Add Headings and they will appear in your table of contents.
Add Headings and they will appear in your table of contents.
◇ 私たちの心のしくみと心のコントロール
生命言語心理学 による心の構造と機能(フロイト批判 part 2)
A 心の構造とは
B 欲求と感情の意義
C 心における言語の位置づけと機能
D 意識とは何か
E 無意識とは何か
F 病的な心理状態とその克服の方法
G 心理療法とキリスト教、仏教
A 心の構造とは:
喜怒哀楽や、快不快、安心不安などの感情(情動)は心の動きとしてよく知られていますが、なぜそのような感情が起こるのでしょうか。 資格試験に合格してうれしい。親しい人を亡くして悲しい。友人に裏切られて怒り狂う、等々。これらの感情は、自分の願いや欲求が実現したり、実現しなくて不本意な場合に無意識的に起こる感情(心の動き)です。感情は、まず快(肯定的)と不快(否定的)の感情に大別され、欲求を実現する過程で引き起こされます。欲求が実現されれば快感情が、欲求が実現しなければ不快感情が起こり、動物の場合の快感情は行動を一段落させ、不快感情は快を求める欲求となってさらなる欲求充足活動に進みます。つまり、欲求は個体と種の存続を目的とする行動(生命活動)の動因であり、感情は生理的心理的反応(判断)であって、生得的かつ習得的な判断基準となります。
人間の場合の欲求や感情は、言語的に粉飾され拡大されて「あれもほしい、これもほしい。あれは好きだ、これは嫌いだ」と言ったり、また過去の罪責の反省や未来への願望が加わり、美や永遠の幸福、絶対者や救済者を求める文化的・社会的欲求(二次的欲求)となり、さらに感情も、信仰や祈り、意欲や努力、向上心や道徳心など「人間的な意志的感情」が発生します。意志的感情は、無意識的・反応的な快不快感情と異なり、向上心や願望のように意識的意図的感情であり、幼少期の教育によって教示され、自我の形成と共に言語的に意味づけられ内在化されて個性的な人格を形成することになります。「神の御心のままに」とか「南無阿弥陀仏」のような言葉は意志的感情(宗教的信条)を強化します。このように欲求は思考や行動の原動力となり、感情はその行動の快不快を生理的に判断し、言語は欲求や感情・行動を意味づけします。その詳細については「心の構造と機能」を参照してください。
ところでフロイトの「心の構造」では、「イド(エス、欲動)―自我―超自我」に区分され、イドの区分に欲求や情動、快楽原則が含まれるとされます。通常人間以外の動物では、欲求を実現するために、快・不快の情動が行動のバランスを取りながら実行力をもちます。フロイトは、人間の心に自我を設定し、イドと超自我のバランスを取るように働く(現実原則)と考えます。しかし、イドとされる欲求や情動はそれ自体で行動のバランスを取ることができます。つまり、人間の自我や超自我は、それ自体に快・不快の感情を含み、学習された感情反応(基準)によって日常的または道徳的感情的なバランスのとれた判断をしているのです。
B 欲求と感情の意義:
動物の欲求は、「個体と種の存続」を実現する生命活動の原動力(動因)になります。これは生命の誕生以来 普遍の原理です。欲求が実現した(している)時は、快の感情(満足、安心、喜び)が起こり、実現しない時は不快の感情(不満、不安、怒り)が起こります。快と不快の感情はバラエティに富み、動物は快楽を求め不快を避ける行動(摂食、安全、生殖等)をします。動物と人間の行動の判断の基準は、情動または感情にあります。人間における判断は、純粋に数字を含む言語記号だけの論理的推論においては、直接的に感情の影響を受けませんが、日常のほとんどの判断、すなわち衣食住、娯楽、スポーツ、芸能などとそれに伴う人間関係は、すべて感情的な快・不快、好悪善悪等を伴いますし、それだけでなく欲求実現の目的を目指して、意欲や理想・願望など言語的創造的に構想はふくらみ(意志的感情)、判断・行動の推進力になるのです。捉えようによっては、論理的、科学的、数学的判断・推論でさえその背景に強い好奇心(欲求)が働いているのです。
