言語の起源

 言語起源論――生命は、なぜ、どのようにして言語を獲得し

                  人間に進化したのか?に答えます――

Q.言語の起源を、生命言語説ではどのように説明しますか?

――言語の起源論争に終止符を打てるでしょうか――

    言語起源と進化論   ダーウィンの自然選択説批判 ダーウィン主義批判 

☆ なぜ、言語の起源の解明は、今日にいたるまで困難だったのでしょうか?

その答えは、西洋由来の三つの理論とそれらを生み出した西洋的人間観・世界観の限界性、または誤りにあります。

 まず三つの理論とは、①キリスト教(ユダヤ教、イスラム教)の「創造説」、②ダーウィン進化論の「自然選択説」、③チョムスキーの発見した「普遍文法の生得性(の謎)」であり、これらについての説明は言語の起源と進化論で行っています。

 そして、それら三つの要因の根源にあるのが西洋的人間観や世界観・価値観です。つまり、人間は他の動物とは異なる理性的・精神的な特別の存在であり、人間の肉体的・物質的生存を支える「欲求や感情」は、人間にとっては受動的な役割を担っている(物心二元論)という考え方です。人間が理性的存在であるというのは、可能性としては正しいのですが、人間が乳幼児の段階から理性的であることはありえません。また、現実の成人の多くが理性的行動をとっているとは限らず、人間とは欲のかたまり、感情の動物であり、それを言葉で取り繕っている(合理化する)にすぎないのです。それでも人間が理性的であるのは、人間の本質である言語との密接な関係があるからであり、その吟味なしに理性=人間=善とはならないのです

 このように、直ちに人間を神の似姿に作られた理性的存在とする訳にはいきません。つまり人間存在が有限かつ不安定で、人生が無常で苦悩の多い存在であるのは、神との約束を忘れ智恵の実を食べて楽園を追放された(『旧約聖書』創世記)からではありません。理性は、われわれの生命言語説的立場から言えば、善悪の区別なく働かせることができ、社会教育の所産であるということができます。「我思うゆえに我在り」ではなく、また理性は、直接善なのではありません。われわれの理性を善に導くには社会的正義や公正さの追求とそれに見合う教育と知識が必要なのです。

 西洋的合理主義の根源となるギリシア的思考様式においても、「不死なる神」の存在に対して「死すべき人間」の立場は弱く、「欲求や感情」そして「言語」でさえも外的な力によって支配されていました(「ギリシア神話」、ホメロスの叙事詩等)。言語がどのようなものであるかは、われわれが示しているとおり物心両面にわたり人間の本質を支えるものである(生命言語説)と同時に、人間は言語によって形成される知的・価値的世界(物心両面を含む創造的・観念的世界)に生きている存在なのです。

  ☞ 生命は複雑な自然環境への生化学的反応・変異・適応・進化を常に行っています(生命適応進化説)。

 言語の本質と起源を解明する場合、以上のことをふまえない限り正しい解答をえるには到らないでしょう。さてその上で、われわれは以下のような言語の起源の仮説を提案します。

A.乳幼児の言語発達は、人類の言語進化を繰り返す

 われわれ言語を獲得した人間が、宇宙や生命や神の存在を含む森羅万象(all what・全対象)を、どのように認識して、それらを言語によってどのように(how, why, etc)表現・伝達するか? このwhat(対象名詞)とhow(状態動詞・形容詞等)の問いが、情報の認識と伝達を基本的機能とする言語の起源を解明する鍵になります。

 つまり、言語の本質は、①情報や意図の伝達と②それらの内容(意味・概念)を認識・思考・表現することにあります。言語表現の本質は、生命の誕生以来の生命の生存様式(環境刺激の統合・反応様式=刺激反応性)に淵源があり、個体と種の生存・存続のためには、的確な刺激・情報の認知(判断・思考)とその情報の的確でわかりやすい表現・伝達が必要ということであり、これ(認知と伝達の欲求と様式)を理解しない限り言語の起源の解明には到らないということです。

 それでは生命にとって「刺激反応性」とは何なのでしょうか? 

 生命(細胞)は、地球という特殊な環境から、特殊な物理化学反応によって誕生したものであり、無限に多様な外部環境(外界の刺激)に対して、不断にエネルギー代謝と安定・安全の維持・永続を目的とする「適応的反応を持続」させる必要があります。このため、動物においては積極的に適応的環境を認識選択(自然が選択するのでなく生命が選択する:生命選択説※注)し、また維持しようと、自己の属する生存環境を知覚・認識し、適応的な反応・行動をおこなっています(生存・適応のためのwhat, howの疑問解決: この無限の対象世界・環境・ what を、いかに how, why 捉え、どのように how 生きるかを認識すること)。地球環境は多様であり、個々の種は自らの環境に応じた生存様式(形質)を獲得しています。つまり多細胞動物においては神経系を発達させて中枢系(脳)で判断・統合し、環境への適応的反応・行動をおこなっているのです。

 

 環境への適応的行動は、個々の個体の生存にとっても種の存続のためにも、社会集団を形成しその集団間の<的確な情報伝達>が、個体と種の存続の成否を決定します。そのためすべての多細胞動物は、種に応じた知覚・伝達機能を持っています。軟体動物、昆虫、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類等それぞれの種は、それぞれの外界に応じた知覚機能と神経系を持ち、得られた情報を認識・選択・判断して、直接・間接の接触から、臭い、音、視線、動作、音声など様々な知覚方法を用いて得られた情報と判断・行動の意図を伝達します。それらの知覚・統合(思考・判断)と伝達・行動の過程で、人間の言語は、音声を通じて認識内容や意味・概念・知識を相互交流する進化の最高形態です

では一体人間の音声言語はどのように進化発展してきたのでしょうか?

