旧社会契約と新社会契約

旧社会契約と新社会契約

◇ 市民社会は、法的契約が重視される社会です

現代社会のほとんどの人間関係は、明示的な又は暗黙の「契約」によって成立しています。母子や兄弟姉妹のように、契約によらずに自然的に成立した人間関係でも、成長して相互に自律(「言葉」による自己管理と社会的約束ができること)してくると契約が大きな役割を果たし、市民生活の上での基本的約束である「憲法」や「民法等」にもとづいて社会的に制約されてきます。わたしたちは、とくに自覚していないのですが、近代の市民社会は、歴史的に古い社会の共同体(ムラ)の機制を脱却して、理性的な個人の自律(形式的な自由平等)を前提とした契約社会になったのです。

市民社会は個人間の関係が、個人の自律(自己管理)と契約(社会的約束)にもとづいて、民法的合理的に成立しているとされます。そして、資本主義市場で成り立つ経済社会でも、モノやサービスの商品売買だけでなく、あらゆる人間関係においても、金銭的な取引(利害)を伴う「契約」で成立しています。契約は、了解無しに破棄されると争いになり、相互に解決できないといわゆる法律にもとづいた(恣意的でない)裁判沙汰となります。

◇ 新社会契約では、金銭的人間関係における道徳性が重視されます

金銭的な関係(取引・売買)で成立する人間関係は、損得勘定という利害関係を伴い、規模が拡大する(会社等)と、競争・対立・協同・互恵によって離合集散・排除独占という厳しい敵対的情念を伴う人間関係があらわれます。旧来の社会契約理論(注↓)では、基本的人権思想(自由・平等・財産権等)にもとづいて、個人(私人)と国家の政治的契約(形式的正義)が重視されました。

しかし、我々の提唱する新しい社会契約(すでに一部は実現されています)では、個人と個人、個人と団体(法人)の利害関係、すなわち交換契約の公正と正義が重視されます。旧社会契約では、国家権力による諸個人に対する政治分配的権利義務関係(分配的正義。交換は自由平等の等価なので問題としない)が重視されましたが、新社会契約では、それに加えて、そこでは市民間の「合意」があれば、すべて等価であるということではなく、「合意」そのものの「道徳性」が問われ、市民間の経済的交換関係(交換的正義:交換の等価性・公正性・透明性)が重視されます。

旧社会契約論(ロック、ルソーの自由・平等・私有制)では、民主国家(の政治権力の根源)は、個人の人権を保障するために、市民革命によって創設されたと考えられています。そこから人権に由来する「分配的正義」という概念が生じ、経済関係においても個人の報酬や所得は「分配」と捉えられます。

これに対し、新社会契約では、個人の所得は、諸個人(私人)間の利害関係において獲得されるもので、市場に限らずあらゆる取引・交換においてその公正さ(交換的正義・道徳性)が問われます。従来の主流の経済学では、市場の交換は全体として経済合理性によって公正かつ効率的に行われ、市場に欠陥(失敗)はないと考えます。もし市場を含む経済活動(市場の内外を問わない)において経済(景気)変動が起こり、経済活動に混乱(災害、公害、戦争、恐慌等)が生じれば、ケインズ経済学によるマクロの財政金融の介入によって調整する(市場に任せない)ことになります。

◇ 人間の多様性を直視しない旧社会契約では、経済的公正性を維持できない

かつての政治経済学(アダム・スミス等)では、人権思想にもとづく政治的な社会契約(形式的・法的な自由・平等)によって望ましい社会の実現に向かうと考えられていました。しかし、現実の資本主義的経済活動の隆盛によって、資本家と労働者の格差が拡大し、経済学的な自由放任(利己的公益主義)で政治的な理念が経済的公正さを実現することができなくなり(等価交換の欺瞞性)、矛盾や対立が激しくなりました。その解決として経済に対する政治の介入によって、一方では社会主義経済学(マルクス)、他方では福祉国家論(ウエッブ夫妻)が現れました(大きな政府)。その動きを止めようとしたのが新古典派の経済学者たちで、政府の市場介入を不要(小さな政府)と見なし、市場の合理的効率性に任せようとしたもので、それを政治的に極端に主張したのが新自由主義だったのです。

しかしこれらの政治経済論は、いずれも旧来の人権思想と社会契約を前提とし、現実の政治経済活動を、自律した合理的人間像のみに依拠し、社会の不公正な交換を、政治的分配(財政つまり課税と福祉)によって解決しようとしました。そのために、経済の成長(拡大発展)が暗黙の前提になっており、その前提が成長の限界(環境・資源問題等による先進国の停滞)によって揺らいできた21世紀の今日において、旧社会契約の天賦人権論に見られるユートピア的発想の限界が明らかになってきているのです。

人間は生来自由でも平等でもなく、むしろその多様で個性的な自然的現実を前提として、社会の透明化・公正化を図り(交換的正義)、諸個人の連帯による共存共栄と幸福追求を実現する社会を築く(分配的正義)という目的を持つ必要があるのです。西洋近代が創造した人間の自由と平等にもとづく自律的な人格を前提とする契約社会を見直すことによって、つまり、天から与えられたとする自由・平等と自律的人格を、追求するべき理想・目標とすることによって、はじめて現実の差異と多様性を直視し、創造的に持続的な未来社会を展望することができるのです。そのような社会を築こうとする合意こそが新しい社会契約と呼ぶものなのです。

(注)旧社会契約とは

旧来の社会契約論は、17~18世紀の西欧で近代市民社会の成立を進めた啓蒙思想の中心となった社会理論であり、政治学における民主主義的人間像や経済学の自由放任・利己的公益(互恵)主義の考え方はこの思想に由来する。旧社会契約の理念における市民社会の構成員は、現実には国家社会(政治的人間)よりも利己的又は個別団体の利害(経済的人間)を優先する傾向が強い。その結果、構成員(市民)は、社会全体のことを重視するより、個人や自己の団体のことしか考えず、政治的便宜もその手段として利用することに限られています。そして政治もお任せ民主主義・自己利益優先の大衆社会現象が出現し、政治も衆愚化していく傾向が見られる。社会主義や福祉国家主義、そして新古典派経済学の基本的考え方もその延長線上にある社会理論と言える。