留学報告(2010年)

オックスフォード大学哲学科での研究滞在

追記は2022年4月のものです。

私は2010年1月10日から2010年12月10日まで英国のオックスフォード大学哲学科(Faculty of Philosophy)にRecognised Studentとして研究滞在しました。約一年間という短い期間でしたが、ジョン・ロックをはじめ数々の高名な哲学者を輩出したオックスフォード大学で学べたことは大変実りの多いものでした。この報告ではオックスフォード大学哲学科の様子を紹介するとともに、今後研究滞在する方々への参考になればと思い、滞在内容を報告したいと思います。

1.研究

今回の滞在目的は、道徳の規範性をテーマにした博士論文を執筆するために同大学のジョン・ブルーム教授(以下、先生方の敬称は略)と議論することでした。オックスフォード大学のRecognised Studentという制度を使って一ヶ月に数度の研究指導をして頂きました。また、夏休みにはデヴォンのご自宅に招いて頂き、トンカチを持って一緒にアンモナイトの採掘をしたり公私とも歓迎して頂きました。当時のブログ

追記:ブルーム先生の論文をいくつか読んだとき、なんて難しいことを簡単に議論するんだろうと感銘を受けました。私はオックスフォード大学に行きたいというよりもブルーム先生と議論したくて留学しようかと考えていました。修士時代の先輩に相談したところ、本気で行きたいなら今この場でブルームにメールを送りなさい、と言われその場でメールを書いた(書かされた)のは良い思い出です。当時オックスフォードに在外研究をしていた知り合いの先生からブルーム先生につないで頂きました。それ以外にも留学中は本当に色々な人たちに助けられてばかりでした。ただし、指導教員の先生に相談せず話を進めてしまったため、後でものすごく怒られました。留学を考える人は必ず相談しましょう。※採掘したアンモナイトは日本に持って帰れませんでした。

ブルームは、経済学者から倫理学者に転向された経歴を持つため、その研究は多岐にわたります。最近では合理性の哲学の分野で注目されています。私が関心を持ったのは、合理性の規範性についての先生の議論でした(たとえばEthics誌119号(2008年10月)で特集が組まれています)。かねてから、私は先生の議論の多くが道徳の規範性に関してもあてはまるものだと考えていました。そこで、滞在中に私が最初に行なった作業は、直接先生の見解をうかがうことでした。近刊『推論を通した合理性』の原稿を読ませて頂き、規範性に関する先生の現在の見解に関して議論しました。

次に行なったことは、私自身の問いである道徳の規範性を定式化することでした。私は現時点で道徳の規範性を「必然的に、もし道徳が我々にあることを要求するならば、我々にとってそのことをする理由がある」(道徳がもつ弱い規範性)と「必然的に、もし道徳が我々にあることを要求するならば、その事実自体が我々にとってそのことをする一つの理由である」(道徳がもつ強い規範性)の二つとして定式化しています。それゆえ、私が問題にしたいことは、もし道徳が我々に他人に親切にするように要求するならば、我々には他人に親切にする理由がなければならないのか、もしあるとすればそれは何か、その一つは道徳が我々に他人に親切にするように要求するという事実それ自体ではないか、です。

追記:この定式化は留学後、日本で発表してものすごく評判が悪かったです。たとえば、「他人を親切をすることなどが我々に道徳的に要求されるならば必ず、我々にとってそのことをする理由が一つある」といったように表現したほうがわかりやすいと今では思います。

三番目に、道徳がもつ弱い規範性を検討しました。この立場は一見すると自明で議論の余地がないように見えますが、私は弱い規範性に対する自明でない反論を考え、その検討を行ないました。この際、特に参考になったのが、日本でもよく知られたバーナード・ウィリアムズの論文「内的理由と外的理由」です。私はこの論文でのウィリアムズの主張に反対する立場にいますが、先生との議論を通してウィリアムズの挑戦的な提案にあらためて感銘を受けました(私は現在、それに続く論文である「〈べし〉と道徳的責務」において、ウィリアムズは弱い規範性に反対する立場にいたのではないかと考えます)。

最後に、道徳がもつ強い規範性を検討しました。道徳の要求に対して我々はそれに応じる理由をもちますが、その理由が何であるかは自明ではありません。私が擁護する立場は、道徳が我々に要求するという事実自体が、我々がそれに応じる一つの理由であるというものです。この立場は、オックスフォードの現代道徳哲学を作り上げたH. A. プリチャードがとった立場だとされています。 先生は強い規範性に関して基本的にプリチャードをなぞった議論を作っています。それに対して、オックスフォード大学の若手の倫理学者たちが批判を展開しています(たとえば、クリスター・ビキヴィストやニコラス・サウスウッド)。私もプリチャードやブルームの見解には満足できていません。現在、強い規範性を示す別の論証を考えています。