しかしフロイトの自我や超自我には、感情(情動)はイドに含まれているので入る余地がなく、感情は、否定的感情が引き起こす病的事象の物語(生育歴)の中で重視されはするものの、病的事象の原因分析自体はエディプスコンプレックスのようなイドと無意識に覆われた性的空想的解釈が優先されます。そのため治療者の権威主義的な解釈への依存性が強まり、治療者への肯定的感情や否定的感情は、患者による治療者への「感情転移」(陽性、陰性とあるが養育者との関係の反映とは限らない、逆転移もおこるという)にあらわれ、依存性または症状の固着がおこって、神経症の治療に最も重要な「自律的自己治癒力」が阻害されまたは歪められます。そのため病的症状が長期化・悪化ないし再発する事例が多く見られます。
なぜそうなるのか?それはフロイトの心の構造や治療計画に、心の正しい理解、とりわけ自己の無意識的な欲求と感情に対する言語的な自己統制機能(合理化、意味づけ、人生観等)の機能(役割)が正しく位置づけられていないからです。
C 心における言語の位置づけと機能
動物と異なる人間の本質としての言語は、世界を言語的に構成することによって行動や感情に方向性を与え、行動や感情を強化したり抑制したりして、人間の心や行動をコントロールします。言語的に構成するとは、人間にとっての世界は、動物のように直知的自然世界だけでなく、言語記号によって再構成され創造された世界に生きているということです。例えば神仏の存在や天国や極楽のような宗教的想像の世界です。そして、言語が人間の心や行動をコントロールするとは、“酸っぱいブドウの話”のように、手の届かないブドウを諦める悔しさをなだめるために理屈付けや、資格の取得などの目標を実現するために「努力」とか「計画実行」などで力づける(意志的感情)のは、言語の力によるのです。これらはアンナ・フロイトが指摘した「適応機制」のうちの「合理化」に近いものです。
進路や心の問題等でカウンセリングを受ける場合、それらの問題自体が言語的に整理される必要があります。不登校等の神経症的な問題では言語化すること自体が困難ですが、発話や文字化ができるようになれば問題の解決は容易になります。治療的なカウンセリングでは、まずクライエントの話を傾聴すること、話ができない場合は絵画や箱庭などで自分を表現すること、その間要所で適切な言葉がけをすること、どのような手法であっても最終的には、言葉の世界である以上言葉による確認が必要になります。社会の中での言葉による確認は、法律的な契約が最も強固な人格の確立になります。
D 意識とは何か :
意識は無意識に対立する言葉ですが、人間の場合は自己の置かれた状況を理解し、自己を世界に位置付ける言語思考的能力です。それに対して無意識は、自己の行動を自覚することなく、欲求と感情のままに生理的肉体的に存在し活動することです。意識は多義的な言葉で、人間でも動物でも生死を確認するとき応答できれば意識があると言います。しかし、人間においては今日に至るまで、言語が人間の本質であるにもかかわらず、意識や心理の認識論上における言語の位置づけが十分解明されていないので、まったく曖昧多様であると言えます。
そこで生命言語心理学では、人間の意識を①言語的に認識しない状態と②言語的に認識(把握)する状態に分けます。前者は動物にも共通する知覚的意識(視・聴・嗅・味・触覚)であって、目前の欲求や関心の対象にだけ直接働きかけることができます。犬は目前でなくても買い物ができますが、指示され学習したことしかできません。それに対し、後者の場合は人間特有の意識であって、言語によって対象(what)とその状態(how)を認識し表現(文章化)することができるだけでなく、現状を再構成して新たな状況や想像の世界を創造することができます。さらに人間の言語的意識は、C におけるように自らの欲求や感情や行動をコントロールすることもできます。
E 無意識とは何か:
