仏教と生命言語説

仏教の心と生命言語説――三毒と心の三要素

――貪瞋痴と欲情言(心の三要素)の関連と悟りへの道(癒しから幸福へ)――

◇1 ブッダは、心の否定的状態(煩悩)を心の三要素でとらえ、克服しようとした

仏教の始祖釈尊(シャクソン = ブッダ)は、悟り(永続的な真の幸福)の道の実践的探求者であるとともに最高の(臨床)心理学者でした。彼は弟子達に日常の修行についての教えを説きました。その中で人生苦の根本煩悩とされる「貪(ドン)瞋(シン)痴(チ)」(貪欲・怒り・無知)の三毒(サンドク)は、解脱(ゲダツ 悟り)のために克服すべき否定的心(迷い・煩悩・人生苦)の代表的状態でした。このブッダが説く迷いの心の状態は、生命言語論の観点からは、心の否定的側面しか捉えていませんが、生命言語説における心の三要素(欲求・感情・言語)とよく対応しています。

原始仏典である『ブッダのことば(スッタニパータ』(中村元訳)では、三毒を次のように「貪欲と嫌悪と迷妄」または「貪欲(慢心)と怒りと偽り」として表現しています。

「74 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。」

「271 貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いと身の毛もよだつこととは、自身から生ずる。諸々の妄想は、自身から生じて心を投げうつ、──あたかもこどもらが鳥を投げすてるように。」

「493 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。」

「537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(名色:個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

◇2 ブッダは、人生苦の根源を根本無知(無明)にあると考えた

 仏教は、本来、「解脱の心」の状態を、「名称と形態」で成立する個体を越えた清澄平安なもの、と考えているので「絶対的観念論」というべきです。釈尊にとって、言語の人間的意義を科学的に理解できる時代ではなかったので、迷妄や妄想、真理や明智などの知識の役割を今日的な意味で正しく捉えてはおられません。しかし、釈尊は、誤った知識(迷妄)または無知(無明)が、煩悩の根本原因または煩悩そのもの であるとしていました。

 ただ「絶対的観念論」といっても、釈尊は、「名称と形態」(個体や物的対象=言葉と感覚的対象で成立する。プラトンのようにイデアを優先することはない。) のもとで、生存中に解脱に至れるとしているわけですから、心が肉体から離れて独立に存在していると考えたわけではなく、肉体と共にあるとしています。だから煩悩である「貪瞋痴」は、肉体と対立的な心に存在していることになります。

 そこで「貪瞋痴」の煩悩が活動する心を今日的に分析すると、「貪」は、貪欲という際限のない「欲求」であり、「瞋(シン)」は、瞋恚(シンイ)すなわち嫌悪や怒り等の「否定的感情」を意味し、「痴」は、無知や迷妄ということになります。これら三つの煩悩が渾然一体となって凡人の心を支配し、生存への執着と苦しみから逃れられないとされるのです。

 ここで釈尊は、「人生皆苦」を前提していますから、欲求はすべて煩悩(苦)につながると考えています。また感情も「肯定的感情」は欲求増大に結びつくので否定的に捉えています。世俗の喜びや楽しみはすべて解脱の障害になるので、原則として解脱のためには出家が必要となるのです。

 さて「痴」すなわち無知や迷妄は、心の三要素の「言語」と、どのように対応するのでしょう。生命言語説によれば、言語は情報の伝達手段だけでなく、情報処理手段として思考を通じて知識を構成し、人間にとっての判断行動の基準となります。この知的判断を誤れば、欲求や感情は常に抑えがたく、貪り怒りに狂って心を誤らせ、煩悩の拡大に囚われることになります。 (ただ欲求も感情も、遺伝や学習にもとづく強い個性的基準がありますから、知的基準がすべてを決めるわけではありません)

◇3 ブッダにとっての解脱や悟りは、三毒を克服し、さらに識別への執着をも超える境地である

 以上が仏教の三毒の心と生命言語説の心の関係ですが、釈尊の「解脱の心」は単純な心の三要素(欲求・感情・言語)を超えるものです。「単純な」とは、凡人の通常の感情では、喜びや楽しみなどの肯定的感情(功利的感情)は善とされますが、釈尊にあっては、悪を避け善を求めることも、「清浄である」とか「不浄であると」とか区別(識別)することも「執著」であり、「煩悩の汚れ」とされるのです(次の『ブッダのことば』の引用文の通り)。