2.チュートリアル

オックスフォード大学は各コレッジでのチュートリアル(個人指導)を学生教育の中心に位置づけています。チューターは博士課程(ディー・フィルと呼ばれています)の院生から教授までが担当し、複数の学生の指導を行なっているそうです。私は、博士課程なのでオックスフォード大学で言えばチューターの側ですが、今回の滞在中、特別にコーパス・クリスティ・コレッジに所属させてもらい、定期的にチュートリアルを受けさせて頂きました。チューターを引き受けてくれたのは、ブルームのもとで研究しているコートニー・コックスで、彼女から現代義務論と生命倫理のチュートリアルを受けました(これらのトピックは私が要望したものです)。主に、作為と不作為の区別、二重結果の原則、中絶問題、臓器移植問題について学びました。特に、日本ではそれほど議論されていない現代義務論の流れと、ジェフ・マクメイハンの『殺すことの倫理学』での議論を検討する機会が持てたことが有意義でした。

追記:コートニーからEthics of Killingを1週間で読んでくるように言われて、ヘロヘロになったことを今でも覚えています(まさかブルーム先生の後White's Professors of Moral Philosophyになるとは)当時のブログ

3.授業

今回の滞在中、授業にもけっこう出席しました(Recognised Studentには受講が認められています)。私は一月から滞在し始めたため、第二学期(Hilary term)から第一学期(Michaelmas Term)までと変則的なかたちで授業を受けました。大学の授業は、主に「講義」と「セミナー」の形式をとり、前者は五十分(一時間枠が設けられていますが、オックスフォード大学には五分後にはじまり五分前に終わるという伝統があるそうです)、後者は一時間半から二時間以上かけて行なわれます。講義は学部生に、セミナーは院生に向けられたものです。以下では、受けた授業をひとつずつ紹介したいと思います。


第二学期(ヒラリー・タームと呼ばれます)は、「哲学概論」と「メタ倫理学」の講義に出席しました。

追記:ほかには英語の授業と自分の研究をしていました。英国留学では普通IELTSなどを事前に受けると思うのですが、私の場合ブルーム先生に「来ていいよ」と言われたから行っただけ(図書館などを大学のサービスを利用したかったから後付けでRecognised Studentを取ろうと思いました)なので、英語を全然勉強していなかったです。英語の授業はありますかと訊いたら、英語(上級)はあるけど、と言われ、Scottish Englishとの違いとかを習いましたが、そのレベルではない… 午前中語学センターに行ってカセットテープ(イギリスの人たちは物持ちが本当によい)で練習したりして、こんなの日本で練習しておくべきだったと最初の頃は毎日後悔しました。

「哲学概論」は学部一年生に向けられた講義で、認識論・自由意志・一次性質と二次性質の区別など毎回決まったトピックを担当講師(ポスドク)が紹介する授業です。五十分という枠で行なわれるため、内容が綿密に組み立てられていたことが印象的でした。たとえば、認識論では知識が正当化された真なる信念であるかどうかという問いから始まり、ゲティアの例とその応答として1.これが反例でない理由を探す、2.条件を追加する、3.条件に含まれている概念を明晰化する、を挙げ、二番目の応答の具体例として信頼性主義や知識の因果説など四つのアプローチがひとつずつ紹介され、ここまでで50分の講義が終わる、といった具合です。

追記:このようなストーリーで信頼性主義を理解するのはまずいと今では思います。あと、学部生は英国の現地の人たちもけっこういるのに対して、ポスドクは非英語圏を含め世界中からやってきます。「さっきのドイツ人の講師、ほんと英語下手だったな」なんていう小言が教室を飛び交っていたりして、怖いなと思いました。

仲良くなったPPEの学部生から「ウィギンズって知ってる?授業が難しくて」と言われたりして、そうかウィギンズは学生たちにとって教師なんだ、と当たり前のことにハッとするとともに、こうやってウィギンズに習った学生たちが将来政治家になるのかと思うとイギリスってすごい国だなと思ったりもしました。

あとOxfordでは学部生が哲学だけ勉強することはなくて、このPPE(哲学と政治学と経済学)とか、「物理学と哲学」とか、「哲学と神学」とか必ず何かと一緒に専攻するそうです。

