新古典派経済学批判

メンガーの主観価値説は等価交換を否定したが、同時に経済学を矮小化した

C.メンガーは、経済学におけるオーストリア学派(限界効用学派)の祖であり、限界効用理論の創始者として、近代経済学の創始者の一人に挙げられます。彼はスミス、リカードウ、マルクス、ミルなどの古典派経済学の労働価値説(客観的生産費説)に異議を唱え、主観価値説を提唱した。ここでは価値論に関して表題の観点に限って説明します。

「価値は、財に付着したものでも、財の属性でもなければ、自立的な、それだけで存立している物でもない。価値とは、具体的財が経済活動を行なう人々にたいしてもつ意義であり、この財がそれを獲得するのは、自分たちの欲望の満足いかんがその財(の支配)に依存していることを彼らが意識しているからである。それゆえに、人間の意識の外には存在していないのである。」(メンガー,C.『一般理論経済学』八木他訳 みすず書房 第5章価値の理論p163)

引用文の通り、メンガーが価値の主観性(意識性=欲望)を主張するのは正しいのです。しかし財(商品)の価値が、市場において個人的なものか社会的なものかの区別が明確にできないことは、西洋思想上の限界を超えていません。労働価値説(スミスやマルクス)のような客観的価値説は、個々人の主体的判断の過程を捨象する誤りを犯していますが、メンガーの主観価値説も、「人間の意識(欲望)」を社会的に一般化することによって、「交換価値」の社会的平均的価値性(価格に現れる)がどのような意味を持っているかの解明を見逃すことになっています。

メンガーは個人的意識(価値)と社会的平均的意識(価値)の区別が明確ではありません。「自分たちの欲望」「人間の意識」のような漠然とした意識では、財の使用価値や交換価値(価格)の意味を明確にすることはできません。交換価値(価格)は、「人間の意識の外には存在していない」のではなく、意識の外に創られた社会的平均的基準として数値的に存在している のです。個人にとっては主観的であっても、社会にとって平均的に数値化できれば、それを客観的であると表現できるのです。メンガーの主観・客観の混乱から、次のような意味不明の結論が出てきます。

「『使用価値』も『交換価値』も、本当は、財がわれわれの生命および福祉にとってもつ前述の主観的意義に他ならない。『価値』という一つの一般的現象の特殊な諸形態にすぎないのである。したがってこうした用語法は二重の誤謬をはらんでいるものである。第一には、「使用価値」が価値一般と混同され、第二には、徹頭徹尾主観的な存在である交換価値が、『ある財との交換により手に入れらる諸財の量』と混同されているのである。」(前出p165 原注)

この引用で下線部(引用者による)「一つの一般的現象の特殊な諸形態にすぎない」というのは、両価値の違いを全く理解していないことを示しています。使用価値は個人的な価値観・価値評価を示しますが、交換価値は社会的・平均的価値評価を示しており、ある時点におけるある市場のある商品価格(相場)のことです。ところがメンガーの理解では、交換価値も使用価値と同じように「徹頭徹尾主観的な存在」なので、たんに市場の交換に出される主観的価値を持つ商品にすぎないことになります。だから「交換価値」を、「ある財との交換により手に入れらる諸財の量」という価格によって示される売買量と「混同」しているという誤った解釈になるのです。財(商品)の価値は、いかに主観的であっても、社会的取引(市場での売買)において定まる交換価値(すなわち価格)は、国産小麦粉1㎏200円のようにある場所ある時点における社会的に平均的な量的評価として客観的に定まるのです。

次に「等価交換」について明確に批判していることは評価できます。

「等価という現象の本質、ないし、この等価の概念に関しては、最大といってよいほどの不明確さが、われわれの科学の中に横行している。・・・・・

一財が、ある特定の主体にとってもつ価値の尺度=度量がどれだけになるかは、財価値を定める諸契機の個々の経済ごとの特殊性に応じてきまるのであり、またこれらの諸契機の変化につれて変動せざるをえない。固定的な価値とか、固定的な価値関係[等価関係―引用者]というものは、したがって、それだけでも一個別経済に関してすら、すでにありえないことであってそれが多数(の経済)の場合に関しては、いうまでもない。したがって、いま想定されたような等価の概念の把え方が間違いであることは、一見するだけで認識できる。」(前出 第7章価格の理論p307)

