カント主義/義務論

1.導入:「人に良く思われたいから◯◯する」ではだめ?

末次由紀『ちはやふる』第27巻の四コマ漫画では、登場人物の菫(すみれ)の双子の弟・葵(あおい)が道徳的な人物として紹介されています(「ちはやふる 定言命法」で検索すればサンプルなど出てくるかもしれません)1

(弟の人気の秘密①)

菫の双子の弟 葵は なぜかとてもモテる

・・・

菫:「なんか葵言ってたよね て…てい」

葵:「定言命法? 基本だよね」

(弟の人気の秘密②)

・・・

菫:「小学生の時とか 葵 ちょっといじめられてたんだよね」

なのに学級委員を買って出たり

勉強苦手な子につきあってあげたり

(弟の人気の秘密③)

自分一人に押しつけられてもキレーに掃除したり

だれに言われなくても花の水替えたり

だれも見てなくてもゴミ拾ってたり……

その善行に私たちも根負けしてクラスからいじめ撲滅

(姉が普通の秘密①)

「人に良く思われたいから◯◯する」という感情を排し

「いじめられっ子は助けるべきである」などの道徳心に忠実に従う葵

菫:「なんなのー なんで葵ばっかり人望あんのー ムカつくー」

「私も 哲学とか本読んでみようかなー」

葵:「菫 まさにそれが「人に良く思われたいから◯◯する」」

菫:「・・・」

ここで道徳的に正しい行為には「人に良く思われたいから◯◯する」という感情を排除する必要があることが説かれていると読むこともできるでしょう。

2.キーワード:定言命法

この「定言命法(ていげんめいほう)」こそ、十八世紀プロイセンの哲学者イマヌエル・カント(1724−1804、写真)が道徳の核として強調したものです。以下では、カントの考えを簡単に紹介したいと思います。まず、カントは道徳は命令形(カントの言葉では「命法」)で表現されると言います。どういうことでしょうか。カントによれば、自然界の世界は「である」の世界だが、道徳の世界は「べし」の世界です。わたしたちはたいてい「◯◯したい」という欲望と闘っています。この闘いにおける強制の意識が「べし」であり、それを表現すると命令形になると言うのです。そして、この命令は誰かから下されているのでなく、自分自身が命じているものだと考えます。いや、親か学校など誰かに命令されたものだと思うかもしれません。しかし、親や学校に言われたことならどんなことでもわたしたちは従うかと言えば、そんなことはないのです。結局、それはわたしたちが自分に命じることができるか、で判断されていると言います。

カントによれば、わたしたちは(菫のように)自分自身による道徳の命令を「人に良く思われたいから◯◯すべし」といった条件を付けて理解する傾向にあります。しかし、カントは道徳の命令はほんらい無条件だと主張します。そして、この無条件の命令を「定言命法」と呼びます。ここで「定言」とは断言を意味します。ちょっとわかりにくいですね。これに対して、条件の付いた命令を「仮言命法(かげんめいほう)」と呼びます。カントに言わせれば、仮言命法に従った行為はしょせん偽善にすぎません。たとえば、人に褒めてもらいたいからボランティアをする人は結果として善いことをしたとしても「善い人」だとは言えないでしょう。カントはそう考えます。

当時カントが特に反対したのが、「もしあなたが幸福になりたいなら」という条件を付けて道徳を幸福という目的から理解しようとする考え方です。ここでの「幸福」とは何でしょうか。カントによれば、それは人それぞれだし、同じ人でも時と場所で答えがちがってくるような変わりやすいものです。そして、道徳はそんな変わりやすい経験的なものに基づけるべきではない。経験を超えた普遍的な原理に基づけるべきだ。これがカントの主張です。では、定言命法はどのように表現されるでしょうか。

カントの発想は面白いです。カントはわたしたちの意志、その内容でなく形式に注目します。意志がある人とはどういう人でしょうか。それは、自分で決めたことを自分の「きまり」にしてそれに従う人だろう、こうカントは考えます。カントはこのような自分の「きまり」を「格率」(あるいは「格律」とも書く)と呼び、自分の「きまり」のなかにある普遍的な形式こそ、道徳を基礎づける原理だと主張しました。カントは定言命法を次のように表現します。

