市場の欠陥性(part2)
■市場の欠陥性とは(2)
<市場の欠陥性は、有限性・脆弱性・利己性という平均的人間のもつ本質に由来する道徳的・倫理的欠陥として現れる。> ☞ ◇ 市場とは何か―経済学における非道徳性の根源 (㊦↓)
◇ 市場は「失敗」するものではなく、本来「欠陥」を持っている
主流経済学で言われる「市場の失敗」とは、市場の「完全競争」という仮想の状態を前提とした議論ですが、この表現は人間存在の事実を前提にしていないために正しくありません。完全競争は、実際には存在しない「自律した人間の自由と平等」(合理的経済人)を前提とした机上の観念的空論にすぎないからです。
「失敗」とは「成功」の対立概念で、市場が公正公平なものであるという前提で成立します。もしその前提が仮構のものであり、市場が本来は欠陥のあるものであったらそれは「失敗」ではなく、今まで言われてきた「市場の失敗」とは、市場の本来持つ欠陥の現象形態であることになります。そして、それを防止するためには、本来の欠陥に対応した新たな契約(市場理念・規制・道徳)が必要となるのです。
◇ 市場の欠陥性は人間の道徳的欠陥性(限界性)に由来する
では「市場の欠陥性」とは何でしょうか。これは、人間の欠陥性(不自由・不平等、主観的自己中心性)という不都合な真実のため、市場が完全ではなく、また完全でないからこそ、不公正な競争によって市場の活性化と拡大が脅迫的に行われるのです。そこで、市場(社会)に平和と秩序をもたらすために、人間(社会)の欠陥性を抑制し、道徳や政治によって利害を調整する必要が生じるのです。
市場の欠陥性は、人間が欠陥を持つために、人間関係において利害や対立が日常的に現れます。そしてそのような緊張関係は当事者間の合意にもとづく商品交換という市場の契約関係に、欺瞞性という非道徳的な姿をとって現れるのです。それゆえ、市場の欠陥性とは、人間の欠陥性に由来する「道徳的欠陥性」であり、市場の商行為とそれを合理的に正当化した経済学に欺瞞性がつきまとうのです。
それは端的に表現すれば、市場における交換関係は、主流経済学の想定する等価交換(A商品=B商品)ではなく、不等価交換(A商品≠B商品)であり、また別の表現ではwinA≠winB、あるいはもっと正確には、winA>winBということになるのです。さらにgive and takeは、give > takeまたはgive< takeであり取引の交渉力(情報力・経済力そして欺瞞力)に左右されるということにもなるのです。
ただ、「人間の道徳的欠陥性」について、誤解のないように言っておけば、「道徳性」という概念は主観性が大きく、すべての人間が生まれつき持っているものでも、現代社会の日常が、非道徳性で満ちあふれているというわけでもありません。人間は善性も悪性も持ち合わせており、それがどのように現れるかということが問題となるのです。例えば、他人への甘えや我が儘、優越感や劣等感は、生きるための本能なのですが、他人への配慮をしながらそれらを抑制的に制御できれば道徳性を高めることもできるのです。しかし、今日の経済理論のように弱肉強食や競争淘汰をもとにした経済成長優先のイデオロギーでは、人間の利己的弱点が社会を支配し、道徳的欠陥性が人類社会を不可逆的な危機・混乱に追い込んでいくのです。
◇ 資本主義市場経済の発展・変質・限界
さて市場とは、人間の欲と欲がぶつかり交錯する取引の場で、交換によって相互に利益を得る場合も多いのですが、思ったほどの満足を得られず損をした、あるいは相手に得をさせたと思うこともたびたびです。アダム・スミスの考えたように、合意の上の取引ならば、利己的に自己の利益を得れば、他人も利益を得ているはずである。また、少なくとも社会の平均的利益につながるという「利己的互恵」「利己的公益」という考え方は、「経済の拡大的成長」を前提としなければ成立しません。
市場では、自己の余剰生産・所有物は、他者の余剰所有物との自由な交換によって両者にとっての利益を生み、生活を豊かにします。しかし、この交換・取引の行われる商品市場では、交換における相互の利益は主観によって、または置かれた状況によって相互に大きく異なります。例えば、ある食品の価値は、飢えている人にとっては大きくても、満足している人にとっては価値は低いものです。
また大量に取引が行われる商品市場での特定商品の価値(価格)は、需要供給の関係で平均的な基準が決まるとしても、取引者の条件(情報の非対称性:強弱の立場)によって価値は異なっています。例えば、独占的商品の場合、取引量や価格を操作し、超過利潤を獲得することができます。さらに労働力商品の場合は、労働者は生きるために労働力を売らざるを得ない弱い立場で、しかも失業者(求職者)が多いと労働者はいっそう不利になります。
主流経済学での「企業は利潤の最大化をめざして行動している」という定式化を実現するためには、個々の企業は新商品の開発や生産コストの低下(生産性の向上)、そして労働者のコストを削減することによって競争に打ち勝とうとします。その結果、過剰生産等で市場全体の拡大成長が停滞すると、そのまま放置すれば急速に経済危機(恐慌)の状態になってしまいます。
かつて自由放任の資本主義では周期的恐慌は不可避とされましたが、市場経済に対する国家の介入、すなわち財政金融政策(ケインズ政策)や労働・企業法制(経済規制)が整備され、ある程度の経済コントロールが可能になりました。しかし、新自由主義に代表される自由競争万能主義(小さな政府論)では、強者支配と格差の拡大、そしてその結果としての社会の不安と退廃(利己的公益主義の欠陥)がもたらされることになります。
