民主主義社会と政治

● 民主主義社会において、当たり前の生き方や、政治・経済への関わりをどのように考えればいいのでしょうか。

  私たちは今日の日本や世界が、政治的経済的な閉塞状況にあることを目の前にして、政治や経済学者、政治家、高級官僚、経営者、評論家、メディア等々から流される情報や行動について、――そのいい加減さ、誤魔化し、無責任、背信・裏切り、腐敗等々について、当惑し憤りを感じ絶望感さえ抱いています。

 一体、日本国憲法において「主権は国民にあり」と民主主義が制度化されているのに、世論はメディアによって創られ、選出した議員は公約を実行せず、権力を握ればそれを私物化し、三百代言のペテン師となるのでしょうか。権力欲のために、ハシズムやペテンを政治手段とする輩もいます。

 中国や北朝鮮では旧態依然とした独裁政党が、マルクス主義という欺瞞的理論で権力を独占し、超大国アメリカでは、過去の西洋的独善と植民地的支配の継続が限界にあることを反省できずに、相変わらず軍事・政治・経済等を通じて世界支配をもくろんでいます。

 地球に誕生した生命・人間の存在意義とその有限性を一切顧慮しない傲慢と欺瞞が政治と経済を支配しています。そこで今こそ、民主主義社会にとって、当たり前のこと、真実にもとづいた一番大切なことを探求しましょう。あなたにとって、私にとって、日本にとって、世界にとって、そして地上のすべての生命と人類にとって、今、何が求められているのかを探求しましょう。今日の人類的危機の時代は、人類の本質から議論をはじめ、新たな文明の創造を目指さなければならないのです。

 とりあえず、私たちが探求するのは次のことです。

 まず一番目は、これらの当たり前の大切なことが、人によって違うこと、主観的なものであることを前提にして、人間存在にとって共通なこと、できるだけ普遍的なこと、誰もが納得できることを求めていきます。そのためには、情報・知識の公開、批判的精神、つまり実証的科学的精神が前提となります。

 二番目に、私たちの立場を明らかにします。

 私たちは、「生命言語説」の立場をとります。

 人間は、生命の基本である細胞の機能的分化と結合によって神経系として統合され、大脳を発達させ、環境への適応のため言語による思考と伝達の能力を進化させてきました。それによる創造力と構成力を発揮して、自然を支配し文化を高め、今日の高度な物質的・精神的文明を築いてきたのです。

 三番目に、生命と人間の限界または欠陥を指摘しておきます。

 生命は種としては生殖を通じて持続しますが、個体としては病気におそわれ、老化し死を迎えます。また生存中も労働があり、他者との競争やトラブルがあります。しかも、他者の犠牲や支配を求める個体もいます。生きることは安楽なことではありません。そんな人間だからこそ、何が当たり前で正しいか、永続的な幸福とは何かを求めるのです

 四番目に、生命は生き残るために、多くの巧妙なメカニズムやテクニックを進化させてきました。

 その一つとして、自分の姿を強く見せたり、自然の中で見つかりにくくしたり、異性に魅力的にしたり、大人に可愛く見せようとしたり等々、騙し、脅かし、誘惑し、身を護り、他を支配するテクニックが巧妙化したのです。詐欺は人間言語の得意技です。真実を見抜くことは大変です。だからこそ真実を見抜く知恵と努力が必要になります。

 五番目に、今まで当たり前として大切にされてきたことで、真実にもとづかず、現在と未来にふさわしくない誤りや不正や享楽があります。それらは長年の日常生活や行事、価値観にかかわる伝統や慣習でもあり、もしそれらに代わる楽しみや心を支える豊かな文化的内容がなければ、その喪失を考えることさえ耐え難いかもしれません。

 今までの宗教や伝統、祭りや年間行事、楽しい思い出等、自尊心や自らが関与した成果への誇り等々は、私たちの心の支えとなってきました。しかし私たちの未来、子ども達の未来、地上における永続的な快適さと幸福はもっと大切です。

 だから六番目に、私たちは私たちを生かし支えてきた人間存在の根本から考え見つめ直してみる必要があるのです。嘘をつかないこと、正直であること、正しいことをすること等は、子どもの時教えられた大切なことでした。