(※注) 生命は、多様で不安定な環境に対して、最適の生存環境を不断に選択し、また自らを適応させ、生存様式(形質)を適応進化させます。下記ダーウィンの自然選択説批判を参照して下さい。

  生命(人間)が言語を獲得したのは、「自然が偶然的変異をした言語という有利な形質(認知と伝達の手段)を「選択」したからではありません。生命は、無限の環境に対するより的確な認識と行動、そして集団の共生と永続的生存のための相互交流・伝達を求めて、多様な生存形態(種)を選択し、進化(多様化)してきました。つまり、生命自身がより適応的な生存形態をめざして、「主体的に」認識と伝達の手段である言語を選択・獲得して人間に進化してきたのです。その進化の過程は、乳幼児や化石人類が一語文から二語以上の構成文へ、また被植民地人などがピジン言語からクレオール言語への文法を発達させたように、認知と伝達の欲求(動物の基本的動因の一部:好奇心、的確な認識、自己表現、伝達など、個体と種族の維持という欲求)を主体的に実現してきたものなのです。

生命言語説による言語の起源の捉え方>

 「言語起源論」には様々の理論がありますが、生命(細胞)の生存様式の原理から説明したのはわれわれの知るところ一つもありません。それらの混乱した理論の数々についてはWikipediaの詳細な解説に任せて、直接「生命言語説」の説明を続けましょう。ただ一点付け加えるならば、生命の生存様式(環境刺激反応様式、または刺激認知・適応反応様式、つまり刺激反応性)から説明していない理論は、すべて何らかの欠陥があるということです。例えば、コーバリス,M.の『言葉は身振りから進化した』(邦訳2008)では、知覚(視覚と聴覚等)による認識と、行動・表現(身振りと音声)の統合性が正しく説明されていません。動物音声(唸り、叫び、さえずり等)は、身振りとともに複雑な意図を伝達できるし、一部の受容器(視覚)と反応器(身ぶり=身体)の優位性を強調しても、音声言語起源の本質的解明にはつながりません。

 つまり動物(とくに人間)音声の意図・意思伝達における自由性や効率性・正確性は、身振りや音声を含む行動の全体性から考察する必要があるのです。身ぶりや音声による動物の伝達に対する、人間の音声言語による伝達の優位性は、動物の「直接的知覚と行動(直知的行動)」から人間の「認識思考過程(再構成・創造過程)」独立可能性を高め(対象の客観化)、環境(刺激・情報・対象)への操作・加工・創造能力を増大させるのです。(言語の成立は、直接的反射・行動から分離した対象の音声信号化、すなわち一語文・状況文の成立にあります。)

 言語の起源の基礎は、自然環境への適応性を増大させるための「自由で的確な」環境の認識と伝達にあり、その「目的は種と個体の永続的な維持・存続またはそのための適応的行動の確保」にあります(但し、その目的が自己中心性に傾き、認識の誤りや複雑化による歪みが生じ、不適応状態に陥ることはよくあることです――言語による人為的・習得的な虚偽・誤解・威嚇・擬制・冗長等の発生・拡大)。そのため、言語の獲得による認識の基本は、当面する問題(食糧の獲得、自然の脅威、人間関係の困難等)の把握と解決のために、言語による的確な疑問の解明と判断(知的・理性的思考)が必要となり、同時に、言語的思考・伝達過程を集団で共有し相互理解するための言語表現規則(文法)が形成されてきます。その言語規則は、対象の特定(what?, who? 名詞、主部―但し、対象の特定が明確である場合、省略される場合が多い―日本語等)とその状態(how? 動詞、形容詞等の述部)対象間の関係(助詞、前置詞等の追加)、時間や空間(where?, when?)の位置づけ等の生得的要請(他の高等動物にも必要)が普遍文法の基本原理(注1)となります。(言語の完成は、主語・述語・目的語等による二語文以上の論理的構成文の獲得、すなわち「普遍文法」の活用となる。)

 ここまで説明すれば自明となりますが、言語の起源は、対象としての環境とその状態、また人間関係や主体の意図・判断を言語記号化すること(第二信号系として直接的反応・行動から独立した音声信号化)によって、自然と社会の環境を的確に把握し、いかに適応的に生きていくかを「言語的に再構成・創造」し、それを集団で共有(主観性の客観化・社会化)し、また自らの存在を意味づけ行動することにあるのです。つまり、人間における言語の進化・獲得は、生命(細胞)の生き方・生存様式に関わる「環境刺激の認知・統合・反応構造(システム)」として到達した、究極の適応様式への進化の転換点になると考えるべきなのです。だから人間の言語は、単に対象や認識結果の言語記号化(理性的情報処理)と伝達の手段としてだけでなく、常に様々の次元の環境に生きる生き方、ものの見方考え方の手段として考える必要があります。このように言語の起源を考えるには、全生命共通の生存様式――環境適応・永続的生存維持(個体と種の維持・存続)――すなわち人間の場合は、生存の意味や生き方を求める動物(注2)なので、そのために必要な知識としての「生命とは何か?」と、価値判断としての「いかに生きるか(何を選ぶか)?」という問題意識を常に念頭に置く必要があるのです。言語の機能・役割(の理解)と人間の生き方(いかに生きるか?)とは、つねに深い関わりがあるのです(注3)。

(注1)普遍文法の基本原理については、「生命言語説」によってその成立の根拠が説明できます。句構造生成文法、ミニマリスト・プログラムの統語論(文法論)の生物学的根拠は、生命言語説によれば、「対象とその状態(何がどうあるか?)」「対象間の関係性(自己や対象間の関係はどうなっているか?)」という、生存欲求実現のための「問題意識と疑問解明」の神経生理的過程(刺激統合・反応過程)が、音声表現をとって生成したものであると考えます。つまり、統語法・文法とは、無限の対象(存在・名詞what)の状態や関係性(how)、そして主体の意図や願望を音声信号(言語)によって、明確に表現・伝達する方法・様式なのです。

 動物の適応行動にとって基本的認知・行動様式は、多様な環境をどのように認識して、生存欲求を実現していくか(環境刺激⇒認識判断⇒反応行動⇒欲求実現)ということに尽きます。動物にとって安全の確保や食糧の獲得等の適応的行動のために、その対象認識と相互理解の的確性が必須とされ、音声言語を用いる意思伝達の方法が集団内でさらに進化してきたのです。人間の疑問解明(とその言語的表現)は、自己の疑問、他者からの正確性を求める要請によって緻密な文法を形成することになりましたが、その基本は動物に共通する単純な認知行動様式にあったのです。いわゆる再帰性や関係代名詞もまた疑問解明の無限の思考・表現過程の的確性・限定性の再帰的表現(対象・意味への無限の問いかけとその解答表現)であり方法なのです。

 乳幼児を観察する人にとっては、乳幼児が常に人の音声や行動・諸現象を、好奇の目と耳、心(what, how, etc)をもって聴き、見つめ観察しているのを知っています。乳幼児は世界の有様をそれによって、初めは動物的な感覚と知能で、そして後には獲得した言葉によって整理し、得心しているのです。好奇欲求(認知欲求)は、生きる世界の安全と生存確保のためであり、動物に起源があります。人間においては、疑問(問題状況)の内容を言葉によって解決し、また過去から未来へとつなげていくために、言語的判断と思考をシステム(構造・構成)化し、また表現(産出)するのですが、その思考法則、表現法則、産出法則が普遍文法なのです。何(対象・名詞)がどうあるか?対象と対象はどのような関係にあるのか?対象はなぜそのような結果をもたらすのか?等々・・・・以下はこちら

