生きる目的と言語

☆◇ 以下の引用は「やさしい人間存在論」からです。

(28)生きる目的は多様です 4月 8日(木)

零@横浜さん、零さんと呼びますがよろしいでしょうか。

零さんは「自分が生きている目的」を今知りたいとのことですが、私は「生きる目的」についてあまり考えたことがありません。私は生きる目的について考え悩むよりも、いつも「生きなければならない」と思ってきました。私は約60兆の細胞の連合体として、いつも生命としての自分を感じています。そして「生きなければならない」というのは、私という生命が、言葉という姿を借りて私に呼びかけている(私に発話させている)のだと思っています。「何のために生きているんだろう」という疑問は、人間に特有のもので、「なぜ」という疑問と同じく人間を哲学者や科学者にするものですが、必ずしも真実をとらえてきませんでした。「なぜ」とか「何のために」「どのように」と言う問は、その問の根源(言葉の意味)自体を解明してこなかったからです。

つまり、それらの問(言葉)は、生命から発生したものであるけれども、生命から遊離して、別の世界(事実や虚構)を作ってしまうからです。神話や宗教だけでなく、科学的に構成された自然的世界も、生命から分離してしまうと、逆に人間生命を傷つけ滅ぼしてしまいかねないと思っています。「生きる目的」がないからといって、何も不安になることも悩むことも絶望することもありません。

Bunkouさんは、"全ての生物が目的もなく「生きるために生きている」のです。人も同じです。" と主張されています。私もそれに近いのですが、言葉をもつ人間については、「生きる目的」はなくても「生きなければならない」のように言葉を使うべきだと思っています。言葉は生命の化身であり、本質的には価値的なものですから、自分が生命として生きることに言葉を使う場合は、徹頭徹尾「生きなければならない」と価値的に使うべきだと思っています。

しかし「生きる目的」を、「生きがい」や「使命」「生きる意味」という功利的な意味で使っておられるのなら、これはその人その人によって異なっており、多様なな生き方や目的があると思います。金持ちになりたい、人の役に立ちたい。有名になりたい、恨みを晴らしたい、社会を変えたい、天国へ行きたい、幸せになりたい、真理を追究したい、等々です。このような意味の「生きる目的」は、人それぞれ違っていても、どんな目的でも人生を充実させることができます。

零さん、死ぬ間際にわかることって何かあるのでしょうか。おそらくそのような余裕はないだろうし、動物は死ぬ間際には快楽中枢が刺激されて悟りの境地(一種の諦め)になるとも言われています。現在がつまらなくなるのは、何か大きな意味があるのでしょうか。本当に世の中はつまらないのでしょうか。世の中は様々の刺激に満ちています。これらの刺激は確かにつまらないこともありますが、インターネットのように使い方によっては楽しい刺激を見つけることもできます。この掲示板に書き込みをなさるのも刺激になるのではないでしょうか。世の中にはおもしろいことに充ち満ちていると私は思っています。「生きる目的」のような難しい問題を追求することよりも、「今ここで」、零さんの興味関心にあった楽しい刺激を見つけることが先決だと思いますがどうでしょうか。

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どう思います? 投稿者:お肉 投稿日: 4月11日(日)

自己中心主義(自己ちゅー)ってどう思います。

私は別に自己チューでもいいと思います。

自己チューが、なぜ悪いのか・・・悪いことなのか?

わからない。

・・・・・・・・・・・常識的判断ではどうなんだろう?

教えてください。

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(29)自己チューは自由の根本 4月18日(日)

お肉さん、「自己チュー」は悪いことなのでしょうか。私はむしろ「自己チュー」大賛成です。自己チューであることは自由であり、自由があるから創造的であることができます。そもそも人間は本質的に自己チューであり、欲求や感情、そして自由の根本に自己チューがあります。これは哲学的心理学的には「主観的」と言います。天才的な芸術家や新たな事業を興す人物の多くは、世間の常識を越えた自己中心的で創造的才能を持っています。常識的判断は、時には、停滞と閉塞状況を生み出し、社会の進歩を阻害します。

ただ、自己チューでも悪くなることが2つあります。1つは自分が自己チューであることを自覚せずに、正義の代表者であると強弁して、人々を自分の支配下におこうとすることです。ヒトラーやサダム=フセインなどの独裁者はこの代表的な例です。

