宗教と科学

宗教と科学:神は人間の被造物―人間を救うのは人間である

 『利己的遺伝子』や『神は妄想である』などで有名な 遺伝子中心主義の R.ドーキンスは、キリスト教や宗教一般の批判(仏教は除外している)の急先鋒である。彼は 「神の存在を信じるか、信じないか」という問いを立て、科学(ダーウィンの「進化論」や分子生物学など)によって、「神は人間の妄想である」という解答を与えています。

 しかし、このような選択や解答は、「人間は、なぜ宗教や神を必要としたか(しているか)」という問いには答えてくれません。だから、一般の人たちにとって、十分宗教を理解できないので、「神を信じるか、信じないか」という疑問(難問)には納得できず、答えることもできないのです。重要なのは、「神への妄想」を人間がなぜ必要としたか、今でも必要であると求める人が、なぜいるのかということです。つまり、ユダヤ教に起源を持つ創造神の宗教(キリスト教やイスラム教など)だけでなく、解脱や悟りを求める仏教や、世俗利益(無病息災や子孫繁栄、極楽往生や金儲けなど)を求める宗教(多くの世俗的宗教)を、なぜ人間は求めるのか、という問いにドーキンスを初めとする宗教批判者達が答えないため、科学的根拠にもとづかない多くの宗教擁護論やいかがわしい新興宗教が後を絶たないのです。

 「生命言語説」(要検索)の立場から宗教を批判的に論じると、人が宗教を求めるのは、人間存在の 危うさや脆さ、人生苦(執着=四苦八苦)や原罪(楽園追放=勤労・出産・死)など、有限な人生をどのように意味づけ、どのように諸課題を解決して日常の生活に生かしていくかを、非科学的であっても、既存の宗教は言語を用いて論理的・説得的に宗教教義(『神話』や『聖書』、『仏典』、宗教道徳など)として示してくれるからです。多くの宗教批判では、宗教教義が科学的事実にもとづかないことだけを批判して、有限な人間の人生苦に対する救済への要請(欲求、願望、祈り)や人間存在の根源的不安に対する救済のような価値観に関わる問題には余り関与せずに、非科学的欺瞞性だけを批判するのです。

 人間の人生には、自己の欲求が実現できず、物事が思い通りに進まないなど、挫折と失敗を繰り返したり、成功者だけがもてはやされる世相や、また生活が不安定、平和が脅かされる、自然災害、不治の病、交通事故などなどトラブルや不安がつきものなので、人間を絶望や否定的感情に陥れる困難が尽きません。そこで大衆としての人間は、その救いを求めて単純な解決策としての宗教を創造し、問題解決を図ってきたのです。しかし、人生苦とその根源を科学的に解明すれば、生命言語説の立場からは、人間が言語を獲得して、自らの存在の意味を問うことから宗教がはじまったのです。科学的認識の方法が確立せず、知識が貧困であったことから、万物の根源や創造主を想像(創造)したのは、世界共通の事実(知的発展の程度には差があったけれども)であったのです。

 人間は言語を獲得することによって、「何がwhat、どのようにhow、なぜwhy存在しているか」など様々の疑問を持ち、その解明を通じて生きざるをえない存在です(「言語論」参照)。『聖書』では「創世記」において神から食べてはいけないとされた「知恵の実(善悪を知る木の実)」を食べたことが「楽園追放」の原因であったと述べています。動物にも生きていくための知恵がありますが、直接的に知覚できる対象(問題状況)にしか対応できません。しかし人間の言語は、動物の直接的刺激反応としての鳴声に対する第二信号系として、世界を言語記号化し大脳内で対象を再構成(想像)し、問題状況を解決に導くことができます。ところが、そのような言語能力を獲得することによって、人間には人生や人間存在についての意味付けが必要になったのです。

 以上のことを十分に検討せず、宗教は科学的事実 にもとづいていないと宗教批判を行っても、人間は救われません。だから事実に反した非科学的な欺瞞によって成立した宗教を、自ら手放すこともできないのです。従って、一般の人に「科学的であれ」と言っても、自分の生き方や人生の意味をわからずに説得しても、疑問と不安は募り虚無的になるばかりで、伝統的に支持されてきた宗教に頼らざるを得ないのです。

 生命言語説では、この限界を克服するため、生命の立場に立った人生の意味を解明し、自己コントロールによって宗教的人間の求めてきた「永続的幸福」を得る方法を提案しています。そのために人間の本質である言語と、人間の心の解明は必須の条件なのです。