 以上によって、普遍文法や再帰性の起源についての謎も氷解するでしょう。(チョムスキー批判を参照のこと)

(注2)常に生存の危険をのがれ、食糧の確保や子孫の繁栄のために活動しなければならない動物にとっては、環境に対する知的欲求や好奇心が生存のための基本的欲求であることは自明のことに属します。とりわけ直立二足歩行を常態とするようになった人類にとっては、他の高等動物よりも視野は大きく広がり、自由な両手の活用についても視覚の重要性は高まります。そのため大脳の発達に伴い諸情報の記憶・蓄積が進み、また仲間との情報共有・伝達の機会も広がります。このような「認知と伝達の可能性」を飛躍的に高めたのが言語という音声信号でした。一語文の場合は、もっぱら情報の記憶・伝達・共有が中心であり、旧石器時代の数百万年間は、石器の変化も少なく狩猟採集の原始的生活が続いたでしょう。しかし、現生人類における二語文以上の言語の発達とそれに伴う思考上の構成力・創造力は急速に発展しました。しかし、まずは自然の脅威に対して自ら想像(空想)した呪術的世界観(言葉のもたらすタブー・禁忌)に支配され、物質的豊かさや人口増加には到りませんでした。言語使用は複雑な文法があるとしても「知的欲求や好奇心は呪術的思考や世界観によって制約」され、自然と一体化した「未開の生活」が長く続いたのでしょう、農業革命が起こるまでは・・・・。

(注3)人間の生き方やものの見方考え方が、言語の働きと強いつながりがあるということは、未開社会の呪術的生活や世界観、そして現代社会の宗教の存在と深い関係があります。われわれの時代の合理主義や科学的世界観では、自然の現象や運動、人間関係や幸福や不幸、善悪の判断などに伴う因果関係は、迷信や思いつき、誤魔化しや言い逃れでは解決したとは見なされません。解決しなくとも、または、解決しないから結局、知的好奇心を阻む無理遣りの「信仰」、力と力の対立、またはカネや多数決の決定が幅をきかし、力なく分裂・混乱する言葉や思想が展望のない論争を繰り返し、今日の世界を閉塞状態にしているのです。

 伝統的な三大世界宗教などにおいても「信仰」や「救済」、「ご利益」や「奇跡」等の言葉で宗教の意義が強調されますが、それらはすべて言葉(教義・謂われ・由来)による意味づけが為されています。三大宗教における意味づけは「仏典」「聖書」「コーラン」を中心とする膨大な文書が、それに伴う儀式とともに絶対的な権威付けが為されて今日に継承され、人類史的に見れば、一時的地方的な安定と持続的世界的な混乱を招いているのです。しかし他方で、今までの一時的地方的な安定は、民族主義とも密接な関係があり、安定を求めるよりもむしろ教義の尖鋭化が進み、テロ・戦争や差別・排除の温床になっています。

 そこで、人間の本質である言語の意義を明らかにすることは、混乱した宗教・教義の限界を明らかにし、全人類にとっての共通性・普遍性を求める観点から、人間と言語の本質理解のためにその起源を明らかにすることが必要になっているのです。

――人間言語成立の条件と進化的起源 : 知覚・行動と認識・発語の分離――

 その上で、具体的な言語の起源を求めるなら、胎児の成長において進化の過程が再現されることを示す「個体発生は系統発生を繰り返す」(ヘッケル)という命題と同様に、「乳幼児の言語発達は、人類の言語進化を繰り返す」(注4)という命題が成立することが考えられます。つまり、乳児は一歳頃にハイハイから二足歩行ができるようになる段階から、急速に様々の対象への好奇心(認知欲求、好奇本能)が増し、行動の範囲を広めます。同時に発声における乳児特有の喃語(2音の発声・アーウー、バーブーなど)によって相手を選んでのダッコや遊び相手への要求、対象(玩具や養育者たち)の区別やこだわり・選好(人見知り)が目立ってきます。また模倣(ミラーニューロンの働き)や好奇心の活発化とともに行動(動作)を読み取り学習することもできるようになり、養育者等の発声も音節の違いと意味が聞き取れるようになります(音声表現の正確さと意味の的確性の追求)。

 言語の人類的進化や乳幼児的発達は、単に、神や養育者という他者によって受動的に賦与され習得されるものではなく、言語の語彙と文の意味を明確・簡便にするために、社会的・集団的な進化と発達の過程で「主体的に」変容され創造されてきたし、また今日でも変容や創造が行われているのです。

<一語文の成立から二語文へ>

 一歳半にもなるとワンワン、ニャンニャ、マンマ、ダッコ、イヤなど欲求(マンマ、パイパイなど)や感情(オイチ、イヤイヤなど)、行動(チッチ、イクーなど)の表現・指示ができるようになり、その場の状況を理解できる場合は、意味を持った一語文(または状況文ないし未分化文(注5)とも言える)として成立します。しかし重要なのは、この段階での言葉は養育者の模倣学習であり、直接的知覚や欲求・感情の表現としての行動(動作)の延長と考えられます。思考や判断は単純で、状況に制約され、言語を記号として大脳内で操作的に用いるものではありません。この場合の一語文は、いわゆる動物的な段階の「直示的(直知的、here and now)」知覚反応・行動の一部として使われているのです。ピアジェの思考発達段階説によれば、感覚と運動が表象(対象についての脳内の記憶・イメージ・情報)を介さずに直接結び付いている時期(感覚運動段階)と言えるでしょう。この段階では、他の類人猿等と比較して、分節音声の発達(神経生理的・解剖学的な幼児語の発達)が顕著にあらわれ、いつでも出し入れ自由な表象付の音声記号(第二信号系)としての役割を果たしていることになります。また、一語文段階の後半には、語尾を疑問文にすること(「ママ~↑(どこ)?」)や疑問詞(モノを見て、または指さしして「なに?(名称を問う)」や「(ママは)どこ?」と尋ねる)を使うことができるのは、刺激・対象からの反応・行動の分離、二語文への発達の過程を示しています。

