誤った心の強化法

◇ 心を強くする方法の誤った理解:成功哲学と神仏依存の新宗教

――唯心(観念)論的な「心の神秘化」から自らを解放しよう――

○ ジェームズ・アレン(James Allen, J.1864-1912英国作家、自己啓発・成功哲学者)

『「原因」と「結果」の法則』(山川紘矢・亜希子訳 角川文庫 2016)原題“As a Man Thinketh”人は考えるように)

「『人は自分が思っているとおりのものになる』という有名な格言がありますが、それは人間そのものの在り方だけではなく、人生の全ての条件や環境でさえも自分が作っている、という意味です。

人は文字通り、『自分が思考するものになります』。自分の人格は自分の思考の完璧な集大成なのです。」(p17)

※☞ ジェームズ・アレンは、本来は文学者なので、文学的人生観に科学的哲学的批評を加えるのは見当違いかもしれません。しかし、彼の人生成功哲学は平易でわかりやすく説得力があるので、社会的影響が大きく、しかも、資本主義的な競争原理や成長発展原理の中では有効性が高いのです(実際この著書は、世界のベストセラーになっています)。しかし、順調な成長とそれに伴う成功物語が限界を迎えるグローバルな縮小社会では、持続的な説得性を持たなくなると思われます。アレンが言うように「思考」や「願望」「意志」「思い」等の精神性(意識性)が、人間の行動に大きな影響力を持つことは万人の認めるところです。しかし、思考や精神性がなぜ人間の行動に決定的な影響を持つかは、科学的哲学的な検討を必要とします。というのは、現代は単純に個人の成功や幸福が社会や世界と結合し、環境の限界が人間の限界を明らかにしているからです。

上記の引用のように、環境が人間の思考や意識を作るのか、人間の思考や意識が先かは議論の分かれるところですが、アレンのようにこれを決定論的に「自分(人間・個体)」が環境を作るというのは誤りです。これは、アレンの意識するところではないでしょうが、イギリスのロックの経験論やマルクスのような社会主義の系譜に属する唯物論の立場と正反対の観念論(唯心論、妄想論)です。また、仏教を創始した釈尊の人生苦と輪廻転生から解脱をめざした立場や、「物心一如」(自然と心の融合・調和、精神統一・浄化)をめざしている東洋思想の観念論とも対立します。アレンの単純な(機械的)因果論は、西洋思想に特有で、東洋の縁起的因果論と異なります。

「苦しみは常に何らかの誤った思考の結果です。苦しみはその人が自分自身と調和、そして自分の存在の法則との調和に失敗していることの明確な印なのです。

苦しみの唯一のそして最高の役割は、不純で役立たないあらゆるものを浄化し、焼き払うことです。

完全に浄化され純粋になった人は、苦しみから抜け出すことができます。不純物が取り除かれた金はもう火にかける必要はありません。そして完全に浄化され、悟った人間はもう苦しむ必要はないのです。」(p42-43)

※☞ 行動の原因がすべて「思考」の結果であるように見なすのは誤りです。行動の原因には欲求や感情があり、「苦しみ」は、必ずしも思考の結果とは限りません。というよりも、苦しみは、生きるための行動の原動力として、安楽に拮抗して存在するものです。人間は「楽を求め苦を避ける欲求」を持ち、その判断は生理的には感情が行います。決して自己存在の調和(適応)の失敗ではありません。調和(適応)の失敗は、苦痛を生じますが、それを不断に克服することが人生なのです。苦痛を克服できないような適応の失敗(の持続)は、自分で解決できないような病的な精神的苦痛を生じますが、「完全に浄化され純粋に」ならなくても、正しい知識で心を強化したり、社会的援助によって苦しみから抜け出すことができます。一体「完全に浄化され、悟った人間」とはどのような人間をいうのでしょうか。吾々にとって「苦しむ必要がない」とは、生理的生存さえ無くなることを意味するのです。

