カウンセリングと心理療法

●【カウンセリングの条件―感情コントロールと人間理解】

① 病的感情反応の形成

② 自己認識と言語的自己コントロール

③ 受容―援助的関わりによる自己覚知と人格変容

④ 援助的関わりの条件――豊かな感情と知識(言葉)

● 金子みすゞ『こだまでしょうか』

● ロジャーズ, C. 『治療的人格変化の必要十分条件1957』

● アイゼンク,H.J. 『神経症:その原因と治療』(行動療法)

● ベック, A.T.『認知療法 : 精神療法の新しい発展』

● バーンズ、D.『人間関係の悩みさようなら 』

● 釈尊の四諦説 『ブッダのことば』(苦悩からの解放)

図説不快刺激の心的処理

◇ 生命言語説の「心の構造論」と フロイト理論の批判

カウンセリングの条件―感情コントロールと人間理解】

① 病的感情反応の形成

人間にとって欲望や感情をコントロールすることは容易ではない。動物の欲望は生理的充足(快)をもたらす直接的行動で終わるが、感情・情動は行動を誘発・強化する内的反応であり、快・不快の状態は持続的で、刺激に応じて学習記憶される。しかも、人間の感情は、刺激が強過ぎると過剰反応が起こり、またその蓄積によって理性的なコントロールが困難となる場合が多い。例えば、恐怖によって失神したり、不安が大きいと興奮状態が続き、神経症になる場合がある。そして人間関係によって誘発される不快な否定的感情(怒りや哀しさ、緊張等)は、無意識的に抑圧を強いられその人の人格性(個性)や価値観として意識下に学習形成されると、日常でも正常な判断力を失い、病的な反応として表出されやすい。

② 自己認識と言語的自己コントロール

病的感情反応は、ストレス状況の起こる社会的背景(特に養育環境)を改善することによってある程度教育的に修正することができる。しかし、修正(教育・矯正)が困難であっても、自らの不愉快な精神状況を改善するために、自己を対象化して、否定的感情のメカニズムについての知識(認識の歪み・否定的言葉刺激の体系)を知ることは、感情をコントロールする条件の一つとなる(認知療法)。これを知ることは個人が、怒りや悲しみ等の否定的感情の意味を理解し、安定的自己を確立・昇華することを通じて、自己の弱さを克服し希望と自信の「意志的感情」を育てることになる(心を強くする方法)。

③ 受容―援助的関わりによる自己覚知と人格変容

しかし、自力で認知(ものの見方、感じ方)を変容し自己覚醒・救済を図ることが困難な事例も多い。そのような場合、他者からの親身で力強い援助――感情移入的理解と無条件の肯定的な配慮(ロジャーズ)――が必要となる。この援助(治療的関わり)は、生命のもつ自然な適応能力(自己治癒力・快復力)によって、自己の在り方を見つめ、不安・抑うつ・退行・依存の状態から、自己治癒力を目覚めさせ、自律への道を準備する。自律に必要なのは、自己理解にもとづく自己への信頼(自尊感情)であり、また他者理解による協調・協働関係の成立である。

④ 援助的関わりの条件――豊かな感情と知識(言葉)

自己理解と他者理解の獲得とその発展のためには、正しい感情と言葉に裏付けられた人間理解が必要である。人間への優しさや思いやり・愛情は、援助的関わりの必要条件でるが、誰もが十分に資質として体得しているとは限らない。しかし人間理解の知識と技法は学習と訓練によって獲得が可能であり、それによってカウンセリング(人間関係)能力を高めることができる。このようにして自己と社会への理解と信頼を深め、生きることの希望につながる「意志的感情(自信と自尊感情)」を自覚的に確立し、生きる力の育成とそのための援助の十分条件をもたらす。またすべての人は、正しい知識(言葉)と意志的感情を持つことによって、援助者・救済者になることが可能である。

そのために来談者中心療法(ロジャーズ)、行動療法(アイゼンク)、認知療法(ベック、バーンズ)、仏教四諦説(釈尊)の援助技法と人間理解(言葉)が有効と思われる。


こだまでしょうか

「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと 「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと 「遊ばない」っていう。

そうして、あとで さみしくなって、

「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、 いいえ、だれでも。

金子みすゞ (童謡詩人<みすゞ観音>

※ 「援助的関わり」すなわちカウンセリング(相談)は、誰にでも可能です。人間には本来「共感能力」というのがあって、お互いの感情(喜怒哀楽等々)を受けいれ理解し、それをそのまま相手に返すことができます。すると自分の存在が認められているということになり、気持ちが癒されて自信につながり、自分をさらに成長させようという前向きの気持ち(肯定的感情)になります(自己治癒力・成長力)。