 しかし、音声記号(言葉)ではあっても、記号を表象とともに自由に操作できる段階ではありません。つまり、二語文(構成文:主・述や関係性の表現)のように言葉を組み合わせて、表象を操作する(外的刺激反応性からの完全な分離・独立)ことは難しく、言語の機能の飛躍的発展を遂げる創造的段階2~3歳頃から生じる幼児の積み木や描画による具象化のように)に到っていません。言わば、言葉が知覚や行動とともにあって、対象を記号として再構成(表象操作:客観化・抽象化・相対化)できない段階(注6)であるということになります。そこで次の創造的段階に発達するには、対象(もの・人)に対する直接的な認知・行動過程(欲求や感情、直接的知覚に支配されている)を抑制・制御し、言語的思考と行動(表現・伝達)が、思考・統合過程を経て間接的・客観的に行われる必要があります。

<一語文の獲得と道具の製作・使用――人類の誕生>

 言語を持たないチンパンジーが堅果を割る道具使用の場合は、その道具を作るのは、道具を大脳内で表象(イメージ)化して作るのではなく、目の前に適度な材料(石)がある(直知的)ことが必要です。チンパンジーの場合と一段階進んだ人間の一語文段階では、表象(道具としての石器や火のイメージ)を音声記号(言葉)とともに記憶することになり、現物の道具を直知的にコントロールする上で大きな進歩です。しかしそれは未だ創造的とは言えません。表象と言葉(音声記号)の同時記憶は、人類の誕生に大きな役割を果たします。道具としての打製石器や火等の製作・使用の方法を、動作(道具を作り使うジェスチャー)としてだけでなく、いつでも取り出せる音声記号として、仲間や子孫に伝えることができるからです。おそらく火の使用が確認できる北京原人の段階までは、動作を伴って意志を伝える一語文の段階以上には進化していなかったと思われます。論争はありますが、言語(一語文)の起源が猿人にあり、一段階進んで原人の段階では、一語文として成立していたと考えられます。

<二語文(構成文)段階の認知と行動――幼児の場合>

 次に、人間の幼児は、二・三歳頃になると言語表現は一語文から二語文となります。二語文の特徴は対象(名詞what )とその状態(動詞・形容詞how )や、対象と対象の関係(目的語と助詞・前置詞等)が表現できるようになることです。それは表現するべき内容(意味・概念)に対する疑問、すなわち「何がどのようであるか?」や、「対象AとBの関係性がどのようであるか?」の表現の正確さを求めることが意識されていることになります。乳幼児の好奇心の強さは、自分自身の対象への関心だけでなく、他人に何を伝えたいのかや、他人の疑問にどう答えればよいのかの解答表現にもつながります。コミュニケーションによる相互の正確な情報伝達は、動物集団の生存維持にとって必須の条件であり、正確性が要請されますから、幼児は養育者との対話や遊びを通じて疑問を解決しながら、正しい言語表現法(文法)を学習していくのです(乳幼児の学習は、単に養育者から教育的に与えられるものではなく、自ら主体的・積極的に世界や言語記号の意味について獲得し創造するものであることの理解が重要です。注4)。

 一語文は、名詞や動詞・形容詞と明確な区別は難しく、名詞としての「ママ」や「マンマ」には「来て!」や「食べる!」のような動詞や、「楽しい」「美味しい」等の形容詞や、単に間投詞・感嘆詞のように使われることもあります。このような多義的で曖昧な一語文の表現は、言葉の意味を正確に伝えるには限界があります。そこで対象とその状態等の曖昧な言語表現である一語文の解釈についての疑問(曖昧性)を解明(限定)するために、二語文としては「ママ来て!」や「マンマ食べる」となり、それは三語以上の文としての「ママが私に来て欲しい」「私が食事を食べる」に展開します。このように、文の意味と構成は、常に疑問の解明にもとづく内容の明確化であり限定化(define)なのです。

<二語文以上の構成文――旧人と現生人類>

  これを人類の言語進化に当てはめてみると、一語文が原人段階までと考えられるのに対し、ネアンデルタール人を代表とする旧人段階では、埋葬の痕跡が残されており、死後の世界に対する何らかの観念があったことが想像されます。死後の観念は、直知的現象の中で生きている原人段階の人間の認知や思考では想定するのは困難(現代人でも死後の観念を<持つ必要がないので>持たない・考えない人は多い)であり、認識上の壁を越えねばなりません。その壁は、人類進化の一段階となる認知行動の抑制・制御による構想力・想像力・反省力を必要とします。生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、生命を絶たれることなどの考察とその意味の認識は、直知できない過去や未来、空間の広がりを記憶し自由に操作できなければ不可能です。そのような直接的知覚や行動に囚われない自由な認識や思考は、言葉という第二信号(刺激)系(行動を伴わない内的音声信号)によって初めて可能になります。しかも、「一語の自由」(乳幼児や原人)ではなく、「二語(以上)の自由な構成」すなわち、「何がwhat、どのようにあるかhow?」さらには現象の因果関係を求める「なぜwhy?」という疑問への認識と思考が可能でなければ成立しません。そのためには主語・述語という言語構成(統語)の構造が必要になるのです。

 旧人と現生人類(新人、ホモ・サピエンス)の言語能力の違いは、現在検証することが困難であり、乳幼児の言語発達から推測する以外に方法がありません。化石人骨から推測される解剖学的知見によれば、旧人段階(初期新人を含む)において分節言語の発声は可能であるとしても、十分であるとは確定できず、石器(旧石器段階)の種類や形状・機能から見ても創造性に乏しく、自由な言語使用はされていないと考えられます。しかし、上に述べたように埋葬の観念は重要です。単に当面する日常生活への関心だけでなく、過去から未来につながる生前から死後への連続性(どこから来てどこへ行くのか?)に対する疑問、不安や恐れの解決としての埋葬・儀式の存在は、一語文段階での死体放棄で終了する解決とは、明らかな進歩があります。また、一語文の乳幼児が、自己(や他者)の死の意味を(相対化・客観化して)考えられないのと違って、死の意味は、二語文を必要とするwhat, how, why, where等の認識・思考・表現段階で、初めて理解が可能になったと考えられます。(注:一語文段階の乳幼児や高等動物にも、適応的行動のための好奇心欲求とともに因果性や関係性への疑問や認識能力は備わっています。ここではそれらを言語記号化・表現することの意味を考えて下さい。つまり、認識・理解と表現可能性とは明らかな違いがあるのです。)