(※追加 マネタリー資本主義批判)
ではどうすれば資本主義の繁栄、経済の拡大成長の基本となってきた自由競争市場を、経済の縮小によっても機能させていくにはどうすればよいのでしょう。私たちはそのために一つの提案をしています。それが「新社会契約説または道徳的社会主義」ということになります。
◇ 市場とは何か―経済学における非道徳性の根源
市場とは、欲望の充足(生活の維持、便利と快適の追求、蓄財と他者支配等)を求めて、商品(財[物、貨幣、証券等]、労働、サービス等の資源)を、交換・取引・売買する場である。市場では、売り手(供給者)と買い手(需要者)の所有する商品を、双方の合意・契約によって交換し、双方が利益を得ることができる。(win winの関係が交換の原理)
商品交換の比率は、需要・供給双方の状況・力関係に左右されて決まり、平均的比率が次の交換の基準となる。しかし、交換における双方の利益は、自己の商品と相手の商品との比較による主観的なものであり、また社会的平均価格は一時的暫定的な量であり不断に変化する。いわゆる均衡価格や定価・販売価格などは便宜的なものであり、市場の交換の多くは便宜的な基準で行われている。(平均は実態の一面に過ぎない)
商品の価格は需給の変動によって変動し、「現在の価格」は将来の交換を規定する情報の一部となるが、需給をすべて規定する情報ではなく、その時々の状況や当事者の関わり方や力関係によって変動する。経済学者による市場の法則化(等価交換や需給価格調整理論の単純化)は、法則性を協調する余り、市場取引における交換や分配の実際問題(情報の非対称性)を捨象しすぎている。(数理経済学の前提は不十分条件)
その結果、市場におけるwin winの交換(等置)関係によって決まる交換価値(価格)は、実際には交換当事者の置かれた主観的状況において異なり、そのため、両者の獲得する利益(価値)は異なることになる(実際的不等価交換)。商品の不等価交換を通じての利益追求の原理(商業利潤原理)は、資本主義企業の利潤追求においても同様で、原材料(土地・工場を含む)としての一般商品と生産過程で使役する労働力商品を「安く買い」、製造商品を「高く売る」ことによって資本を増殖させるしくみは貫徹されていることになる。(win winの実体は winA>winBである)
以上の市場理解は、スミス・マルクス的資本主義観とは異なる。古典派経済学の父と呼ばれるスミスは、win winの交換関係を相互の共感の上に成り立つ社会倫理として正当化し、「見えざる手」による資本主義の自由な発展を推奨した。それに対し、マルクスはこれをブルジョア経済学として批判し、労働者階級(の労働力商品)は、等価交換であっても「不払労働」として搾取されいる。資本家階級の打倒による社会主義社会の実現は必然的法則(「見えざる手」と同じ意味)であり、革命なくして貨幣=資本による労働者支配と不正義は無くならない、と考えたのである。(スミス・マルクス的経済学の終焉)
スミスとマルクスは、ともに市場の可否や道徳性を論じず、むしろ市場では交換的正義(道徳)が実現している、または人間の本性(自然)にもとづくもので制御すべき対象とは考えなかった。市民社会の活動の多くは貨幣(カード類を含む)交換が支配し、貨幣を持つ限り便利で快適な生活が可能である。しかし、商品化された冨の移動(「資源の効率的分配」とも言う)は、交換強者による支配によって格差は拡大し、交換的正義は無視または軽視されている。市民・大衆は欺瞞的な経済学と浪費を煽る商業主義に流され、人生の意味を見いだせず競争に駆り立てられる。(交換強者は欺瞞的成長を推進する)
このような「市場の欠陥」は、主流の経済学においては合理的経済人の取引なので、存在するとしても「見えざる手」によって調整され、道徳家や学者の関与すべき領域ではないと無視された。そして、ひたすら自由競争を奨励し、経済の拡大成長を推進することで「パレート最適(現状維持のための資源の最適配分)」を維持しようとしてきた。環境破壊や貧困・格差の拡大などに対しては、市場の責任ではなく、存在しない完全競争市場を基準として「市場の失敗」と命名された。市場の欠陥や非道徳性の非難を逃れるため、主流の経済学では、「市場の失敗」は、経済学の責任ではなく政治や政策の課題として学問的責任を放棄してきた(市場の非道徳性・無責任)。むしろ財政や金融コントロールによって経済成長をすすめ、「市場の欠陥」から起こる大衆の不満を抑えてきた。(不公正を持続させる「パレート最適」)
しかし、今やグローバル経済の発展によって、環境破壊・資源枯渇・格差拡大等の否定的現象が出現し、世界経済の拡大成長の限界が明確になってきた。資本主義経済の欠陥に対する批判は、社会主義や制度学派の経済学で批判されてきたが、いずれも社会制度の問題としてとらえ、市場取引そのものの不等価性や欺瞞性(非道徳性)については正面から論じられることはなかった。労働者の低賃金や独占商品による超過利潤、それらの不等価性と格差の拡大は極めて明白であるにもかかわらず、スミスとマルクスの経済学における「等価交換原理」への権威(真実価値は労働価値という説、実際は抑圧労働の価値)は、今日の経済学の展開にも障害となっている。(スミスとマルクスが経済学の非道徳性の根源である)