しかし、相手の気持ちを理解できても、それを相手にそのまま伝えることはとても難しく、相手が喜んでいても自分の気分が悪いときは、逆に相手を傷つけるような反応をする場合がよくあります。「遊ぼう」と言うと「遊ばない」と言い、「ばか」と言うと「大ばか!」と返し、「もう遊ばない」と言うと「もう絶対遊ばない」と怒鳴り、いつまでも怒りと怨みの感情が消えずに、「ごめんね」と言えないことがあります。

カウンセリングでは、単に「こだま」のようにそのまま反響させる(オーム返し)のではなく、相手の気持ちを理解(共感的理解)してこだま(オーム返し)させるという「技法」があります。金子みすゞ『こだまでしょうか』の詩ではそれが自然に表されています。

「こだまでしょうか、いいえ、だれでも」という表現は、「こだま」のように「ばか」「もう遊ばない」と言い合っていても、「誰もが寂しくなって(自分と相手の寂しい気持ちが理解できて?)」、「ごめんね」という気持ちがおこってきますよ、「単なるこだま」ではないのですよ、という意味だと思います。金子みすゞは、天性のカウンセラー詩人であり、仏教的慈悲と優しさに裏付けられた詩人だったのです。(実は、競争社会・功利社会では、他者への配慮がないために自己の感情のままに行動する傾向が強く、自他の本当の欲求や感情を理解するのは難しいのですが・・・・・・。)

● ロジャーズ, C. 『 治療的人格変化の必要十分条件1957 』

「建設的な人格変化が起こるためには、次のような諸条件が存在し、しばらくの期間存在し続けることが必要である。

1. 2人の人間が心理的接触の状態にある。

2. 来談者と呼ばれる第一の人は、不一致[内的混乱]の状態にあり、傷つきやすいかまたは不安な状態にある。

3. 治療者と呼ばれる第二の人は、その[治療的]関係において一致または統合[安定的自己受容]している。

4. 治療者は、来談者に対して無条件の肯定的配慮(unconditional positive regard )を経験している。

5. 治療者は、来談者に関連する内的枠組[主観的世界]への共感的理解(an empathic understanding of the client's internal frame of reference)を経験しており、この経験を来談者に伝えようと努力している。

6. 治療者の共感的理解と無条件の肯定的配慮についての来談者への伝達が、最低限達成されている。

他の条件は必要ない。これらの6条件が存在し、それが一定の期間を越えて継続するならば、これは十分である。建設的な人格変化の過程が起こってくるであろう。」

Journal of Counseling Psychology、1957 Vol.21(2), 95-103)

※注、[ ]は引用者による。「肯定的配慮」は、「受容」とも称されますが、「許容」ではありません。

この公式は1959に多少変更されていますが、今日でも治療的人間関係(カウンセリング関係)を築く基本原則とされています。また技術的には、「傾聴」や「オーム返し」「要約」「相づち」などがあり、治療的関係以外の日常的な関係づくりに応用され一般的になっています。しかし、安易に使用すると誤解(誤用・悪用)される場合もあり(詐欺的話術)注意が必要です。

大切なのは、来談者の本当の悩みや否定的感情を深く理解し、親身に寄り添ってあげることです。ただし治療の目標は、自己治癒力を高めることによって自律(自立)心・自己解決能力を育てることであって、依頼(依存)心を育てることではありません。

●アイゼンク,H.J. / ラックマン, S. 『 神経症:その原因と治療 』

「人間の行動は,そのほとんどすべてが学習される といってよいが、それでは神経症的行動と他の型の行動とは,どのように区別されるのだろうか。その答えは、神経症的行動は不適応性のものであるというこということである。神経症的な行動パターンを示す人は、行なおうとすることができず、むしろ、その人にとって、全く不利になることを行ってしまいやすい。

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神終症が発現する典型的な例をつぎのように仮定することができる。第一の段階では,われわれはおもに交感神経系の無条件的ではあるが強い自律神経反応をもたらす単一の外傷的できごとや,一連の準外傷的できごとを経験する。その強い情緒反応は,ただそれだけで行動を乱してしまうこともある。行動の乱れが,強い情緒的混乱から生じてくることを示す証拠は多い。

