スミスの道徳論批判
生命言語説による「道徳経済論」の試み
―アダム・スミス『道徳情操論』批判 : 個人原理・同感原理・観察者原理・理性原理・性善説・社会契約原理という「功利主義の限界」を越えて、人間として社会的に生きることの意味と望ましい経済活動の原理を探る―
―『道徳情操論』の「共感原理にもとづく適宜性道徳」は、『国富論』的世界の確立のために経済活動から道徳性を排除または隠蔽し、自由競争と経済成長、すなわち格差拡大を伴う営利追求に専念できる道を開いた。―
―スミスの推進しようとした自由主義市場経済は、利己的公益(互恵)主義の欺瞞性によって人間の精神性や徳性を破壊し、さらに人類の平和で持続的な生存を危うくしている。―
「感情の本性やその力や、或いはまた、それにたいする精神の統御力やについては、私の知るかぎり、まだ一人としてこれを決定したひとあるを聞かない。」
「三つの感情<喜び・悲しみ・欲望>以外に私は、他の基本的感情を認めない。すなわち、ほかの一切の感情は、この三つから成り立つのである。」 (スピノザ『倫理学<エティカ>』高桑純夫訳)
「スミスが有名な『国富論』を発表したのは1776年。イングランドで産業革命が起こり、飢餓と劣悪な健康状態、そして経済的な不安定の解消が大きく前進しはじめた時期のことだ。これらの条件が満たされることは、豊かな社会への第一歩である。この産業革命の時代以降、ヨーロッパと北米の豊かな国の所得は(浮き沈みの波はあったが)全体として右肩上がりで上昇し続けている。世界の経済生産は、人類の歴史の最初の2000年はごくわずかしか増えなかったが、18世紀後半から19世紀前半を境に、突如として目覚ましいぺースで増加しはじめた。・・・・・
物質的な豊かさは、思想にも大きな変化をもたらした。豊かさを味わい、力がみなぎってきた人々は、自分たちが新たにいだくようになった自信に対して理屈と根拠を与え、それを補強したいと思いはじめた。こうして、個人主義の考え方が定着していった。これは、人がみずからの運命を自分でコントロールすることを重んじる考え方である。みずからの運命をコントロールする責任の側面を強調する論者もいるが、過度に単純化された個人主義は、コミュニテイ意識や助け合いの精神を否定する考え方になってしまう。」(J・マドリック『世界を破綻させた経済学者たち』池村千秋訳)
「スミスの立場の道徳上の誤謬はつぎの点にある。すなわち,スミスの立場は,直接的で具体的な悪を受け入れることによって間接的で抽象的な善を得ることかできるという理由から、直接的で具体的な悪を受け入れるようわれわれに強く勧めるのである。論理上の誤謬は,スミスも彼のいかなる後継者もどのようにして私的利己が公的利他に転換するかを厳密かつ強固に論証することができなかったことにある。スミスの推論の心理上の欠陥は,その推論は資本主義的発展の実際の諸帰結――とくに,もっとも耐えることのできない人びとへの、犠牲の徹底的な無理強いという帰結、そして、社会の人びとを相互に分断する不平等の容赦なき再生産という帰結――を全面的に否定するという方策を必要とする点にある。」(D.K.フォーリー『アダム・スミスの誤謬―経済神学への手引き―』亀崎澄夫 他訳)
「新しい現実に合致した道徳科学が今求められている。その道徳科学は、現代の宇宙論や哲学がすでにそうなっているように、迷信や宗教的なドグマや形而上学的神話を排除した科学なのであり、同時に、人間と人間の歴史に関する透徹した知識が、人間の胸裡に吹き込んだより気高い感情とより輝かしい希望に満ちた科学なのである。」(クロポトキン『相互扶助再論』大窪一志 訳 )
<はじめに>