「どんなに弱い人間でも、自分自身の弱さを知り、「強さは持続的な鍛錬によってのみ開発される」という真理を信じたときから、直ちにエンジンがかかりまず。そして、努力に努力を重ね忍耐に忍耐を重ねて、ますます強力なカを発揮できるようになります。そしてさらに成長を続け最終的には神のように、素晴らしく強い人間へと成長します。

弱々しい肉体を持つ人間が注意深く、忍耐強いトレーニングによって肉体を強くできるように、弱い心をもつ人間も、正しい思いを持つ練習をすることによって、心の強い人間になることができます。 自標のない弱々しい漂流者であることを止め、人生の目標を持って考え始めると、強い人間の仲間入りをします。」(p65-67)

※☞ この引用文は、我々に「心を強くするため」の説得力ある力強いメッセージとなっています。これらの言葉は、鍛錬、努力、忍耐、成長、トレーニングと、我々の心を奮い立たせ、神のように(?!)信仰を持つ人にとって、すばらしく強い人間になろうという「意志的感情」を引き起こします。

しかし、余りにも力強い言葉であるがために、ちょっと立ち止まって考えてみると、幾つかの疑問が湧いてきます。それは、「神のように素晴らしく強い人間」「正しい思い」「人生の目標」というのは、いずれも検討を加えれば曖昧な内容で、それでいて、この世に完全なものがあるかのような錯覚・幻想を抱かせるような言葉です。

アレンは、別のところで「あなたが心と人生の修行を積んで最高の完璧さに到達しようと目指すのであれば、そのはるか初期の段階で、完璧な神の法則が自分の思考と生活に働いていることを発見するでしょう。それは絶対的に正しい法則であり、それ故に、悪に対して善で報いたり、善に対して悪で報いたりずることは絶対にないのです。」(p41)と言っています。「最高の完璧さ」や「完璧な神の法則」「絶対的に正しい法則」等というものがあるのでしょうか。生命言語説だけでなく今日の科学的自然観や世界観、人間観では、人間存在や人間の認識能力に、ある程度の完璧さは求められても「絶対」ということを認めていません。物理学における相対性理論や不確定性理論は、人間の認識の絶対性を認めず、また生命言語説では、認識を成立させ知識や理論を構成する言語は、表現の手段ではあっても対象の部分を切り取ったものに過ぎないと考えます。

一体、著者ジェームズ・アレンは、自分の中にどのような「完璧な神」「絶対的な法則」見いだしているのでしょうか。

自分自身を変えること、そして自己コントロールができることは、アレンとともに多くの人が求めるところです。しかし、「生命言語説」よれば、「強い心」は神のような絶対者の完全さを必要としません。必要なことは、心についての検証可能な正しい知識です。著名な信仰者や宗教者(イエスや教皇、マザーテレサなど)でも、神の存在に疑いを持つことがあります。しかし、われわれは、「生命言語説」によって、人間の想像(空想)の産物である全知全能・完全な存在に頼らなくても、それ以上の確実さで心を強くし、人類共通の知恵と知識を持つことができるのです。


○ 谷口雅春(1893-1985「生長の家」創始者・宗教家)

「生長の家七つの光明宣言」

① 吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せん ことを期す。

② 吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。

③ 吾等は人類が無限生長の真道(マコトノミチ)を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。

④ 吾等は生命の糧(カテ)は愛にして祈りと愛語と讃嘆とは愛を実現する言葉の創化力なりと信ず。

⑤ 吾等は神の子として無限の可能性を内に包有し、言葉の創化力を駆使して大自在の境に達し得ることを信ず。

⑥ 吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんが為に、善き言葉の著述、出版、講習、講演、ラジオ放送、テレビジョンその他凡(アラ)ゆる文化的施設を通じて教義を宣布するものとす。

⑦ 吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより病苦其(ソ)の他一切の人生苦を克服し相愛協力の天国を地上に建設せんが為に実際運動を起す。