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第二段階では,多くの場合,以前には無関係であった刺激が,外傷的情緒的反応を誘発する無条件刺激と結び付けられるようになるという意味で,いわゆる連合をとおして条件づけが生じる。つぎに条件刺激ならびに無条件刺激が,風変りで不適応な情緒的行動をもたらす。このことは神終症の発現において生じる本質的な学習過程であると思われる。

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強化されない条件反応は消去されていく。したがって,前記のような[神経症的な]型の条件性自律反応は,当人が強化,すなわち始めに与えられた外傷的できごとをともなわない条件刺激に,なん回も出会うことよって消去されるだろう。」(黒田実郎訳編 岩崎学術出版1967 p5-7)

※注 行動療法は、「情緒的混乱」や「外傷的情緒的反応」など否定的感情反応によって、適応的な認知や判断が混乱し、神経症的な症状が生じる(強化・学習される)ことを正しく指摘しています。しかし、言葉による刺激によって、否定的感情を内的に処理できなくなることについては考察しようとしていません。言語信号(刺激)による内的反応(思考や判断―感情反応を含む)が、行動そのものをコントロールしているという事実は、認知行動療法によって明らかになり、新たな心理療法として統合されつつあります。

●ベック, A.T.『 認知療法 : 精神療法の新しい発展 』

① 「認知療法という場合,最も広義には,誤った概念化と自己シグナルを修正する手段を用いて心理的な苦しみを軽減するすべてのアプローチを含む。しかしながら,思考を強調することによって,悩みの直接の原因になることが多い情緒反応の重要性を曖昧にしてはならない。それは,私たちが認知を通してその人の情緒に到達するということを意味するだけのことである。私たちは,誤った確信を修正することによって,過剰で不適切な情緒反応を和らげたり変えたりすることができる。」 (大野裕訳 岩崎学術出版社1990p177)

※注 「生命言語説」においては、「認知を通してその人の情緒に到達する」というのは、認知によって得られた(誤って合理化された)概念(言語刺激)が、(否定的)情緒(感情)を刺激し、「過剰で不適切な情緒反応(内的混乱)」をもたらすことを意味しています。「生命言語説」における治療では、この否定的情緒反応(不安、怒り、恐れ、悲哀、抑うつ等)を、肯定的情緒反応(安心、喜び、快適等)に直接変える困難さを克服するために、より持続的・目的的な意志的情緒反応(希望、自信、信念、自己覚醒等)を育成しようと考えます。その場合に、新たに認知され自覚すべき内容と「生命言語説」が考えるのは、仏教思想にもとづく自己の生命性への自覚です。

「あたかも、母が己が独り子を、身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし。」 (『ブッダのことば』149)

② 「認知療法は,内省して自分自身の思考や空想を深く考える能力がある人に最も合った治療法である。このアプローチは本質的には,人間がその知的な発達段階の初期からさまざまな形で行ってきた方法を発展させ整理したものである。対象や状況に名前を与え,仮説を設定し,その仮説を放棄したり検証したりするといった特有な技法は,人びとがその作用機序を認識しないまま自動的に使ってきた技法に基づいている。

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おそらく,誤った判断は深く根を下ろした習慣になっており,患者はそれに気づいていないのであろう。したがって,それを修正するためには何段階かのステップが必要になる。第1に患者は,自分が考えていることに気づけるようにならなくてはならない。第2に,どの思考が誤っているかが分かる必要がある。次に,不正確な判断を正確なものに変えなくてはならない。最終的に,自分の変化が正しいかどうかについて,フイードバックを受ける必要がある。」(同上p179ー180)

※注 上記の引用は「言語と思考と行動」の関係について、「生命言語説」が説明していることと密接な関係があります。つまり、人間は言語を用いて自己の判断や行動を位置づけ、方向付け、合理化しています。イソップ寓話の「あのブドウは酸っぱい」という表現は、たとえ誤った判断でも、キツネの欲求不満や悔しい(否定的)感情を抑制し癒してくれます。

人間は言葉によって自己を世界の中に関係づけていますが、否定的感情を引き起こす過程を正しく認識・判断・処理することが困難な場合、神経症やパニック障害が起こります。治療者は正しい判断・正しい言葉を見いだす援助的関わりによって、来談者の自己治癒力を引き出すことができ、本来の適応的感情や認知能力を発揮できるようになるのです――。

● バーンズ、D.『 人間関係の悩みさようなら 』

「誰もが皆、人と親しく実りある関係でいたい、と望んでいます。しかし、結局、そのまさしく正反対の結果――敵意、苦々しさ、そして不信――となってしまうことが多いのです。これはいったいなぜなのでしょう?どうして私たちは皆が互いにうまくやっていくことができないのでしょうか?