近代西欧で成立し、社会・経済・政治等の分野で今日も大きな影響を与えている個人主義と社会契約論は、アダム・スミスの『道徳情操(=感情)論』『国富論』において一応の完成をみたと考えられます。しかし、現代社会の諸問題を解決するに当たって、これらの近代西洋の社会科学理論の限界が明らかとなり、世界は閉塞と混迷の状態にあるのではないでしょうか。この難局を乗り越えるには、人間の認識能力の意義と価値観の根本を「生命言語説」によって根源から問い直す必要があります。そこで近代西洋思想の限界がどこにあるかを明らかにするため、『道徳情操論』の基本的観点を吟味・批判します。
<道徳の根源>
道徳の根源は、生命原理からとらえると、地球環境の多様性のなかで「個体と種の存続」という基本的欲求(動因)と、「快楽の追求と不快の回避」という感情反応の二つの動物的・生理的本能にあります。そして、人間原理としての言語獲得にともなう創造と想像の力による欲求と感情の拡大・多様化(執着化・豊饒化)、すなわち文化・文明の発展・過剰・対立・混乱を制御・調整する必要から、それらの課題や問題意識に応じて道徳・倫理の体系が形成されてきました。
人間以外の動物の行動様式は、自然の厳しい法則や現象に支配されますが、人間は自然の法則や現象を言語的に認識・解釈・再構成して、自ら創り想像した知識や道徳・制度・慣習に従い行動し生存活動を行っています。2万数千年前に絶滅したとされるネアンデルタール人などの旧人段階では、死者の埋葬が行われていましたが、これは死者との永遠の関わりや死後の世界を想像し、生者の日常生活に何らかの道徳的影響を与えていたものと推測できます。約20万年前に出現した現生人類では自然の脅威や力に何らかの意志や命令・意味を感じ取り、自然崇拝や霊魂の存在を信じ、自分の行動の善悪を判断し道徳規範として日常生活を送っていたと思われます。
四大文明の成立前後には、自然崇拝(多神教)にもとづく体系的な「神話」が創られ支配者・権力者(王・祭司・神)の「権威づけ(威圧)」に利用され、また庶民や奴隷の従属意識を形成することにもなります。その後、文明間や民族間の交流や対立・混乱を通じて哲学的な考察が進んで、抽象的な唯一神や輪廻(リンネ・生まれ変わり)や天命思想等が生じます。そのような多様な思想の展開の中で特定の思想家や宗教家、ソクラテス、釈迦、孔子、イエスなどが出現し、世界のそれぞれの地域に広められ、二千年を越える道徳的価値観の支配的潮流となってきました。
<西洋近代思想と限界の克服>
しかし、世界史は、西洋において教会と封建領主の支配体制が崩壊していくとともに、近代の科学的認識と基本的人権(個人主義ヒューマニズム)の思想をベースにして、市民革命と産業革命を成し遂げ、民主的政治と資本主義的経済が確立することになりました。この潮流は、植民地政策によって世界に広がり、帝国主義列強の対立から、20世紀には2度の世界大戦を引き起こしました。しかしその間、民主主義と経済成長は進展し、先史九んこくを中心に社会福祉を充実させようとする社会民主主義国家も出現しました。そして20世紀の後半には、経済の成長拡大による資源の枯渇や環境破壊等によって地球的「成長の限界」が認識され、縮小社会の到来が21世紀の課題として意識されるようになりました。それとともに人間についての認識が深まり、人間の本質を言語とすることによって今までの学問の難問とされた知識や心の問題が解明されることになったのです。それが「生命言語説」です。
「生命言語説」は、西洋近代思想の政治的経済的基礎を創ったジョン・ロックとアダム・スミスの人間観・社会観を批判し、人類にとっての新しい展望を開きます。両者は、現代の政治的民主主義と経済的資本主義の理論的基礎を創った哲学的巨人と言えますが、巨人といえども時代的な制約による限界があります。ロックは、人間の心は「白紙」の状態で生まれ、生得観念としての絶対確実な知識を否定し、人間の道徳的原則についても「生得の実践的原理は一つもない」と言い経験論哲学の創始者とされました。彼は造物主(神)の存在を否定しなかったのですが、「現世で遂げられるもの甘んじること」また「この世での私たちの務めは、何でも知り尽くすことではなく、私たちの行為にかかわりあるものを知ること」(『人間知性論』大槻春彦訳 第1章序論)と、現実(現世)主義的な人間観を確立しました。