汝が、その格率(=きまり)を通じて、その格率が普遍的法則となることを同時に〔理性をはたらかせて〕意志しうるような、そういう格率(=きまり)に従ってのみ行為せよ。(IV 421)

この表現は「普遍的法則の方式」と呼ばれます。カントはまた、定言命法を次のようにも表現しています。

汝の人格やほかのあらゆる人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決してたんに手段としてのみ扱わないように行為せよ。(IV 429)

こちらの表現のほうは「人間性の方式」と呼ばれています2。

3.理論:カント主義/義務論とは何か

今日、カントに由来する道徳的な正しさ・不正さに関する立場は、カント主義(Kantian)と呼ばれたり「義務論(Deontology)」と呼ばれたりします(以下では便宜上「義務論」という名称で統一します)3。たとえ自分や他の人が幸福になろうと、やってはいけないことはやってはいけない。義務論とは義務を守る行為が正しく、それに違反する行為は不正だとする考え方を指します

では、義務とは何でしょうか。義務の一例としてカントが挙げる、守るつもりのない約束をしてはいけない、というものについて考えてみましょう5。なぜこれが義務だと言えるのでしょうか。それは上で紹介した定言命法の二つの方式から説明できます。一つには、守るつもりのない約束はみんながそれを格率(きまり)として普遍化できないから、というものです。じっさい、みんなが守るつもりのない約束をする世界を想像してみてください。驚くことに、その世界では「約束」そのものがなくなってしまいます。もう一つの説明は、それが相手の人間性をたんに手段としてのみ扱ってしまっているから、というものです。私欲のために守るつもりのない約束をすれば、それは契約相手の人間性を自分の欲望のための手段として扱ってしまい、人間性を尊重していないことになります6

したがって、義務論を定式化すると、以下のいずれかとなります7。ある行為が道徳的に正しいとは、その行為をしないことが格率(きまり)として普遍化できないことである。あるいは、ある行為が道徳的に正しいとは、その行為をしないことがある人の人間性をたんに手段としてのみ扱ってしまうことである。

こうした義務論の特徴を三つ挙げたいと思います。第一の特徴は、たとえどんなに崇高な目標(たとえば、人類の存続や被害拡大の防止)のためであろうと、とるべき手段はよく考えなければならないというものです。義務論は、ある人の人間性をたんに手段としてのみ扱ってはならず、尊重するような選択肢をとるよう求めます。こうした特徴をロバート・ノージックは目標追求に対する「横からの制約」と呼んでいます。

第二に、ある行為の道徳的な正しさはそれがどんな帰結をもたらすかでなく、その行為自体の善さ、つまり義務に従った行為かどうかで決まります。功利主義を学んだ人にはこれは帰結主義に反対する特徴だと言えばわかりやすいでしょう。

そして第三に、義務論は、何が義務かがその人が置かれた立場によって異なることを認めます(Davis [1993])。レスキュー隊員が溺れている人をあえて救おうとしないのは、レスキュー隊員の「きまり」として普遍化できず、あるいは人間性を尊重することにもなっておらず、いずれにせよ不正だと評価されるでしょう。しかし、たまたま通りがかった人であれば、溺れている人を危険を犯してまで救おうとしなくても、不正だとは評価されないでしょう。

4:実践:何が自分にとって義務かを考えてみよう

冒頭の葵(あおい)のケースに戻りましょう。葵にとって「いじめられっ子は助けるべきである」は義務だとみなせるでしょうか。考えてみましょう。

いじめられている人を助けないことがその人の人間性を尊重せず、たんに手段としてのみ扱ってしまっていることは明らかです。たとえば、自分がいじめの対象になってしまうことを怖れていじめられている人を助けないのであれば、それは自分の保身のための手段として相手の人間性を扱ってしまうことになります。したがって、人間性の方式から、葵にとって「いじめられっ子は助けるべきである」は義務だと言えるでしょう8

しかし、いじめられている人を助けない周囲の人間は義務に違反しているとまで言えるでしょうか。カント主義/義務論が要求する正しさは私たちにとってハードルが高いかもしれません。そこで、この立場は「厳格主義(rigorism)」だと疑問視されたりもしますが、人間のあるべき理想を描いているとも言えるでしょう。