無意識とは、精神分析の創始者フロイトによって重視された心の状態で、フロイトでは主に意識されず抑圧された不快な感情体験が当てはまります。しかし 無意識な心の状態は、通常は意識しない自動的な心の状態(欲求や快苦の感情の生起・表出)やルーティンな行動にも当てはまります。心の深層に抑圧された無意識的な状態は、思い出すと不快な感情を引き起こすため正常な判断を困難にすることがあります。そのような場合、通常は不快な感情を抑え正常を保とうとして無意識的に適応するメカニズム(適応機制;抑制、退行、反動形成、合理化など)が働きます。しかし、養育者の支配下にある幼少年期の不快感情や欲求不満への耐性の弱い人は、不快感情が無意識下に抑圧されストレスに敏感に反応して解消や抑制が難しく、神経症的な状態(不安、強迫、ノイローゼ等の心的外傷・トラウマ)に陥りやすくなります(神経症的人格形成)。
誰でも嫌なこと(不快な感情事象)を経験しまた思い出すと、心が動揺しコントロールできなって現実的な判断ができなくなります(ストレス、欲求不満、ノイローゼ)。そこで不快な事象を思い出すことがないように、無意識的に記憶の深層に抑圧します。ところが受験の失敗や失職、失恋、別離、裏切り、いじめなど何かつらい経験に出会うと、不快事象を思い出して否定(悲観)的感情が起こり、現実的な判断ができなくなったり、病的な症状(精神疾患)として現れることがあります。強迫神経症状や不安・抑うつ状態、ヒステリー症状等がこれにあたります。これらの症状にはさまざまの複雑な原因があります。動物の赤ちゃんたちを見ていても反応の強弱や敏感さには生まれつきの(遺伝的)個性があります。その上、人間の場合、養育期間が長いので養育者(特に家庭環境)の否定的な影響を強く受ける(トラウマ)と、複雑な人間関係の中で現実適応が困難になります。そこでこのような病的な心理状態とその克服のために、精神科医や心理療法家、カウンセラーの援助が必要となります。
F 病的な心理状態とその克服の方法:
不安や恐怖のような否定的感情は、人間の心を混乱させ正常(現実的)な判断を妨害します。多少の不安や恐怖は人間の心を鍛え、欲求不満の耐性を強めますが、極端な不安や恐怖はその体験とともに心の中に抑圧されいつまでも残ります(トラウマ)。特に幼少時の不快な体験は、成人になっても判断や行動を歪めます。このような否定的な心の状態を一人で修正しコントロールすることはとても難しいですが、少しずつでも肯定的な成功体験や人生観を変えていくことによって克服は可能です。 しかし、それが一人で困難な場合、カウンセリングや心理療法によって自己治癒力を高め自律できる援助をします。そのため不安や怒りなどの否定的感情の発散(傾聴と共感的理解による肯定的感情の生成)や自己洞察による肯定的自己理解を促す援助をしたり、不登校などの問題行動(課題)を少しずつ解決して達成感や自信をつけ、肯定的なものの見方や考え方を獲得(認知・言語化・概念化)することも必要です。
生命言語心理学では、特に「無意識下にある欲求と感情の働き」を重視し、問題事象の言語化とともに「心の構造」の理解が、自己理解を促進し治療の効果を上げると主張します。欲求不満や社会的ストレスへの耐性が弱い人は、社会的な保護や援助が必要ですが、それでも自己治癒力や適応力(生きる力)は万人が保有しており、自力でも健全で強い精神力(適応力、問題解決力、希望や意欲などの意志的感情)を形成(確立)することができます。その基本は、自己にたいする信頼(自信)を高めることです。人は、通常自らの存在を位置づけるために、他者や社会との比較を行いながら自らを納得させて生きています。自分は社会から公平に扱われているか、差別されていないか、生活は我慢できるか、将来の不安はないか、人間らしい最低限の生活は送れているか等々です。今日の社会福祉が行き届いている社会では、一応物質的には生活保護が準備されており、万一の場合の生活保障が行われています。しかし問題は何事にも前向きで精神的にも充実しているかどうかです。