スミスもロックに習い、当時カルバン派の厳格な信仰・道徳と闘いながら現世的な道徳原理を求めました。それはロックが道徳の生得原理を否定したため、「(神の)見えざる手」は留保しつつも、キリスト教道徳に欠けている現世的普遍原理を求めて、「共感(sympathy)原理」を基軸にした『道徳情操論』に到達したのです。両者の限界は生得性の否定の限界を、ロックの場合には「理知的被造物」への信頼(性善説)による社会契約におき、スミスもまた、自己保存的欲求よりも性善説的な「共感原理・同胞感情」による自由放任経済の推進を主張することになったのです。
<普遍的道徳のための基本原則>
そこでまず『道徳情操論』を批判するわれわれの基本的・根源的観点を簡単に明示しておきます。
道徳の根源は、自然の秩序から逸脱するような過剰で反適応的な欲求や感情反応を抑制・制御し、他人や社会の共存共栄や安全調和を維持・継続できるように、欲求や感情を知的に創造・促進することに始まりました。動物は自然の秩序に従いますが、人間は自然の秩序を空想や科学技術の力で逸脱しがちです。
例えば、神仏の創造による人間存在の意味づけや人生苦からの救済、戦争における科学兵器による大量殺戮等は、人間の創造力による自然からの逸脱の好例と言えます。だから、人間自身の理性と智恵を駆使し、知識情報と衆議を尽くした選択・判断によって、人類すべての永続的な幸福と安心・平和を確立できる人間的秩序を創造する、人類に共通普遍の道徳が必要になるのです。
そこで、科学的・縁起(相依)的認識と新しい普遍的道徳を再構成・創造するために、われわれが基本原則とする人間精神(心)の考え方(認識論・心理学)は次のとおりです。
① 従来の先哲・宗教家のとらえたすぐれた人間理解と救済思想を継承し、現代社会の課題に適合する新しい人間観・救済観・道徳観を確立する。この事業は誰かが為さねばならないし、誰もがこの事業に参加することができ、また強制を伴わないで行う必要がある。
② 新しい人間観(知識)は、科学的検証に耐える内容でなければならない。そのために人間にとって知識とは何か、また科学的知識とは何か(科学とは何か)の解明(認識論)が必要である。このような認識論の解明の鍵は「言語」にあると考える(言語認識論)。
③ 言語認識論は、知識の究極的主観性・相対性・経験性を明らかにする。しかし同時に、人間間の相互理解のために知識の科学的普遍性・基準性・共通性・平均性・法則性が共有されることが必要でありかつ要請される。
④ 知識は言語的構造によって体系化され、人間精神(心)や行動に価値と意味を与える。人間精神に対する意味づけは、かつては、心身(物心)二元論として肉体と対立的にとらえられることが多かったが、今日では脳科学の発展によって心身を統一的にとらえることができる。
⑤ 精神(心)は、肉体とともにあり「個体と種の維持存続」(欲求充足)のために、大脳の進化と言語の多様化と文化の発展にともなって進化・成長してきたものである。人間の精神は、動物的・肉体的・生理的な「欲求」と「感情」、そして人間固有の「言語」によって構成される(心の三要素)。
<スミス『道徳感情論』批判の観点―性善説的感情論批判>
批判の基本的観点: 人間にとっての道徳は、スミスのように感情的・共感的原理が基本となるのではなく、まず知的理性的原理の解明が必要である。感情は、知的言語的情報(知識)によって大きく左右される。歴史や文化、社会的立場、科学的知識の変遷が道徳的感情内容を変える。スミスの「公平な観察者the impartial spectator」(『道徳感情論』初出Ⅰⅰ5)による道徳感情は、歴史的相対性と社会的立場(交換の不等価性や利害)に対する知的理解を欠き、公平性と永続性を保障できない。「見えざる手 an invisible hand」(同上Ⅳⅰ)」に、政治経済の現在と未来を委ねては、真実を見通す認識力に「神の智恵と善性 the wisdom and goodness of God」(同上Ⅱⅲ3)という偏見を生じさせ、人類に不可逆的な災厄をもたらす。