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認知療法家は、気持ちはすべて思考と態度、すなわち認知の結果として生じると強調します。別の言い方をすれば、他者が行うこと――批判的になったり、強引に割り込んだり、といったこと――自体が、私たちを動揺させるわけではありません。そうではなく、これらの出来事についての私たちの考え方[認知の歪み]が、私たちを動揺させるのです。

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認知療法は、考え方を変えれば、感じ方や行動を変えることができる、という考えに基づいています。言い換えると、もし私たちがもっとポジティブで現実的に他の人たちについて考えるようになれば、もっとずっと容易に、対立を解消し、プライべートでも仕事でも実りのある人間関係を築くことができるようになる、ということです。」

(佐藤美奈子訳 星和書店2012 p3-7)

※注 バーンズの言う「気持ちはすべて思考と態度、すなわち認知の結果」というのは、人間の判断において認知(≒理性・知性)を重視している点で、合理主義的ですが、一面的なものです。というのも、気持ちや感じ方(感情・情緒・感性)は、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」のように、認知の結果判断を修正することもありますが、それはまず恐怖の感情が強ければ「幽霊」に見える(認知する)こともあるのであり、正確には、気持ちと認知は相互的なものなのです。ただ心理療法としては、認知(言語刺激)の修正(幽霊でなく枯れススキだった)によって、感情(恐怖心)をコントロールすることができると考えます。

☆★ 釈尊の四諦説 『 ブッダのことば 』 ★☆

「726 苦しみ[苦諦]を知り、また苦しみの生起[集諦]を知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところ[滅諦] を知り、また苦しみの死滅に達するかの道[道諦]を知った人々――

727 かれらは心の解脱を具現し、また知恵の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅せしめることができる。かれらは生と老いを受けることがない。

728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。実に愚者は知らないで 生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。

どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明[根本無知]に縁って起るのである。しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない。

729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。」(釈尊『ブッダのことば』中村元 訳 岩波文庫)

※注 『ブッダのことば』は、釈尊の生存中のことばを編集したもので、もっとも古い仏典の一つです。「輪廻(リンネ)」というインド固有の思想的背景がありますが、人生苦の原因は「無明(無知)」にあるとして、明知(人生の真実)を得ることが、人生苦克服(解脱)の道であることを教えています。ブッダの教えは、人間の心の病の根源を解明し、知恵(四諦説)と行動・修行(八正道)によって救おうする点で、究極の「認知行動療法」ということができます。

認知療法は、ことばによる自己理解と自己変容(のための援助)を目指しますが、個人的な悩みの解決に限定されています。しかし、『ブッダのことば』は、すべての人間に共通する根源的な悩みや苦しみ(煩悩)の解消(解脱・悟り)を目指しています。ブッダ(釈尊)の目標は、出家という厳しい道を必要とするので、現代人にそのまま適用するのは困難ですが、その基本精神はカウンセリングや心理療法にも通じるものがあります。

今後は、ブッダの教えを現代の臨床心理学の知識と統合することによって、人生で避けられない煩悩の低減と、有限な地球社会の対立抗争を抑制する知恵と方法を研究します。

仏教の心と生命言語説――三毒と心の三要素

仏教の現代化⇨ http://www.eonet.ne.jp/~human-being/subgendaika.html

『スッタニパータ(ブッダのことば)』現代語訳リンク→→

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

◇ 不快刺激の心的処理

◇ 「ああもう嫌だ、あんなこと(不快刺激)見たくもない、考えたくない、思い出したくもない。」

そのような経験はありませんか。大人なら「そうは言いながらも」不快な感情(ストレス)を適当に処理(解消・発散)して、言語的な思考(理性・道理)によって問題解決の方向を見いだします。しかし、子どもには、それがとても難しいのです。幼少期に与えられた不快な刺激(躾けや大人のもめ事、事件など)は、子どもの問題解決能力や適応力を低下させ、無意識のうちに抑圧され、歪めて学習・記憶されます(心的外傷・トラウマ)。その影響は成人になっても続き、不快な刺激に対する異常な反応となって、神経症や身体症状として現れることもあります。