メンガーは、価値の本質を主観的とみなしたため、主観的判断を越えて交換を支配する法則(等価交換法則)が存在するとは考えませんでした。しかし社会的平均的評価である価格(交換価値)は、市場における交換(等置)の結果として等価的なものと見なすことはできます。この交換成立(等置)過程の「等価性」(現実には不等価性)の分析をしなかったため、交換当事者間における「情報の非対称性」や「力の強弱関係」によって生じる欺瞞性を追求することはありませんでした。交換当事者双方が、自分の商品価値を高めより多く利益を上げようとすることが、交換の動因であることは市場(需要供給)経済学の原点ですが、その過程の分析にはいたりませんでした。つまり価値の主観性と市場価格の平均性で満足することによって、交換における当事者事情(情報の非対称性を含む力関係)が捨象され、価値判断や公正性への配慮を放棄してしまったのです。

市場における交換・取引は、交換当事者の双方の情報の非対称性すなわち力関係によって大きく左右されます。その典型が労働市場に現れます。生産手段の所有者である強い立場の雇用主(資本家)と労働力しか持たない弱い立場の労働者の関係がその典型です。技術革新や創造的な新商品の開発者、さらに独占的商品を製造する企業などは有利な立場になります。公正な交換の評価は、メンガー達新古典派の経済学者が考えるよりもはるかに難しいものです。単純な数式の需給関係で説明できるものではありません。

犯罪性の有無・法の遵守は当然であるとしても、商品の情報は粉飾可能であるし、それを見破ることは難しいのです。それを承知で創られた独占禁止法等の経済法や労働基準法などの取引ルールは、経済活性化の意義もありますが、道徳的な要素が強いものです。しかし、メンガーたち新古典派の経済学者が、価値の主観性を限界効用という概念で合理化(数学的に処理)することによって、交換における道徳性を排除することになったのも事実です。

その結果、メンガーの創始したオーストリア学派に出自を持ち、経済活動の利己的放任性(利己的公益主義)を推奨する新自由主義は、すべてを市場競争に任せるべきだと主張します。彼らは、資本主義的市場競争がもたらす所得格差や不況・恐慌に伴う失業や貧困などの社会的摩擦や矛盾を、市場調整と経済発展(繁栄)に必要不可欠のものとして歓迎します。勝者が存在するためには、敗者の犠牲が必要なのです。新自由主義の旗頭ハイエクは、敗者(大衆)の犠牲、結果の不平等を正当化して、次のように述べています。

「少数者によって享受され、大衆が夢にも見なかった贅沢または浪費とさえ今日思われるかも知れないものは、最終的には多数の人々が利用できる生活様式の実験のための出費である。試行され、後の発展するものの範囲、全ての人に利用可能になる経験の蓄積は、現時点の利益の不平等な分配によって大幅に拡大する。つまり、最初の段階に長い時間を要し、その後に多数がそれから利益が得ることができるならば、前進の割合が大いに増加するのである。・・・・・・今日の貧しいものでさえ自分たちの相対的な物質的幸福を過去の不平等の結果に負っているのである。」(ハイエク『自由の条件Ⅰ自由の価値』気賀、古賀訳 春秋社 p66)

ハイエクは「現時点の利益の不平等な分配」は、のちに大衆にも利益を及ぼすと考え(トリクルダウン[おこぼれ]理論)ました。この欺瞞に満ちた理論は高度経済成長が見込めた時代には現実的であったかもしれません。しかし成長の限界が明白な今日21世紀にあっては、金持ちの法外な利得を正当化し、政治的社会福祉政策(ケインズ主義の一面)への努力を愚弄するものでしかありません。

つまり、古典派経済学だけでなく近代経済学においても、市場交換が等価であるか否かに関係なく、経済学自体の問題意識が富の生産と分配の法則的理解にのみ関心を持ち、財や品物(goods)が公正な交換(人間関係)を通じて、真に価値ある善(good)として社会経済のなかにもたらされているかどうかは、考慮の外(自生的秩序)に置かれていたのです。その意味で、ハイエクの経済学(または社会哲学)は、成長を前提として捉えてきた経済学をさらに恣意的に矮小化し、人類の持続的生存の可能性を狭めることになっているのです。

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