現代社会は総じて豊かであるとは言え、競争による格差と分断が進み社会の不安定さは増しています。そのため「今だけ、金だけ、自分だけ」と言う風潮が進み、子供の虐待、いじめ、不幸な結婚・離婚、孤立死、失業、不安定な職場、将来不安、犯罪、過度な商業主義、そして地球規模の課題(環境・資源・エネルギー、そしてそれらをめぐる民族主義・戦争)など、明るい未来、希望の世界を見通せる状況にはありません。おそらく言語を獲得して以来、多くの危機を経験してきた人類にとって経験したことが無く、人類の永続的生存を掛けた時代が来るでしょう。われわれがこの危機を乗り越えるにはまず、今日まで世界を支配してきた人間と自然世界についての科学的知識(天文・物理・化学・生物)と叡智(宗教・哲学・政治・経済・人文科学)の限界を超え、根源的に普遍的な共通知識から出発しなければなりません。それは究極的には「人間の本質としての言語」と「人間にとっての永続的幸福」の意味と意義についての理解です。前者は、生命言語心理学が解明しましたが、後者については仏教的悟りの手法にも似ており、東西文明の止揚・統合が必要とされるでしょう。その一端を次に示します。
G心理療法とキリスト教、仏教
心理療法は、不安や恐怖、強迫などの否定的感情反応が過敏で、小さな不快刺激にもパニックを起こし、正常な判断ができない精神症状に対し、様々の治療手法を用いて社会的適応を援助しようとするものです。人間を含む動物の行動は、基本的に、外界の刺激に対して感情が無意識的に反応して、欲求が充足されるような感情反応(快を求め、不快を避ける)をします。しかしその感情反応が過敏に否定的であって、人生を悲観的に考えすぎたり、逆に、楽観的に強大な妄想を抱いたりすると欲求不安が募り、社会的不適応を起こすことがあります(天才か狂人か)。少なからぬ宗教が、天才的な宗教家(しばしば「聖人」と呼ばれる)によって創設されてきましたが、彼らは人々の生きる苦しみ、人生の悲惨を救済する心の治療家でもありました。彼らが用いてきた救済の手法とはどのようなものであったでしょうか?
共通して言えることは、言葉による人生の意味づけと人生苦そして社会悪からの解放です。キリスト教の創始者イエスは、自らを神の子と自覚し、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(福音;the gospel, good news)と、ユダヤとローマによって虐げられた人々に「最後の審判」を訴え再臨して救済しようとしました。イスラームにおいても創始者ムハンマドは、唯一神の言葉を人々に伝え、信じる人々に楽園を保障し不安を取り除きます。このように神を信仰する多くの宗教は、人生の悩みや苦しみを取り除き、死後の不安を「天国での永遠の幸福」に期待することによって安らぎを見いだそうとしてきました。
では仏教の創始者シャカ(釈尊)は、人々にどのような救済を与えようとしたのでしょうか?彼は当時のインドの学問(哲学)水準を超えて人間心理の解明と新解釈を行い、現世での人生苦の克服、解脱、安らぎを得ようとする「悟り(覚醒)」の宗教でした。それを体系づけたのが「中道、四諦(シタイ;苦・集・滅・道の真理)、八正道」の教えで、基本的に自力救済をめざしました。シャカの教え(原始仏教という、BC6世紀頃成立)は、今日に至るまで人類最高の「智慧の完成(般若波羅蜜多)」ですが、科学的知識が乏しいため今日では「現代化」が必要です。原始仏教の特徴は、大乗仏教(法華経、阿弥陀経など紀元前後に成立)と異なり、心の安らぎ(永続的幸福、悟り)を死後の世界(極楽浄土)に求めず、現世での厳しい出家修行による解脱(悟り)によって苦の生存(輪廻)を克服し、永続的な幸福を得ようとする点です。しかし、原始仏教(部派仏教)は難解で自力救済が困難であったため、在家の大衆(衆生)の解脱(成仏)のために、援助者(菩薩:悟りを求める人)の役割が重視されるようになりました。人生苦からの救済は、心理分析よりも、精神浄化のための瞑想・座禅、一般大衆には現世利益や先祖供養の読経・祈祷が重視されるようになりました。
