生命と言語をめぐる対話

(11)生命の本質と細胞質  投稿日: 5月22日(日)

Bunkouさん、生命についての根源的な議論を深めていただいたことを感謝します。生命をどのように考えるかは、意識や言語の役割、人間の価値観や生き方をも決めるものです。

 「本能」は、「遺伝子が持つ生命の基本的なプログラムまで還元できる」というのはとても刺激的な命題です。私もまた生命論の出発点として、動物の本能的な行動の方向性を明らかにするために、「生命の基本的なプログラム」がどのようなものであるかを知る必要があると考えます。しかし、その基本的なプログラムが、「遺伝子にあるのか、それとも細胞質(と膜)にあるのか」が重要な問題になります。これは昔、生命の根源を論じるときに「蛋白質が先か、核酸が先か」という問につながりますが、科学的解明は不十分なので、Bunkouさんと同じように「想定論理」(「仮説」よりも気軽に使えそうなので、うまい表現です)で述べてみます。

 結論から言うと、「生命論」「生命の基本的なプログラム」を考えるとき、RNAワールドが蛋白質を合成し、細胞を構成するという通説を、直ちに「生命の本質」に導くのには疑問があります。というのも、単にRNAと蛋白質が存在するだけでは生命とは言えず、それらが細胞膜によって取り込まれ、外界とは独立した代謝系とRNA-DNAの制御系が生命細胞には必要だからです。生命の本質は、遺伝子(RNA-DNA)による細胞(蛋白質)製造だけでなく、その遺伝子を養い制御する細胞膜や細胞質の構造、その構造を維持存続させる自立的代謝系の活動そのものにあるのです。つまり、生命細胞の存在意義は、まず蛋白質を中心物質とする個体を維持し、次いでその個体が種族として存続することです。個体の維持は、細胞膜と細胞質によってなされ、種族の複製・増殖(細胞分裂)は、遺伝子(DNA)の働きによります。しかし、DNAをコントロールするのは、DNA自体ではありません。DNAは、単に遺伝情報(蛋白質合成情報)をもつだけで、個々の細胞質内の誘導物質(条件)が、DNAの情報を活性化します。多細胞動物のクローンを作る場合、DNAは必ず卵子(の細胞質と膜)を必要とします。そして、すべての細胞(質)は、原始生命(おそらく原核細胞以前で、RNA-DNAの働きは不明)以来、変異や進化はあっても、40億年の連続性を保っています。

 以上のことから、生命の本質は、細胞の複製(RNA-DNAの複製)や増殖にあるよりも、蛋白質の合成と代謝による生命状態の存続にあるということです。その上で生命状態を存続するために、老廃物の蓄積(老化)を克服し、多様な環境へ適応する必要から、細胞分裂や増殖という遺伝子複製を伴う過程が進化したのです。私は、細胞質と膜よりも先にDNA(蛋白質合成情報)が存在したとは考えません。たとえ同時に存在することが、生命状態の存続を安定にすることがあっても、遺伝子(DNA)よりも、細胞質(膜)が生命の根源であり、細胞質が遺伝子を養っていると考えています。これは通説とは異なる私の「想定論理」であり「仮説」ですが、DNA中心の合理的生命観とは、はっきりと異なっているのが特徴です。

 この想定は、私の生命観の根源となっており、かつて注目されたドーキンス流の「利己的遺伝子」という考え方──自己複製をするDNAが、蛋白質・細胞を作り出し、自己の存在場所とした──には賛同していません。また単細胞動物(アメーバーなど)にとって、環境からの刺激にどのように反応するかは、DNAにはほとんど関係なく、もっぱら細胞膜と質による外界とのエネルギー代謝と細胞維持の働き方が、行動の基本になります。単細胞から多細胞になって細胞の機能が分化しても、行動の基本は、外界の刺激情報を認識して、個体維持(内的平衡と安全)を図ることに変わりありません。高等動物の欲求とは、個体維持と種族の維持であり、欲求充足の基準(欲求のフィルター)は、快・不快(の情動・感情)によって自動的(本能的)に規制されます

 そこで、高等動物にとって問題になるのは、外界に対する「認識─判断(快不快)─反応」の過程が、神経系の発達によって精密となった反面、蓄積(記憶)された情報の誤認識や情動・感情それ自体が認識を誤らせる可能性が、増大したことです。「言語」は、人間の文化と文明を創造し繁栄をもたらすと同時に、その誤認識・誤判断を増加させる最大の要因となってきました。生理的な反応である幸福感や満足感、喜怒哀楽の感情が、特定の言語刺激(神!仏!地獄!等々)と結合することによって、有害な世界を想定することになったのです。

 過去の宗教やイデオロギーは、言語を誤用することによって、生命本来の意図である維持存続を危うくしてきました。過度の競争や殺戮は、憎しみや不信や利己心を、言語的に助長扇動して起こされたものです。情動や感情は、記憶を推進し、認識判断の基準となる価値観を形成します。肯定的な感情と言葉を結びつける経験を多く持った人は幸いです。憎しみの感情は「サタン」と結びつき、慈しみの感情は「マリア様や観音様」と結びつきます。意識の豊かさは、豊かな感情経験と結びつき、言葉による経験・記憶の強化が、宗教的信念を作ります。言語の合理性は両刃の剣です。情動・感情は細胞質的であり、遺伝子DNAは言語的です。言語についてよく知ることが、情動と感情さらに人間の欲望をコントロールするのに役立ちます。

 私は、Bunkouさんの言われる潜在意識の本質は、様々の経験と結びついた情動と感情の世界だと理解します。潜在意識には肯定的感情(快、安心、愛など)に色づけられたものと、否定的感情(不快、不安、憎など)に色づけられたものがあります。高意識とはおそらく肯定的感情を含むものであり、潜在意識の中でそれを意識化し拡大し言語的に強化することが、これからの思想や宗教に求められると思っています。

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(12)生命の本質、東洋的単純さ  投稿日: 6月5日(日)

 Bunkouさん、生命の根源について述べることはとても微妙な問題であることがあらためてわかりました。まだ科学的な定説のない状態で、「仮想論理」にせよ気軽に起源を想定することは、新たな神話を創ることになり、思考の限界を超え、また誤解を招くことにもなります。

 例えば、「私は、細胞質と膜よりも<先に>DNA(蛋白質合成情報)が<存在した>とは考えません」と述べています。それに対しBunkouさんは、私の「仮想論理」を「<たんぱく質の集合>である細胞質(膜)における、外界とのエネルギー代謝と細胞維持が生命の基礎であり、その環境の中で<後に>、RNA、DNAなどの自己複製システムが<生まれた>」とされています。しかし私は、「同時に存在することが、生命状態の存続を安定にすることがあっても」と、必ずしも「前後関係」を明言していません。私の曖昧な表現が誤解を招いたと、反省しています。また、<たんぱく質の集合>と<生まれた>という表現も使用しておらず、誤解されているようです。<蛋白質の集合>というのは正確には<蛋白質を含む原始海水>ですし、<生まれた>というのはRNA-DNAの存在を<取り込んだ>というのが正しいと思います。

 つまり、私の言いたいのは、生命の本質は、蛋白質とRNA-DNAという合理的化学物質(反応)だけでは説明ができず、「遺伝子を養い制御する細胞膜や細胞質の構造、その構造を維持存続させる自立的代謝系の活動そのものにある」ということなのです。細胞質や膜は、生命を誕生させた原始の海水にも似て、蛋白質以外の多くの物質を含みます。ある物質は化学反応を制御する触媒ともなります。このような原始生命システムの実験的な再現や科学的解明は、極めて困難です。その困難性を克服するためにBunkouさんが、「命素」や「生命神」を想定しようとされるのはわかるのですが、思考をそこで切断してしまうことになるのではないかと危惧します。むしろ我々人間は、生命の起源の科学的(合理的)解明とは別に、多様な種という生存形態の違いはあるけれども、40億年の生命性の維持の意味を考え、われわれ自身の身体に内在している生命性(生命細胞の意味)を自覚し、「生き続けなければならない」と共感することが求められるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、生命の起源についての謎は謎として残らざるを得ないのですが、DNAが生命(の構造)をコントロールするという考え方は、西洋的合理主義にもとづくものです。東洋的観点から見ると、生命は有限なDNAが本質的なのではなく、無限の可能性を秘めた細胞質(膜)とその活動こそが、生命の本質なのです。DNAの可能性は、数学的なコード(暗号、論理)にすぎないのですが、生命活動そのものである細胞質は、無限の環境に対して無限の適応の可能性をもっているのです。だから、膜によって環境から「半自律」している細胞質(生命そのもの)に従うDNAが生命の主体なのではなく、多様な無限の環境から独立して代謝系を維持しようとする細胞質(膜)の働きこそが、生命活動の本質ではないかと考えるのです。

 「謎を謎として残す」ことは、東洋的なものの見方に通じます。老子は『道徳経』第1章で次のように述べています。

 「道可道非常道。名可名非常名。無名天地之始。有名萬物之母。故常無欲以觀其妙。常有欲以觀其徼。此兩者。同出而異名。同謂之玄。玄之又玄。衆妙之門。」

 (道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべきは常の名に非ず。名無きは天地の始め、名有るは万物の母。故に「常に欲無きは、以ってその妙(謎)を観、常に欲有るは以てその徼(キョウ=結果、論理)を観る。」此の両者(無名と有名)は、同じきに出でて而も名を異にす。同じきはこれを玄(神秘)と謂い、玄のまた玄は衆妙の門なり。

 生命の根源は、「命素」や「生命神」と名づけることができるかも知れません。しかし、それは「妙」や「玄」を含んでこそ意味をもつようにすべきです。有限である知性(言語・論理・ロゴス)は、無限を捉えることは不可能です。

 断定的な物言いになりましたが、「単純教」の論理が東洋的なので、共感しつつ自説を述べてみました。

 

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(13)生命の起源と想像力  投稿日: 6月19日(日)

 Bunkouさん、私には、生命の起源について確信の持てる化学的生物学的知識がありません。想像力は知識の集積を通じて説得力のあるものになります。しかし、不十分ながら人間存在を明らかにするために、生命とは何かについての、ある程度の確信が必要です。

 そこで「細胞質(膜)が先かRNA-DNAが先か」という問題意識から考えることにしました。細胞質(膜)の主たる構成物質は蛋白質なので、「蛋白質が先か核酸(RNA-DNA)が先か」という問の方がいいのかも知れませんが、蛋白質ワールドはまだ生命とは言えません(化学進化の段階)。また、生命活動が存在しないのにRNA-DNAワールドが生命活動をする蛋白質情報を持つことは考えられません。私は、密かに、生命活動の基本は蛋白質にあり(ある種の蛋白質群の触媒作用が命の素になりうる?)、RNA-DNAによる複製を制御していると考えています。

 生命細胞の中心となる蛋白質は、20種類のアミノ酸が結合しているもので、生体内ではRNA-DNAの情報と、蛋白質製造工場となるリボソームによって容易に製造されます。しかし、蛋白質の製造はアミノ酸の結合なので、生体(蛋白質、RNA-DNAなど)がなくても実験(原始地球)的に生成可能です(化学合成)。原始の海において、蛋白質を中心とした微少液胞の中で自立的にエネルギー代謝が可能になり、核酸を取り込んで、自らを複製するようになったと考えられないでしょうか。

 自律的エネルギー代謝を生命活動の中心におくと、蛋白質を主成分とする細胞質がRNA-DNAを取り込むことになりますし、自己複製(蛋白質製造)を生命の基盤と考えるとRNA-DNA中心主義になります。おそらく、今後も両者の関係を決定づけることはできず、細胞質(蛋白質)の自律的代謝(個体維持)と、RNA-DNAによる蛋白質複製(種の存続)の融合のメカニズムの探求が続けられることでしょう。私は、最初の生命は微少な泡のように個体死を繰り返しており、そのうちに蛋白質の巧妙な機能によって液胞に吸収された核酸を取り込み、種の存続(持続的蛋白質合成・複製)が行われるようになったと考えています。

 以上の私の想像は、一見論理的ですが実証的ではありません。と言うより、生命の起源や宇宙の起源、物質の根源などの究極の問題については、人間にとっては解明不可能というのが私の立場(不可知論)です。人間は大自然に対してはあまりにも微妙な存在です。微妙な存在ですが、この地球という特殊な自然に生き続けなければならないのです。人間という生命は、言葉によって自己の存在への認識を深め、自己の存在を合理化し、この地上に生きています。どのような地球、社会、人間としてこれから生き続けるのか、我々はDNAのみによって運命づけられているのではなく、DNAを越える力(細胞力=生命力)を持っているのです

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(14)生命性の自覚  投稿日: 7月 3日(日)

 Bunkouさん、生命とは何か、生命の誕生はどのようなものであったか、という微妙な問題に、大胆な提案をされていると感心しています。『単純教』の主張でもそうですが、構想を整理することや、新しい用語を創ることにおいて、優れた能力を持っておられると、あらためて感服いたします。