(『生命の實相 第1巻』より、番号太字下線等追加)

※☞ 谷口雅春の「言葉の創化力」という概念は、他の近代的宗教家の世界理解よりも群を抜く卓越性を示しています。「万教帰一」によって伝統的宗教の限界を克服し、それらの長所を取り入れ融合し、近代宗教として体系化したのです。極東の近代日本に流入した宗教や科学の成果を、東洋的「物心一如(天地萬物と和解)」と日本的現世主義に統一融合させた見事な宣言といえます。

人類の文化・文明の源を生命の獲得した「言葉の創造力」にみいだし、受動的な西洋的被造物から脱却し、合理主義の根源である「言葉」を、相対的手段でありながら人間の創造力の主体的原動力と見なして、人間と世界の変革を説いています。

また、旧来の宗教が「死後の天国(楽園)」を描いたのに対し、彼は「地上の楽園」を思い描き、近代科学の成果と宗教の統一を試みました。その内容は、すべての生命は神が顕現したものであり、その「実相」を理解することによって神同様の完全性を獲得し、病気にもならず一切の人生苦を克服し「大自在(悟り)の境」に達することができる、とするものです。

しかし、このすぐれた教義の限界は、「生命と言葉の実相」を有効に活用しようとしたのですが、同時に生命と言葉についての正しい理解を欠いたために、今日から見ると単なる空想に終わっているということができます。

彼の『生命の実相』(以下『実相』)での論理の基本は、日本の新興宗教の教祖に共通してみられる心性である日本的な依存(甘え)的単純さに求められます。日本固有の伝統宗教である神道は、基本的に古代的な楽天的単純さ(惟神カムナガラの道、清明直、「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国/万葉集 3253」)を持ちます。しかし、『実相』と「生長の家」は西洋近代科学の影響を受けながらも、結局は日本的単純さに屈してしまいます。それは当時としてはやむを得ないとは言え、「生命と言語」に対する追求の甘さに表れているのです。

生命(セイメイ・タマシヒ)とは何か?、言語とは何か?、人間とは何か?、心とは何か?、彼にとっての科学との対峙は?、生命と環境との関係は?と、彼は、当時(20世紀前半)で考えられる限りに考えたのですが、結論は残念ながら今日の「生命言語説」から考察を加えると、やはり「トンデモ理論」ということになります。

例えば、生命について『実相』では、「吾々の生命(タマシヒ)は宇宙の大生命(オヤサマ=神)の支流であって、宇宙の大生命によって生かされてゐる」(「『七つの光明宣言』の解説」p7)とされています。これを解説では、唯物主義(唯物論・経験論)にもとづく科学的生命観を批判して、物質的生命(セイメイ)から、精神主義(唯心論)の生命(タマシヒ=不死なる霊魂)に主体を移し、生命(タマシヒ)は、大生命(オヤサマ)すなわち創造神によって生かされる支流(「生命は神の子」『実相』)となるというのです。そして「人は心であり、物質は心に思い浮かべた想念(オモヒ)が化したものでありますから、人の肉体は心で思うとおりになります。」(『実相』第2章)という結論になります。ここで「人の心」というのは、彼にとっては「宇宙の心の一部分」「宇宙の心の個人的表現(アラワレ)」(『真理』入門編第22章)ですから、心の分析については単純な唯心論で終わってしまうのです。これでは、生命や言語つまり「人間とは何か」「心とは何か」について科学的考察から逃避している、また、谷口雅春の心には偏狭な「宇宙の生命」しか宿っていないと言われても仕方ありません。

彼の生命観の最大の欠陥は、人間生命と他の生命との「共通性と差異性」を明確に分析していない、つまり、科学的生命理解にはほど遠いということです。共通性としては、地球上の生命が、地球という特殊な宇宙環境で、不安定な存在としてこの特殊環境に支配され、生命の恒常性を維持し持続的に生存せざるを得ないことです。差異性としては、人類の獲得した言語が、単なる伝達手段としてだけでなく、環境や世界を創造的(想像的、空想的、欺瞞的)に意味づけ(合理化・知識化)、人間独自の発展によって文化・文明を作りだしたのです。