① 同感(sympathy共感・同情)は、仲間(家族を含む)との親しさや弱者への優しさ・憐れみだけではなく、喜怒哀楽や、適不適・善悪・賛否という肯定的・否定的判断を含む。
② 仲間(連帯・同胞)感覚・感情fellow-feelingは、親しい仲間から異質な他者を排除する感情(嫉妬・憎悪:否定的感情)も含み、道徳的なだけでなく反道徳性を示すこともある。
③ 同感に伴う仲間感覚・同胞感情は、同胞集団とその構成員の安全と存続という「基本的欲求」にもとづくものであって、道徳感情の背景に「生存欲求」があることを考慮すべきである。① 同情(共感・同感)は、仲間(家族を含む)との親しさや弱者への優しさ・憐れみだけではない。
④ 自他の行為の是認・否認(善悪・美醜等の判断)は、社会心理学的な欲求・感情と共に、社会科学の発展や人類社会のあるべき姿のような知的価値観(人権宣言等の普遍的知識)に左右される。
⑤ 「共感原理にもとづく適宜性(propriety)道徳」は、『国富論』のために経済活動から知的道徳性を排除し、自由競争と経済成長、すなわち格差拡大を伴う営利追求(利己主義)に専念できる道を開いた。
⑥ 道徳行為としての欲求や感情の抑制・制御は、自然法則(見えざる手)とみなすのではなく、個体と種の存続という欲求実現のための自然と人間社会に対する知的理解(人間存在の意味づけ・合理化)によると考えるべきである。(例:原始宗教から民族宗教・世界宗教、そして哲学思想等の観念・知識と社会制度や慣習のすべては人間言語による創造世界――イデオロギー形態である。)
⑦人間の「交換性向」は、諸個人の価値観の相対性を基本に、人間的欲求の無限性から生じる。(例:人間の二次的欲求は、異質な他者(環境)との交流を通じて成長・発展・多様化する。)
⑧ スミスは、「交換性向」によって発展してきた市場経済には、交換情報の非対称性から生じる不等価交換の不正義を質す「交換的正義」が必要であることを理解できなかった(利己的公益主義信仰)。
<スミス道徳論批判の基本>
以上がスミス道徳論批判の前提です。その要点は、スミスの「共感・同胞感情」(情動passion・感情feeling)は、「欲求(欲望)desire」という生物学的にプログラミングされている認識・行動の基本的動因driveによって動かされているもので、人間道徳の基本は、生命欲求の解明(科学的知識)からはじめなければならないというものです。
つまり、人間は、「欲求としての自己保存と種族維持」(※注↓ )を実現する(根本動因)ために、外的刺激に対する「情動・感情」反応が起こり(主に快不快の感情反応・判断)、またその感情を動因(快を求め不快を避ける)として行動するというように、欲求を情念・感情から明確に分離するのです。それによって、「生命とは何か?」「生命の存在意味とは何か?」を明らかにし、「人間はいかに生きるべきか?」という生きることの意味と道徳的課題の根源を確定することができるのです。(時代的制約によって、スミスにとってはまず経済的功利的快楽が幸福追求の課題でした。)
欲求は「個体と種の保存」という生存の意味を問い、感情はその意味を反応的に判別(快不快)し、言語はそれらを意味づけ統御する(知的理性的働き)のです。人間精神(心)が、<欲求、感情、言語>(心の三要素)によって成立しているというのは、人間は欲求を充たすために行動し、行動の基本的判断を感情が示し、言語がそれらを意味づけ方向付けているということなのです(詳細は「心の構造」を参照)。その意味で人間は自らを、与えられ生かされているのではなく、今生きており、これからも生きなければならない存在であると知的に意味づける必要があるのです。