 現生人類の祖先の一語文段階(原言語)が、どのようにして二語文の段階に飛躍したのかは、「自由な一語」に加えて、単語としての音声信号(一語文)を、分化・構成する必要があります(what+how、主語名詞+述語動詞・形容詞)。この飛躍には、一語文を、単に模倣表現するだけでなく、その意味の追求・明確化(強い好奇心)が必要になります。つまり、「マンマ」が、「ママ」なのか食事なのか明確な発音上の区別だけでなく(状況で判断できる)、「マンマ」を対象名詞と、要求語(食べたい)・存在語(ある)・拒否語(いらない)等に区別・構成できることが必要になります。この過程は、完成言語をもつ養育者の存在を必要としません。必要なのは模倣と好奇心の追求(正確な認知への欲求、疑問の解明)です。頑迷で保守的な成人には、このような飛躍は困難でしょうが、柔軟な発想のできる子どもには可能なのです。乳幼児の言語発達に、人類言語の進化・飛躍を見いだすことが言語学の発展にとっても必要なのです。

(注4)乳幼児の言語の習得は、養育者の完全な言語の存在を前提としています。乳幼児と違って、化石人類(猿人、原人、旧人)においては、何もないところから言語を獲得した理由が解明されなければならない。つまり言語の起源は、現生人類の乳幼児の言語の獲得(習得)と同列に論じてはいけない、という批判があります。これは当然の批判ですが、この批判に対しては次のように答えることができます。

 ⇒ 音声の分節的発声(母音・子音の音韻の明確化による一語文の発声))つまり単語の発声は、乳幼児の二足歩行の発達と同じように、模倣・訓練・学習による自発的習得を必要とします。乳幼児の二足歩行も分節的発声も、子どもの人間的成長・発達が臨界期を越えれば困難なように、健全な人間という模倣の対象が必要です。人間的発達において二足歩行と分節的発声を同列に置くことが正当であるかは議論の余地がありますが、すくなくとも両者ともに「生理的早産」(ポルトマン,A)の状態で出生した乳幼児が、人間的環境の影響を受けることは確かだと思われます。二足歩行が生育環境の影響を受けるかどうかを実験的に示すことはできませんが、乳幼児の歩行訓練や野生児の事例を考えると、模倣や訓練の重要性を指摘せざるを得ません。

     それに対し、化石人類が、人間として二足歩行と言語を獲得するには、二足歩行が進化の過程で突然変異と適応的な行動(成長・発達:サバンナにおける二足歩行の適応性)が必要であったように、言語も適応的情報伝達の進化(個体の適応的成長発達によって分節的発声への適応的突然変異・進化・発達がおこなわれる)によって可能になりました。その可能性を発達させるのが、まず化石人類における乳幼児の発声です。誰かが分節的でより的確な情報伝達のための有利な適応を獲得すれば、後の者はその模倣・訓練によって二足歩行や分節発声がひろがります。乳幼児の可塑性(「生理的早産」によるが、化石人類にも想定できる)は、集団生活の中で適応的な言語進化(当初は、行動・動作・鳴き声の延長として、次いで自然や生活上の必要事象の意味を固定された多様な分節的音声信号・一語文(単語)としての学習的進化)を支え、自由を拡大する音声信号が有用性を増大させます。その「言語進化の方向性」は、言語の情報伝達とその的確性(分節性・構成性)の追求、つまり、言語による疑問の解決・好奇心欲求・合理性追求であったのです。またこのような言語の進化は、個体と種の永続的存続のために、神経系の発達・統合と膨大な音声情報の獲得・創造によって、適応的な機能という方向性を持つとして現在も続いています。

(※化石人類の「言語進化の方向性」における「分節性と構成性」の的確化は、単語の音韻的正確性―マンマかママーか、ワンワかワンワンかの発声の曖昧性の克服と、単語と単語の構成の正確性―こっちいてー[こっちへ来て]等の発声の曖昧性と助詞欠落を伴う幼児語の克服を意味します。また言語は集団で獲得するのであって、「孤独なミュータント」の問題として知られる「最初に言語を獲得した個体」という実体は存在しません。)

(注5)未分化文とは、主語名詞と述語動詞に分化しておらず、WHAT/HOW疑問に明確に答えていない曖昧な表現なので、状況を把握せずには理解できない一語文(状況文)であること。例えば、名詞「ひ(火:ほのお)!」は、「火をともせ」「火をよこせ」「火で肉を焼け」等を意味したり、動詞「おせ(押せ)!」が「獲物を圧えよ」「気持ちを抑えよ」「後ろから押せ」等のように、その場の状況で解釈できる範囲の音声表現を、未分化文とします。この場合、統語規則・文法は必要ありません。それで十分相互の意思疎通が可能な化石人類の時代が、長く続いたことが想定されます。この時代に、言語を用いた直示的な認知・思考・記憶能力は発達したことが推測されますが、二語文(品詞分化文・構成文)のように主述の構成力とともに、何がwhat、どのようにhow、なぜwhy、その他の疑問形式が発達していないために、想像や創造の能力は発揮されなかったと思われます。

しかし、一語文(未分化文)の意味の曖昧性を克服して、意味を限定・明確(分化・解明・define)にすることは、人間が自ら発声した音声信号(言語)の意味を求め、問い続けることで、それによって表現・統語能力や統語・文法規則を複雑にしてきたと思われます。当然のことながら言語の意味は、自然現象や日常生活や社会秩序等についての異文化における諸価値観の分化・多様化を含むものとなります。したがってまた、異なる文化における言語の意味や文法もそれぞれの生活様式や自然観、人生観(生き方)を反映して分化、多様化、複雑化してきたのです。

(注6)「再構成できない」ということは、トマセロ,M. の言うように(1999)、大人の発音 “I-wanna-do-it,”や“Where-the-bottle.” を、私見であるが、例えば 乳児がwanni(うぉんにー)やwhebotto(うえーぼっと)と発音したとしても、乳児自身が一単語ごとに分化できなければ、一語文と見なすべきであることを意味しています。


 ――★ 人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカでの言語の完成から新しい挑戦の歴史、多様な文化の創造と進化の歴史をはじめる。――

<情報・意図の伝達の明確化と文法の成立――現生人類の創造性「言語原理」>

 言語(主体の意図と、対象とその状態と対象間の関係性の音声的表現機能)は,動物の社会的生存活動における認識論的必要(記憶・思考)と意志伝達的必要(伝達)の両者の要請から進化的に形成された。人類進化の起点は,平地での直立歩行である。直立歩行によって人類は,自由な手,大脳の発達,自由な分節的発声の可能性を獲得した。(注1) また平地での食糧の獲得,安全の保持には,より確実な世界の認識(認識論的必要)と社会的な行動(意志伝達的必要)が有利となる。世界を言語化し,空間的時間的広がりをもった知識を学習・記憶し,社会的に結束することは,人類の生存に有利にはたらいた。人類の進歩と繁栄にとって決定的に重要な役割をはたした言語についての原理を以下にまとめる。