「メタ倫理学」はクリスター・ビキヴィストによる講義で、そのレベルの高さに驚かされました。道徳的推論をモデルに認知主義・内在主義・ヒューム主義のトリレンマ(いわゆる「道徳の中心問題」)が紹介され、そのうちの認知主義と内在主義の立場が検討されました。学部生に向けられた授業でしたが、道徳的性質が自然的性質にスーパーヴィーニエントするという事実から形而上学的自然主義を導きだすフランク・ジャクソンの論法やマイケル・リッジらのハイブリッド表出主義が検討されるなど、私には院生向けに思われる内容が扱われました。私にとっても刺激的な内容で毎回楽しみに受講し、いくつか意見もさせて頂きました。

追記:今でも当時のビキヴィスト先生の講義資料を参考にしたりしています。

第三学期(トリニティー・タームと呼ばれます)は、四つのセミナーに参加しました。オックスフォード大学のセミナーで印象的だったことは、先生どうしが授業に出席しあって積極的に議論に参加していたことです。

追記:この辺で学部生(バケーション中は学部生が実家に帰るので海外からの学生)とのシェアハウスを離れ、一緒に授業を受けて仲良くなった研究者の紹介で、郊外の素晴らしい家に引っ越しました。家主や同居人の人たちと素敵な日々を過ごしました。学部生とのシェアハウスでは打ち解けられた人たちはほとんどいなかったので、この引っ越しがなかったら留学生活がどうなっていたかと思うとぞっとします。当時のブログ

ブルームによる「気候変動」の授業では、地球温暖化を中心に気候変動が及ぼす悪に対して倫理学は何を提言できるかが議論されました。テキストとしては先生の『地球温暖化のコストを算定する』とIPCC第四次評価報告書などが用いられました。議論された内容は、時間割引の問題、ラムジー方程式の倫理学的意義、生命の価値を貨幣的価値に還元できない理由、ハーサニーの集計定理、中立的レベル功利主義(neutral-level utilitarianism)、いとわき結論への応答などです。先生が繰り返し使われた「気候変動は多くの人を殺す」という表現が印象的でした(授業終了後、先生はIPCC第五次評価報告書の代表執筆者のひとりに選ばれました)。この授業では物理学の哲学で著名なハーベイ・ブラウンが地球を超えた宇宙論的な視点から質問し、授業を盛り上げていました。

追記: Climate change will kill many people.は英語でよく使う言い回しだったんですね。ブラウン先生の話を出したのは、オックスフォードでは分野が違う先生どうしがお互いの授業に出席し合って議論しているのに驚き、それを強調したかったからです。

デレク・パーフィットの授業では、彼の近刊である『重要なことについて』の検討が行なわれました。授業は、毎回先生自身による要約が行なわれ、質問を受け付けるという形式で行なわれました。先生は道徳的事実を認める立場(ただし事実に形而上学的実在の含意はありません)に立ち、規範倫理学上の立場は洗練させれば同じ見解に収束する(カント主義的契約論は規則功利主義を含意する)という考えを打ち出しています。この授業ではデューク大学のシノット=アームストロングが出席され、パーフィットの立場から十五歳の若者に親として義務が発生するかという興味深い質問を投げかけていました。

追記:パーフィット先生に質問をしようとしたら「声が小さい!」って言われて怖かった記憶があります。それでも、希望した受講生一人一人に1000ページに及ぶドラフトのpdfを送ってくれて、授業というよりドラフト検討会みたいな感じでした。パーフィット先生だけシラバス集に「Prof.」でも「Dr.」でもなく「Mr. Parfit」となっていたのが印象的でした(Dr.をとる必要がないほど優秀だったとか)。あとこの授業で仲良くなったドイツからの研究者がパンツの後ろポケットにFelix Meiner の本を入れていて、日本での岩波文庫みたいな感じなのかなと思ったりしました。

マギル大学のイワオ・ヒロセによる「集計」(aggregation)の授業では、先生の近刊『道徳的集計』の検討が行なわれました。ジョン・テューレックの「数を考慮すべきか」に端を発する集計問題はこれまで功利主義に特有の問題だとされてきました。先生の主張は、集計は功利主義にかかわらずほとんどの倫理学理論で採用されるものであるということです。そのため、集計の正確な定式化と、集計は何と対立するのか(ロールズのマキシミンやレキシミン、ネーゲルの一対比較(pairwise comparison)と対立します)、集計問題の解法(テューレック自身のコイントスによる解法、先生自身の解法(功利主義的解法だとされたが、目的的平等主義(telic egalitarianism)でも採用可能)、フランシス・カムらの重みづけられたクジによる解法)、などが議論されました。この授業では、ロジャー・クリスプをはじめ、同じく集計を専門にするベン・サンダースが鋭い質問をされていました。たとえば、サンダースは集計問題に対して重みづけられたクジによる解法を支持しているので、その立場から批判されていました。