そこではじめてスミスが道徳の基本であるとした「共感・同調」の概念の限界が明らかになります。
◇ 道徳は感情だけでなく、心の構成要素である欲求と言語(知識)を加えることで始めて、人類にとっての普遍的道徳となる。 すなわち道徳欲求論、道徳感情論、道徳言語論を科学的に総合構成することで、人類社会の道徳精神(The moral mind, moral spirit)の基礎となり、社会的に応用することができる。『道徳情操論』における同感にもとづく適宜性原理は、知的吟味を欠くために人類に普遍的な道徳にはなり得ず、また経済活動においては市場の欺瞞性を容認するものとなる。
「商業の導入は常に誠実と几帳面(の徳)がそれにともなう」(『法学講義』)というスミスの認識(知識)は、交換・取引の非対称性にともなう強者(富者)の欺瞞という「市場の欠陥」を隠蔽し、利己主義を助長する自己責任、欲望解放、競争原理を解放・推奨して、人間の徳性・善性を劣化させる。『道徳感情論』の「共感原理にもとづく適宜性(propriety)道徳」は、『国富論』のために経済活動から道徳性を排除し、自由競争と経済成長、すなわち格差拡大を伴う営利追求(利己主義)に専念できる道を開いたのである。
※ 宗教においては、創造主によって生きることを命じられ、仏によって生かされており、天によって運命が定められているというような絶対者による「完全他力の思想」が大勢を占めています(原始仏教はこれらと異なります)。しかし、これは生命の実相からすると、必ずしも正しくありません。
人間は、自らの不安定で悩みの多い人生を、何らかの確実性や安定性を得られるように意味づけるため、絶対的な存在を想定して、彼らによって援助と救済を可能にする神話・教義・物語を創作してきました。生命存在について科学的理解の十分でない時代や、単純な救いを求める人には、それで不安や苦悩を克服する力が与えられたかもしれません。
しかし、科学の時代である今日では、そのような思想は通用しません。とりわけ人間の本質である言語の解明によって、生活上の不安な心や苦悩を克服する方法(心を強くする方法)は、よりわかりやすく確実に説明することが可能になっています。
<欲求概念の重要性>
西洋哲学ではアリストテレス以来、心理学や認識論による精神の分析が行われてきました。スミスの先輩となるイギリス経験論のホッブス、ロック、ハチスン、ヒューム等においても、情念と感情の詳細な解明が行われています。しかし、情念や感情の反射・反応的側面が、欲求と分離されずに動因と混同して扱われ(「感情について」参照)、生存における欲求の根源性が軽視されています。「欲求の解明」は、生命の起源に遡るものであり、人間を神の被造物と考える西洋の哲学・倫理学においては考慮の外にあったものです(唯物論では認識論・観念論を放棄するので論外となる)。
欲求と感情の違いは、生命・動物の存在や行動の本質を理解するのにとても重要です。というのも人間の動物的側面(欲求と感情)と人間的側面(言語の認識論的側面)を理解するのに、両者の分離を明確にする必要があるからです。動物の欲求と感情は、直示的知覚で認識能力が限定されて刺激反応的に機能しますが、人間の認識は言語的認識によって想像的・創造的に機能します。つまり、他の動物にはない人間の本質である言語は、情念・感情の必要から進化したものではなく、社会的生存を有利にするために、個体の認識内容を社会的に的確に伝達したいという欲求を充足させる必要(伝達と認識の手段として)から進化したものだからです。生存を困難にする複雑な自然環境をいかに的確に認識し仲間に伝達するかは、有利な生存のための必要条件なのです。認識は好奇心欲求から発達・進化しますが、情念・感情は欲求充足の基準を示すものであり、その基準に従って行動の強弱、遅速、終結・持続が決まるのです。