さてこのような問題は、どのように解決されるべきでしょうか。フロイト的な精神分析は有効なのでしょうか。

(※) 上の図は仏教の根本原理である人生苦を不快刺激と考え、それが通常どのように内的に処理されるものであるかを、簡潔に示したものです。不快な刺激(欲求の充足を傷害し、否定的感情を引き起こす要因)が過大(心的外傷)であったり、処理に失敗すると、心に欲求不満や不快感情が充満し、問題を解決しようとする心の合理的(言語的)処理能力が衰えます。その結果、自己を防衛するために、攻撃や退行のような問題をこじらせる非合理的で不適応な行動となりがちです。このように不快な刺激によって起こる内的過程(煩悩)は、心の構造と心的過程を理解し、その人の個性にあった正しい訓練・治療を行えば必ず克服できます。仏教の明智は非科学的で目標が高すぎる面もあるのですが、カウンセリングや心理療法の知識とも結びつくものなのです。

◇ 生命言語説の「心の構造論」とフロイト理論の批判⇒⇒ 詳細フロイト批判

フロイト理論の心の構造と機能

フロイトは、心(精神)を二つの側面から捉えました。心の構造的な面では「意識・前意識・無意識」という三つの層に分けて考え、心的機能面では、「エス(イド)・自我・超自我」という三機能の相互作用として捉えようとしました。彼は後者の三機能を構造と捉えましたが、実際的には前者が構造で後者を機能と考えるべきです。

※フロイト的無意識の領域 : 不安や怒り・恐れのような否定的感情の支配する経験の記憶領域、外傷体験の記憶、思い出せ(言え)ないまたは思い出したく(言いたく)ない経験領域

フロイトの心の構造は、「意識」が自覚している部分、「前意識」が反省的に自覚できる部分、そして、日常的に抑圧され潜在化している「無意識」の部分です。フロイトが精神分析の対象にした抑圧による「無意識」の状態は2種類あって、一つは、潜在的ではあるが、意識しようとすれば意識され得るものと、もう一つは抑圧されて、そのままでは意識され得ない病的な無意識で、神経症的症状の原因となります。

否定的感情体験は無意識領域に抑圧されやすい

次に、意識するのが困難な「無意識」という心的状態が、どうして生じるのかを説明するのが、「エス(イド)・自我・超自我」という心的装置論です。彼の説明では、「エス」は、本能的な欲望、生理的な衝動が湧き上がる部分で、快楽を求め、不快を避けるという快感原則に従う生きる力の源です。「自我(エゴ)」は、快楽を追求するエスを現実状況や対人関係といった条件に合わせてコントロールする機能で、エスと次に述べる超自我(道徳や良心、自己規制)の間の調整もします。「超自我」は、幼児期から獲得される言葉と感情をともなう道徳的価値観(判断行動様式)です。これには特定の刺激に対する基本的な快・不快(好き・嫌い)、安心・不安等の感情、善悪、美・醜等の価値観や、行動の様式・規範を含みます。

フロイトは人間の本性(エス・欲動)を、基本的に暗くて衝動的で破壊的なものと考えたので、超自我が有効に働くためには、自我による調整能力(理性的判断能力)と、超自我の柔軟性が必要と考えました。しかし、その調整能力や柔軟性が機能しないような混乱と抑圧状況(心的外傷体験)が成長過程で起こったとき、無意識の中に抑圧され、その状況と関係ある刺激があるときだけでなく日常的な混乱にいたる(神経症の発症)と考えました。この考え方は常識的に理解でき検証可能なものですが、その過程を「エス・自我・超自我」の相互関係として統一的・実証的にまとめ上げたとは言えませんでした。

フロイトの精神分析の失敗とその理由

その最大の原因は、「エス」の原始的衝動を、性的衝動に矮小化したことです。性的欲求はきわめて重要ですが、欲求は性的なものに限定されるものではありません。欲求不満の状況(抑圧され無意識化しやすい)は、乳幼児期や男女関係、親子関係の性的状況の中だけでなく、進学や就職、職場での人間関係など人生の多くの局面で、不安や怒り、恐れや悲しみ、恨みや不満等の否定的感情を引き起こす状況として経験されます。また、フロイトの生きた時代的制約もあって、大脳生理学も確立しておらず、人間の心の中で起こる「欲求と感情の構造と機能」を十分に解明できなかったのです(今日でも解明されていない)。