 しかし、年を重ねるにつれ、友達との遊びやけんか、受験競争、求職活動、成功や失敗・挫折等を通じて、自分を守り世間の冷たさから逃避し、生まれてきた意味を問い、人のぬくもりを求めるようにもなりました。また、地獄の沙汰も金次第、なるもならぬも金次第と、物質的刹那的享楽に必要な金のためならなんでもする、虚栄こそすべてと人生の意味や精神的充実感など考えなくなる場合も多いのです。

 七番目に、だから何も考えないこと、自分の心や本当の幸せについて知ろうとしないことは愚かなことです。

 私たちには衣食住にかかわる身体・生活上の最低限の物質的富は必要です。しかし楽しみや幸せは、見て聞いて食べて触って、虚飾と権力によって他者を支配し優越する快楽ばかりでなく、家族や隣人との信頼や愛情、自然の中での心豊かさ、自分の弱さに打ち勝つ力(精神力)があれば、貧しくても充実した持続的幸福をえられるのです。

 私たちは、人間や社会の悪を軽減する前に、私たち人間自身の内に潜み良心と悪徳の根源になっている利己的欲望と否定的感情について考えます。仏教等の宗教や倫理思想はそのために役立つでしょう。

 

 さて八番目に、人と社会との関わりについてからは、少し難しくなります。古くから言われているように人間は社会的動物です。人間社会の中で生育することによって、物の見方や感じ方、行動の仕方を学習し個性的な人間として成長をします。

 社会の中では、親子として、家族として、地域や学校や社会人としての関係性をもちながらさまざまの利害の中で生活しています。勤労や消費生活にかかわる経済、社会の法的枠組みや地域・国家の政策とかかわる政治活動など、それらの学問的知識を意識せずに利害に巻き込まれています。

 だから、私たちは、政治や経済が単に難しすぎるからと避けるわけにはいきません。偽りの情報が常に宣伝され、騙されることが多いからです。 

  九番目に、政治と民主主義のありかたについて、

 私たちは、義務教育において、今日の政治・経済・社会等についての基礎知識を学んできました。国民主権を基礎とする憲法の三本柱や三権分立などはその代表例です。

 しかし政治的教養と政治参加の必要性は、身近な現実的利害の反映であるにもかかわらず、利害対立の現実を正しく教えられてきたわけではありません。例えば、消費者教育はあるものの、商品の価格について市場価格の合理的適切性のみが教えられ、不等価性や情報の非対称性(詐欺牲)は、十分に教えられませんでした。

 また平和や基本的人権が、人間や民族間の厳しい歴史的対立・闘争を経て獲得されてきたものであることや、現実の利害を見つけ私人間で平和的に解決する視点は避けられてきました。特に日本では、民主主義はお任せ的に与えられるものという観点が重視されてきました。生徒会、町内会、自治組織、労働組合、株主総会、各種委員会等々、組織の意志の決定や問題の解決方法について、民主主義的自覚は不十分でした。

 なぜか?日本的集団主義によって、反対意見が軽視又は忌避され議論自体を善しとしない傾向があったからです。しかし、政治と民主主義は、反対意見や利害の対立を前提としています。 

 十番目に、民主主義と教育について

 民主主義と教育には深いつながりがあります。とくに依存的な日本的集団(協調)主義の限界(お任せ民主主義)を克服し、民主主義の前提ともなる公正と正義を追求する議論が活発にできる市民を育成する必要があります。

 そのためには、自己の意見・主張を明確にするとともに、相手の主張を理解できる認識力・判断力を身につける必要があります。さらにその前提として、他人への依存(甘え)や問題の曖昧さを克服する前向きの姿勢(積極性)や社会的関心が必須条件となります。また、議論は一種の知的争い(弁証法的過程)ですから、自己と世界に対する豊かな知識・教養が必要です。

 これらの条件はすべて幼児期からの教育によって形成・獲得されます。人間は、目先の日常的・利己的利害(生活程度や世間体)にとらわれがちですが、自分自身の人間性についての理解(自己理解)が進めば、視野が広がって認識や行動(価値観)も変わり、自律的な大人の判断ができるようになります。