<功利主義出現の背景>
西洋的世界観において道徳的価値観のもとにあるのは合理主義であり、人間の課題を解決するには理性による情念・感情のコントロールが必要でしたが、スコラ哲学的観念論では、アリストテレス的理性支配を徹底させようとしてきました。それに対し、イギリスの現実的経験論では、理性を相対化するとともに厄介な情念・感情をコントロールするために情念・感情の分析が必要になりました。しかし、感情の基本は快不快(快苦)の原則がありますから、快を求め不快を避けるために、結局は、「功利主義」を追求せざるを得なくなります。ニーチェが「目的(人生の意味)が欠けている」と嘆いたのも、神(=理性)への信頼が揺らぎ、虚無主義を避けようとすれば、残るのは実存主義か、功利主義またはプラグマティズムに向かわざるを得ないのです。
◇ 生命生存の目的は、種の繁殖か、それとも種の維持・存続か? (※注↓)
スミスは、『道徳感情論』において「植物の機構や動物の身体の機構において、個体の維持と種の繁殖(the support of the individual and the propagation of the species)という自然の二大目的を進捗させるように万事がいかに巧妙に工夫されているかを見てわれわれは驚嘆する。」(米林訳p205)と述べています(第二部第一編末の注では support of the individualをself-preservationとしています)。
ここでこの二大目的のうち「種の繁殖」という表現については十分な吟味が必要です。<the propagation>は生物の繁殖・増殖を意味する自然的事実ですが、生命存在の意味・目的(生命言語説による生命論)から吟味すると、生命・種の存続(個体の維持・永続性)にとって、「種の繁殖」は環境の不安定性・生存の困難性(適者生存・弱肉強食)に対応するための方便であり、それ自体が目的ではなく、「生命の維持・存続」自体が目的であることが強調される必要があります。
つまり、生命存在の目的は、太古の原始生命として地球上に出現した生命の生存状態の維持であり、繁殖the propagationや種の多様化・進化についても、その目的のための手段に過ぎないということであって、スミスの考えるような繁殖が第一義的目的ではないと言うことなのです。事実としての繁殖(子孫を増やすこと)は、地球という特殊な環境の多様性・複雑性・変化性に対して生命が適応する手段または方法と理解することが必要なのです。その意味で、創造主が地球の有限性を無視して無条件で「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と言うのは誤りなのです。
これは「生命とは何か?」、「種とは何か?」また「種の起源the Origin of Species」や「進化とは何か?」を考えるうえで、そしてまた西洋的個人主義的や功利的人間観から成立した『道徳感情論』を批判的に検討し、仏教に見られるような東洋的生命観をふくめて、臨床心理学的に「人間の道徳性とは何か?」を考えるのに極めて重要です。
参照 ダーウィン自然選択説批判
<人類と高等動物における感情・情動と共感・同情について>
高等動物(特に哺乳類・類人猿)における感情――情動と表現するのがふさわしいが――は、「個体と種の生存維持」のための「欲求を充足させるという目標」を実現しているかどうかの判断基準を示すものであり、動物の生存のための活動様式の多くは、生得的でなく、生後の授乳や養育を通じての学習・経験によって習得的に獲得していきます。その基本は、個体と種の維持のための、食欲、安全欲、生殖欲などの欲求が充足されれば快反応、不充足であれば不快反応という、快・不快の情動反応によって示され、その反応にもとづいて、快であれば休息行動となり、不快であれば更なる摂食・避難・性行動等が続行されることになります。生存活動すなわち欲求を充足する行動の過程で、快・不快の様々な肯定的あるいは否定的感情反応が起こり、それらの反応が行動の達成(判断)基準となるのです。