また、人生苦(生老病死他)の根源をどこに設定するとみるか?によって世界観。価値観が変わります。

「自性円満の『生命の実相(ホントウノスガタ)』を大悟すれば、忽然として病自消す。生命は是れ神性のものにして本来無病なればなり。」(「実相篇 光明の真理」p42)

「人は心であり、物質は心に思い浮かべた想念(オモヒ)が化したものでありますから、人の肉体は心で思うとおりになります。」(上記『第二章「生長の家」の健康学』p61)

※☞ 生命の本来は、神性のある完全のものではなく、環境(状況)の運動を見誤まり適応に失敗すれば、、環境とのバランスを欠いて自滅します。生命は不安定な存在であり、快不快・苦楽のバランスを取り、双方の感情判断によって行動し生きています。

生命には調整力、抵抗力、免疫力、自己治癒力があり、これらを鍛え強化することはある程度精神力で可能ですが、病原体もまた生命なので、人間の病気状態(心身のアンバランス、不安定)は完全に治ると言うことはあり得ません。

人間の病気には外的物質的援助が必要である。「病は気から」とか「信仰が病を治す」ということは、現代医学でも証明できることで、実際に心身症(心気症)を対象とする心身医学が発達しており、病院には専門的な心療内科が設けられているところも多くあります。おそらく「生長の家」を含む病気治しの伝統的・近代的宗教は、心身関係を配慮した科学的医療によって必要が無くなると思われます。

「聖詩 光明の国」

(前略)

信ぜよ

信ずるとおりになるのが生命の法則だ。

自分の心を無限だと告げよ。

内なる無限から生命は滾々と湧いて来るのだ。

自分の心に自分を有限だと告げる者は、

無限の泉から有限しか汲まない者だ。

(中略)

わたしたちは生命の子だ。

無限の泉の子だ。

わたしたちは今それを知ったのだ。

知ったとほりになる世界!

望みどおりになる世界!

(『生命の実相 新修第10巻 聖詩篇』より抜粋

※☞ ジェームズ・アレンの人生哲学(成功哲学)にせよ、谷口雅春の新宗教にせよ、共通するのは、思考や心の無限の力に対する絶対的信頼、つまり、科学的検証に耐えられない徹底的唯心論(思考または心が、身体または環境を支配するという考え)です。そして、共通の誤りは、思考や心について、また人間や生命についての無知と無理解です。

科学的でなくとも、困難の解決や人生苦の克服に効果があればよいのではないかという声も聞かれますが、それでは真理の追究に反しますし、共通理解は得られず混乱を招くばかりです。とりわけ、誤った知識・情報が支配し、新しい科学的知識が無視または排除されれば、動物的・刹那的な欲求・関心・感情が優先し、唯物論が支配するカネと欲望の亡者達の世界になります。また、彼らの理想である個人の幸福・地上の天国の到来も阻まれることになります。

「自分が思ったとおりになる」(アレン)「信じる(知る・望む)通りになる世界」(谷口)の「思ったこと、知ったこと、望んだこと」が誤りであれば、「完全に浄化され悟った人間」も「地上の天国」も誤りとなります。逆に、強者支配、金銭支配、格差社会、軍人支配の世界になってしまうのです。近代の資本主義社会がそのようにして成立し、多くの修正が行われたものの、地球に生きる生命の限界をわきまえず、また人間の本質である言語の心理的意義を理解しないで「思考や心」を絶対化し、経済の拡大成長という欺瞞的な信仰教義にすがり続けることは許されないのです。

今日にも流布しているあらゆる宗教・思想が、その存在意義を見いだそうとするなら、古代ギリシアデルポイのアポロン神殿入口に刻まれた格言「汝自身を知れ」をあらためて熟考する必要があるのです。