 「命素」や「命環系」という用語は、生命のシステム(系・秩序)やバランス(調和)を重視されている今までの主張からよく理解できます。その上で、新しい用語(概念)の内容について質問と意見があります。

 ① 「この世のすべての現象は、『確率』と『偶然』の結果」という表現について。これは議論を始めた当初から疑問に思っていました。人間(動物)の認識の基本は、常に結果(現象)についての原因(何がどのようにあるか)を求めようとするものですが、結果や原因を明確にすることが困難な現象も多々あります。生命の誕生や宇宙の始まりなどの原因を特定することは極めて困難です。それを単に、「確率」や「偶然」の結果と断定できるのでしょうか。確率(probability)や偶然(acccident)は、具体的対象として存在しないので、ただ形容詞的に使用するのにとどめるべきではないでしょうか。条件的な制約(再現不可能性)があって実証的に確定できない原因は、むしろ人間の認識能力の限界を示すものであって、あくまで仮説の段階にとどまるべきではないでしょうか。

 ② 「液胞にエネルギーが入り込んだとしても、通常、反応は短絡で終わってしまいます。」と、「いくつかの液胞を含んだ、大きなおおよそ閉鎖された系」という表現について。前者の液胞は、エネルギーを物質として過剰に取り込み、また地熱、太陽熱などによっても持続させることは可能です。後者は、可能性としてあり得る仮説です。液胞の重複は、化学ワールドにおいて、より濃密で複雑な反応を可能にします。しかし、「系(生命系)」の成立は、あくまで系自体の中で、独立して代謝する無数の自律する「個体(細胞膜・質)」の成立と捉えるべきでないでしょうか。

 ③ 「生命循環系」という用語と「自然や他人や子孫のためにしか生きられない」について。「生命循環系」の内容は基本的に賛成です。しかし「循環」の意味についてはもう少し具体的な説明があればと思います。私は生命の「共生共存」という意味で捉えました。後者については、人は「自然や他人や子孫の<ためにしか>生きられない」からこそ、言語を持つ人間は、それを知識として意識的積極的に「自然や他人や、子孫のために生きなければならない」と思うのですがいかがでしょうか。

 「私たちに生きよと命ずる力」は、私たちの認識の結果として、私たちが自覚的に知識として獲得した(まだ獲得していない人は獲得すべき)ものです。西洋的思考習慣はこのような生命としての自覚を制約するものでしたし、東洋においても「生きよと命ずる力」を、自然との一体化の中に解消してしまいました。混迷する世界に希望を見いだせるのは、「私たちに生きよと命ずる力」の自覚、しかも外的な絶対者(神のごときもの)の意図や命令ではなく、私たち自身の内なる生命性の自覚である、と私は考えています。いささか我田引水となりました。このような思索ができることを感謝しています。

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(15)確率は、因果関係を特定しない  投稿日: 7月25日(月)

 Bunkouさん、「確率」と「因果関係」という微妙な問題への説明をありがとうございます。確率が因果関係を特定できず、形容詞(副詞)的な説明しかできない、という私の説明に多少とも同意していただいて「やや」安心しました。

 「やや」というのは、

① >この世の中の現象全てが「偶然」と「確率」で説明できないとしたら、残るは「絶対」となります。<という主張について、「絶対」的因果関係は確定できなくても、「仮説」的因果関係がわかれば当面は、満足すべきではないでしょうか。この世のすべての現象を、何かの原因を見つけて説明する必要はありません。科学者は、この世のすべての現象(運動)から、好奇心や必要に応じて問題意識を持ち、仮説を立て真実(法則)を追究します。私は、「偶然」や「確率」は因果関係を特定しないので、仮説には当てはまらないと考えます。だから、「偶然と確率」(の因果関係)を、「絶対」(的因果関係)と比較はできないのではないでしょうか。

 私たちに「絶対」と言えるのは、今ここに生きているという事実だけではないのでしょうか。私たちが言葉によって意味づけようとするものは、「絶対」という言葉も含めて、究極的には主観的相対的なのではないでしょうか。言葉は、生きているという事実、生きなければならないという生命の事実を意味づけ、世界の現象を言語的に再構成(理論化、法則化)しているに過ぎないのではないでしょうか。

② >私が唯一認める「絶対」は「現象やものごとの原因はいろいろあるが、その因果関連が偶然や確率で説明できる」ということで、これは仮説でなく「絶対(真理)」と思っています。<という主張について、「確率」でわかるのは「相関関係」までであって、因果関係までわかるのでしょうか。例えば、サイコロで6のでる確率は1/6という説明ができますが、「なぜ6が出たのか」という因果関係を完全に説明できるのでしょうか。まして「偶然」という概念では、因果という具体的な関係を説明できないばかりか、どのようにすれば科学的に解明できるか、という問題の本質をわからなくしてしまいます。「偶然」は便利な言葉で、科学的必然が明白ではない場合に、「それは偶然に起こったんだよ」と、事実を覆い隠す役割を果たしてしまうのではないでしょうか。

 新しい宗教や思想を構築する場合、つまり、人間存在とは何か、という問に現代的な解答を与えようとする場合、「すべてを疑え」というデカルトの命題が正しいなら、「疑う(考える)こと」における言葉の役割(意味)を、まずはじめに解明する必要があります。言葉(論理)とは、生命にとって何であるのか。また、人間は何のために言葉を用いるのか。・・・・・・・・私たちが言葉を獲得する過程から考えると、言葉の主観性を超えることは、原理的にできません。だからこそ、言葉(特に新しい言葉)を使う場合には、十分な吟味が必要です。

 また当初の議論に戻ってしまったようです。「単純教」は思考の訓練に役立ちます。暑い夏は、爽やかな「単純教」を読みながら、頭を冷やして思考の訓練をしたいと思います。私は現在「環境問題」「成長の限界」について問題意識を持っています。この問題を「単純教」の「気の流れ」が、どのように解決しようとするのか、地球環境のバランスをどのように維持しようとされるのか興味を持っています。

 また機会を見つけて投稿させてもらいます。さらなるご健筆を期待しています。

http://www.eonet.ne.jp/~human-being/

 

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(16)生命性の絶対と言語的認識の相対  投稿日: 8月11日(木)

 Bunkouさん、今回の議論は、今は昔になってしまった「言語(論理)」の未解決の議論を思い出します。前の議論の要点は、「論理構造は、人間の言語的認識以前に、自然界に存在しているかどうか」というものでした。①私は、自然の論理構造は人間の認識の結果、言語的に創造されたものである、と言いました。②Bunkouさんは、論理構造は人間の認識以前に、自然に存在しており、人間によって認識(発見)され、言語的に表現されたものである、と主張されました。

 今回は、「因果関係」について述べられていますが、因果関係は論理によって示されますから、以前と同じことが問題になっていることになります。「何が、どのように、なぜ存在するのか」という問は、存在(自然現象・認識の結果)とその原因または理由、すなわち因果関係(縁起)を問うものであり、主語・述語として論理的に解明し表現されます。

 ①私の主張の根拠としては、日常的可視的な世界(生命存在の世界・リンゴの世界)においては、論理と認識を確定できるが、ミクロとマクロの世界においては、自然対象自体の論理や因果を確定できない(不確定性原理)、というものでした。生命(人間)は、化学反応のような因果と論理(作用反作用、刺激反応性)の世界に生きています。従って、人間の言語的認識は、自然の中に生きるために、現象(存在・環境)の因果関係や論理や意味を追求します。言語的問が追求されても、それが解明(認識)されないと不安になります(何でやねん?)。人間の不安の最大の特徴は、疑問に答えることができないことです(例えば「人間は何のために生きるのか」)。

 そこで私は、>言語(論理)の重要性を認識し、相対化することによって、その相対化を越えたところに宗教・信仰を見いだすことが、新しい宗教(そして哲学も)の必要条件だと思います。<と答えました。つまり、言語(神や論理・因果)を超えたところ、例えば「持続的幸福(解脱)」という心的状態や、「自律的自己」そのものに、平安や安心や心の拠り所を求めるべきではないかというものです。これは仏教の始祖である釈尊の思想に近いものです。

 ②それに対しBunkouさんは、>ここで二つの疑問がでます。「重要なのはものごとの論理構造であり、言語はその道具にすぎないのではないか」と「言語で全体の論理構造が表現できるか」という点です。(2003/10/11付)<と、認識における言語の重要性について疑問を述べておられます。Bunkouさんにとっては、この微妙な問題はまだ解決されていないと思います。

 私の考えでは、言語は論理構造を表現する「道具」ではなく、言語が論理構造そのものなのです。つまり、生命(生きるための認識と行動)の構造は因果の論理によるが、それを認識するのは人間の言語構造(5W1Hへの解答・命題)です。言語が捉える論理は、生命の生存次元(確定可能な宇宙=電磁波・光・重力が基準)を標準として道具となっているに過ぎません。だから当然、因果関係の複雑さ(複雑系)だけでなく、ミクロとマクロ(超電磁波世界)を含めた全体の論理構造を、言語(数学を含む)によっては確定的に認識・表現できないのです。

 従って、生命的次元で因果関係(論理構造)を確定(実証)できる場合は、「確率、偶然」による「因果関係の絶対」と言える場合があるでしょうが、あくまで条件(制限)付きにされた方が無難だと思います。物理化学の法則は、実証性を前提にしており、具体的な適用は慎重であるべきです。重力の法則も、ミクロやマクロの次元では不確定です。「絶対」という概念は、人間の創った言語的気休めに過ぎず、この条件であれば必ずこうなるという程度にとどめるのが無難ではないでしょうか。(もっとも、日常的にはそこまで厳密にする必要はないでしょうし、仮説的な論理─想定論理は必要ですが)

 すでに読まれたかも知れませんが、『タオ自然学―現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる』(F・カプラ著, 吉福 伸逸他訳 工作舎)は、東洋的な発想を、自然科学の分野に応用しようとしていますので参考になると思います。是非読んでください。ただこの理論は、具体的な生命の次元を無視して、「アレフ」のような神秘主義の導入にも使われるので注意が必要です。

・・・また昔の議論をしてしまいました。宗教や哲学には、言葉における厳密性が必要であると思うのです。いかがでしょうか。

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(17)人間は、夢幻(知識)の世界に生きる  投稿日: 8月20日(土)

 Bunkouさん、お互いの主張の違いは、平行線や間違いということではなく、観点の違いから生じていると思います。認識論や存在論は微妙な問題を含むので明快さには限度がありますが、少しおつきあい下さい。我々は、専門家の議論ではないので、仮想論理としてクールな議論ができます。楽しみながら、しかもシビアーに私の主張を述べてみます。

 まず「自然の論理構造」について、私の見解を述べます。

(1) 自然には、人間の認識能力を超えるミクロとマクロの現象(構造)がある。

(2) 自然の構造は、測定限界を超える現象については確定できない。

(3) 事実を確定できない現象における因果関係の解明は、たとえ確率論的な説明でも、実証的科学的に確定的な解答を示すことはできない。

(4) 測定可能な現象は、一定の条件のもとで、因果関係を含めて論理的に説明できる。しかし、それは自然の構造のすべて(ミクロとマクロを含む)が、論理的構造であるというのではなく、人間の興味や関心(問題意識)に従って、自然の一側面に限って、言語を用いて論理的、因果的に説明したものにすぎない。

(5) 私にとって「自然の論理構造」とは、認識の結果としての知識であり、人間の認識能力に合わせて、言語的論理的に創造され構造化されたものです。人間の知識は自然の一面を創造、再構成、論理化したものに過ぎません。(私は、自然自体・物自体・対象自体と、認識の結果としての論理・知識を、区別します。Bunkouさんは、おそらく「自然自体の論理構造」の絶対的存在を主張されています。これが観点の違いだと思います。)

 以上の観点から、Bunkouさんの①~④について意見を述べてみます。

 

①<自然の論理構造は、人(主観)によって捉え方が違う>

 私の言う「自然の論理構造は、人間の認識の結果、言語的に創造された」というのは、Bunkouさんの例示された「エサと臭いと犬」の論理構造から説明できます。つまり、犬がエサに気づいたのは「エサの存在」(原因)と「臭いの漂い」(結果)という因果的「論理構造」ではなく、臭いはエサの存在そのもの(属性)であることから、犬自身は「臭い=エサ」に気づいて行動を起こしたのではないでしょうか。エサと臭いの因果は人間の論理的判断ですが、犬自身は「臭い=エサ」を原因として「行動」(結果)したのです。エサと臭いを論理構造として区別できるのは、言語を持つ人間の特権です。また「物は下に落ちる」という論理構造は、地球上とか、空気より重い場合という条件を認識した上で、Bunkouさんが創造的に構成された論理(知識)です。自然の論理構造は、人間の様々な認識条件(言語、光、ミクロ、観測装置等々)に左右されて、創造的に構成されたもの(知識)なのです。