① 言語は,内的外的刺激に対する動物個体の反応行動として,他の個体や同族集団への音声的な意志伝達機能(鳴き声,叫び声)を起源とする。そのため,言語表現は,客観的内容であってもその根底(深層)に,自己の生存欲求を充足させる主観的な意志や意図の表出・伝達を含んでいる。 ・・・・⇒ 続く・・・続く・・・こちらに続く

※ 上記の「言語起源論」は、次ページの生命言語理論による「言語原理」を前提として理論化したものです。

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◇ 生きることと言語の関係:

 生命には生存の維持・存続という意味(目的)があり、生命として言語を獲得し生命進化の頂点にある人間は、その生命存在の意味(個体と種の存続)を言語的に的確に表現し(「生き続けよう」と)、体現しなければなりません。言語獲得の意義は、生命が環境の状態(刺激・情報)を言語的に認知し、社会的(相互的)に伝達・共有して、言語的思考(理性・ロゴス)によって的確に生存活動を行えるようにするものです。ただ、認知や伝達には誤りや意図的な欺き・嘘があり、道具としての言語は十分慎重に検討して理性的に使うのが望ましいものです。

                                                                                                                                                                            

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◇ 言語の起源に、メタ言語(普遍文法)があるとすれば、それは「生存環境に対する生命維持行動の判断基準」をもつ刺激認識・反応性(what, how:この無限の対象世界whatをいかにhow捉え、どのようにhow生きるか)に、音声発語過程を加えたものである。動物の行動は、不断の認識・判断そして行動の過程である。人間の言語は、動物の認識判断過程を音声言語化することによって、世界についての情報処理能力(記憶・伝達と構成・創造能力)を飛躍的に高めたのである。動物にとっての世界とは、その生命種が生存する環境のすべて、すなわち動物にとっての欲求・関心の対象である自然の運動や状態、対象間の関係性、空間(時間)について認識・判断するべき対象である。雨、風、水、空気、獲物・食糧そして安全な住処、家族・種族・集団の繋がりや力関係、すべては認識と判断の対象である。野生の動物が生存をかけて敵の存在に警戒を怠らず、獲物の獲得に全力を傾けるときのように、動物(生命)にとって自然は常に認識と判断と連携の対象である。

 さらに人間にとっては、内的(脳内)第二信号系としての言語的思考による創造と想像の世界(文化全般)が加わり、対象としての石器や火、木製の道具等だけでなく、自然を支配する霊魂や神々が生活の中で重要な対象となる。諸対象とその状態や関係性についての音声信号(言語)化とそれらの言語による認識・反応は、原始現生人類においては地域によって異なる生活様式と言語の表現方法を発展させ、多様な地域文化と言語を創り出した。

 しかし、地域や民族等により異なる多様な言語(語彙と文法)が存在するにもかかわらず、人類共通の音声言語信号による対象表現は、個体と種の存続にとって最も適応的に行動し欲求を実現できる対象認識と表現方法として普遍的に存在する。それは対象とその状態、そして対象と対象の関係性(因果性を含む)の的確な認識と明確化である。つまり「言語原理」の項でも述べているような、対象の指示(what、名詞)とその状態(how、動詞・形容詞)の表現、および、対象間の関係(主述や目的語との関係、助詞や前置詞による簡略表現)、空間(where)や時間(when)なのである。それら生存のための疑問ないし問題意識、つまり生存への困難の解決や好奇心の充足への希求が、疑問詞(5W1H等)の解としての人類共通の文と文法の成立(メタ言語・普遍文法)ということになるのである。

* 文法の統語構造の生物学的原型は、高等動物全般に共通する行動様式(生存様式)の「認知⇒判断統合⇒反応過程」に含まれている。すなわち、刺激対象に対する「何か(what)」という区別・指示(対象としての名詞)と、その状態に対する「どのように(how)」という判断(状態表現としての動詞・形容詞等)、さらに認知主体としての行動を「どのように(how)」決めるかの判断・行動の過程である。また統合過程には、対象(名詞)と対象(名詞)の関係性も含まれる。関係性の多くは、述語動詞の主語と目的語の関係性として、また目的語の関係を位置づける助詞・前置詞によって諸対象の状態と関係が限定または明らかにされるのである。

 これら言語表現に含まれる多くの構造は、他の高等動物の認知・統合・反応過程において、行動と一体化して記号化される(動作や音声での表現を伴うことも、故意に欺くこともある)ことはあり、環境に対する生体の生存(神経系の活動)過程として文法の統語構造の基礎となっているのである。どのような敵や獲物(what)が、どんな様子(how)で、どこに(where)どれだけ(how much)いるか、どこから(from)どこへ(to)動いているか、これらの動物的知覚・判断構造はそのまま、人間言語の文法構造につながっている。再帰構造もまたしかりで、変化する無限の対象の存在と運動の修飾・限定の認識活動(疑問の解明)が、そのまま関係節・修飾句として文中にはめ込まれるのである。 一部の売名的学者が、動物のジェスチャー(行動の一部)や小鳥の歌(さえずり:名詞whatと動詞howの基本的区別がない)に言語の起源を見いだそうとしたり、西洋的合理主義の限界を超えられないチョムスキーの普遍文法論のように、動物の生存・行動様式の基本(刺激認知・判断統合・反応行動様式=無限の環境刺激に対する認知反応・適応様式)に目を向けない視野の狭い知的態度が、言語の起源に対する探求の障害となっているのである。

 「生命言語理論」では、生命とは何か?人間(言語)とは何か、?いかに生きるべきか?、という問題意識なしに、人間や言語についての解明はあり得ず、また学問の発展や人類社会の持続的繁栄と幸福の実現はありえないと考える。同時に、「言語の起源」という検証困難な課題について、中途半端で逆に混乱を招くような仮説(論者自体がその限界を知りながら、つまり、生命や言語についての知見の不十分さを知りながら、起源について論じること)は、もっと控えめにすべきである。これは、宇宙の起源(ビッグバン)や生命の起源、天地創造仮説やわれわれの言語起源論についても言える。人間存在や人間知の限界、理論や知識の意味についても学問(science, Wissenschaft)の前提として共通了解すべきであるし、当人間存在研究所でも自戒を込めて知の相対性の絶対化を明記したい。

※ 「何がぁ・・・(whaaat)?何でぇ・・・(haoow)?分からないから、もっともっとその言葉について(一言づつ)説明してよ。」

この問いと意味への探求は、文として「無限に」(再帰的・階層的に)続けることができます。

  人間は常に、自分自身と他人に、言葉の意味について無限に問いかけることができます。

貴方はどのように答えますか?