2つ目は、自己チューであるために他人に迷惑をかけることです。幼児の「わがまま(自己チュー)」は、まだ世間知らずで悪意もないので許されます。しかし、大人になって、自分の自己チュー性を知らないと、社会性のない欠陥人間とされます。人間は社会的存在ですから、他人との関わり(関係性)の中で生きています。自己チュー大賛成と言っても、他人に迷惑をかける自己チューや自由は、単なる我がままで、社会の混乱のもとになります。

フランス人権宣言では、「自由は、他人を害しない(迷惑をかけない)すべてをなし得ることに存する」と定義しています。「自己チュー」自体は自由と同じく悪いことではないのですが、その結果として他人に迷惑をかけることが悪いのです。「常識的判断」としては、やはり迷惑をかけなければ何をしてもいいのではないでしょうか。

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(30) 生命と言葉と生きること 投稿日: 4月18日(日)

Bunkouさん,質問ありがとうございます。「なぜ人は生きるのか?」という問いが、「危険である」ことの意味について答えます。人間は今まで、生きることや人間存在の意味について考えてきました。人間は生存の意味を問います。どこから来てどこへ行くのか。空腹、病気、老衰、他者との不和・不信・争い、敵との戦い、そして死――生存への不安、敵への脅威、隣人への不満・憎悪等々人生における悩みや苦しみは、否応なく人々に人生の意味を考えさせます。

「なぜ、何のために、何によって」(意味、理由、目的、因果、縁起)の問は、その答を宗教や哲学によって解明しようとしてきました。しかし今日に至るまで明快な教説はなく、逆に根源を問いつめると、主張や意見は対立を深めるばかりです。

現代の多くの人々は、物質的生活の豊かさに流され、根源の問題を考えることもなく、苦しいときの神頼みで、従来の神や仏が必要なときだけ利用しています。現代日本人は無宗教、無哲学で、現世を浮き世として楽しみながら日々快適な生活を送ることにつとめています。高収入、高い地位、名誉をめざし、趣味と娯楽に生きて満足しているのが現代人です。

さて、それでは「なぜ人は生きるのか」を考えることが「危険」なのか。人間は、「なぜ、何のために、何によって」生きているのかと考えても、生物学的事実はBunkouさんの言われるとおりで、「生きるために生きている」のであって、人生の意味も理由も目的もありません。言葉をもった人間だけがこれを考え、創造し、それによって個々人が満足したり、また創造した主張の違いによって反目しあうのです。いわゆる主義主張は、結局自己を肯定し合理化するために作られているのであって、一致させること自体が困難なことは歴史が証明しています。だから人生についてのこの問は危険です。人生や人間存在についての意味や理由や目的についての問は、誤った結論を導くだけで証明もできず、主観的な価値を主張するだけで建設的なものにはなりません。

人生の意味についての完全解答はないのです。問うこと自体が「危険」なことなのです。人が「なぜ、何のために、何によって」と問うことは避けられません。しかし、人生について絶対的な意味を求めれば、意味を求める言葉が一人歩きして自己の生命性を忘れさせ、「不信と対立の原因となる観念」を生じさせるという危険性を自覚するべきなのです。それと同時に、生命的事実を人間が言語表現すれば、「生き続けたい」「生きなければならない」という、生命的欲求・願望や義務の表現が生じざるを得ないと思うのです。そしてその次には、「生きるために何をするべきか」という問が生じ、「自分を取り巻く世界をよく観察し、よく考え、良い判断をする」ことが求められるのです。

もちろん私の主張も価値的なものなので批判を免れません。しかし言語の本質が、生命の生存という価値的のものとして進化的に獲得されたものである以上,言語は生命の生存とともにあることが求められるのではないでしょうか。すなわち、生きることは単なる目的として言語化されるのではなく、目的として問う(考える)前に、「生き続けなければならない」と言語化すべきなのではないでしょうか。

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生と死 投稿者:お肉 投稿日: 4月23日(金)

生きる目的とはなんなのだろうか?人間以外の生物はこのことを考えているのだろうか、「窮鼠猫をかむ」いわずとも知れている、古事。鼠は猫に食べられそうになったところを「生きる力」というもので、怯ませたとおもいます。Bunkouさんの生きるために生きるということは正しいと思いますが、なんだか足りないと思います。私が一番生きていると思うときは、好きなことをしているときでもなく、感情を感じているときでもありません。