② <ミクロとマクロの不確定性は、人間の認識能力の限界を示す>

 まず誤解されると困るのですが、私は「ミクロとマクロの世界に不確定なものがある、ゆえにすべてのものや現象が確実に論理構造または因果関係にあるとは言えない」と、Bunkouさんがまとめられているようには主張していません。私は「ミクロとマクロの世界においては、自然対象自体の論理や因果を確定できない。」と記述しましたが、因果関係を否定するような発言はしていません。「自然は因果関係がある」ということと、「因果関係を確定できない」とは全く次元(観点)の異なる問題です。前者は主に存在論の問題ですが、後者は全く認識論の問題です。ミクロの量子の運動にも、当然のことですが因果関係はあります。しかし、それを確定するのは人間の認識能力ですから、当然のことですが限界があるのです。

 また、物理学の素人である私には、Bunkouさんの「ミクロやマクロの世界に『非論理構造、非因果関係』と言うものが存在するなら、この連続した世界全体が不安定で存在できなくなる」という意味がよくわかりません。「非論理構造、非因果関係」というのは、おそらくBunkouさんの造語であろうと思われますが、私の言う「自然対象自体の論理や因果を確定できない」とは意味が違います。量子力学の不確定性について、アインシュタインと論争したニールス=ボーアは、「相補性」という概念を用いていることはご承知のことと思います(『N.ボーア論文集Ⅰ 因果性と相補性』 山本義隆編訳 岩波文庫)。つまり、量子の粒子性と波動性は相互に干渉し、一定の因果関係を定められないということです。因果関係が無いのではなく、確定できないということです。不確定性原理は「今の人類の観測技術では、存在が確定(理解)出来ない」ということではなく、「位置や運動量」が確定できないということです。光や電子、素粒子などの量子の存在は確定され、理解はかなり進んでいます。

 さらに「光は粒子とも波長とも確定できませんが、存在しています。『光は粒子であり同時に波長である』とすれば確定できるのと同じです」というのは、量子力学における不確定性とどのような関係にあるのか、主張の意味がわかりません。最後の「ミクロもマクロも論理構造があり、そうでなければ連続した世界すべてが不安定で存在できない」という主張もわかりにくいです。というのも、私の考えは、「世界は、不安定な存在である」「生命は、不安定な世界に存在し、安定な生存を求めている」「言語を持つ人間は、安定な生活を求めて、世界を論理化する存在である」というものだからです。これは何かが「間違い」というより、さらに議論のできる問題と考えるのが建設的だと思いますがどうでしょうか。

③<言語は認識の道具であり、世界を論理化する道具です>

 Bunkouさんが言われるように、言語が世界を理解する道具であるのは当然ですが、それに限らないのが言語の特徴です。世界を理解するには、世界を認識し論理化し再構成しなければなりません。世界の現象を正しく認識するには「何がどうあるか(5W1H)」(存在、状態、原因・理由、時空等)の確定が必要です。人間は、知覚によって、観測装置も使って、現象を認識します。しかし、量子的な世界では5W1Hは、確率的にしか説明できません。量子次元での5W1Hを確定できません。古典物理の現象のように観測の対象や基準を確定できない以上、量子運動(現象)における「確率的構造」は存在するとしても、「論理構造」として認識することはできません。

 物理理論には時空の確定が必要と考えていたアインシュタインは、N.ボーアの不確定性の主張に反対しましたが、観測の限界を理論的にも実証的にも打破することはできませんでした。確率的因果理論では、「今ここで」サイコロの1が出る論理構造を確定できないと同様に、量子の世界でも因果性や論理構造を確定的に説明できないのです。基本的に確定(認識)できないのに、どうして論理構造が存在すると断定できるのでしょうか。

 ということは、論理構造とは、、人間の言語を用いて対象を確定する認識の結果であって、結果(認識)の不可能な現象に「論理構造」があるというのは、信仰または仮説に過ぎないと思うのです。

 Bunkouさんと私の主張の違いは、以前にも触れたように、哲学や科学的認識論の領域ではよく知られている問題です。従って、一般的にはどちらが正しく、どちらが誤っているとは言えません。ちなみに、Bunkouさんの主張は唯物論における反映論の立場で、自然に内在する論理(弁証法)が、人間の知覚に反映して認識が成立しているという立場です。Bunkouさんは、唯物弁証法ではないようですが、参考にされてはどうでしょうか。私の立場はカントや現象学に近いようです。

④<人間の言語的認識は、主観を超える絶対的なものではない>

 Bunkouさんの「ものごとが絶対に存在する」「しかし人がその論理構造を『完全に』理解することは出来ません」という主張は、わかりやすいものです。しかし、一つ一つの言葉を吟味していくと、定義上の問題があることがわかります。まず、「ものごと」は、リンゴのような知覚的物質は問題がありませんが、「生命神」や「気の流れ」になると、「論理構造」はあっても、実体は明確でなく、絶対とは言えません。「存在」についても「ものごとは絶対に存在する」というのは、Bunkouさんの判断であり、言語的認識(知識)ですから、知識である以上「直接」知覚できないので絶対とは言えません。

 また、「論理構造」は、具体的に説明を求めれば、人によって捉え方が違い、しかも言語的認識にならざるを得ませんから「絶対」とは言えません。さらに、「完全な理解」は無いわけですから、「絶対の存在」と言っても、個々人(主観)によって、理解する存在構造が異なることになります。「ものごとには人間の理解(言語)に関係なく、論理構造が存在し、それは絶対である」と言われても、「論理構造」は人間が理解(認識し言語知識と)してはじめてわかるのだから、やはり絶対とは言えません。まして、私のように違う主張があれば、「絶対」は、Bunkouさんに賛成する人たちだけのものとなります。私の主張である「究極的に絶対的な知識(言語的認識の結果としての知識)は存在しない(直接的知覚対象の存在は絶対です)」も、賛同する人もなく、私の肉体も滅んで、HPから消えてしまえば、単なる自己満足、自己主張のための「夢幻」の知識であったということになります。

 Bunkouさんの言われる「絶対の存在」は、お互いが知覚(観測)できる対象を前にして、確認できる場合に限られ、一度言語化するとそれは主観から独立した知識となります。その知識(言語)が絶対として了解できるのは、観測事実の再現性(実証)を信じる場合だけです。私の知識(「言語論」)に再現性があれば人々は信じざるを得ませんが、そうでなければ「夢幻」に終わります。

 私には今、Bunkouさんの目の前にリンゴが存在しているかどうかを確認できません。しかし、存在していることを信じることができます。生命神や気の流れについてはどうでしょうか。論理構造についてはどうでしょうか。「絶対」はどうでしょうか。「言葉は一人歩きをする」と言います。言葉はそれを使う人(主観)に固有の意味をもち、勝手な解釈が可能であるということです。言葉はそれを使用する人(主観)にとっては絶対であっても、その意味を共有できない人にとっては「夢幻」にすぎません。しかし、私やBunkouさんの言葉が「夢幻」であるとしても、それで人生を豊かに送ることができれば、それはそれで十分な意味をもっていると思います。

 しかし、多くの人々は、そのような慰めの言葉で満足するでしょうか。もちろん満足しないでしょう。だから哲学や宗教が存在するのです。だから言葉による人間存在への疑問と追究が行われてきたのです。言葉は単なる理解や伝達の手段ではありません。言葉は人生や人間存在そのものであり、人間を存立させるミラクルパワーなのです。

 以上、出だしは調子が良かったのですが、暑さで脳みその緊張が続きません。だらだらと長くなってしまいました。違いは違いとして、理解してもらえる内容になったか心配しながら返信します。

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(18)認識と言語──パラダイムの変換  投稿日: 9月 5日(月)

 Bunkouさん、丁寧な反論をありがとうございます。二人の主張の違いに白黒をつけ、真実を確定しようという強い意気込みが伝わってきます。前にも述べましたように、私には、この議論は、東洋思想と西洋思想の対立という次元で受け止めています。東西思想の対立もBunkouさんとの主張の違いも、今までの常識では止揚や克服はできず、新しい観点(パラダイムの変換)が必要であると考えています。

 私の考える「新しい観点」とは、言語が、伝達・思考・記憶の手段であるばかりでなく、「生命にとって言語とは何か」「言語(的知識)は、認識と行動にとってどのような役割を果たすか」という問から出発し、以下のようになります。

(1) 人間は言語を用いて、生きるために認識(思考)し行動する。

(2)「認識の結果としての知識(命題・論理)」は、世界を言語によって構成(創造)し、人間の存在と行動を制約する。

(3) 言語的認識は、対象を指示(主部)し、対象の状態や対象間の関係を表現する(述部)ことによって成立する(5W1H)。

(4) 対象の言語記号化は、本質的には主観的である。しかし言語記号(言葉)は、主観性と客観性(社会性)の二面性があり、通常は社会的(現象学的には間主観的)に獲得され、個人(主観)的に実現される。

(5) 言語記号の意味は、具体性と抽象性の二面性があり、具体的直接的対象(このリンゴ、この指)は確定しやすいが、抽象的対象(リンゴ一般、指一般)は社会的合意(理解)を得るために、記号の定義(約束)を必要とする。

(6)西洋的合理主義は、言語的認識の主観的な過程(論理化・合理化)を科学的対象として相対化できず、認識の結果としての知識を客観的所与(前提)とみなしたため、非合理的世界の存在を軽視することになった。その結果、一方では、科学的知識によって自然の支配(利用)と文明社会の発展をもたらしたが、他方では、その知識によって人間の主体的感性的な判断を抑圧することになった。

「世界は、私たちには論理的なものと見える。というのは、私たちがまずもって世界を論理化しておいたからである。」(ニーチェ『権力への意志』521)

 以上の前提(観点)に立って、できるだけ簡略に答えてみます。

① 数字(算術)の例。Bunkouさんは、「人の理解に絶対はない」という我々に共通の前提に立ちながら、「自然界には『1+1=2』と言う絶対(真理)が存在します」と断定されています。しかし、私の上記(5)の前提によると、このリンゴ1個・2個、この指1本・2本は「自然界」に存在しますが、抽象的な1・2・3・・・・は「自然界」に存在しません。まして、+(プラス、加えるという認識過程)や=(その結果)というのは、人間の言語的認識(思考)の過程で創造された結果であり、「自然界」には「絶対に」存在しません。一般に数字は「自然界」には存在せず、人間の観念(知識)の中にのみ存在します。前にも触れましたが、幾何学を含めて数学的世界は、人間の創造した「公理」によって成立しています。

② リンゴの例。「リンゴ」という抽象的概念(言語記号)も、「この(赤い)リンゴ、その(青い)リンゴ」という具体的個物を、人間が一般化(抽象)して創造したものです(西洋中世の「唯名論」の立場)。だから、個々の具体的リンゴは存在しますが、リンゴ一般なる物体は主観的観念の中に抽象的にしか存在せず、主観(個人)によってその意味(抽象の内容)は異なります。

 また「その(地上の)リンゴが落ちる」というのは、私が創造的に構成したものではなく、単に目の前の事実を構成(表現)したものです(なぜ落ちたのかは、落ちるという属性があるからではなく、引力の法則による)。しかし、「物(一般的な物、一般的なリンゴ)は下に落ちる」というのは、「地球上」という条件で人間が創造的に構成したものです。宇宙船の中という条件では、「物は下に落ちない」ことになるからです。

 これは決して「屁理屈」なのではなく、言語によって創造される論理構造は、「自然界」に存在するのではなく、人間が様々な言語的条件の下に、対象世界を限定して創造的に構成しているという証明になるのです。(もっとも「論理構造」を、「人間が認識することのできる自然や社会の構造」と定義したり、「自然界」を、「浮力の法則を適用できる領域」と限定して定義することはできます。しかし、認識とは何か、条件付きの法則を「自然界」に対して絶対と言えるのか、という疑問は残ります。)

③ 哲学的観点について

>「リンゴは絶対に存在しています」これは絶対(真実=真理)です。しかし人の理解や認識では「絶対」と言えないのです。どうして絶対に存在していると言えないのでしょう。「絶対」を証明する方法がないからです。<

 私はこの微妙なBunkouさんの表現を理解できます。日常生活でごく単純に使用します。しかし、厄介なことに、哲学では、Bunkouさんのような「実在論」への疑問から出発して、「存在とは何か」「認識とは何か」ということを追究する「認識論や存在論」という分野が成立し、いまだにその解答が出ていません。「絶対性」や「厳密性」を追究するということは、「存在する」や「絶対です」という理解や認識(哲学的には「判断」)の根拠を追究することなのです。

