フロイトの精神の貧困

生命の目的と言語的創造性の意義――フロイトの精神の貧困性

 精神分析の創始者フロイトが「死の本能(衝動)」について次のように言うとき、「生命誕生の意義と目的」を理解していないと思われます。

 「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還るという仮定が許されるなら、われわれはただ、あらゆる生命の目標は死であるとしか言えない。」(『快感原則の彼岸』小此木敬吾訳 フロイト著作集6p174)

 「われわれは精神生活の、いや、おそらくは神経活動一般の支配的傾向として、快感原則においてうかがわれるように、内的な刺激緊張を減少させ、一定の度合いに保つか、またはそれを取り除く傾向があるのを知った。このことが、われわれが死の衝動の存在を信ずる最も有力な動機の一つである。」(同上p87)  

 すでに拙著『人間存在論―言語論の革新と西洋思想批判』や「人間存在研究所」のホームページで示しているように、本来生命存在は、地球という無限の環境変化の中で、有限な生化学反応として誕生し、宇宙の偶然的奇跡である生命(細胞)状態を永続的に維持していくこと目的としています。

 生命は、基本的に個体(生命性、永続的生化学反応)の維持・存続を目的としますが、すべての物質的存在は世界の変化(熱・光・圧力・重力・放射線・化学反応等々)にともない劣化や変性が起こり、生命細胞もその例外ではありません。細胞の老化は、一般にプログラム説、活性酸素説、テロメア説、遺伝子修復エラー説、老廃物蓄積説等の仮説がありますが、生命は老化を防ぐ一つの選択として接合(多くは有性生殖)して、若返りを図り、永続性を維持しようとします。

 その結果、ほとんどの生命にとって個体維持(保存)と種の存続は、「接合と再生と死」を通じて行われますが、これはフロイトの考えるように「個体死」が「本能的な目的(死の本能)」だと言うことにはならないのです。なぜなら、生命は、持続的生存のために両性の接合による若返りがあり、個体死は目的でも本能でもなく、有限な生命個体の生存を支えあう種族または共同体社会の永続的維持のための結果または過程なのです。つまり、「生命にとっての個体死」とは、本能的な目的ではなく、一般的には生殖を通じた再生と子孫の永続的繁栄ををはかるために、種の一員として活動した単なる結果なのです。

 人間は、他の生命と同様に無限の困難な適応を強いられていながら、言語的創造性によって便利で快適な生活をある程度獲得しましたが、物質的肉体的には仏教で説く「生老病死」という限界があるのです。その限界を超えるためには、言語的創造性を生かした主観的精神的な知恵や知識によって、有限な人生を意味づけ、自らと社会をコントロールして心の永続的平安と幸福を確立せざるを得ないのです。先史時代の呪術や有史以来の神話や宗教の世界観から科学時代のフロイトに至るまで、人間は様々に人間の生を意味づけてきましたが、現代の科学的心理学や社会科学のほとんどは、人間とその社会を意味づけることに失敗してきました。

 フロイトの深層心理学(精神分析学)の基本的な誤りは、まず、欲求(目的充足・動因)と感情(反応結果・過程)の区別を明確にできなかったことです。そのため、快楽(快感)という感情反応を、追求目的(衝動)としての快感原則と考え、快楽を意識的に抑制・制御する現実原則よりも、判断行動の優先原則においたことです。快・不快の感情は、欲求充足行動の結果または過程(美味的快は食欲の、性的快は生殖欲の「反応結果または継続」)であるにもかかわらず、このように反応結果としての快感を優先させる対立構造では、動物的判断・行動(欲求充足という目的のために快を求め不快を避ける)の生理的意義と、意識や自我という言語的構想力による人間的な感情や行動の抑制・制御の意義や機能を誤って捉えることになります(薬物依存症では快を求め続け、病的状況や死をもたらすことがある)。

 そもそも快・不快の反応は、知覚や行動の現実的判断基準となる基本的感情であり、言語的判断(構想力・創造力・肥大化)を行う意識や自我よりも基礎的で動物的な現実原則なのです。言わば、快・不快の感情反応そのものが自然的な現実原則(調整力)を内在し、快・不快の両者の反応でバランスをとっているのです。人間の陥りやすい神経症の症状は、言語的想像力(幽霊の正体見たり枯れ尾花、天国と地獄、抑圧等々)によって自然的な快・不快のバランスを崩し、どちらかに偏って増幅し病的反応となって現れる(強迫症状)ことが多いのです。フロイト心理学の誤りは、神経症の原因を無意識的過程にあると考えますが、無意識の実態は欲求や情動・感情であり、とりわけ不快(否定的)感情や欲求不満に伴うストレスの無意識的・抑圧的蓄積が神経症症状の原因であることが明確に自覚されていないことです。

 フロイトは、性的快楽の強さと抑圧された家族関係の結合を必要以上に強調し、幼児期の発達の課題を正しく認識できませんでした。東洋的な「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」という格言や「此生ずるが故に彼生ず。此滅するが故に彼滅す」という縁起的相依的因果関係は、西洋的直線的因果関係とは異なり単純な合理主義とは言えませんが、人間の認識や病的な感情反応を容易(適度に・曖昧に)に抑制・制御し、人間の永続的幸福をもっと身近にするでしょう。


参照 フロイト批判