人類の場合は、快・不快の感情反応は、言語を獲得することによって言語記号(情報)刺激による記憶と創造性の飛躍的増大に伴い、「欲求と感情の拡大と抑制が進む」ことになります。「欲求と感情の抑制」とは、自然の脅威や人生の不如意(四苦八苦)についての不安や恐れによって欲求が十分に充たされないこと、そのために呪術や祈祷、神や仏への帰依・服従、または来世における救済と永遠の生命という観念的世界(教義)に永続的快(幸福)を求め、日常生活に宗教的・道徳的制約・慣習を設定し、社会の秩序を維持してきたのです。
また、「欲求と感情の拡大」とは、抑制と同じく言語的情報の創造・増大によって、欲求と感情の働きにおける「快を求め不快を避ける生理(動物)的過程」は、観念的心理的な想像力によって増幅・装飾がおこなわれ、より快適で、より不快の少ない物質的精神的目標をめざすようになりました。またそのことによって社会的(文化的・二次的)欲求や感情も複雑になり、その実現のための自然の改変、文化の興隆、生産力の発展も追求されるようになりました。さらに人種や民族間の交流・交易・戦争を通じて、社会的・政治的権力が成立し、自らを神格化し、宗教的権威を利用し、またそれらのイデオロギーを独占支配して欲求・感情をコントロールし、情報・知識の独占教化を通じて人民を抑圧・支配しようとしてきました。
したがって、感情・情動反応は、スミスの考える共感・同情・憐れみ等の「同胞感情」のように、人間の社会的行動にとっての(道徳的)動因とはなるものの、「欲求」という根源的な動因を「感情」から区別せずに論じると、「生命と人類の維持・存続」という道徳の根源(生命への配慮)にとって最も重要な欲求が除外されてしまいます。その結果、時代と社会的状況の変化に左右され、不規則的になりやすい(正邪善悪・快不快・賞罰などの社会的)感情の変化を道徳的価値観の基底におくことになり、「共感・同感・同情」(=公平な観察者原理)のような「見えざる手」に任せざるを得ない自由放任的道徳になってしまうのです。また、身体や財産を侵害された被害者の憤慨に対して、社会の正義を確立するために、「公平な観察者の同感原理」を基準にすることによって、近代の自然法論理による正義の法の原理を、個人主義的功利性(ヒュームの功利的合意)に基づいているとして批判することになるのです。
つまり、われわれにとっての道徳の根源とは、ヒュームの功利的合意でも、スミスの共感原理=公平な観察者原理でもなく、「生命言語説」という科学的認識にもとづく「知識と理性的判断」にあるということです。この知識は、心の構造を明らかにし、心に欲求と感情そして人間を人間たらしめる言語の役割を意味づけ、人間行動の抑制・制御と幸福の追求を確実にする役割と智恵を含んでいます。そして、『道徳情操論』と『国富論』にみられるスミスの道徳経済論が、実は、人間の経済活動から道徳性を排除するものであり、今日の世界的繁栄をもたらす起動力となっていることに(歴史的)意義はあるものの、同時に、道徳性を無視した過度の排他的営利追求や格差の拡大、貧困や戦争の温存、環境汚染・資源の浪費、そして何よりも人間性の破壊と社会の腐敗の蔓延は、マルクスを含むスミスの後継者達に責任の多くがあるのです。
★ 経済学から道徳性を排除した経済学の父――アダム・スミス。彼の道徳観と政治経済学を批判することなくして未来への展望はない。まず、人間の道徳は感情がひとつの原理になるとしても、知識や理性的判断が基本原理になることを自覚しなければ、「人間の」道徳とはなりがたい。人間の欲求や感情は、正しい知識に導かれてこそ、その道徳性が発揮されるのである。
アダム・スミス 『道徳情操論』批判 へつづく(作成中)