 上の論理でいうと、Bunkouさんは「これは絶対(真実=真理)です」と言われながら「人の理解や認識では『絶対』と言えない」と結論されています。しかし哲学では、「これは絶対です」というのも「人の理解や認識」であると考えます。つまりBunkouさんは「リンゴは絶対に存在しています」という「理解や認識」は、「『絶対』と言えない」と判断されています。この判断(論理構造)を「偏見」「屁理屈」といわれると、私としては非常に困ります。残念なことに、哲学の世界では、Bunkouさんの言われる「人の共有の『知性の整合性』」は成立していません。西洋思想を批判したニーチェはこの件で発狂しましたし、現象学の創始者であるフッサールなどは「判断中止」を認識論の前提にせざるを得ませんでした。

④ 主張の違いについて

 私は、Bunkouさんとの主張の違いは対立ではなく、観点の違いであると言ってきました。私の主張は哲学的なものであり、「数字は自然界に存在しない」とか「このリンゴは存在するが、リンゴ一般は存在しない」など、世間的には非常識の部類に入ります。しかし、錯覚や偏見や詭弁や屁理屈ではなく、科学的で実証性のある首尾一貫した論理構造を持っていると考えています。その根拠は冒頭の言語論であり、これは言語を用いた「人の理解や認識」、その結果としての「命題や知識」を、私流に解明したものです。

 さて、私とBunkouさんの間に、「知性の整合性」(新しい表現?)を共有できるでしょうか。私はできると確信していますが、どうも「論理」という言葉が障害になっているようです。私の考えでは、お互いに独創的な主張の持ち主で、「知性の整合性」を人と共有していないのではないでしょうか。

 Bunkouさんは「論理構造の潜在」を主張されるのに「人の共有の『知性の整合性』」を根拠の一つにしておられます。それならば「知性とは何か」「知性の整合性とは何か」の説明が必要です。私にとって「知性」とは、「人間の言語的認識能力」ということになります。「論理」は、知性によって言語的に構成されます。人間は、言語によって論理的に世界を構成(創造)することによって生存しています。動物における好奇心は、人間においては言語による疑問と論理的な解明によって充足されます。人間は「論理(知識)」によって不安になったり安心したりします。人間は言語を持つがために、心の安定を得るには、世界を論理化せざるを得ない動物なのです。人間は、自然に「論理構造」があるから自然の法則を発見できるのではなく(昔の西洋ではそう考えましたが)、世界を論理化して安心し、世界を支配したいために論理化するのです。

 さて、最後の「膏薬と理屈」の例えは良くできています。どんな(こんな)ところにも引っ付くということがよくわかる例だと思います。

 また長くなりました。今回は思考力が尽きましたのでここまでにします。

 

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(19)言語は人間を支配します   投稿日: 9月20日(火)

 Bunkouさん、根源的な問題への議論を続けるうちに、両者の主張の違いが明確になり、理解しやすくなったことに感謝します。これは粘り強いBunkouさんの思考力の賜物です。

 さて、人間の生きる世界は、生命の中で特殊なものであることは当然ですが、その特殊性は、他の動物にみられるような直接的具体的(知覚的)世界ではなく、言語による構成的創造的な知識の世界であることがはっきりしてきました。人間は動物的生命として物質的(環境)に生きるだけではなく、それ以上に精神的な存在として、自分(個体・主観)の創造した世界の中に生きています。

 私は、私の創造した知的創造的世界の中に生き、Bunkouさんは、Bunkouさんの創られた知的創造的世界の中に生きておられます。それぞれの世界(観)は、HPや掲示板に記載した言葉で(を手段として)創造的に構成されています。しかし、言語は単なる手段ではありません。言語はそれを使用する人の経験とともに、その人自身の世界(知識、価値観、人生観)を形成しています。言語的世界は、その人自身でもあるのです。言語は、その人の認識の経験に応じて世界を抽象化し、その人のために一般化することによってその人を創り、無限の世界の中に、その人固有の有限な世界、すなわち、自己の世界・自己自身・自我を創っているのです。

 なぜこのような主張をするのかと言えば、人間生命にとって言語が単なる手段ではないことを知って欲しいからです。以下に、言語が生命にとってどのような意味をもつものであるかまとめてみました。その後でBunkouさんの疑問に答えます。

 

(1)生命は、無限の環境の中に、有限に生きる

 生命の基本は「細胞」であり、細胞は無限の環境(宇宙・自然・刺激・情報)の変化の中に生きる。細胞は地球という特殊(有限)な環境に誕生し、生命としての連続性を持つ。しかし、細胞個体としては老廃物の蓄積によって弱体化(個体死)し、それを克服するために接合と分裂によって生命力を持続させる(再生)。また無限の環境への適応を拡大するために、進化をおこない、多様な生存形態を創造した。

(2)人間は、動物として環境を認知し行動する生命である

 人間は、まず高等哺乳動物と同様の生存の欲求(個体維持・種族維持)にもとづいて、自然環境(無限の刺激・情報)を知覚し、欲求を充足するための適応的な行動をとる。この際知覚の対象は、種に固有の環境に限定され、環境に応じた固有の生活・行動様式をもつ。例えば樹上の生活、水辺の生活、草原の生活のように。

(3)人間は、言葉で構成した物質的・精神的な創造的世界の中に生きる

 しかし、人間は、直立歩行(自由な手)と言語の獲得によって、環境との直接的(刺激反応的)な関係を超え、物質的・精神的な創造的世界(文化・文明)の中に生きるようになり、類人猿と区別されるようになった。とりわけ言語は、意図の伝達・思考(情報処理)・記憶(情報蓄積)の手段として発達したが、環境を記号化することによって世界を価値的情緒的(心的)に再構成ないし創造し、理念的に生活するようになった。

(4)人間の言語は、内的な信号刺激として自我を形成し欲求や感情を支配する。

 人間は世界を言語信号化し、自己の経験(主観)に従って世界を知的創造的に再構成する。言語信号は、他者からの信号(刺激)として人間の認識や行動を左右するだけでなく、自己自らの内的信号(内言)として自らの感情や行動を制御し、知的な自我の世界を形成する。言語によって構成される内的世界(知識・自我・私)は、知的精神的世界、イデオロギー、世界観として自己の存在を合理化し、正当化する。

(5)人間は、どのような構成的世界(知識)の中に生きることを選ぶべきか

 人間は言語的思考能力によって、自然を利用し社会の秩序を創り、豊かな物質的精神的文化や文明を築いてきた。しかし、無知や偏見、利己心や貪欲によって科学技術は悪用され、環境は破壊され資源の限界性が明らかになってきた。

内的信号刺激としての言語をどのように理解するかは、人間存在についての共通理解を得る端緒であり、自己を理解し、自己の欲求や感情をコントロールする必要条件となる。

 

 以上と前回の要点を前提にして、ご指摘の点について答えてみます。

①数の観念について

 チンパンジーや乳児の「数の観念」は、数字(抽象的言語)を用いる人間の「数の観念」とは異なります。動物的認識における具体的観念と、言語的認識における抽象的観念は明確に区別されねばなりません。前者は、具体的対象を面前におかない限り操作できませんが、人間の言語(数字)は、頭脳における観念のみにおいて内的信号としての操作が可能です。同様に、具体的な2個のリンゴは、一個と一個を加えた(言語的思考)から2個となるのではなく、2個あるリンゴを2個と命名するのです。

 2個あるリンゴは2個あるのであって、「数学的法則に基づいて」2個ある(偉大なる錯覚!)のではありません。加えることの必要なかった未開人(自然人)には数学的法則はありませんでした。「加える」という思考法則は人間の偉大な抽象的創造的知識なのです。数学的法則は人間が存在する以前から存在し、人間はそれを単に発見しただけである、という主張は西洋的な偉大な偏見です。四則計算の法則が人間の創造物であるのは、点や直線(自然界に存在しない)等幾何学の公理が、人間の創造物であるのと同じです。数学的公理は、人間が創造したものだからこそ、そこから構築される数学的法則が絶対的に正しくなるのです。

ただ、このような私の主張は、哲学の世界では常識ではありません。私は西洋的偏見を崩そうとしています。自然(宇宙)の中で人間生命がどのような位置づけにあるのかを、曇りのない目で見ようとするとこのような主張になるのです。西洋的知識の傲慢さと限界は、すでに西洋哲学の限界や科学的知識(ビッグバン理論、利己的遺伝子論等)の中に現れています。

② 無人の世界でリンゴが落ちる。

 「無人の世界でリンゴが落ちる。」というのは、Bunkouさんからみると事実(実在)を述べたことになると思いますが、私から見るとこれは全くの創作になります。リンゴの木と実の構造は存在しても、それをどのように論理化するかは無限の可能性があり、リンゴが落ちるという「論理構造」は、Bunkouさんの興味関心、意図にもとづく創作となります。リンゴの木と実の構造は、無限の論理(表現)を可能にしますが、Bunkouさんの得られた論理構造はBunkouさんの「認識の結果」として、それを認識し論理化したBunkouさんの観念(頭脳)に記憶(情報)として存在するのです。

 確かに「リンゴが木から落ちる」という事実としての構造は、Bunkouさんの信念として自然の中に実在しているでしょう。そして、私も同時に直接私の目でBunkouさんと同じ情景を見て確認しておれば、事実として了解できるでしょう。しかし、その場合は目の前のこの(あの)リンゴであって、上記の例のように抽象的なリンゴ一般(直接的具体的な状況・条件がわからない)であれば、思考・創造・再構成の産物ということになります。

 哲学者カントは、具体的な対象であっても、物自体(実在そのもの)は、認識できないと主張しました。人間が認識する世界は、人間の認識の形式(法則)の制約を受けるというもので、私の主張と似ています。カントは時空の形式と認識のカテゴリーを抽出しましたが、私はより根源的に、生物学的な認識と言語の形式を考えています。Bunkouさんの「論理構造は人の有無しに関係なく、存在(潜在)している」というのは、今日では、私には極めて独創的だと思われます。どのような学問的根拠で言われているのか是非参考書を教えてください。

 

③ 人間主体主義または真理について

 私の主張が人間主体主義であるのはその通りですが、さらに主観主義を加えていただけるとありがたいです。人間は自然と人間に対する認識とその結果について謙虚であるために、人間の「認識の主観性」をまず自覚することが必要です。その上で共通理解を深め広めること、「何がどのように存在するのか」「存在についての我々の判断は正しいのか」という吟味が可能になります。

 人間の認識の法則性とその有限性を自覚することは、新たな自然法則を追求することを放棄することではありません。認識の有限性を自覚することは、人間の傲慢さを制限するのに役立ちます。真実を認識するには、まず人間の認識の本質である言語の役割を理解する必要があるのです。

 「リンゴ」という抽象的な名称(一般名詞・普遍)は、赤い果実に限りません。赤にも多くの赤があり、青いリンゴもあります。自然についての知識や法則は、人によって一定の条件の下で自由に創造的に構成され、具体的に検証(科学的検証)されることによって、人間共有の財産となり「真理」となります。

 「真理」は自然界に存在するものではなく、人間の認識の結果、自然全体の一部を切り取って創造的に一つの知識として構成したものです。「真理」とは、自然現象を説明する知識であり、創造の結果です。だから科学的知識を応用する場合は常に現実の自然との微調整が必要になります。万有引力の法則を量子の世界にそのまま応用できないために、量子力学が誕生しました。光速の世界では時空はゆがんで観測されます。自然はそのままですが、認識(観測)の条件や次元によって自然は多様な説明が可能になるのです。

 知識(言語的創造物)としての真理を、人間の判断を超えたもの(実在・実念論)として理解するのは、人間の認識能力の限界(相対性)を正しく理解できないためにひきおこされた人間の大いなる錯覚・偏見なのです(西洋中世の普遍論争)。

④ 「万有引力」の法則は、創造か?発見か?