 そこで「生命言語理論」が役立ちます。とりわけ、冷静で友好的な建設的議論が成立するためには、違いを前提にした上での共通の人間的知識が必要です。宗教的対立が不毛なのは、人間的に共通の基盤を持たないことです。「生命言語理論」は、今日まで哲学や心理学で十分解明されなかった人間の認識や行動の原理を、欲求と感情、思考と言語の分野で体系的に明らかにして、西洋的合理主義の限界と克服の道を解明しています(詳しくは『人間存在論―言語論の革新と西洋思想批判』参照)。ここでとりわけ重要なのは、議論の前提であり手段である言語が、人間の本質でもあるということです。

 さて民主主義そのものについて考えてみましょう。日本国憲法の土台となっている西洋起源の民主主義は、西洋近代ヒューマニズムに基づく自由や平等、さらに現代的な社会権を加えた基本的人権の保障を社会契約によって実現しようとするものです。しかし、それらの権利(自然権)の根拠は、創造神や自然法にによって個人に与えられたものとされ、日本人にとっては自明のものではありませんでした。

 西洋的人権思想の基本である自然権という権利(rights)は、自然法として、または神や理性によって「生来」人間に与えられたものではありません。自然法や人権思想は、有限な人間が、人間自身や政治権力に対し自己の存在の意味づけ(合理化)や強化のために創作したものです。だから、その意味内容については、不断の知的吟味や検証がなされるべきものです。つまり、権利の根拠や内容は、人間の本質についての解明と共に、社会的な検証や教育・反省をつうじて不断に創造し獲得されるべきなのです。

 民主政治の意志の決定が、国民の多数決によってなされるものであっても、その原則が「人民の、人民による、人民のための政治」であるためには、多数決以前の人民の自覚と議論の過程が必要になります。しかも今日の政治的決定事項は、個人や、民族、個々の利害集団の枠を越えた、人類共通の理念や目標が前提となります。狭い利己心や排他的民族主義は、人間にとって本性の一部であっても抑制されるべきものです。

 今日では、経済的成長の限界や資源の偏り、歴史的社会的に配慮すべき世界的利害(南北・東西問題、貧富の格差問題、民族・宗教問題、景気変動の調整問題等々)など高度な知識が必要とされます。有限な世界では、一つの主張に対して、必然的に反対意見が存在するのであり、反論は権利として大切にされなければなりません。多様な解決すべき問題に対処するためにこそ、ものの見方考え方の基本と豊かな教養が、教育において重視されなければならないのです。

 さらに、「生命言語理論」においては、討議に必要な相互理解のために、心(欲望・感情と言語的制御)の分析とコントロールが容易にできる方法を準備しています。相互理解のためにはまず議論構成における双方の立場の理解が必要ですが、はじめから対立する議論では、反発と自己主張が優勢になり、理解の糸口さえ見失います。宗教的イデオロギーの対立、貧富の利害対立などの場合これが顕著に表れます。こうなると反対のための反対、偏見や虚偽が横行します。短慮は民主的議論にもっともふさわしくありません。

 人間についての検証可能な共通の科学的知識を前提として、どのような問題でも議論が可能であること、宗教や信仰についても生物学や心理学、そして言語学の知見が生かせるでしょう。そして究極にはどのような知識と知恵が人間の幸福と救済に役立つかを確認し、主体的人間を育成することが必要になります。それが、民主主義の発展の条件になるでしょう。人間的な無知と不安を教育によって克服し、個人を確立することによって、民主主義の担い手となる主体的自律的人格が育つのです。

 

 十一番目に、民主主義とメディアについて

 現代資本主義社会における商業主義は、大衆の社会的・民主的自覚をのぞみません。資本主義自由競争における勝者(大企業等の既得権益層)は、競争相手(他企業等や労働組合)の台頭を抑制しようとすると同時に、利益拡大=消費拡大のために消費者の賢明な判断や抑制力を嫌います。社会や権力への大衆の不満や反発に対して、支配を永続化する基本は社会をバラバラに分割して統治することです。民主主義には社会的自覚が必要ですが、資本主義的既得権益層は、大衆の自覚と団結をもっとも恐れるのです。