「 212 智慧の力あり、戒と誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。」

「715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在しない。」

「 872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、<わがもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」

「 900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。」

「 902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。」

「 1037 アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」

◇4 仏教的解脱は、心理学的な心の分析によって永続的至福を得ることで可能となる

 しかし、私たちが提唱する仏教の現代化」にとっては、「解脱(悟り・ニルヴァーナの境地)の追求も欲求であり、意志的感情を伴う知的判断である」ことを心理学的に解明することが必要になります。そうでなければ、仏教の再生や現代化はあり得ないし、また、死を弔い悲哀の心を癒すだけのパフォーマンスをビジネスとする葬式仏教の汚名を克服することはできないのです。

 そのために生命言語説では、解脱は「執著」を克服することですが、釈尊が解脱し悟りを得ることに「執著している」ことは否定のしようがない事実と考えます。上記引用文中の「715 なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去って」のように善悪の判断や、「902 ねがい求める者は欲念がある。」として「善悪の判断」や「ねがい」を超越することは、言葉で表現しそれを共感することはできても、結局は人間の判断や願望であることを否定することはできないのです。実際『ブッダのことば』では「152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。」と述べ、聖人釈尊の「判断」が解脱(再び母胎に宿ることがない)の基準になっているのです。 

 論者の中には、解脱(悟り)を得ることにも執著しないというのが解脱の本旨(空思想)であると言われる方もあるでしょうが、もちろんそれは正しいのです。しかし、それは解脱の境地を体得した人について言えることであって、一般の修行者にとっては、解脱はあくまで到達すべき目標であり願望なのです。そして、我々はこれを古代インドの伝統的知識(ウパニシャッド)の創った理想的な心の状態への欲求、そしてその知識が求めた永遠性を伴う至福の意志的感情の状態であると捉えます。

◇5 仏教の現代化は、三毒を心の三要素で説明することから始まる

 さて、釈尊は克服すべき心の状態を三毒――貪(貪欲)、瞋(怒り)、痴(無知・迷妄)として捉えましたが、これは生命言語説における心の三要素として説明可能であることを述べました。さらには解脱(悟り)の心(境地)について、心の三要素から説明すると、解脱は「執著」を超えるので欲求に該当せず、同様に肯定的な快楽感情にも合致しないという問題が生じます。この問題は、今後「仏教の現代化」の過程で「解脱への執著」を認め、宗教的な「意志的感情」の意義を深めることで説明していきたいと考えています。これをヒント的に触れておけば、恍惚、空、至福・至高体験とも呼べるような永続的な状態ではないでしょうか。

 仏教は癒しと救いを越えて解脱を求めますが、まずは仏教そして聖者釈尊の言葉が癒しを与えてくれるという事実を、生命言語説の出発点にしています。自力救済が仏教の基本ですが、釈尊が自力の道(法)を示すことで、その道に従う他力(菩薩の救済力)が大乗に結実しました。しかし、まずは煩悩の生じる心の構造(貪瞋痴)を知ることが、仏教の心を知り癒しの道を歩む始まりとなります。

⇒⇒仏教の現代化

【補足】

 なお現象学の創始者フッサールは、「判断中止(エポケー)」を認識論の再構築(現象学的還元)に必要であると考えました。しかし判断中止自体が一つの判断であることを認識することができませんでした。言語的存在である人間は、好むと好まざるとに関わらず、また意図するか否かにかかわらず、自分の判断や行動について言語的に意味づけせざるを得ない存在です(虚無主義に陥らない限り)。彼はそれを理解できず、判断(認識)そのものの厳密な根拠(学問・科学の根拠でもある)を求めようとしました。

 しかし、それには結局成功せず、見果てぬ夢に終わりました(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』参照。なおその理由と検証については大江矩夫著『人間存在論―言語論の革新と西洋思想批判』参照)。

 人間は言語的判断を避けられない存在なのですが、釈尊(仏教)は言語的存在の限界(無明・無知にもとづく識別・判断作用)を超えて幸福(解脱)の本質を求めました。西洋では言語的識別を放棄すると虚無主義に陥りますが、東洋では識別作用を超えたところに悟りや真理を見いだします。釈尊については、以下の引用の通りです。

「734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということはあり得ない。

735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰しているのである。」(『ブッダのことば(スッタニパータ)』中村元訳)

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