 この問に対する私の答は、人間の認識にとって、発見というのは、創造することである、というものです。自然法則は、創造か、発見か、という二者択一的・対立的に問えるものではなく、ある一定の条件の下で成立する知識なので、創造的に発見したものというべきなのです。私は「人は死ぬ」という生命法則を発見しました。これは私の創造した論理構造(命題・知識)ですが、今のところ真実です。

 ニュートンの「万有引力」は、宇宙における一定の条件の下で成立する論理構造(命題)です。電磁気の世界には「斥力」というものがあり、宇宙には、巨大な重力(引力)から生じ重力を崩壊させるブラックホールの世界があります。宇宙物質には引力がありますが、電磁波には斥力もあります。素粒子の世界では、重力を含めて四種類の力があるとされています。四種類の力という論理構造は人間の創造した知識(認識の結果)であって、存在(実在、構造、物自体)それ自体ではありません。科学者が実在を説明するために創造した知識です。素粒子の論理構造は、四種類の力という言語によって構成され、様々の条件や限界を持つ仮説としての知識なのです。

⑤ 言語は単なる認識や伝達の手段(道具)か

 言語は、人間にとってあまりにも身近であるために、今までその本質を理解することができませんでした。言語が情報の伝達・操作(思考)・蓄積(記憶)の手段であることはよく知られたことです。しかし、心理学において今では影の薄くなった行動主義言語学では、言語を内的外的信号刺激として捉えます。つまり言語は、他者からの情報としては外的刺激として人間の行動を支配し、また、自己の内面からの発語(内言)としては内的刺激として自己自身を支配するのです。

 私はBunkouさんの言葉に刺激されて心を動かされ、おそらくBunkouさんは、私の言葉に刺激されて戸惑われているでしょう。私は私の言葉によって私の世界を持ちそれで満足していますし、Bunkouさんは、おそらくBunkouさんの言葉の世界によって自らを正当化されていると思います。その人のもつ言葉の世界は、その人自身の人生が詰め込まれています。「言葉にこだわらない」という言葉は、本当は言葉にこだわっていることにならないでしょうか。

 「私はあなたが好きだ」「私はあなたが嫌いだ」という言葉は、人を幸せにしたり、不安にしたりします。「神は存在しない」と聞くだけで、怒りに震える人もいます。このような力を持つ言葉は、本当に単なる道具なのでしょうか。確かに単なる記号・情報としての言葉もあります。しかし一つの言葉がその人の人生を左右し、その人の世界となり、その人そのものであることもあるのです。人間がどのような言葉を大切にしているのか、またその言葉は正しい使い方がされているのか、どのような言葉を使うべきなのか・・・・。

 言語を重視する目的は明白です。人間の本質は言葉であり、言葉は人間の精神をつくり、存在を合理化し、生き方そのものを形成します。言葉の重要性は幾ら強調してもしすぎることはないというのが私の主張です。

 言葉の本質を説明する機会を与えられたことに感謝します。

 

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(20)真理の追究は、認識自体の吟味から    投稿日:10月 3日(月)

 Bunkouさん、骨の折れる議論におつきあいいただきありがとうございます。真理を追究したい気持ちは同じですが、言語が認識にどのように関連しているかについて大きな開きがあります。言語の捉え方の違いから、自然法則(という知識)の発見(創造)や論理構造(知識)の考え方の違いが生まれていると思います。

 私は、認識の結果としての知識(法則、論理構造)を、存在そのもの(実在)とはみなしません。知識は、実在を反映はしますが、絶対(完全)ではなく条件付きの実在の反映──すなわち、実在を限定した創造的観念とみなします。つまり、知識の有限性と主観性を強調する立場です。「万有引力の法則」も、絶対的時空という条件(限定)付きの法則(知識)であり、電磁波(力)の影響やミクロとマクロの世界は、ニュートンの視野にありませんでした(現在、統一理論が検討されていますが成功していません)。おそらく、Bunkouさんの「論理構造は実在である」という認識者(観測者・主観)の立場を超える主張は、ニュートン的世界(西洋近代思想)の理論だろうと思われます(反論を期待します)。

 私の認識論は、宇宙における生命(細胞)の存在の事実を絶対とすることから始めます。そして、生命にとって外界の認識は、どのように、何のために行われるか。人間にとって「認識」とはどのようなものなのか。人間の認識と行動に「言語」はどのような役割を果たしているのか、という問題意識から、西洋思想を批判しています。生命(認識主体・主観)は絶対です。しかし、知識も論理も相対的な人間の創造物(観念)です。

 西洋近代思想は、理性(知性)への信頼から出発しています。しかし、今日では、理性そのものの吟味が求められています。カントは理性を吟味しましたが、生命と言語を認識論の根底に据えることはできず、道徳的合理性を追求しようとしましたが失敗しました(『純粋理性批判』)。マルクスは歴史に必然的(合理的)法則を見いだしたとしましたが、実際には抑圧的社会が創られてしまいました。今日では、合理性追求の目的が、非合理的側面の矮小化や自然(人間性を含めて)そのものの破壊をもたらしているのではないかと危惧されています。

 以上の前置きをした上で、質問にお答えします。

① 西洋思想の何を批判しているか

 私の西洋思想批判は、HPに出しているとおり、具体的にはカントの認識論、現象学や実存哲学、マルクスやフロイト、ダーウィンやドーキンスなど西洋的な思考様式の根源を批判します。言語論では行動主義(スキナー)と認知理論(チョムスキー)の批判的統合をめざしています。私の批判の基準は、仏教的な生命論に依拠しています。拙著も含めて読んでいただければありがたいです。なお西洋合理主義は嫌いではなく、むしろ大好きな方です。ただ、生命と人間を合理主義(理性と言語)だけで説明しようとするのは限界があると思っています。

② 大脳の発達と左脳・右脳の区別について

 >言語は人間の脳構造を変えてしまうほど人類に影響を与え、複雑な思考を可能にし精神世界を広げました。とくに文字の発明がそれを飛躍的に発展させたと思いますが、・・・・・<

 まず、文字の発明が精神世界を広げたことは確かですが、「とくに」人間の脳構造(生理的な構造であれば)を変えたり、複雑な思考を可能にしたということはありえません。「そして」であれば了解できますが、『古事記』の内容は文字のない時代の伝承ですし、インカ文明は文字を持たないで高度な文明を築きました。

 それはともかく、「言語的思考」の最も注目すべき点は、直接的な知覚刺激や感情反応・行動に支配されずに、イメージやパターンを操作(思考)できることにあります(「潜在意識による判断」というのはよくわかりません)。チンパンジーにも左右の脳がありますが言語は持たず、直接的な刺激(好奇心や欲求の対象)がある場合のみイメージやパターンの思考が可能です。チンパンジーは、目前の抽象的な記号やパターンを操作できますし、ある程度の手話も学習して使用できます。

 >言語的な思考を越えたイメージ思考<とありますが、言語的思考はほとんど常にイメージ(記憶された情報)を伴い、イメージ思考が言語的思考を越えることはありません。直感的思考も言葉で表現してはじめて意味をもちます。イメージ(脳内に記憶された観念)は、言語的に操作しなければ、夢の中のイメージのように収拾のつかないものになります(夢はある程度コントロールできますが言語的思考が介入します)。「超える」というより「補助する」というのが正しいのではないでしょうか。

 >左脳の言語的論理思考が西洋的で、右脳の観念思考が東洋的であることから、大江さんの思考主体は西洋的で、志向は東洋的で西洋に批判的という自己矛盾の中におられるのではないでしょうか?<というのはおもしろい発想ですが、理解が困難です。実は東洋思想はとても論理的なのです。仏典や儒学の論理性は、西洋思想の比ではありません。むしろ西洋思想は、論理(ロゴス、言葉)が自然や人間の感情から独立し、逆に支配できるものと解釈しているのです。プラトンのイデア論や聖書の創造説などは、「なぜ、何のために」という思考の意味や役割の追究を断念して、言葉や論理を一人歩きさせているのです。

西洋は自然や対象を主体から独立させ支配の対象としますが、東洋は主体(心)を自然や対象(物、対象)と同一視しようとします「物心一如」)。

 「言語・知識道具説」については後述します。

③ 「リンゴ」について

 抽象的「リンゴ一般」と、具体的な「このリンゴ」は区別しなければいけないというのが私の主張です。Bunkouさんがまとめられた>リンゴが存在しても、人が認識しなければ存在しないと同じである<というのは、全くの誤解です。「諸個人の観念として言語で表現するリンゴ」と「目の前に実在している具体的なこのリンゴ」が異なるものであることを是非理解して欲しいと思います。抽象的な「リンゴ一般」は、人間(諸個人)が「リンゴ」という音声信号とともに観念(イメージ)として創造したものです。だから「リンゴ」という抽象概念は、諸個人によって微妙な違いが生じ、定義による社会的平均的意味づけを必要とするのです。

 リンゴと重力の関係でも、自然法則が働くのは、ある条件・前提が必ず存在するというのが私の主張です。「重力によってリンゴが落ちた」というのは、「地上のリンゴに限る」という具体的条件に支配されるのであって、単に>無人の世界でも「リンゴは重力で落ちる」<というのは創作に過ぎないのです。

④「創造的発見」について

 「発見的創造」か「創造的発見」か、というのは私にとっては余り意味がありません。要点は前回述べたとおり、自然法則は一定の条件の下でのみ成立するものですから、万有(universal)引力は普遍的なものではなく,やはり創造的・限定的に発見されたものです。私が「創造的発見」と言うのは、ニュートン的な「絶対時空」(創造的世界)に固執することの限界性を指摘したいからです。

⑤「絶対証明不可論」について

 絶対証明不可論というのは、初めて知りました。確率は、絶対を実証できない偶然的事象を数学的に処理するために採用されるものではないでしょうか。そのことから言うと>サイコロを振って1が出る確率が六分の一であることは証明できません<というのは、当然のことです。確率は実証する必要がないからです。確率では因果関係を特定できないし、近似的な相関関係で満足すべきものであることは前にも述べました。

 事実に対する「認識の同一性」の証明は、科学的方法論として確立しています。私の考え方は、言語論や自然法則の理解について、自然科学的方法論を適用しているつもりです。事実において自然界には、抽象的な「リンゴ」や「1,2,3,・・・という数」の観念や「加える(+)」という知的操作は存在していません。これらの観念は自然を認識・理解するために、人間が創造した道具です。

 「知性の整合性」という表現はは、センスの良い知的な表現であると思います。しかし一体、知性とは、どのようにして人間が獲得し、生命にとってどのような意味をもち、人間にとってどのような機能があるものでしょうか。論理構造があるから成立し、論理構造を発見するためにあるのでしょうか。知性にとって言語とはどのようなものなのでしょうか。

⑥「言語・知識道具説」について

 >私は、言語は人にとって非常に重要なものであるが、人間の存在意義そのものとは認められない立場であるため、所詮、言語は人にとって道具です。その意味では、西洋思考を中心として全体を語ろうとしています。<

 私は言語を「人間の存在意義そのもの」とは言っておりません。言葉を持たなくても人間の存在意義はあるはずです。人間にとって言葉がすべてでもありません。しかし、前回、私は「言語は単なる手段ではありません。言語はそれを使用する人の経験とともに、その人自身の世界(知識、価値観、人生観)を形成しています。言語的世界は、その人自身でもあるのです。言語は、その人の認識の経験に応じて世界を抽象化し、その人のために一般化することによってその人を創り、無限の世界の中に、その人固有の有限な世界、すなわち、自己の世界・自己自身・自我を創っているのです。」と述べました。

 言語は道具ですが、単なる手段としての道具ではなく、意味を伴い、その意味は人間によって創られ、その人間を表現するものとなります。つまり「人間(個性)を創る道具」「人間を生かす道具」「その人自身を示す道具」なのです。このことはもはや、言語が道具ではなく、その人がどのような言葉を使用するかによって、その人自身を示すことになります。「神は愛である」「生きとし生けるものは平安であれ」など価値や感情を刺激する言葉は、その人の個性を示すことになるのです。(もちろん偽ること、演技をすることは可能ですが)。

 なお「概念・知識道具説」は、アメリカのプラグマティズム哲学者デューイによって、西洋の伝統哲学を批判するために主張されました。生物学や心理学を土台にしたもので、私自身も大きな影響を受けました。しかし言語の積極的な意義づけは行っていません。

 また長くなってしまいました。でも言い尽くせたとは思えません。ご批判下さい。

 

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(21)なぜ言語の創造性にこだわるのか   投稿日:10月17日(月)

 Bunkouさん、丁寧な反論をありがとうございます。多少西洋哲学を学んだために複雑な議論になってしまいました。>「そこにあるものは、そこにある」と認めることは出来ないのでしょうか?<という疑問の趣旨はよく了解できます。

 しかし現代の西洋哲学の閉塞状況を克服するためには、「そこにあるものは、そこにある」と単純に認める(判断する)ことはできないのです。現象学という哲学は、そのような判断を留保し、「事象そのもの」を解明しようとしました。

「ある(存在)」とはどういうことか、「そこにあるもの(現存在)をある(存在)」と規定するのは人間にとってどのような意味をもつのか、「ある(存在)」ことを規定している根源は言語ではないのか。言語とは人間の認識や存在にとってどのような意義があるのか。西洋哲学は、この問の答をまだ出していません。

 私の発想は、生命にとって言語とは何か、言語によって構成される知識とは生命にとってどのような意味をもつのか、ということです。そして、このような「生命にとっての言語の謎」を解明することによって、人間存在自身の生命性を自覚できるのではないかと考えています。つまり、自然法則を含めた知識は、人間の観念であり、観念は生命を含めた自然的事実(宇宙)を完全には把握(反映)し得ない。この事実を、人間は知識として把握することによって、初めて人間存在の真実(人間は自らの創造した観念によって生きざるを得ない)を自覚できるのではないかというものです。

 私たちはよく、人間の知識は不完全であり、究極的には主観的なものであると言いますが、その根拠は曖昧な場合が多いのです。それは哲学的な懐疑論の姿をとったり(B.ラッセル)、現象学や実存哲学(フッサールやハイデガー)のように知的閉塞状態に陥っているものや、その批判の失敗(デリダなど)などあげられます。