練習問題

あなたにとって何が義務だと言えますか。たとえば、人に迷惑をかけるべきでない、自殺をすべきでない、動物を大切すべき、などはどうでしょうか。カントの考えや義務論を参考に、それがなぜ義務だと言えるか(言えないか)まで考えてみましょう。

脚注

  1. (末次 [2015] 169-171)から。

  2. カントは定言命法をこれら以外にも複数の表現において方式化しています。いくつあるかを数えてみた、なんていう論文もあります(Baker [1988])。それぞれの方式の関係性やどの方式を中心に置くかについては研究者のなかでも解釈が分かれるところです。

  3. カント研究者はカントの倫理学が「カント主義」や「義務論」で括られることを嫌うと思います。たとえば、イギリスのカント研究者オノラ・オニールは、(1)カントのテキストに見いだせる倫理学を「カントの倫理学(Kant's ethics)」、(2)カントに帰され批判されてきた倫理学を「いわゆるカントの倫理学('Kant's Ethics')」、(3)義務論を含めより広くカントに由来する倫理学を「カント主義倫理学(Kantian Ethics)」に区別しています(O'Neill [1993] 175)

  4. カントの定言命法は行為の道徳的な正しさや不正さの判定のためだけに導入されたわけではない、ということに注意する必要があります。

  5. じつは、カントが呼ぶ「義務」(Pflicht)は行為の一種であり、ここでの「義務」とは意味が違います。

  6. カントのいう「人間性」も研究者で解釈が分かれる箇所です(たとえばDean [2006] Ch.4)。

  7. 厳密な定式化についてはマーク・ティモンズの教科書を参照してください(Timmons [2012] 218, 221)。

  8. 普遍的法則の方式から、「いじめられっ子は助けるべきである」は義務だと言えるでしょうか。練習問題にはあげていませんが、ぜひ考えてみてください。

参考文献

  • Baker, Judith [1988] "Counting Categorical Imperatives", Kant Studien, Vol. 79, Issue 1-4, pp. 389-406.

  • Davis, Nancy (Ann) [1993] "Contemporary Deontology", in Peter Singer (ed.) Companion to Ethics, Blackwell, Ch.17.

  • Dean, Richard [2006] The Value of Humanity in Kant’s Moral Theory, Oxford University Press.

  • Kant, Immanuel [1785] Grundlegung zur Metaphysick der Sitten. (邦訳:カント(坂部恵・伊古田理・平田俊博訳)「人倫の形而上学の基礎づけ」、 『カント全集7 実践理性批判・人倫の形而上学の基礎づけ』 、岩波書店、2000年ほか。)

  • O'Neill, Onora [1993] "Kant's Ethics' in Peter Singer (ed.) Companion to Ethics, Blackwell, Ch.14.

  • Timmons, Mark [2012] Moral Theory: An Introduction, 2nd Edition, Rowman and Littlefield Publishers.

  • 末次由紀 [2015]『ちはやふる』第27巻、講談社。

  • 御子柴善之 [2015]『自分で考える勇気:カント哲学入門』、岩波ジュニア新書、76-97頁。

義務論を学びたい人向けの読書案内

  • イマヌエル・カント(坂部恵・伊古田理・平田俊博訳) [2000]『カント全集〈7〉実践理性批判・人倫の形而上学の基礎づけ』、岩波書店。

    • 倫理学に関するカントのテキストを読むなら、カントの「人倫の形而上学の基礎づけ」(1785)がオススメです。宇都宮芳明訳『道徳形而上学の基礎づけ』[新装版]、以文社、2004年や、篠田英雄訳『道徳形而上学原論』、岩波文庫、1960年もありますが、カント全集の第7巻に収録された訳文の評価が高いです。

  • ロバート・ノージック(嶋津格訳)[1995]『アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界』、木鐸社。

    • この本はリバタリアニズムという政治哲学的立場から最小国家を擁護した本として有名ですが、その議論のなかで目標追求に対する「横からの制約」という義務論的なアイデアが導入されます(第3章)。興味深いことに、この制約を正当化するためにノージックは人生の意味に訴えています。第3章だけ読むこともできると思います。