「ブッダのことば」と科学

今よみがえる「ブッダのことば」

――仏教の現代化と人類の永続的幸福のために―― 主任研究員 大江矩夫(山田 武)

 西洋的な合理主義があらゆる分野で支配的な考え方になっています。それによって「先進国」の人々の暮らしも便利で快適・豊かになりました。しかし、物質的な豊かさだけで人はしあわせになれるのでしょうか。『ブッダのことば』(スッタニパータ)』は、ブッダ自身の言葉に近くもっとも古い根源的な仏教の教え(原始仏典) であるといわれています。そこに「真の豊かさ」を見出すことができないでしょうか。仏教における「真の豊かさ」とは何でしょうか。様々の答えがありそうですが、私は心・精神と身体・物質的生活の調和・制御による永続的幸福・平安を確立すること(解脱・悟り・涅槃の境地)が「真の豊かさ=心の豊かさ」につながると考えています。

 仏教の開祖ブッダ(シャーキャ族出身ゴータマ・シッダールタ)はインド思想の背景のもとで人生苦の根源を探り、修行瞑想を重ねて悟りを開き、生存の苦しみから解脱したと自覚しました。彼は苦楽を克服し永続的平安・幸福を獲得した傑出した聖人であるとともに、現代で言えば偉大な臨床心理学でした。

 科学の時代に生きるわれわれには、時代背景の異なる社会に生きたブッダのような生き方や考え方をそのまま適用することはできません。しかし、人生に起こる苦や煩悩(生きる意味の薄弱さ)を克服し、現代社会の諸問題を解決するために、ブッダの教えや智恵から多くを学ぶことができます

 とりわけ原始仏典は、ブッダの真意に近く、漢訳された仏典とは異なって、科学的心理学の心の捉え方に類似しています。今や仏教は、日本では葬式と観光に特化して金儲けに走り、民衆の心の支えとしては不十分です。人類社会の平和と安定をめざし、日常生活と人生の意味づけに役立てるために、仏教を現代化することが必要です。そのための一助となることをめざして『ブッダのことば』を読み解いてみます。

◇ 人生苦の根源とその対処法をどのように理解するか―仏教は科学的宗教である

・仏教の目標:欲望・執着の克服・制御による永続的幸福(解脱)はいかにして可能か?

① 生きることは、個体と種の存続のために欲求を充足させること(生きることの生物学的意味)

② 欲求の充足は、安心・快楽を求め、不安・苦痛を避ける原理による(欲求と感情の原理

③ 人生苦は、快楽が得られず、苦痛に悩む状態である(仏教は快苦の超越をめざす

④ 人生苦を克服し、永続的幸福(快楽)を得るために宗教が成立した(宗教一般の存在意義

⑤ どのようにして人生苦を克服し、現世における永続的幸福を得るか?(人生に意味を見いだす)

(※永続的幸福とは:人生の真実によって意味づけられ獲得される永続的至福の感情。幸福にも様々あるが、食欲や性欲、表現欲や創造欲等のように外的・物質的対象によって充足して得られる幸福感ではなく、瞑想・思考や精神集中によって得られる内面的精神的幸福感のこと)

・宗教一般における人生苦の対処法―自力救済と他力救済

❶ 『旧約聖書』は、神の命令違反による楽園追放(人生苦)を律法と祈りにより救済

❷ カトリックは教会・聖職者の権威(他力)、プロテスタントは聖書と信仰の権威を重視

❸ 『原始仏典』は、輪廻の人生苦(快苦の煩悩・悪循環)を明智と修行により克服(自力)

❹ 『大乗仏典』は、輪廻転生の人生苦を念仏・布施・菩薩信仰等で救済(他力)

❺ 科学時代の人生の意味づけは、検証可能な人間存在と心理の解明が必要

❻ 宗教的自力救済(哲学・科学・智恵・瞑想)と他力救済(信仰・互助)の統合が必要

(※仏教的人生苦(四苦八苦)とは:生老病死、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦)


『ブッダのことば(スッタニパータ)』の読み方

                          (見出しと引用文中【 】は引用者による。)

■<慈(与楽)悲(抜苦)の心>

147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

149 あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものども【有情】に対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。

■<人生苦(煩悩)は避けられない>

574 この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない【諸行無常】。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている【一切皆苦】。

575 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである【四苦:生老病死】。

■< 四つの真理(四諦):苦諦・集諦・滅諦・道諦>

726 しかるに、苦しみを知り【苦諦:四苦八苦】、また苦しみの生起するもとを知り【集諦:縁起】、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り【滅諦:解脱】、また苦しみの消滅に達する道【道諦:八正道】を知った人々、──

727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱【般若波羅蜜多】を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない【輪廻・悪循環からの解脱・解放】。

■<苦の根源である無明から明知による解脱へ>

729 この状態【現世】から他の状態【来世】へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明【根本無知:苦の根源】にのみ存する。