 私の考えは、認識論的には不可知論に属することは前にも述べたとおりです。しかし、私は、言語や知識の有限性を主張するものの、知識の創造性や積極性を強調することによって、人間の相互理解と相互扶助の可能性を広げることができるのではないかと考えています。

 さて、長い前置きになりましたが、疑問の点を払拭できるように再び言語論の観点から、言語(人間)の創造性についてまとめてみます。

 まず、人間が創造的存在であることは、今日の文明や文化の発展を見れば、全く異論の余地はないと思われます。次いで創造性の根源が、直立歩行による自由な手の使用と大脳の発達にあることも自明のことです。しかし、言語が人間の創造性にどのような役割を果たしているのかで議論が分かれてきます。

 ここで私は、生命が環境(刺激)にどのように適応してきたかを、神経系の発達(進化)つまり、刺激(情報)の受容・認識(処理)と反応の関係から捉え、人間における言語の役割を考えます。言語は①伝達・思考・記憶の手段ですが、②認識や思考に創造的な役割を果たし、また③自己信号(内言)として感情や行動を支配することもできます。

 「言語の創造性」という観点は、チョムスキーも強調しており特殊な見方ではありません。しかし私のように、無数の実在の対象を、「リンゴ」のように一般的・抽象的に言語化したとき、その言語化した「リンゴ」を「観念的創造物(創作)」と断定する研究者はそういません。しかも、「リンゴは重力で落ちる」のは「創作」であり、万有引力などの自然法則も「人間の創造物」と言えば、反発を感じられるのも当然です。

 そこで今回は、<「人間は死ぬものである」という命題(自然法則、真理、知識)は、人間(私)の創造したものである。>という命題の論証をしてみます。

① 命題は、主語と述語(と目的語)によって成立する。

② 主語すなわち対象を指示する名詞には、「人間」という一般(抽象)名詞と、「ソクラテス」等々という個別(具体)名詞がある。

③ 個別名詞となる対象は実在する(した)が、一般名詞「人間」の示す対象(意味内容、観念、イメージ)は、社会的平均的観念として創造(抽象)されて存在しているのであって、実在するものではない。それどころか、実在した歴史上の「ソクラテス」でさえ、その人の主観(的条件)によって異なる実在(意味)の理解が成立する。

④ 述語動詞による対象の表現(命題の構成)は、人間の言語的認識によって創造的に構成される。また、動詞の過去(死んだ)は記憶された観念を表現し、未来(死ぬだろう)は観念的な推量として表現され、ともに実在せず、人間の観念的な創造の産物である。

⑤ 個別対象の命題(「ソクラテスは死ぬ」)は、対象(実在)を限定して「知識」として成立させているので、人間の観念的な創造物と言える。また、一般的対象の命題(「人間は死ぬものである」)は、多くの個別命題を収集し、帰納的に一般化しているので、さらに新たな知的創造になる。

⑥ つまり、命題「人間は死ぬものである」という自然法則は、私(人間)が私の方法で帰納的に発見し、知識として創造(論理化)したことになる。また一般に、言語(単語)は、対象を指示限定することによって新たな観念を創造し、さらにそれらの単語を構成(論理化)することによってさらに新たな観念的世界を創造していく。

⑦ 補足 言語記号による対象の言語化─指示、限定、記憶─は、無限の自然やイメージを区分・限定・差異化し、修正を伴いながら、それらに対する関心を持続化することです。言語は、自然を人間の欲求や興味関心によって再構成します。この再構成を「創造」と自覚することは、人間存在自体を自覚的に創造していくことにつながります。「太陽」「万有引力」「生命」「生命神」「天国」「地獄」「愛」「慈悲」「幸福」・・・・・・・など、言語(名詞)は、何らかの実体(意味)を含みます。しかし言語の意味内容は、物理化学的実在(ソクラテス、人間)を反映する場合でも、主観的なイメージや欲求・願望・経験とともに記憶され創造更新され、時代的社会的な背景に制約されているのです。言語によって、自然(太陽)や想像的イメージ(天国や愛)を限定すること自体が、人間にとっては創造することなのです。

 以上にもとづいて疑問に答えます。

① 西洋と東洋の合理主義について

 西洋の合理主義は、「知識自体を存在とみなす」傾向があります。その結果自己の存在を「我思う故に我あり」のように、思考の結果としての知識に求めます。それに対し東洋の合理主義は、知識を手段とみなし、自己の存在を合理化するために使用します。また、合理主義の意味を理解するのは、西洋的合理主義によってであり、その限界を自覚するのは東洋的合理主義によってです。

② 潜在意識について

 潜在意識を無意識と定義されるなら了解できます。また、「物心一如」は、思考法ではなく、価値観であると思います。

③ リンゴの存在について

 Bunkouさんの言われるとおり「この実在のリンゴ」は当然存在します。しかし、リンゴは、物理化学的「構造体」であるとしても、「論理構造体」と言うのは、私の理解を超えています。また、条件が整えば「リンゴは重力で落ちる」のは創作ではなく、事実の表現ということになります。

④ 創造的発見について

 すべての自然法則の発見が、人間の創造の産物であるという私の独断的な主張は、上に論証したとおりです。「万有引力」の「発見」が認識され、命題(知識)として法則化されるとき、その発見はニュートンによって創造されたものです。

⑤ 知性の整合性について

 現代という時代は、「知性の整合性」や「知性にもとづく約束」が揺らいでいる時代であるというのが、現代西洋哲学の認識です。Bunkouさんが、知性への信頼にもとづいて「単純教」を創造されたのはよく理解できます。自己抑制的な中道の哲学によって、穏やかで優しい道徳的な生き方を模索されているのは、私も共感できます。しかし、現代では、まず知性そのものを吟味すること(認識論)が求められているのです。

⑥ 人間の存在意義について

 言語は「人間の存在意義そのもの」である、という誤解は、言語がなければ人間としての存在意義がないということにつながります。このような誤解を与える表現になったことは深く反省しなければいけないと思っています。人間の存在意義は、(幸福に)生存し続けることであって、言語に「存在意義」を求めることなどあってはならないことです。言語は悪用されると、人間を傷つけ滅ぼすことにつながります。「言語の創造性」を悪用することのないようにするためにも、言語の重要性を強調する必要があると思います。

 掲示板での議論の性格上、不十分さは避けられません。いつも独断的な主張につきあっていただき感謝しています。

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(22)「知性」には方法的懐疑が必要です   投稿日:10月30日(日)

 Bunkouさん、「思考を成熟させる」と言うのはとても共感できる表現です。そして、この言葉を実現させるために、私は次の孔子の言葉を愛好しています。

「学んで思わざれば則ち罔く、思うて学ばざれば則ち殆し」(『論語』為政) たとえ意見や観点が異なっても、他の人の主張は自分の思考を成熟させるのに役立ちます。Bunkouさんの疑問や指摘は、いつも私の思考を刺激し、真理を問い学ぶ気持ちを高めます。ただ、雑事に追われ十分な時間がとれず、意を尽くせぬ主張になってしまうので、誤解を招くことがあることは仕方がないのでしょうか。

 私の主張はHPか拙著『人間存在論』を基本にしているので、全体像はこれらを三回読めばわかると思います。私の思考の根源は、何度も言うように「生命(細胞)の立場に立って人間存在(言語)を考える」ということです。つまり、言語を持つことによって生命は二つの存在、すなわち具体的・事実的・知覚的存在と抽象的・観念的・創造的世界を持つことになったのです。西洋哲学では、前者を重視する立場が「唯物論」であり、後者を重視するのが「観念論」の立場です。そして両者共に「言語」がどのような役割を果たしているのかについての解明に失敗してきました。なぜかというと、「言語や知識が生命にとってどのようなものであるか」、という問を立てることができなかったからです。その答は、人間は、言語によって新たな世界(存在)を創造してきたということ、それによって、自己自身の存在を世界に位置づけ合理化してきたということです。

 さて、私がBunkouさんとの議論で根源を追求するときいつも躊躇したのは、出発点の違いです。Bunkouさんは、世間の良識と思われる「知性の整合性」と存在としての「論理構造」を信頼することから議論を進められています。それに対し、「知性そのものの吟味」すなわち「生命にとって知性とは何か」、知性を成立させる言語は、生命にとってどのような意味をもつのか。また、「言語によって成立する論理」は、どのような構造を持ち、生命にとっての世界(自然)をどのように規定しているのか、を問うことが私の出発点です。

 そこで Bunkouさんが>以前に私が、大江さんの主張として「存在しても、人が認識しなければ存在しないと同じである」と述べた内容と同じではないでしょうか。<と言われるのが誤解であるというのは、「認識の結果」としての観念的(抽象的論理的)存在と、事実的(知覚的具体的)存在との違いを区別されていないことから起こるものと思われます。つまり、事実的存在は人間の認識とは関係なく存在しますし、認識の結果としての観念的存在は認識しなければ存在しないということです。このように存在(ある)を二つの様式に分けることは、存在とは何かを分かることにつながり「知性の整合性」からみても了解可能ではないでしょうか。

 また「認識の制御」は、認識の過程である論理(命題)の成立(構成・創造)を吟味することから始まります。命題や論理は、必ずしも真理ではありません。真理を創造する「知性の整合性」とはどのようなものであるかを、まず吟味することが必要なのです。すでにおわかりのように、私の主張は、「真理とは認識の結果(命題)とその対象の一致であり、また認識の結果としての創造物である」というものです。もちろんこのような主張は「人々のコミュニケーションがすでに混乱している」ことを前提にしています。そしてこの混乱は西洋哲学に固有のものではなく、人類が直面している混乱でもあるのです。

 「問題を解決するのが知性の存在価値である」という命題や「知性の整合性」は懐疑(吟味)を必要とするのであって、決して公理には成り得ません。「知性」は、デカルトが行ったような「方法的懐疑」が可能でありかつ必然です。その上で、カントが行った「理性(知性)批判」の誤りを乗り越え、生物学的生理学的法則に裏付けられた新たな認識論を確立する必要があるのです。

 以上のことを前置きにして、指摘されていることについて答えてみます。

① 西洋思想批判について

 西洋思想の根源は、神・ロゴス・言語(理性的・創造的存在)がまず存在して、実存としての生命・人間(感性的・情緒的存在)が従属的に存在します。それに対して東洋思想は、生命・人間がまず存在して、神や言語は人間の生存を援助(善し悪しを問わず)するために存在します。西洋的な合理主義は無限や曖昧性を容認せずに人間存在を合理化しますが、東洋的な合理主義は無限や曖昧性によって人間存在を合理化しようとします。

 また、環境破壊は、人間のエゴイズム(人間中心主義)によって、環境の支配は可能であると考えるところからきています。もちろん西洋の古い合理主義は反省され、東洋的な知性が評価されるようになっています。

② 無意識について

 私はフロイトの無意識についての論理構造には批判的ですが、フロイトの言う無意識的行動は、催眠行動や抑圧されて意識化できない行動を無意識と考えるので、動物的な反射行動を直ちに無意識とすることはできません。Bunkouさんの考えによると、潜在意識がフロイトの無意識になっているのでしょうか。

③ 「物心一如」について

 東洋的な「物心一如」が、思考方法か、価値観かという問題で、Bunkouさんの言われる>価値観だけがあっても意味がありません。価値観は何らかの比較、また行動の対象として存在します。< というのは了解できます。ただ「物心一如」というのは、曖昧性・永遠性・情緒性を含む表現で、思考を伴うのは当然ですが、「思考方法」のような「方法」ではありません。むしろ「物と心・物質と精神」(唯物論と観念論、二元論)を分けて考える西洋的な分析的思考を超えた思想(価値観)であると考えています。だから、この表現自体は、思考(比較や判断)の方法ではなく、思考のための基準・尺度としての価値観であるということです。

④ 論理構造について

 >リンゴはこのような論理的構造をいくつか持っています。これらの論理構造は当然、人の知性にのみ認識されるため、認識されなければ、潜在していることとなります。<

 リンゴの存在構造(種、果実、皮など)の意味の認識(私的には抽象化された論理の創造)と、リンゴの存在の事実(このリンゴ)の認識は区別するべきです。また、「万有引力の法則」や「リンゴは重力で落ちる」は、人間の創造ですが、単なる思いつきではなく、実証科学の発見的創造の産物です。

 Bunkouさんのこの従来の主張に対し、私は「論理は、認識の結果人間が創造したものである」と主張し、論理や命題や知識、それらを成立させる言語の役割について述べてきました。それに対しBunkouさんは、「知性の整合性」への懐疑は「絶対証明不可論」であり、「問題解決思考の放棄」であると指摘されています。

 前置きでも述べたように、私の「知性への懐疑」は、「方法的懐疑」であり、「人間の生命性」を自覚するための手段です。この方法的懐疑は、おそらく「知性の整合性」に依拠しています。「知性によって知性を問い直す」とき、「言語の論理的役割(何がどうあるか)」が抽出され、「言語を獲得した生命」すなわち「人間存在」が確立します。その結果、西洋思想において前提とされていた「はじめにロゴス(論理・言葉)ありき」という命題が崩壊するのです。

 そしてさらに、「はじめに生命ありき。生命は言語を創りき。言語は人間を創り、人間は文明を創りき。」という命題の本質が人間に自覚されたとき、世界と人間についての新たな共通理解が進み、人間生命にとって自己抑制的な世界の再創造が可能となるのです。

 議論が多岐にわたり、わかりづらいかも知れません。でも本人は単純で首尾一貫しているつもりですので、あしからず。

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(23)言葉を得ることは、人生を創造すること  投稿日:11月14日(月)

 Bunkouさん、多くの質問をありがとうございます。今までの疑問がすべてまとめられているようで、見解の違いがよくわかります。結局二人の主張の違いは、2年前の一番はじめに私が問題提起した「言語」をどのように捉えるかにかかっているように思います。Bunkouさんが議論の前提にしておられる「知性」も「論理(構造)」も、「言語」と深い関わりがあるというのが私の主張です。微妙な問題ですが、様々な見解の相違の根源となっているようです。

 そこで、Bunkouさんの言語の捉え方との違いで、見逃されている点を中心に、もう一度まとめてみます。前回の主張ではBunkouさんが、問いかけの形で示されている言語(知性、論理)解釈は次のようなものでした。

 >(1)生命にとって知性とは、生命(種族)を維持するために環境を変える能力のことではないでしょうか?

