訳されています)。

  12. (前掲書、69-71:邦訳107)から。

参考文献

  • Anscombe, G. E. M. [1958] “Modern Moral Philosophy”, Philosophy, No.33, No.124, pp.1-19.

  • Crisp, Roger [2017] "Well-Being", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2017 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/fall2017/entries/well-being/>.

  • Foot, Philippa [1977] "Virtues and Vices", in her Virtues and Vices and Other Essays in Moral Philosophy, Clarendon Press, pp.1-18. (邦訳:フィリッパ・フット(高橋久一郎訳)「美徳と悪徳」、加藤尚武・児玉聡(監訳)『徳倫理学基本論文集』、勁草書房、2015年、第三章。)

  • Hersey, John [1956] Single Pebble. First Vintage Books Edition in 1984.

  • Hursthouse, Rosalind [1999] On Virtue Ethics, Oxford University. Press.(邦訳:ロザリンド・ハーストハウス(土橋茂樹訳)『徳倫理学について』、知泉書館、2014年。)

  • MacIntyre, Alasdair [1981] After Virtue, University of Nortre Dame press. (第二版の邦訳:アラスデア・マッキンタイア(篠崎栄訳)『美徳なき時代』、みすず書房、1993年。)

  • McDowell, John [1979] "Virtue and Reason", The Monist, Vol.62, Issue 3, pp.331-350.(邦訳:ジョン・マクダウェル(荻原理訳)「徳と理性」、大庭健(編・監訳)『徳と理性 マクダウェル倫理学論文集』、勁草書房、2016年。)

  • Slote, Michael [1995] "Agent-based Virtue Ethics", Midwest Studies in Philosophy, Vol.20, Issue 1, pp.83-101.

  • Stocker, Michael [1976] “The Schizophrenia of Modern Ethical Theories”, The Journal of Philosophy, Vol.73, No.14, pp.453-466.(邦訳:マイケル・ストッカー(安井絢子訳)「現代倫理理論の統合失調症」、加藤尚武・児玉聡(監訳)『徳倫理学基本論文集』、勁草書房、2015年、第二章。)

  • Swanton, Christine [2005] Virtue Ethics: A Pluralistic View, Oxford University Press, New Edition.

  • 伊勢田哲治 [2012] 「ニューラルネットワークは幸せになれるか」、『倫理学的に考える―倫理学の可能性をさぐる十の論考』、勁草書房、第7章。

  • 杉本俊介 [2017]「内部告発問題に対する徳倫理学的アプローチ − ハーストハウスによる道徳的ジレンマの分析を応用する −」、日本経営倫理学会『日本経営倫理学会誌』第24号、199-211頁。

  • オークリー, ジャスティン [2000] 「徳倫理の諸相と情報社会におけるその意義」(児玉聡、岸田功平、徳田尚之訳)、『情報倫理学研究資料集II』、13-36頁。

  • ミッジリー, メアリ [2006] 「マードックと道徳性」、ジュリアン・バッジーニ+ジェレミ・スタンルーム(松本俊吉訳)『哲学者は何を考えているのか』、春秋社、第12章。

徳倫理学を学びたい人向けの読書案内

  • アリストテレス(渡辺邦夫・立花幸司訳)[2015]『ニコマコス倫理学』、光文社古典新訳文庫。

    • 倫理学の古典です。ただし、徳倫理学を学ぶために手に取ると、現代の徳倫理学とはだいぶ違うことに気づくでしょう。たとえば、現代では個人の性格特性の一種として徳を特徴づけますが、そもそも古代ギリシアに近代的な個人の観念はなかったはずです。アンスコムのまねをして、アリストテレスの倫理学と現代の徳倫理学を対比させてみても面白いのではないでしょうか。翻訳は新しいものを挙げておきました。