追記:広瀬さんの授業もドラフト検討会みたいで、楽しかったです。学生が入れないSCR(Senior Common Room)でキャリア相談にも少し乗ってもらいました。

プリチャードの授業では、テレンス・アーウィン、ロジャー・クリスプ、クリスター・ビキヴィストの三人をオーガナイザーに、オックスフォードの道徳哲学を築いたハロルド・アーサー・プリチャードの哲学の再検討が行なわれました(アーウィンによれば、かつてR.M.ヘアは現代倫理学を「ポスト・プリチャード」と形容されたそうです)。授業は、各回担当者が発表するというもので、プリチャードによるプラトン・アリストテレス・カントの解釈の検討から、ムーアやロスとの比較、直観主義、相対的善、信求(Besire)、理由の責任転嫁説、因果的帰結主義など現代倫理学上のトピックまで多岐にわたり議論されました。主なテキストとして、2002年に出版されたプリチャードの『道徳著作集』が用いられ、収録された大半の論文が検討されました。この授業では、レディング大学のフィリップ・ストラトン=レイクやジョナサン・ダンシーも参加しに来て、定言命法を義務の唯一の基礎にした場合に生じる選言的義務の問題や、パティキュラリズムにおけるトークンとタイプの区別の重要性について議論したりしました。

追記:先生たちが頻繁にオックスフォードに遊びというか議論しに来て、学部生そっちのけで議論したりしていました。私はとても勉強になったけど、学部生たちはどう思ったんだろう? この授業で初めて佐藤岳詩さんと出逢います。授業後に「イギリスの哲学者たちは(自説の展開が中心で)テキストをあまり精読しないね」なんて言い合ったりしていました。

4.講演・読書会

その他にも、オックスフォード大学では著名な哲学者による多くの講演が行なわれます。なかでも一番有名なのがジョン・ロック・レクチャーです。2010年度はデイヴィッド・チャーマーズによる「世界を構築する」というタイトルの講演が行なわれました。カルナップの『世界の論理的構築』を肯定的に評価し、それをやり直す試みとして、挑戦的な内容の講演が行なわれました。その他にも、日本でもよく知られた哲学者たち、たとえば、ジョセフ・ラズ(行為の哲学における「善の装い」(sub specie boni)の検討)、デイヴィッド・ウィギンズ(knowing howをknowing thatに還元する試みへの批判)、ロナルド・ドウォーキン(真理は解釈を通して探究されるという見解を意図でなく価値に訴えて擁護)、ジョン・ウォラル(構造実在論からのニューマン問題への応答)、ナンシー・カートライト(RCTをINUSで分析することの応用)、ソール・スミランスキー(ホロコーストなど歴史的惨事の結果としてある我々の存在を遺憾に思うべきか)、チャールズ・パーソンズ(クワインがどの時点で唯名論を放棄したか)、ジェームズ・プライアー(述語が意味論的値だけでなくそのアーギュメントどうしの協調に依存するという考え方を関数型プログラム言語から考察)、イギリス応用哲学会でのフィリップ・キッチャー(ドーキンスやデネットら好戦的無神論者の議論の仕方に対する批判)の講演など聴講しました。

追記:こう並べると凄そうですが、実際には有名人に会って満足してしまい、質問したり議論に参加したりできていませんでした。他にも、ウィル・キムリッカ先生やダニエル・スター先生、あとフィリップ・ペティット先生の発表を聴いたりもしています。学生にクリティカルな反論をされて黙ってしまう先生や議論がヒートアップして怒って帰ってしまう質問者なんかも見たりしました。懇親会でマートン?の地下にあるパブに行ったり、インド料理や中華料理を食べに行ったりもしました。

また、院生の読書会・研究発表会にも出席しました。たとえば、毎週月曜日に行なわれるMLE(Metaphysics, Language, and Epistemology)読書会に参加し、形而上学や認識論の最前線について議論しました。他には、毎週火曜日の夜に行なわれるオッカム・ソサイエティーに参加し、ティモシー・ウィリアムソンの『哲学の哲学』第五章で展開されたクワインらの様相懐疑主義に対する応答がもつ含意を検討する発表や、マイケル・ファラによる傾向性の習慣的分析がセテリス・パブリス条件分析と論理的に同値であるという発表などをきき、質問もさせて頂きました。

追記:MLEで「議論しました」と書いたけど、ほとんど議論に参加できなかったです。この時の院生たちの中には今では大学の先生になっている人もいます(ヒューム研究のQuさんとか)