(2)言語は生命(人)が環境から受ける情報を整理、伝達する道具ではないでしょうか?

(3)世界に潜在している論理構造を、生命(人)が認識できる範囲で認識し、それを言語と言う記号でおおよそ解明しモデル化して、環境を人にとって適したものに変えれるように利用していると思われます。どうでしょうか?<

 (1)について、ほぼ賛成ですが、「知性は、環境を認識し創造する能力」であり、その結果として環境を変えることになると考えます。生命における知性(言語)の役割と環境の関係を、誤解を恐れずに例えで示すと、単細胞動物のアメーバが、言語を持つ状態を想像してください(人間と言えども、単細胞が増殖して異なる機能を持つようになった細胞の結合物です)。もしアメーバが、特定のバクテリア(環境)を認識し、記号化して記憶(生化学反応)すれば、そのバクテリアについてのイメージを創造したことになります。さらにアメーバに論理化(主語述語化)の能力(知性)があれば、バクテリアのイメージをさらに豊かに創造し、選択的にバクテリアを補食し、環境を変えることになります。

 (2)については、前にも述べたように、単に「情報を整理、伝達する道具」だけでは言語の本質を見逃してしまいます。「情報の整理」とは、「選択的に認識された情報の再構成・思考・創造と記憶」であり、「選択的に」とは生命維持に必要な自己と環境の情報という意味です。

 さらに重要なのは、言語が人間(他人だけでなく、自分自身)の感情や行動を支配する刺激となったり、世界と自己との関係を言語化(合理化)することによって、価値観や生き方を創造し方向づける(人生観)ということです。つまり、言語を得ることは、人生を創造することにもなるのです。

 (3)については、見解の分かれるところです。論理構造は、すべて生命(アメーバ) が認識した結果です。また論理は、言語(記号)による主語(名詞)と述語(動詞・形容詞)(と目的語等)で表現されますが、人間の表現能力では、対象を特定することのできるものに限られます。「対象の特定」に対して、「おおよそ解明」というのは微妙な表現ですが、論理の厳密性を損なうのではないでしょうか。ミクロとマクロの世界は、科学技術の進歩に希望を託しても、結局は観測機器と手段(電磁波)の限界を知ることになるというのが、(確証できませんが)私の見解であり、Bunkouさんとの微妙な違いを大きくしているものだと思います。

 お互いに確認されていない(しにくい)前提のもとに議論をしているので、誤解の生じるのはやむ得ません。しかし、思考や議論の成熟のためにはとても有意義であると思います。見解の相違はあって当然なので、気にせず批判やご意見をいただきたいと思います。

 以上のことを前提にして質問に答えます。

① 二つの存在(具体的または観念的存在)について。

 >私たちはすべての存在を「観念的」に認識します。だから「存在しても、人が認識しなければ存在しないと同じである」と言うことも可能です<というBunkouさんの主張については、具体的(事実的直接的感覚的)な認識は、直接に存在(環境刺激)を知覚認識するので「すべての存在を「観念的」に認識します」とは言えません。目の前にある「このリンゴ」は、言語化しても自然に存在している実在です。

 また>存在と認識は別です。認識とは観測装置のことです<において、存在と認識を別の次元のものと考えるのは一つの立場(唯物論)です。さらに観測装置を使って直接知覚するなら実証的な具体的存在と言えます。

 次に、「認識の結果としての観念的存在と事実的存在」の「事実的存在」を、「認識の結果としての事実的存在」と理解されたのなら私の表現の不十分さによる誤解です。「認識の結果としての」は「観念的存在」のみを修飾します。後者は「直接に認識している(実証できる)事実的存在」とするべきでした。

② 「言語や知識は生命にとってどのようなものであるか」について

 「生命にとって」というのは冒頭の例えで言えば、アメーバのことです。つまり、言語や知識を生物学的生理学的に捉えることは、ごく最近の学問の傾向であって、マルクス主義も実存哲学も、言語を道具と考えたプラグマティズムも発言していないことなのです。

③ 西洋思想の批判について

 私にとっての西洋思想の批判は、上記のような「生命にとっての」批判であり、今までの西洋思想批判とは異なっています。言語という「厄介な」生存装置を獲得してしまった人間存在を、生命の立場に立って批判的に解明し、より有効に活用しようとするものだと思っています。

 また、「人間存在を合理化する」とは、前にも述べた「あのブドウは酸っぱい」という、フロイトの「防衛規制」の中の「合理化」のことです。私は、言語による自己(他者)支配を「合理化(理由づけ・言い訳・負け惜しみ)」と考え、とても重視しています。私自身も合理化を得意な方と考えています。

 環境破壊については、生物進化の過程における「適者生存」「優勝劣敗」の次元の問題ではなく、人間の科学技術の発展が、人間を含む生命全体の破壊(地球環境破壊)につながることを危惧したものです。

④ 潜在意識について

 言語を用いない思考は、直観的思考です。動物も人間も直観的思考をおこないます。「意識」や「無意識」という概念は多義的で、私にとっては難解なので、余り深入りしたくありません。悪しからず。

⑤「物心一如」について

 私にとって「単純教」は十分に東洋的であり、共感的に理解できます。ただ用語の適切性については、その使用法をできるだけ客観的(社会的)なものとするために、不断の吟味が必要と考えています。

⑥ 知性の整合性について

 >命題や論理は成り立てば真理です。<というのは疑問があります。「成り立てば」というのが「実証性」を意味するなら了解できますが、「リンゴは落ちる」という命題は、必ずしも真理ではない(無重力状態では)という立場なので、多分平行線になるでしょう。

>「知性が問題解決を目指さない」のなら、「知性の整合性」は成り立たないのです<というBunkouさんの「知性への信頼」の強さはよく伝わります。また「問題を解決するのが知性の存在価値である」という信念は共感できます。しかし、私の考えでは、知性は、問題を解決するのをごまかしたり、曖昧にしたり、悪にも善にも、真にも偽にも働らきます。例えば、盗賊の知性はしばしば失敗をもたらし、悪徳弁護士は偽を真と言いくるめます。言語や知性は、人間の生活を豊かで快適にしましたが、その限界を知ることも大切ではないでしょうか。

⑦ 発見と創造について

 発見と創造が違うのはその通りです。あるものを発見(認識)して言語化(抽象化)するとき、創造が起こります。目の前にある「これらのリンゴ」を発見して、それらを一般化して「リンゴ」と言語化するとき、その「リンゴ」は観念的な(頭脳における)創造物になります。従って>コロンブスはアメリカ大陸を発見したのでしょうか?創造したのでしょうか?<という問は、前回と同じように、発見的に創造したということになります。事実としてのアメリカ大陸を発見し、観念としてのアメリカ大陸(コロンブスの観念ではインド)を創造したのです。アメリカ大陸という創造物は、コロンブス、Bunkouさん、私など個々人の主観的創造物に過ぎません。事実としてのアメリカ大陸は存在しますが、我々にとってのアメリカ大陸はそれぞれの学習によって得られた異なるものを創造しているのです。

⑧⑨ については冒頭に述べました

 無理に違いを強調している面があると感じられるでしょうが、言葉の創造的性格を重視する私の主張がよくわかると思います。

 

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(24)発見的創造が、人生を豊かにします   投稿日:11月28日(月)

 Bunkouさん、いつものように適切的確な質問ご意見をありがとうございます。私たちの議論は、今日の科学・哲学思想や宗教的な課題で、最も意見の分かれる微妙な問題を扱っています。「神の非存在」や「人間の被造物としての神」を論じるだけで気分を害される人もいます。しかし、新しい道徳や倫理を構築(創造)する場合、避けては通れない問題です。

 またこのような根源的で微妙な問題の議論で、誤解やすれ違いが起こるのは仕方のないことです。私たちが頼るべきは、無限の事象からどんな「事実」を選択し、その「事実」をどう解釈(論理実証)するかということだと思います。しかしそれでも、「事実」が(現時点で)検証不能であると、将来は解明されるとしても、現在の人間の能力ではやはり不可知であると考えざるを得ず、あとは信念の問題になると思います。私は、現時点で解明されている事実から論理を展開するのが適当であると考えています。

 >「知性の整合性」を正当化できるのは「この世の中のものごとはすべて、論理構造で出来ている」という真理だけです。そしてそれを信じるのは「問題を解決するのが知性の存在価値である」という真理からです。この真理は公理です。証明は出来ません。信じるのみです。<というBunkouさんの主張は、私から見るとまだ検証可能な命題であると思います。この世の中の現象の構造は、まだまだ多くが解明され、論理構造として法則化(私の立場からは創造)されるでしょう。しかし、「知性や論理とは何か」という根源的な疑問は、「公理」という概念によって解決されるものではありません。ここに「言語問題」の検討の余地があるのです。

 そこで私は、生命にとって人間の言語の持つ意味を考えます。動物は自己の生存を維持するために、外界を認識し行動します。動物にもある種の知性(判断能力・学習能力)があります。人間の言語は、単に知性や論理のための手段でしょうか。言語が動物の認識能力を向上させる手段となっていることは事実です。しかし人間の言語による認識能力の向上は、この世にはあり得ない観念的物質的世界を創造するのも事実です。そればかりではなく、言語によって、他人ばかりでなく自己自身も支配することを可能にしたのです。世界を言語化することによって自らの行動と存在を合理化・正当化しているのが人間なのです。

 しかし、私のこの見解は、Bunkouさんの指摘されるように、一般的でも常識的でもありません。Bunkouさんの見解は哲学的には「反映論」に属しますが、科学的唯物論の旗手であるマルクスは、強力な反映論者です。また生物学においても、動物行動学で著名なローレンツは、認識論の革新を図ろうとした論文『鏡の背面』において、デカルトを含む観念論を批判する前提として次のように述べています。

 「人間が省察する生物として定義されることは間違ってはいない。人間そのものが現実を反映する鏡であるという認識は、当然にも人間の他のすべての認識機能に徹底的な遡及効果を及ぼした。これらの認識はことごとく、より高い統合水準の上に置かれた。すべての科学の一つの前提である客観化も、この認識によってこそ可能となるのである。」(ローレンツ,K.『鏡の背面』谷口茂訳)

 この引用において、彼は西洋において科学的認識が発展した認識論的背景を述べていますが、人間の認識装置が「現実を反映する鏡」であるという西洋的認識論の限界を超えていません。人間にとっての対象(世界)は、単に現実世界を「反映」したものではなく、人間の欲求や関心にもとづいて主体的に判断・選択し、世界の中に自らを位置づけ合理化するべき対象なのです。さらに、彼はカントやチョムスキーと同じように、概念的思考と言葉の関係を統一することができませんでした。概念(言語)的思考は、人間が言葉を獲得し、対象の直接的刺激(情報)を言葉と結合して、「頭脳内で独立に操作」できるようになって始めて可能になったのです。

 だいぶん難しくなりました。疑問に答える形で議論を進めます。

① 事実的存在と観念的存在について

 わかりやすい常識的なまとめで、当然了解できます。ただ事実と観念の間に、人間の認識、とりわけ言葉が入るとややこしい議論になります。諸事実を記号(言葉)で表現すると、事実としての個々の「リンゴ」と観念としての抽象的な「リンゴ」(認識の結果)の区別が生じます。