唯一感じられるときは「痛みを感じているとき」、すなわち生と死を感じるとき。すなわちスリル、などを感じるときです。

しかし、確かにこの質問は考える人が考えればとても危険です。一つの意見にこんなものがあります。「人は何でがんばるんだろう?どうせ死んでなにもなくなるのに、なんでこんなにがんばるんだろう?」という考え、ほかにいもいくつかあります、そしてそのひとが出した最終結論は「他人を悲しませないためにも生きよう」というのが出した結論です。しかし私が思うにただ死が怖いから死ねないだけだと思います。人はなぜ生きるのか?と問われたときこう答えます、じゃあ死ねば、怖いんだったら生きいればいい、それが生き物の本能なんだから。と・・・・・・(なんだこの文は)

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(31)人は生きなければならない 4月26日(月)

Bunkouさん、いつものように的確なご指摘ありがとうございます。

人間が根源を問うことは、言葉をもつ以上避けられません。「何がどのようにあり、どうするべきか」という問は、動物の認識と行動にも共通する根本的な問です。さらに、人間の「なぜ(何のために、何によって)」という問は、因果の根源に対する人間に特有の問です。われわれは、日常でも、自分の思いや欲求が通らないとき、「何でやねん」とか「意味わからへん」(大阪弁ですが)と問います。この日常的な問は、当然、自分自身や人間存在自体に対する根源的・哲学的な問と同じです。だから根源を問うことが悪いのではなく、むしろ根源を問うのは、言葉をもつ人間にとって不可避であり、本性であると言えます。私が主張するのは、「人生の意味についての<完全解答>」や「人生について<絶対的な意味>」を求めることは、自己の観念(言葉)を絶対化し、他を排除するだけでなく、その言葉(観念)が一人歩きをして、人間の生命性そのものを気づかせない危険性を伴うということです。

前回の「生命と言葉と生きること」の主張は、「言葉」が、生命や人間にとって「両刃の剣」であることを言おうとしました。言葉による問は、言葉による解答を導きますが、その解答は、常に、真実の一部のみを表現し、「完全な解答」や「絶対的な意味」を表現しえないのです。根源的な問と答えに関する議論は、Bunkouさんのご指摘のように、繰り返しされるべきです。しかし、「言葉」そして「言葉による論理」は、人間の文化と文明を創造しましたが、キリスト教文明のように、人間(または自己)の主張や観念を絶対化することによって、他の人間(個人や民族)を圧迫し、排除し、殺戮してきました。今日その勢いは、地球の生命環境をも滅ぼそうとしています(終末思想は、神を信じない地上を破壊します)。

根源への問は、言葉をもつ人間にとって必然的ですが、その答(観念)の有限性(絶対化することの危険性)を自覚すること、「なぜ」という問そのものの危険性(有限性)を自覚しなければ、安直な問と答えの氾濫(現在の宗教と哲学の現状)、価値観の混乱、時代の閉塞状況を克服することはできないと思うのです。

「人はなぜ生きるのか」という問の危険性は、その問に絶対性を求めず、その答は人それぞれに多様であり、有限なものであると自覚することによって低下します。しかし、多くの人は、「人はなぜ生きるか」という問に対して、自分なりの答を発見したとき、その答を絶対化しないでしょうか。例えば、「神の意志だから」とか、「親や隣人が生きなさいと言うから」とか、「生きることが楽しいから」とか、「夢があるから」とか・・・・・生きる目的は、その問に答える人の問題意識の違いによって異なり、一度答をだすとそれ以上問うことをしない傾向があるからです。

私自身は、人間の生存の目的や理由・意味への問は、自然現象のように客観的な答をだすのは不可能だと思っています。「人はなぜ生きるのか」という根源的な問は、主観的な答えしかでないでしょうし、それでもその人が納得すればよいという価値しかないと思っています。人間は主観的な答え(言葉・観念・知識)でも、十分に自己の存在を合理化し、意味づけ、納得し、安心できるものです。