5.オックスフォードの哲学

近年オックスフォードの哲学は分析哲学に中心が移ってきており、オックスフォード大学以外の出身者を積極的に招聘する傾向があるそうです(たとえば、ビキヴィストはスウェーデン出身、論理学の哲学で有名なフォルカー・ハルバックはドイツ出身です。ブルームも修士まではケンブリッジ大学、博士はMITです)。そのためか、授業や講演の多くは議論・アーギュメントを中心にしたものであり、「話し聴くことこそ哲学である」という印象を受けました(それと関係しているか明らかでありませんが、日本とは違い、多くの発表ではレジュメが配布されません。発表者が原稿を読んで、読み上げられた内容について議論が展開されます。)

追記:レジュメを配布しないイギリスのスタイルは議論が深まらないからやっぱり良くないと思っています。一度、ブルーム先生にこの点についてイギリスの哲学はどうなってんだと不満を言ったことがあります。Shunsukeは何でも反対する、と言われたりしました。

もちろん、テレンス・アーウィンやデイヴィッド・チャールズといった古典研究の大家もいて、研究会や講義では解釈上の妥当性も議論されます(特に興味深かったのは、古典解釈ではないですが、ビキヴィストによるプリチャードの「道徳哲学は誤りに基づいているか?」に関する解釈です。彼によれば、従来の「誤りとは道徳的責務を非道徳的に正当化できるかどうかを問うこと」という解釈は誤りで、誤りとは道徳認識論上のもの、道徳的信念を推論的に正当化できるかどうかを問うことだそうです)。

追記:同じ時期にオックスフォードのチャールズ先生のところに来ていた立花幸司さんは古代ギリシア語のテキスト読解の授業にも出られていたようで、授業や発表に対する上記の私の印象とだいぶ違っていそうです。

それにオックスフォードでは、哲学史、特に英国哲学史が強調され、既に述べたプリチャードの再評価をはじめ、ジョン・ロック研究やデイヴィッド・ヒューム研究に力が注がれています。たとえば、修士(ビーフィルと呼ばれます)の試験問題には「形而上学」「(現代)道徳哲学」とは別に、「英国道徳哲学」なんていうテーマで問題が出てきます。

追記:ピーター・ミリカン先生の授業にも少し出たのですが、学部生向けだったのと分析的スタイルでないようだったので、途中で出なくなってしまいました。もったいないことをしたと思っています。

さらにまた、個人指導においてもテキストを一文一文慎重に検討するよう要求されます。実際、ブルーム先生からは、単にテキストを鵜呑みにするのでなく批判的に読む作業を細かく指導されました。たとえば、ウィリアムズのテキストで言うと、「さて、いかなる外的理由言明も、それ自身では誰の行為にも説明を与えることはできない。(中略)しかし、行為者を行為へと動機づけるもの以外に彼の(意図的)行為を何ものも説明できない。」(「内的理由と外的理由」106-107頁:邦訳185-186頁)において彼が様相概念を混乱している(前者で彼は「外的理由言明が行為を説明しないことは必然的である」と主張しているが、後者で彼が実際に示しているのは「外的理由言明が行為を説明しないことは可能である」ことだけ)を読み取らなければなりません。提出した原稿に対して、先生からは一文一文に対して「ここは正しい」「ここはまちがっている」というコメントを頂きましたが、上記のウィリアムズの引用に関しても「ここはまちがっている」というコメントが付いていたので、「私の間違いではない」と応じたところ、「たとえウィリアムズの誤りでも君が無批判に引用するかぎり君の誤りでもある」と言われました。印象的だったので紹介しました。

追記:「印象的だった」というか、ちょっとムッとしました。ウィリアムズの邦訳は前者の文が「説明を与えない」になっていて、この様相概念の混乱を訳せていないのでないかと。

以上のように、わずかな期間でしたが、オックスフォードの哲学に触れることができたのはよい経験だったと思います。

追記:よく勉強した場所は家や哲学センターの図書室(ウィギンズのNeeds, Values, Truthが7、8冊置いてある、今は場所が変わりました)、それにコーパス・クリスティの古い図書館(あのエラスムスが褒めたと言われています、R. M. ヘアの本を開いたら、ヘアのサインがしてあったり)。あと、留学中に『ビジネス倫理学読本』の「功利主義とフォードピント事例」という論文を書かなければいけなくなり、ボードリアン図書館にも通いました(それもあってこの論文の謝辞には当時ディスカッションしていた人たちを挙げています)。懐かしいです。


この留学の縁が広がって国際ワークショップを開くことができたり、今につながっています。