② アメーバの認識と言語について

 >脳と言う組織器官を持たない生物に、知性や言語を認めることは、私には到底理解できず無理なことです。<というBunkouさんのご意見は当然のことです。>誤解を恐れずに例えで示す<という前提を付け、比喩として表現しましたが、説明不十分であると思っています。この比喩の真意は、人間が言語を持つようになって、外界の刺激にかかわらず、観念的(内的)世界を創造(再構成)することができるようになれば、生命にとってどういう意味が生じるのかを説明したかったからです。

 アメーバ(他の動物も)は、外的刺激(環境)に左右されて反応しますが、人間は言語的観念的世界を創造することによって、環境の直接的刺激を超えて思考し行動します。チンパンジーは、欲求を充足するために目の前の外的刺激にしか反応しませんが、人間は言語による内的刺激によって、食事中でも思考や行動が可能です。アメーバもチンパンジーも人間も、生命としては共通の存在であるという基本的な考えが私にはあるので、極端と思われる比喩になってしまいました。

③ 合理化について

 >人間を合理化するとは、人間の存在意義を論理的に追及し、その真実を明らかにするということではないでしょうか?<については、Bunkouさんは、「合理化」を「知性」と同様に、人間にとって「善いもの」と規定されていることから出される疑問だと思います。しかし、私は、フロイトの防衛規制の考え方と同じです。フロイトは、西洋的(キリスト教的)合理主義に抑圧されていた無意識の世界(性的衝動、催眠術、夢、神経症など)を解明し意識化しようとしました。フロイトの合理化の考えは、自己の否定的感情(欲求不満・不快感・ストレス)を正当化して解消しようとしたものです。だから、科学的論理的探求の意味を含まず、単なる弁解、負け惜しみなのです。

 環境問題については、生物学的にはBunkouさんの指摘の通り、生命は個体と種の生存をめざしているだけで、地球環境の問題を考えているわけではありません。私の環境問題についての西洋思想批判は、キリスト教批判を含み、「環境破壊=終末・最後の審判」的発想を克服したいところに真意があります。キリスト教に見られるように。合理的世界支配や世界発展の発想は、東洋的な自然との共生・調和(物心一如)という発想とは相容れません。

④ 無意識をどう考えるか

 Bunkouさんの指摘のように、無意識は>「人とは」を考える上で、避けては通れない問題<というのは同感です。そこで私は、人間存在論において、無意識をより具体化して「欲求」や「情動・感情」に変えるべきだと主張し、フロイトを批判しています(http://www.eonet.ne.jp/~human-being/)。

⑤ 「物心一如」について

 >これこそ言語的論理思考を超えた、無意識または潜在意識とかかわる、人の精神構造をふまえた全体思考ではないでしょうか?<は、その通りだと思います。単純教の「四界気象」の発想に、東洋的な「全体思考」があり、共感できます。しかし、私の場合もそうですが、言葉は、十分な吟味がなければ、社会的理解が困難になります。

⑥ 知性の整合性について

 「問題を解決しようとするのが知性の存在価値である」というのであれば、とても善い表現だと思います。

⑦ 発見と創造について

 >人それぞれものごとに対する認識や理解は違います。違うからと言って、見るもの聞くものすべてが人の創造物(新たに創りだしたもの)であるというのは、論理として極端ではないでしょうか?<

 Bunkouさんが冒頭①で述べられた「認識の結果としての観念的存在」を、私は「創造物」と考えています。この創造物は、発見と破壊と再構成を通じて創造されています。とりわけ、言語による対象の言語化(記号化)と構成(論理化)は、日々更新され、新たな観念的存在が創造されていきます。日々の発見は日々の創造です。事実としてのアメリカ大陸はそう変わるものではありませんが、観念的な存在としてのアメリカ大陸は、新たな発見(認識や理解)によって日々創造され豊かになっていきます。物事を発見し認識するのは、我々の観念的世界を新たに創造していることになります。

 このような主張は「極端」であると言われればそうかも知れませんが、決して屁理屈や詭弁ではありません。それどころか、「認識(思考)の重要性」や「創造的な自己理解」「日々新たな創造的生活」を意味づけ、人生を積極的創造的に生きることにつながります。また冒頭で述べた西洋的な「反映論」や「神」を創造して依存させようとする宗教の限界性を克服し、新たな生き方や道徳を創造することを可能にします。

 不十分な説明ですが、理解していただけるでしょうか。

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(25)新たな発見と創造に感謝します     投稿日:12月12日(月)

 Bunkouさん、率直なご意見をありがとうございます。言語の絡む微妙な問題には、解決や共通理解を得ることの容易でない場合が多いものです。私の主張は、「人間存在とはどういうものか」という単純な疑問から出発していますが、ものの見方や考え方の根本に関係するので、掲示板で説得的な説明には限界があります。しかし今一度まとめてみます。

 私の言語論の前提は、人間が無限の対象(事実)を言語記号化すること(すなわち、言語を用いて認識すること)は、その対象の観念やイメージを含めて、新たな創造であるということです。言語を用いた意識化された観念は、個々人が対象を経験的に区別・分類し、さらに、主語(名詞)述語(動詞など)によって再構成・創造されます。対象の抽象的な区別・分類は、それ自体が創造的ですが、主語・述語による再構成(文・命題・法則)は、さらに言語的世界を拡大し、人間自身の認識や行動を方向付け、合理化し、正当化します。

 従って、言語化された抽象的な「リンゴ」や「朝顔」の観念は、具体的な事実としての「リンゴ」「朝顔」とは別に、個々人の頭脳内に創造され記憶されたものです。私にとって「知性」とは、このようにして得られた言語的情報を操作・処理(思考)して、世界と自己自身を合理化・正当化することに他なりません。知性とは、生命細胞が言語を獲得して、世界と自己を言語化し、どのように自己と種を安定的に生かしていくかということを認識し思考する能力なのです。

 知性は、言語を用いて「何がどのようにあり、どのように生きていくか」を、創造的に見いだす能力ともいえます(Bunkouさんの言われる公理としての「問題解決能力」)。知性の能力のこのような理解は、言語を持つ人間の認識の過程を、実証的、科学的に再構成し創造的に法則化したものです。なぜ創造的なのかと言えば、誰もが認めるような法則も、私個人にとっては私独自の理解の仕方であるために主観的創造的なのです。このことはBunkouさんも認められるように、知識(知性の働きの結果)の究極は主観的であることを、より一般的日常的なものとしようとすることです。つまり、知性は、主観的で有限な言語によって成立しているという事実によって、初めて共通理解の基盤ができ、無限の事実に対し、知性を働かせることによって「有限の真理」(!誤解しないでください、究極の話です)の探究が可能になると考えるからです。

 以上を前置きにして、疑問の点の説明不足を補ってみます。

 まず、「コロンブスによるアメリカ大陸の発見」についてですが、「アメリカ大陸」という言語表現を、事実としてみるか、観念としてみるかで、意見の相違が生じます。Bunkouさんは、単純に「アメリカ大陸」の存在を「事実」として捉えておられますが、私は事実としての「アメリカ大陸」と、観念としての「アメリカ大陸」を、分けて考えています。「アメリカ大陸」を「新大陸」として、区別・分類し言語化したのは探検家のアメリゴ・ベスプッチでした。彼の「アメリカ大陸」の観念は、彼の探検の範囲で得た知識にもとづいたもので、我々の観念とは別のものです。コロンブス自身は、インド到達という誤った観念で行動しているので「アメリカ大陸発見」という事実と観念の吟味が必要となります。

 コロンブス自身が主観的に「発見」というのは理解できます。しかし今日では、世界史的にみて、先住民にとってはアメリカ大陸は「発見」ではないので、「新大陸の発見」には「 」を付けて表現をするか、「発見」という概念を使用すること自体が適当ではないといわれています。私にとっては、「アメリカ大陸の発見」は、コロンブスやヨーロッパの主観的創造的な表現であるという意味でも、「発見」というのは「創造(想像)」であると考えています。より厳密に言えば、「アメリカ大陸」や「発見」の観念は、事実の一面(アメリカ大陸といわれる地域の一部)を選択的に反映し再構成したもので、コロンブスを主語とすれば主観的な「発見的創造」というのが自然であると思っています。つまり、私はBunkouさんの設問自体に疑問をもちながらも、「自然法則の発見」の場合と同様に、「言語問題」として答えているのであって、「アメリカ大陸」といわれる「事実としての地域」を、コロンブスが新たに創造したとは言っていないのです。

 私の考え方が極端で強引であるというのがBunkouさんのご意見でしょうが、私にとっての「言語論の革新」とは、以上のように現在は一般的でない、ものの見方考え方が、実は人間存在の共通理解にとって根源的に重要であるという立場なのです。このような考え方が、従来の枠組みで考える人にとって、不快な感情を引き起こすものであることを承知していますが、議論上必要なことなので、悪く思わないでください。私としては「知性の整合性」を超えていないと思うのですが、無理な希望でしょうか。以下、順次簡潔に述べてみます。

① 知性は、言語によって問題を見いだし解決します。

 知性は、問題となる事象を見いだし、それを言語化して問題を解決しようとします。「何がどのように存在するのか。」「なぜ、どのようにしてその事象は起こるのか」「どうすればその問題は解決するのか」等の疑問は、言語的思考──すなわち人間の持続的な知性の能力によって初めて可能となります。

 西洋的「反映論」の特徴は、認識の結果としての命題(論理)をそのまま真理とみなし、認識主体の選択や判断・思考の(創造的)過程をあまり重視しないことにあります。「見る(認識する)こと」は、常に選択的に見ること(選択的認識)であり、抽象的な「リンゴ」は、いくつかの具体的な「リンゴ」を選択的に一般化抽象化して再構成・創造したものです。

② アメーバの認識と言語(生命が言語を得たことの意味)について

 「生命にとっての言語の意味」は、説明が不十分でした。しかし説明には一冊の本が必要なので、少しだけ付加しておきます。アメーバもチンパンジーも、外的内的な自然環境からの刺激に直接的に反応しています。しかし人間は、言語的観念的世界(二次的環境)を脳髄の中に創造することによって、直接的環境を超えて思考し行動し、新たな間接的環境を創造します。Bunkouさんの言われる「環境を変える意識」に重点があるのではなく、言語を得ることによって、人生観や思想(宗教やイデオロギーなど観念的世界)、さらに道具や機械・建造物、芸術などを脳髄中に創造して生活し行動している結果、環境を変えることにもなっているということを言いたいのです。また、環境には無限の事象があっても、人間は、自らが学習し創造した価値観(観念的世界)にもとづいて選択し判断し行動する生命であるということです。もちろんユニークさを強調することに主眼があるのではありません。

③ 合理化と知性の向上について

 私は、人間存在の事実と、人間がどうあるべきか(倫理)ということは分離するべきであると考えています。人間は、善性(例えば利他心・慈悲の心)と悪性(利己心・憎悪の心)を持ち、善悪どちらにも傾きます。この事実を踏まえた上で、人間の善性をのばし、悪性を克服して、人間と社会を幸福にするのはどうすればよいかを考えます。頭ごなしに善悪を決めるのは、悪しき宗教や独裁者の好むところです。

 私にとって「合理化」という概念は、「自己正当化」と同様に、善悪両方に使用される価値自由な概念です。「知性」もまた、私にとっては価値自由な中立的概念であり、知性によって自己の存在を合理化するのが言語的存在としての人間の特徴であると考えています。

④ 発見と創造──微妙な問題

 すでに冒頭で答えました。このように微妙な問題は、突き詰めると感情的な行き違いを生じやすいことは、よくあることなので、当初は避けようとしていました。しかし、Bunkouさんのねばり強い思考力と忍耐力によって、ここまで考えられたことに感謝しています。今までの議論を通じて、私には新しい発見や創造がありました。今後の人生に活かしていきたいと思います。本当にありがとうございました。

*注 上の記述はBunkouさんに理解していただけませんでした。おそらくソシュールの次の文を読んでいただけたら、私の言おうとしたことに賛同されなくとも、了解はされるだろうと思います。

「心理的にいうと、我々の思想(観念)は、語によるその表現を無視するときは、無定形の不分明な固まり(無限の対象)に過ぎない。記号の助けがなければ、われわれは二つの概念を明瞭に、いつも同じに区別できそうもないことは、哲学者も言語学者も常に一致して認めてきた。思想は、それだけとってみると、星雲のようなものであって、その中では必然的に区切られているものは一つもない。予定観念(合理的世界)などというものはなく、言語が現れないうちは、何一つ分明なものはない。」(ソシュール『一般言語学講義』小林秀夫訳 岩波書店)

 「シニフィアン(言語記号)とシニフィエ(言語概念)の絆は、人が混沌たる塊(無限の対象)に働きかけて切り取ることのできるかくかくの聴覚記号(言語記号)とかくかくの観念(言語概念、意味内容)の切片の結合から生じた特定の価値のおかげで、結ばれる。」(丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店から──( )内は引用者)