そのため精神分析は、一般的な神経症状の治療法とはならず、ユング,C.G.のような神秘主義者の心理療法(統合失調症のような重篤な病気の治療・研究)や、アドラー, A.のような肯定的生き方を考える人生観的心理学などに分裂することになりました。また精神分析そのものを批判的に捉える行動主義(アイゼンク,H.J.)や人間性心理学(ロジャーズ, C.)も生まれました。今日では、宗教的権威や家族のつながりの弱体化と、不安定な大衆社会状況が進行するに伴って、個人の生き方や心の問題が意識されることが多くなってきました。しかし、心理学の混迷とそれを臨床に応用する理論と治療技法については、相変わらず百家争鳴の状態が続いています。

「生命言語理論」による心の構造と意義

そこに「生命言語論」からの心の問題に対する提案の意義があります。 生命言語論では「心の構造」を、「欲求・感情・言葉」の三要素の相互関係から説明します。そのために、まず欲求の意味を明らかにして、多様な欲求を統一的に理解し分類します。欲求にはフロイトのように単なる性的・自己中心的なものだけでなく、個体維持にかかわる飲食や安全等の欲求や種の維持にかかわる母性本能や集団を維持する互助的な欲求もあると分類しています。感情反応についても否定的なものばかりでなく肯定的なものも動因となり、また希望や信仰における「意志的感情」のように、欲求不満や心の混乱状態を言葉(という刺激)の力を支えとして解消(合理化)または克服(昇華)する感情の重要な働きを明らかにしています。

フロイトの心的構造論では、欲求(エス、欲望)や感情を否定的なものとして捉える傾向があります。しかし、人間存在は、悲観的・否定的な面ばかりでなく、言語的知識にもとづいた肯定的楽観的な見通しももつことができます。フロイト理論では、欲求や感情の分析が十分示されていないだけでなく、使われている概念(意識や自我等)が大脳の機能とも一致していません。フロイトの無意識の分析が、脳科学的ではなく、抑圧された無意識(現実的認識を困難にする不安感・恐怖感等の否定的感情の支配)がどのように形成され、それをどうすれば意識化し、コントロールできるかの観念的な分析(エス・自我・超自我のうちとくに「自我」という観念の説明)にとどまっているのです。

心的抑圧についての「生命言語理論」の考え方

それに対して。生命言語論の「心の構造論」は、欲求や感情の大脳における場所や機能が特定され、分類(「心とは何か」参照)も検証可能です。しかも、フロイトによって抑圧されているとされる無意識も、不安や怒り、悲しみ、等の否定的感情状態に特定され理解しやすいのです。誰も否定的(イヤ)なことは思い出したくないし、思い通りにならないこと(欲求不満・ストレス状態)ばかりだと、心も人格も歪んでくるでしょう。さらに、「意識や自我」の多義的な意味についても、「意識」は、「心の内容」を自己対象化できる言語的思考であり、「自我」は自己対象化された自己の「心の内容」として明確にすることができます。

例えば、「私の心が混乱しているのは、幼少時に養育者の虐待を受けたことに原因がある。」と意識(認知・言語化)し、自己の心的混乱を言語的に合理化(意味づけ)することによって、症状を和らげ克服することができます。つまり、自己の心的状態(内容)を理解し言語化できること、またそれを了解(納得)できることが、認知力が強化されることによって意識的に自我を確立した安定的感情の状態なのです。そこに治療者が関わることによって、安定化の過程は促進され、自律への道が開けます。肯定的感情を伴う言語的認知が、混乱した心を意識的に統一し、安定的な自我の確立を導くのです。

心の成長をもたらす言語と意志的感情

「何となく心がすっきりした」「これから多少の困難にも挑戦することができる」というような肯定的な心の状態は、「もう嫌だ、生きていく力が失われた」というような不安で投げやりな否定的感情の支配する心の状態から、安心や楽しさなどの肯定的感情状態を経て、希望や勇気をもたらす心の意志的感情状態になるのが、言語的に形成される人間的な心の成長の過程です。

心の成長は、人間の心についての正しい知識と、問題に対する正しい言語的認知能力に依存します。来談者(患者)が、治療者の援助によって自己の欲求と感情に対する正しい認識を得て、ありのままの自分の心の状態に気づき、希望や勇気の意志的感情を心の中に養うならば、直面する外的困難に挑戦する問題解決能力が必ず生まれてくるのです。それがフロイトに依存しない検証可能な心の構造と治療・成長の過程なのです。