730 この無明とは大いなる迷い【煩悩・三毒】であり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存【生への執着:輪廻・悪循環】に戻ることがない。

※【煩悩・三毒】煩悩とは 人生苦(四苦八苦)を生みだす精神のはたらき。種々の欲望や他者への否定的感情(怨みや怒り)、現世的快楽や名誉等への執着で、「三毒」「百八煩悩」などと区分される。三毒は、人の心を毒する三つの根本的な煩悩で、貪欲(ドンヨク;欲望)・瞋恚(シンイ;怒り等否定的感情)・愚痴(グチ;無知)があり、これらを智恵と修行によって消滅させて悟りを開く。

■<解脱とは快苦(功利主義)を超えた安らぎである>

738 楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて【五蘊:色受想行識・人生における煩わしいこと(苦・煩悩)の原因と状態】、

739 「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物【色即是空】に触れるたびごとに、衰滅すること【諸行無常・世間虚仮】を認め、このようにしてそれらの本性【諸法実相】を識知する。諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることなく、安らぎ【涅槃・ニルバーナ】に帰している。

■<涅槃と真理とは>

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるもの【名色・個体】を我と思いなし、<名称と形態>【名色】に執著している。「これこそ真実である」と考えている【顛倒】。

758 安らぎ【涅槃・ニルバーナ】は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理【法】であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。【世間虚仮、唯仏是真】

名称と形態(名色):名色とは、識別作用によって生じる存在の構成要素、悟りの立場からは空(無常)としての精神と物質、または言語と現象、または対象・個体】

安らぎ(涅槃):安らぎとは、色即是空・諸行無常(事物の虚妄や衰滅)を認知することによって、快苦を生じさせる感受そのものが消滅し、欲望・快苦を超越した心の平安状態である―安心立命の境地―。】

■<真実は、分別・判断を超えた無分別の境地にある>

860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない【無分別の法:優劣判断の超越】。

861 かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない【無所有・無執着】。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」

■<欲望の原因は、快不快の判断である(知覚・判断を超えよ)>

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また人が来世に関していだく希望と成就とは、それにもとづいて起る。」

867 「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあること【諸行無常】を見て、世の中の人は<外的な事物にとらわれた>断定【顛倒】を下す。

現代科学では、仏教とは異なり、生理学的な欲求があって快苦(快・不快)が起こり、その快苦が、言語による創造力と一体化して欲望を肥大化させる。欲求⇒快苦⇒言語的創造力⇒欲望の肥大化】

■<煩悩の消滅は、智慧と注意(瞑想)による「識別と名色の止滅」にある>

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧【般若】によって塞がれるであろう。」

1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態 名色:空としての存在の構成要素、仏教的解釈では虚妄としての精神と物質】とは、いかなる場合に消滅するのですか? おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」

1037 アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる【空の状態】。」

名称と形態(名色)とは、識別作用に用いる言語記号(名 nama)とその対象(色 rupa:主に物質的形態・現象)のことを意味する。ブッダは、煩悩(執着・欲望の肥大化)の根源とされる識別作用を超克して涅槃や解脱に達することを目的としている。仏教は、名色に囚われた煩悩生活から解脱するために、名色の識別作用から生じる現実への虚妄の見方を克服して、空の状態(諸法実相)とみなすこと(色即是空)が、悟り・涅槃への道であると考える。】

1119 (ブッダが答えた)、

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ【色即是空】。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」

ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 (『般若般若波羅蜜多心経』より)

(往けるものよ往けるものよ、彼岸に往けるものよ、彼岸に全く往けるものよ、悟りよ、幸あれ)


◇ 仏教の限界・欠点とその克服(現代化・心理科学化)―仏教の何が限界か?

・仏教の時代的制約は、生命言語説(※)による心理学の革新によって克服できる。

仏教的明智・識別の認識論的限界は、今日では生物学的・心理学的解明によって克服可能

 ☞ 仏教的悟りは、明智・識別によって生理的欲求や感情を制御すること(識別の必要性)

仏教的人生苦・煩悩の消滅状態(解脱・涅槃)の不明確性は科学的検証により克服

 ☞ 解脱・涅槃の心の状態は、主観的・相対的なもので不断の意識集中や瞑想を必要とする

仏教の否定的厭世(輪廻・悪循環)思想の限界は、快楽・幸福の永続化(解脱・解放)によって克服可能

 ☞ 人生の常態は苦あれば楽あり。苦楽の肯定的理解を意識的に幸福の永続化に高める

大乗仏教における菩薩救済思想の神秘性(空思想・空観)を臨床心理学で解明

 ☞ 苦楽や対象(空)への執着を縁起的・相依的に解釈し、肯定的理解の方向へ転換・意識化

人生苦を克服するには、心の科学的分析が必要。解脱・空の科学化と心身のコントロール

 ☞ 心に起こる快苦・肯定否定の対立的感情を、仏教的明智によって永続的幸福感情に高める。

(※)生命言語説:言語を持った生命である人間は、欲求・感情・行動を言語刺激(人間の知識は言語の構 成物)によって制御することができる。例えば「あのブドウは酸っぱい」「ウソをつけば地獄で舌を抜かれ る」「天地は神が創造された」等々という言葉で、欲望や否定的感情や行動をコントロールする。