疑問/問いかけ/自問自答/説明責任―ある国の首相(大統領)は、見え透いたウソをつくのがお上手です。

自分さえ、今さえ良ければそれでよいと考える人間は、

真実を隠して偽りを創り、それを他人に語って欺くことができます。

       権力者(学者を含む)のウソを許してはいけません。

言葉について探求することは、人間について知ることです。もっともっと知ろうとすることが再帰性(what what, how how)の根源です。

人間とは何か?」 ⇒ 「人間の本質は言語である。」言葉について探求することは、人間について知ることです。

私たちは、もっと知りたい、もっと楽しみたい、もっと快適で便利で苦しみのない生活がしたい、と思いませんか?

他の動物も、小鳥もチンパンジーも、犬も猫も、牛も馬も・・・・すべての生命は、おそらく、快適に生き続けたいと思っているでしょう。

 生命(とくに動物)は、自らを誕生させた自然について<正しく知る>ことによってより適応的になります。

しかし、とりわけ人間はこの思いが強いのです。ナゼでしょう?

言葉によって、「より大きな疑問や欲求」を持つようになったからです。

だから、言葉についてより<正しく知る>ことによって、人間はより正しく適応的に生き続けることができるようになるでしょう。

★ 初めに生命があった。生命は言葉によって人間となった。人間は言葉と共にあった。人間は言葉によって神を作り、神によって人間を尊厳なものとし、また悪魔と差別を作った。 だが、今や人間は、人間存在(言語)の真実を知り、地上のすべての生命と人間に永続的幸福をもたらすことができるようになった。人間は、まもなく「生命言語説」によって自分とは何かの真実に目覚めるだろう。

★ 「宇宙の起源」と同じように、「生命の起源」を確定することはできません(注)。しかし、人間の言語は、生命が自らを適応的に維持・存続させるために獲得(生命の進化は、新たな生存様式の獲得である)したものであり、そのようなものとして「言語の起源」を確定することはできるのです。つまり、生命は「個体と種の維持・存続」(「生存と繁殖」とも言う)のために、外界を的確に認識し、適応的な行動をとり、言語はそのための「認識・思考と伝達・行動の手段」なのです。そして、言語の人類的進化や乳幼児的発達は、単に、神や養育者という他者によって賦与され習得されるものではなく、言語の語彙と文(論理)の意味を明確・簡便にするために、進化と発達の過程で変容され創造されてきたのです。

だから、起源の分からない宇宙や生命を、「神のみ業」「知的設計」の被創造物と意味づけることは可能ですが、生命が獲得した「人間の言語」を、神の創造物(作品)のように確定することはできないのです。むしろそのような考察は、人間(生命)存在の有限性や脆弱性を、「神」や「創造主」という人間の獲得した「言葉」によって意味づけ強化・権威づけしたものに過ぎないのです。人間は、言葉によって自らを意味づける存在なのです。言語の起源を、科学的に明確にできるわれわれ人間にとって、もはや神による人間存在への意味づけは必要ではありません。むしろ神の想定が、世界の争いを助長させているだけでなく、人類・生命共同体の平和的・永続的幸福への希望を阻んでいるのではないでしょうか。つまり、「神の言葉」による呪縛は、生命と人間の言葉によって解き放たれなければならないのです。また言葉による合理主義の由来と限界を理解しない哲学や思想、そして西洋的言語理論も、その限界が克服されねばならないと思われます。

(注) 遺伝子・核酸と細胞・蛋白質の融合と、外界からの独立を、生命誕生の地球環境を想定(例えば熱水孔等)して、実験的に確認することは不可能である。言語は高等動物の鳴き声・発音から確認できる進化の産物であり、音声の複雑な構成と意味表現は、その起源を経験的に確定できる。それが上に示した生命言語説による「言語起源論」である。

【ダーウィンの自然選択説批判――生命適応選択説による――】 ☞ ここへ続く

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自然選択説批判の要旨

★ 自然は選択するのでなく、変化するのみである。

 自然が生命の生き方を選択・決定するのではなく、生命が多様な自然(環境)への多様な生き方(種の生存様式)を適応的に選択する。諸生命が独自の生き方を選択しても永続的適応となるとは限らない。生命(自然)を誕生させた環境(自然)は、無限の変化をするが、生命は有限の存在だから適応には限界があるのである。

 「自然選択説のイデオロギー性」については『人間存在論 前編』 (2001)ですでに紹介しています。ダーウィンは、『種の起源』(1859、ON THE ORIGIN OF SPECIES BY MEANS OF NATURAL SELECTION,OR THE PRESERVATION OF FAVOURED RACES IN THE STRUGGLE FOR LIFE.(自然選択の方法による種の起源について、すなわち生存闘争における有利な種族の保存)において、種の起源が生存闘争と自然選択によることを述べている。しかしそこでは、生命の多様な生存様式(多様な種)が、多様な環境の中における それぞれの適応様式であり、「個体と種族の存続をめざした多様な変化(適応化)の結果(生命の活動目的は、多様な環境への主体的な適応的生存維持)」であることが強調されていません。種は、多様な環境への多様な生き方であり、自然が選択するものではなく、多様な自然に対する生命自体の適応選択(よりわかりやすく言えば自己適応・変革力)によりますこれは生命自体の選択的変容(突然変異を含む)が、適応的であったか否かという問題であって、結果的に不適応であれば、種としての安定的生存や繁栄が得られず、種を形成しないということです。

 つまり自然(環境)の厳しさや生きることの困難に適応できなかった生命が、種としての存続に失敗(絶滅の「方向」の選択)したのであって、その失敗を自然(ダーウィンにとって、生命の多産・繁殖による生存闘争・適者生存が自然の法則である)による選択と言うことはできません。種として生存している適者は、自然が選択したのでなく、自然が無限の選択の機会(選択の失敗もあり得る)を生命に与え、それに適応選択した形質を持つ生命が一つの種を形成することになるのです。(その意味で人類も絶滅の「方向」を選択する可能性があります。生命は適応の可能性をめざして常に選択しているのです。)