私の立場では、「人はなぜ生きるか」という問の答はありません。そのような疑問自体が無意味であり、言葉をもつ人間の限界性を示すものと思っています。私にとって、「どのように生きるか」が問題であって、「生きること」に「なぜ」はありません。私は、人間がどのような存在であるかを問いつめて、「なぜ生きるのか」ではなく、言葉をもつ人間が正しく言葉を使うとすれば「人間は生きなければならない」という答を得たのです。人間が生きることに「なぜ」と問うこと自体が誤った問ではないかと思うのですが、・・・・・ご意見をお聞かせください。

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(32)生命の目的と人間の生きる意味 5月 5日(水)

Bunkouさん、いつも私の常識をはずした独断的な議論につきあっていただきありがとうございます。

Bunkouさんの<「どのように生きるか」を問う者は、危険ですが必ず「ではなぜ生きるのか」を結論付けなければならない>という指摘は、もっともであると思います。Bunkouさんは、「人はなぜ生きるか」という問に対して「人は生きるために生きている」と結論づけられています。私は、この問の答はなく、疑問自体が無意味でありかつ誤っているのではないか、と言いました。そして「人は生きなければならない」と結論づけています。しかし実は、私もそうは言いながら、「人は生きなければならない<ために>生きている」と結論づけて答えているのです。

なぜ私の結論がこのようになってしまったのか、説明(弁解)します。私は「人はなぜ生きるのか」という問に対して二段階で考えます。まず一段階は、人間を客観的に生物学的次元からとらえて、「人は生命だから生きる」と答えます。つまり、私やBunkouさんのHPで述べている生存の維持が目的となります。しかし、二段階目となると「なぜ」という人間的な問は、自然科学的・客観的な因果関係であるよりも主観的、意味論的、価値的となります。つまり、「なぜ」とは、因果的な関係よりも人生の意味や目的、生き方を尋ねているので、「論理的で本質的な答」はないのではないか。だから、強いて因果関係を示せば、その原因(主体)は、人間自身(私や彼)の主観的判断(欲求や願望)になるのではないでしょうか。「人はなぜ生きるのか」は、「あなたはなぜ危険なイラクに行くのですか」と同じような、主観的因果(意味・理由)を追求しているのではないでしょうか。その結果私は、言語を持ち出して、言葉は生命の要請(「生きたい」よりも「生きよ」)に従えと言いたいのです。

さて次も意見の分かれる議論になります。「生きるため」と「生きなければならないため」の違いを我田引水的に考えてみます。「生きる(生命の維持)」というのは、生命の客観的本質的事実です。しかし人間は、単に「生きるために生きている」(一段階)のではありません。人間は、単に刺激に反応して生きるだけでなく、未来を想像し目的をつくることのできる創造的な動物です(二段階)。人間は「なぜ生きるのか」を考え、「どのように生きるか」という観念の世界(生き方、考え方、価値観)を創って生きています。人間は、言語的思考のために「なぜ」という問を発し、実証的にしろ、想像的にしろ(正誤に関係なく)その答を創り出して納得し行動します。

人間も単なる動物的な生存にすぎないなら、「なぜ」という問に対し、生命の維持存続(生きるため)と、客観的に答えられます。しかし、人間は単なる動物ではないので多様な答があり、万有引力のような本質的な正解はあり得ないのです。人間にとって「なぜ生きるのか」は考えざるを得ない問ですが、実証的科学的に結論づけてはならない問なのです。なぜなら、「リンゴの落下」は、自然現象ですが、人生は人間的現象だから、「なぜ」の答は個々人の創造力(想像力・構想力)という主観性に頼らざるを得ないのです。当然「どのように」という問に対しても、主観性によって答えなければなりません。そこで今後の課題は、どのような主観的な目的と方法を構築するか、となるのです。

「人はなぜ生きるのか?」・・・・・「生きるために生きている」「生きたいから生きている」「死ねないから生きている」「したいことがあるから生きている」「生きる権利があるから生きている」「何も考えないから生きている」・・・・・いろいろあるとは思いますが、私は生命30数億年の歴史の重みを感じるとき「人は生きなければならない」と言葉に表すのが最もふさわしいと思っています。

以上の文は「やさしい人間存在論」から引用しました。

人生の意味を考える


人生は、苦あれば楽あり、楽あれば苦ありで、

人間は、その苦楽のバランスを調節しながら生きています、

人間は言葉を得たことによって、

人生や自分自身の存在の意味を問いながら生きています。

 人生の意味は、その言葉の意味づけの意味を問うところから始まります。