現代で言えば、宗教的な癒しや慰めが、過剰な刺激や消費、欲望の肥大化や競争など3S政策(speed,sport,screen)や「今だけ、金だけ、自分だけ」の新自由主義政策などの物質的繁栄(経済成長)で解消され、病的な精神疾患や社会的不適応は治療薬や心理療法で繕うばかりになっています。心理的社会的不適応は、資本主義社会のあり方や自然環境の破壊、人間存在の意味など根本的な問題も含まれるでしょう。現代の宗教や思想、そして心の問題を扱う心理学や哲学はそれらの課題に対応できていません。フロイト理論は、人間の無意識的な否定的心情(事象)の意識化によって神経症状の意識化と治療を図ろうとしました。しかし、今日では逆に、否定的情動を意識的にどのように意味づけるか、また抑圧するだけか無意識的に処理するか(防衛規制)が明確になっているとは言えません。むしろ逆に、フロイト的精神分析では、無意識的に起こる否定的感情を強調(または拘泥)することによって、A・アドラーやC・ロジャーズに見られるような肯定的な感情や意志的感情(意欲や希望)への関心を見失い、ひいては人間の本質である言語(論理、意味づけ、ものの見方や考え方、人生観や生き方)の意義を自覚できず、人間心理の捉え方や健全な成長、倫理や生き方の重要性を見誤らせることになるのです。
フロイト批判から生じた多くの心理療法やカウンセリング(アドラー心理学、行動療法、来談者中心療法、認知療法、論理療法など)は、心理療法の創始者フロイトの人間理解の欠陥を克服しようとしたものですが、いずれも臨床心理学の混乱を克服するものにはなっていません。今こそ人類最高の至宝であるシャカ本来の思想(人生苦の克服と安らぎの獲得)を現代化することによって、言語をもつすべての人類が人生苦を現世において克服し、「永続的幸福」を享受できるように努めてみようではありませんか。
2025. 7 大江矩夫
生命の目的と言語的創造性の意義――フロイトの精神の貧困性
精神分析の創始者フロイトが「死の本能(衝動)」について次のように言うとき、「生命誕生の意義と目的」を理解していないと思われます。
「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還るという仮定が許されるなら、われわれはただ、あらゆる生命の目標は死であるとしか言えない。」(『快感原則の彼岸』小此木敬吾訳 フロイト著作集6p174)
「われわれは精神生活の、いや、おそらくは神経活動一般の支配的傾向として、快感原則においてうかがわれるように、内的な刺激緊張を減少させ、一定の度合いに保つか、またはそれを取り除く傾向があるのを知った。このことが、われわれが死の衝動の存在を信ずる最も有力な動機の一つである。」(同上p87)
すでに拙著『人間存在論―言語論の革新と西洋思想批判』や「人間存在研究所」のホームページで示しているように、本来生命存在は、地球という無限の環境変化の中で、有限な生化学反応として誕生し、宇宙の偶然的奇跡である生命(細胞)状態を永続的に維持していくこと目的としています。
生命は、基本的に個体(生命性、永続的生化学反応)の維持・存続を目的としますが、すべての物質的存在は世界の変化(熱・光・圧力・重力・放射線・化学反応等々)にともない劣化や変性が起こり、生命細胞もその例外ではありません。細胞の老化は、一般にプログラム説、活性酸素説、テロメア説、遺伝子修復エラー説、老廃物蓄積説等の仮説がありますが、生命は老化を防ぐ一つの選択として接合(多くは有性生殖)して、若返りを図り、永続性を維持しようとします。
その結果、ほとんどの生命にとって個体維持(保存)と種の存続は、「接合と再生と死」を通じて行われますが、これはフロイトの考えるように「個体死」が「本能的な目的(死の本能)」だと言うことにはならないのです。なぜなら、生命は、持続的生存のために両性の接合による若返りがあり、個体死は目的でも本能でもなく、有限な生命個体の生存を支えあう種族または共同体社会の永続的維持のための結果または過程なのです。つまり、「生命にとっての個体死」とは、本能的な目的ではなく、一般的には生殖を通じた再生と子孫の永続的繁栄ををはかるために、種の一員として活動した単なる結果なのです。