 生命の進化、とくにここでは言語を獲得した人類の進化を問題にするので、「神経組織を持った動物の行動様式の進化(刺激認知と反応行動の統合化)」について、動物(生命)が、与えられた環境の多様な状況に応じて、多様な一定の方向性(自然が方向性を選択するのではない)を選択することを重視することになります。つまり、動物は外界の無限に複雑な環境状況(の情報)に対して、生存を維持するために的確な認識と分析(選択・判断・思考)による的確な適応的行動が必要とされます。それらの「認識と行動」は、感覚器官と情報処理能力、そして行動能力の進化(環境に応じた適応)によって多様な動物の生存(行動)様式をもつ動物種として地上に出現してきました。動物の生存様式の定向的進化(神経系の大進化)は、人類において最高度に達し情報処理器官としての大脳の発達をもたらしました。この状態は「言語による情報伝達と認知能力の飛躍的発達」となり創造(想像)力を高め、人類の文化と文明の発展の原動力となったのです。

 さてこの適応生存能力は自然選択によるのか、それとも生命の主体的な選択(生命選択)によるのか、今までも今西錦司による自然選択説に対する批判的議論がありました。「生命言語理論」は、今西の問題意識を継承しています。つまり、生命も自然の一部であるとは言え、自然から特化して生命が誕生したのであり、その生命の主体的生存力を自覚することなしに、人類や言語の起源を論じることはできないという考えです。西洋の合理主義思想においては、総じて生命や人間を、「不死の神々」(ギリシア神話)や「創造神」(ユダヤ・キリスト教)、または「自然法」(古代ローマ、近代合理主義)の支配下にあると考えてきました。 「生命言語理論」では、このような西洋思想の限界性を克服し、新たな人間生命中心のものの見方考え方を提供しようとするものです。これは、理性中心の近代ヒューマニズムの限界を超えるものでもあります。詳しくは上記『人間存在論―言語論の革新と西洋思想批判 』をご覧下さい。

 結論として、ダーウィンの『種の起源』の表題は、次のように改めて全面書き直しされるべきなのです。すなわち、ON THE ORIGIN OF SPECIES BY MEANS OF ADAPTIVE SELECTION, OR THE PRESERVATION OF FAVOURED RACES IN THE ADAPTATION FOR LIFE.(適応的選択の方法による種の起源について、すなわち生存のための適応における有利な種族の保存)となります。ここで「適応」とは、個体と種族を取り巻く環境に対する闘争と平和共存を含みながら多様な生存様式、すなわち多様な形質をもった種の生態学的存続をめざすことを意味します。

*<エピジェネティックな遺伝――獲得形質も遺伝することがある>

「長年にわたって、真のエピジェネティックな遺伝はありえないとされてきた。これまでは、精子や卵子が作られる段階でエピジェネティックな特徴はすべて取り除かれ、それでも残っていたエピジェネティックな付着は、受精直後のリプログラミングで除去され、新しい世代はどれもエピジェネティックには白紙の状態から出発すると考えられてきたのだ。しかしながら、近年、エピジェネティックな特徴はリプログラミングによってすべて消えるわけでないことがわかってきた。環境的要因が誘発したものなど、エピジェネティックな変化の一部は除去されず、次の世代に伝えられるのである。」(リチャード・C・フランシス『エピジェネティクス 操られる遺伝子』野中香方子 訳ダイヤモンド社2011 p105-106)

※注:エピジェネティック(epigenetic)とは、「後成的」と訳し、生物の形質や構造は、発生の過程において次々に新しくできあがっていくもので、最初から仕込まれているもの(アリストテレス由来の前成説)ではないという後成説(epigenesis)の考え方にもとづく。学問としてはエピジェネティクスと言う。エピジェネティックのエピは「後または上」、ジェネティックスは「遺伝学」、あわせて「遺伝を修飾・調整・制御するような」という意味の形容詞。

*<言語と文明発展>

 言語は、生命進化における生命の最高の創造物(認知・伝達手段)であり、人類文明発展の原動力となった。すなわち、言語は、分節可能な音声信号を用いて、生命の基本的欲求としての「認知欲求(好奇欲求)」と「表現・伝達欲求(共存欲求)」を実現すると同時に、自らと環境を創造的(自己保存的)に制御し、文化と文明の発展を促すことになった。

■ 自然選択説批判と主体性進化論の要旨(ダーウィン進化論の克服)

① 自然(環境)は無限に変化し、生命の生存にとっては適・不適(有利・不利、快・不快、苦・楽)の状態をつくります。これがすべての生命の実相です。

② 生命は、自然に対して最適の生存様式を主体的に選択し、偶然的変異を含めて不適な自然を克服するように適応変異する能力を持ちます(有限性に留意⑥)。

③ 生命の適応(生存・変異)選択の基準(目的)は、「個体と種族の永続的生存」であって、その有利不利を自然が選択するのではありません。

④ 生命の突然変異の多くは中立的であり、個々の生命の適応選択の基準によって生命が修復・選択して適応性を維持します。

⑤ 生命進化の方向性は、環境への最適応であり、動物においては「刺激受容⇒選択判断⇒反応行動の高度化」すなわち「神経系の発達」です(定向進化)。

⑥ 生命の適応選択は、自然の無限の変化に対し有限的であり、選択の失敗や種の絶滅を避けられません。現存種の多くは、現在の環境に適応しています。

■ 生命言語説における普遍文法の成立と構造(チョムスキー普遍文法の転換)

①生命をとりまく環境は、生命にとって無限の対象とその刺激であり、複雑多様な運動性と関係性の変化・変転状態を保ちながら、多様な生命にとっての生態系として相互依存(縁起)的に成立している。

②生命(動物)は、種の特質に従って環境世界の無限の刺激を認識し、生存の維持・欲求の実現のために模倣・学習・洞察(判断・思考)しながら反応・行動する。

③人間は、音声言語によって刺激対象(名詞・what)とその状態(動詞・形容詞・how)を区別・記号化し、対象名詞を主語(主題)、状態動詞(形容詞)を述語として結合・再構成し、世界(刺激・情報)を言語記号的に把握・叙述・表現することができた。

④人間は、主述関係(句構造)を基本として世界を表現・叙述し、知識を構成・創造することによって物質的・知覚的・直接的・動物的世界だけでなく、時空を超えた創造的・文化的世界に生きるようになった。言語と文法の本質は、人間による世界の再構成と創造である。