<解脱・縁起・無常・空の科学的現代化とは?>―生命言語心理学

・仏教の現代化は、人生の意味を科学的に捉え、宗教(ものの見方考え方)を普遍化できる可能性を含む。

❶ 人間は生命細胞で構成され、生命として空ではない(生即是有)。

❷ 現象を空とする(色即是空)発想は、観念的知識の限界(無明)を示し非科学的である。

❸ 観念の限界は、人生への執着にもとづく誤った言語的意味づけであることを自覚する。

❹ 認識・行動における快・不快は、対象に対する主観的感情反応であることを意識化する。

❺ 仏教における解脱は、刹那的快楽や苦痛を超えた意志的な心の永続的平安である。

❻ 永続的平安・幸福とは、心身の言語的統制による意志的感情の内的反応である。

❼ 仏教の現代化は、まず仏教(仏典・法)的認識論を、生理・心理学の知見に基づいて再構成し、宗教的信仰と科学を統一することが必要である。それによって、諸個人の「永続的幸福」が心の中でどのように実現できるかを、すべての人が共有できるように法則化して、その永続的幸福の実現を「仏教的人権」として確立し、それにもとづく民主的福祉社会を樹立することを目的とする。「仏教的人権」は、西洋的功利主義(快・不快原則)を克服し、人権の基礎となる「幸福追求権」を深化発展させ、世界平和と人類の「永続的幸福」を実現する。

【仏教的人権とは、「永続的幸福」のために「幸福追求権」を深化・発展させること】

◇ 私たちは、「仏教の現代化・科学化」によって、より容易に、人生の様々な疑問に答え、ほとんどの人が経験する人生の困難や死の恐怖を克服し、生きることへの勇気と希望を見いだすことができると考えます。ブッダはさまざまの人生苦を根源から克服しようとするすぐれた臨床心理学者であり、人生苦からの救済者としてアジアの多くの人々から敬慕され、信仰の対象として支持されてきました。ブッダの教説をもとに現代化した仏教的臨床心理学では、人生における不安と絶望、悲痛と恐怖等の否定的感情を克服し、快楽と独善の自己破壊的欲望と感情を抑制・制御することによって、自己の置かれた状況を正しく捉える認知機能が高まり、困難な状況でも問題解決の方法を見いだし、同時に自己の人生への自信と「永続的平安・幸福」を獲得できることをめざします。

 ただ、仏教的精神的平安・幸福は、在家の人間(一般の市民大衆)にとって、物質的・経済的余裕を必要としますし、理解しやすさや普遍性を無視して実現できるものではありません。ブッダの生きた時代(BC500頃)は、出家によって解脱や悟りを求めるインドの極めて宗教的な雰囲気(独特の文化や価値観:苦の輪廻から解脱する強い希求)がありました。ブッダは、何人も認めることができるように、科学的知識が不十分な時代背景のもとで、常人が到達しがたい人間観察の天才であり、人間的に最も気高い倫理性をそなえた聖人でした。

 だから、ブッダのような高潔で賢明な人間にしか到達できなかったような解脱の境地を、在家の人間が体得するのは本来困難であったと思われます。そのため後世(紀元前後)、大衆救済のための大乗仏教の興隆があったことは、ブッダの意図とは異なっても、当然理解されることです。しかし、科学的認識の困難な時代にあって煩悩に苦しむ衆生の救済は、神通力、方便力、観音力、念仏等の神秘化された力による救済が中心にならざるを得ませんでした。

 そこで大乗仏教に代わる「科学的臨床的仏教」が、現代において普遍的なものとして要請され、仏教的人権として確立されることが期待されることになります。つまり 「仏教の現代化」とは、将来の地上のすべての人間が、永続的幸福を得る条件として、新しい人間の権利を確立することを意味しているのです。生まれながらにして自由でも平等でもない人間が、等しく永続的幸福を得るために、自由と平等の理念が人間の権利として必要なのです。

 永続的幸福が、人権の要である自由・平等の実現の条件となる。一部の人の自由、形式だけの平等ではなく、永続的幸福があっての自由平等の実現こそが、基本的人権の目標とならなければならないのです。

 そのためにまず、「心とは何か」を科学的に究明する必要があります。

仏教の心と三毒:ブッダの教え(三毒)が、生命言語説による心の構造理論といかに類似しているかを を述べます。三毒説は、心の三要素(欲・情・言)に一致します。

永続的幸福の条件 生きるに値する人生とは? 生きる目的と言語


<参照> 『ブッダのことば(スッタニパータ)』 (中村元)より抜粋

773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずせして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

1119 (ブッダが答えた)、

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」

新世界人権宣言の意義 世界連邦への道 日本国憲法改正の三条件