人間は、他の生命と同様に無限の困難な適応を強いられていながら、言語的創造性によって便利で快適な生活をある程度獲得しましたが、物質的肉体的には仏教で説く「生老病死」という限界があるのです。その限界を超えるためには、言語的創造性を生かした主観的精神的な知恵や知識によって、有限な人生を意味づけ、自らと社会をコントロールして心の永続的平安と幸福を確立せざるを得ないのです。先史時代の呪術や有史以来の神話や宗教の世界観から科学時代のフロイトに至るまで、人間は様々に人間の生を意味づけてきましたが、現代の科学的心理学や社会科学のほとんどは、人間とその社会を意味づけることに失敗してきました。
フロイトの深層心理学(精神分析学)の基本的な誤りは、まず、欲求(目的充足・動因)と感情(反応結果・過程)の区別を明確にできなかったことです。そのため、快楽(快感)という情動(感情)反応を、追求目的(衝動)としての快感原則と考え、意識的に抑制・制御する現実原則よりも、判断行動の優先原則においたことです。快・不快の感情は、欲求充足行動の結果または過程(味的快は食欲の、性的快は生殖欲の「反応結果または継続」)であるにもかかわらず、このように反応結果としての快感を優先させる対立構造では、動物的判断・行動(欲求充足という目的のために快を求め不快を避ける)の生理的意義と、意識や自我という言語的構想力による人間的な感情や行動の抑制・制御の意義や機能(現実原則)を誤って捉えることになります。
そもそも快・不快の反応は、知覚や行動の現実的判断基準となる基本的感情であり、言語的判断(構想力・創造力・肥大化)を行う意識や自我よりも基礎的で動物的な現実原則なのです。言わば、快・不快の感情反応そのものが自然的な現実原則(調整力)に内在し、快・不快の両者の反応でバランスをとっているのです。人間の陥りやすい神経症の症状は、言語的想像力(幽霊の正体見たり枯れ尾花、天国と地獄、道徳的抑圧等々)によって自然的な快・不快のバランスを崩し、どちらかに偏って増幅し病的反応となって現れる(強迫症状)ことが多いのです。フロイト心理学の誤りは、神経症の原因を無意識的過程にあると考えますが、無意識の実態は欲求や情動・感情であり、とりわけ不快(否定的)感情や欲求不満に伴うストレスの無意識的・抑圧的蓄積が神経症症状の原因であることが明確に自覚されていないことです。
フロイトは、性的快楽の強さと抑圧された家族関係の結合を必要以上に強調し、幼児期の発達の課題を正しく認識できませんでした。東洋的な「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」という格言や「此生ずるが故に彼生ず。此滅するが故に彼滅す」という縁起的相依的因果関係は、西洋的直線的因果関係とは異なり単純な合理主義とは言えませんが、人間の認識や病的な感情反応を容易(適度に・曖昧に)に抑制・制御し、人間の永続的幸福をもっと身近にするでしょう。
参照 フロイト批判
<人間の心の正しい理解>
心の捉え方を誤ると、人間の心の病は治せません。まず、「人間存在(生きること)とは何か?」を言葉によって、知識として意識的に理解することが必要です。人間存在の理解は、生命である人間の心を解明することに始まります。人間の心は、動物的な生存欲求と判別感情(情動)の生理的・無意識的反応の基礎の上に、人間的な言語的・意識的な表現と意味づけによって構成されています。
人間存在と心の理解を根底から意味づけた(と信じた)旧来の世界の普遍宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)は、聖者とされる指導者(救済者、覚者)の天才的な心(精神)の理解によって創始されてきました。しかし、旧来の宗教(教義)は、科学的知識にもとづかず、神や祖霊、梵(ブラフマン)のような神話的で普遍性を持たない世界観(生命や人間や心の理解、人間の構想力の被造物)で形成され、百家争鳴の様相を呈してきました。
この傾向(非科学性と非体系性)は、今日の哲学や心理学、政治経済学等においても継続し、イデオロギーの混迷を招いています。その根源には、西洋思想に由来する人間の本質としての言語理解の混迷(すべての哲学・言語学者)にあります。われわれは、人間にとっての言語の意義を解明し、現代文明(社会)の混乱と閉塞状況を克服して、永続性のある平和で調和のある幸福な地球市民社会の建設をめざします。(2025/08)
参照 言語の起源