生きるに値する人生とは?(人生の意味)
Q.「人生は生きるに値するかどうか?」 を生命言語説ではどのように説明するのでしょうか?
A.私たちは、「人生は生きるに値するかどうか?」という根源的な問に対して、まず、生命言語説を用いて「人生は生きるに値するように生きなければならない」と答えます。また「生きるに値する人生は、幸福な人生でなければならない」とも答えます。
そんな答えなら誰でも答えられるではないか、と思われるかもしれません。しかし、生命言語説においては、「人間は、自らを言葉によって意味づけ合理化しながら生きている生命(存在)」ととらえますから、「生きるに値するかどうか」という言語的問には、人間自身、言語によって自らが答えを決定しなければなりません(疑問を持たない人間には、答えは必要ありません)。そこで、意味づけられる生命と意味づける言語に優劣(優位性)をつける なら、決定的に生命の方が優位に立ちます。
「生命優位」という事実に疑いを持つことができるでしょうか?言語があって生命があることはあり得ない し、生命のない言語はあり得ません(もっとも、「始めに言葉ありき」と唱える宗教もありました)。つまり、人間の言語は、生命の持つ力――欲求、衝動、意図、感情、願望、永続的生存等つまり「生命力」に従っているし、また従わなければならないのです。ただ、生命にとっての言語の病的誤用(言語的妄想優先)―社会に責任があるとしても―のために、自己の生命の力を絶つこと<自死・自殺>ができるのも言語の力です。
だから、人間は、生命という自己の存在を、「生命力」に従って、生きるに値するように生かし、また生き続け、生かし続けなければならないのです。つまり、人間は、生命に従属する言語(生命力にとっての言語)を、「人間(私、君)は生きなければならない」また「人間(私、君)は生き続けなければならない」というように、自らに対しても他人に対しても用いなければならないのです。
そしてその場合、生命が地上に出現して以来(原始生命の誕生以来約40億年の間)、生きることが安楽であったことはありませんでした。環境の変化や個体の不調(四苦)、同種内・異種間の争いは、縁起の法による自然現象であり、生きることは戦いでもありました。しかし他方で、自然の恵みや調和・穏やかさ、家族や同胞の助け合い、子孫を残し繁栄することの喜び(快楽)は、生命にとっての幸福な状態でもあったのです。
生命にとって「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」のように苦楽や快不快が生存行動の選択や価値判断の基本であり、人間においても快楽を求め、苦や不快を避けるのが疑いようのない生命の自然の事実であります。つまり、すべての人間生命が、同じ生命原理で存在し生存活動を行っているのです。そのことを人間(言語的精神的存在)として理解するならば、すべての人間が幸福(精神的な快楽)をめざして生きること、そしてその条件を作ることが、人間存在の目的になると言えないでしょうか。
自分さえ、自分の仲間さえ快楽を享受し幸福であれば良いという考えでは、決して自分自身の幸福も永続的にはなり得ないのです。ある人の幸福が、別の人の不幸によって成立しているなら、その利己的な人々の幸福はやがて崩れ去るでしょう。今の社会は表向き、win win の交換(市場)原理で成立しているとされていますが、実際には苛烈な競争(活力社会)の中で、弱者を犠牲にした一方的で非道徳的な強者支配が行われています(主流経済学の欺瞞性、市場の欠陥、強者必勝、拡大成長の限界、)。
だとすれば、「生きるに値する人生は、幸福な人生でなければならない」という結論は、どうすればすべての人が幸福な人生を送れるかという人間的な問に発展するのです。今までの自由放任にもとづく経済の考え方は、経済の拡大成長を前提に組み立てられていましたが、今やグローバル世界となり、地球環境や資源エネルギー問題の解決は焦眉の急を要する問題になっています。「生きるに値する人生」とは、自らの幸福を求めることの必要と同時に、生命進化の頂点である言語を持つ人間が、地球と生命と人類の将来について考え行動する人生でもあるのです。
言語的生命すなわち精神的存在である人間について、つまり言葉を話し、言葉によって考え、言葉によって知識を構成し、言葉によって自らをコントロールすることができる自分自身のすばらしさを知ること、「生きるに値する人生」はそこから始まるのです。正しい言葉、正しい知識は、まず「人間とは言葉を操る生命・動物である」という知識をもとにした人間理解、自己理解から始まります。自分の言葉、言葉による正しい自己理解につとめましょう。
◇ 補足
人類の思想(宗教・哲学・習俗―生活様式・ものの見方考え方)の歴史は、自己の存在をどのように意味づけ、いかに自己の心(欲求・感情・言葉)を快適に、安定に、強固に、持続的に維持しようと考えてきたかという歴史でした。
原始人類が道具を発明製作し、火を使いこなし、弓矢等の武器を開発して一層強力な生活・戦闘手段を獲得したとき、それらにどれだけのパワーをみいだし意味づけたことでしょう。我々は遺跡から出土する土器や武器・祭器などの遺物の形状・彩色や用途から精神過程を類推し、またいわゆる未開社会の調査報告から、それらの意味づけを知ることができます(考古学・文化人類学等の成果)。
原始社会では、自然には幾多の精霊や神々が存在し、人間とその社会を支配していると考えられていました。そして、人間はそれらの関心と利害のある存在を畏怖し、尊敬し、犠牲や供物を捧げ、祈り、呪術を用いて自らの願いや希望を実現できるようにしてきました。いずれも自然や人生に対する「意味づけ」にもとづいて為されてきたものです。
しかし、人類は、約一万年前に稲作農耕が始まり、生活が豊かになって、交易や戦争等の様々の地域間の交流が進むにつれ、単純で自己中心的な意味づけ(価値観・人生観・世界観)から、文明の成立によってより普遍的で強力な権力を伴う世界観へと思想を体系化してきました。
エジプトのファラオの支配と来世思想、メソポタミアの創造神話や楽園思想、ユダヤの選民契約思想、インドのベーダ神話、中国の祖霊崇拝と天命思想、日本の神代思想等々、これらの精緻ではあっても素朴で自己中心的な存在の意味づけ(権威づけ)には、その土地や民族性に根ざした人間的なものではあっても、人類の普遍性に根ざしたものとは言えませんでした。
人類的普遍性を持つためには、諸思想の対立と思索、苦難と社会的混乱の試練を経なければならなかったのです。その結果現れたのがヤスパースの言う枢軸時代の偉大な哲学者、思想家、宗教家達だったのです。彼らは自然と人間社会についてに考察を深め、人生の不如意と社会の混迷を克服するための哲学や人生観、創造神信仰や解脱の思想等を構想し、人生の意味を見いだしてきました。 (続)