 このことを前提とした上で、メディア(とくに商業メディア)の影響力を考えてみますと、大企業の情報独占や広告宣伝による大衆の意識・欲望・世論の操作は、完璧なものがあります。彼らは大衆の心情を研究しつくし、大衆の欲求や願望を実現しようとしているのです。大衆の目はとても厳しいのですが、その関心は身近な生活上の問題に追われ、メディアの流す情報を吟味する余裕も意欲ももてません。正確にはメディア・リテラシー(情報の評価・識別能力)を学んでいないし奪われてきたのです。

 そのためにメディアから流される報道や広告等の情報に洗脳され、マインドコントロールされているのです。これは大衆側の欲望肥大化と消費の拡大意欲と、メディア側の情報操作による世論・大衆意識の形成意図、商業主義、そして浪費社会における生産者(企業)と消費者の社会的責任・自覚の麻痺・欠如に原因があります。問題は誰かに責任を押しつけるというよりも、現代文明自体が出口の見えない閉塞状況にあるということです。

 この状況に危機を感じている識者の多くは、大衆の意識操作が、商業メディアばかりでなく公的メディア(公報関係)による情報の隠蔽、政治的利害に対する利益誘導と報道番組の政治的偏り、強者による既得権擁護の拡大、政敵のネガティブキャンペーン等の、権力や企業側によるあからさまな政治・経済的な支配的意図を強調します。しかし、責任はすべて権力側にあるというような単純なものではないのです。

 残念ながら、大衆側の問題点として、ローマ帝国で行われたような「パンとサーカス」を要求する側面もあるのです。社会的責任や自覚の欠如、刹那主義、即物主義、享楽主義等は、大企業や政治権力、官僚体制や教育制度に一義的な責任があるのですが、閉塞状況を打開し新たな文明を志向・創造する価値理念を提供できなかった学者・知識人・政治家に、より大きな責任があるのです。

 マスメディアによるほとんど一方的な情報操作と大衆支配は、民主主義を形骸化させ、社会の退廃と混乱、格差と対立、そして心理的病理現象をもたらします。この状況を打破するには、資本主義的メディア・イデオロギーに対抗しうる新たな文明創造的イデオロギーが求められています。時代は構造から創造へ向かい、イデオロギーの復権を必要としているのです。

 

 十二番目に、政治と社会参加について

 政治をうさん臭いものと考える人は多くいます。しかし、私たちの日常の社会生活は、ほとんど政治によって定められた法律(罰則で強制する)の規制によって動いています。出生の証明から、成長して結婚し、社会人になって死亡証明を得るまで、法律で細部にわたり手続きが定められています。社会的な自由は、政治的規制の枠内で保障されているに過ぎないのです。

 その上、日常生活を自由な選択のもとに行動しようとしても、貨幣の所有の有無によって大きく制約されています。貨幣は経済活動(労働・投資・金融等)によって得られますが、活動の機会が公平に与えられているとは限りません。本来、経済活動の場は多様ですが、希望や適性・能力にあった機会があるのは少数の人間に限られます。多くは労働市場の競争で決まり、一度の選択が一生の生活を決めることになります。労働によって貨幣(給料・所得)が得られても、2割程度の税金が課せられ、使うときにも消費税が付加されます。

 税は、公共事務や施設、治安・防衛、社会保障、産業育成等に使われ、われわれの便益に提供されるが、これも国家や自治体の政治運営の一環である。このように我々は、日常に意識しなくても、社会生活をする限り、習慣的に政治の影響を受け社会参加をしていることになる。

 ここでは、このような政治の仕組みの中で、意識的に政治とかかわることの必要性(重要性)を述べます。というのも、我々の生活の多くを規制している政治が、必ずしも我々の生活や権利を守ってくれないからです。我々は、生活が順調であったり、逆に、多忙すぎると社会への関心が薄くなり、あまり政治との関わりや問題の原因・本質を考えたりしません。

 政治への関心度は一義的には家庭教育にありますが、学校教育、メディア、そして何よりも政党や政治家の啓発的取り組みにあります。日本の政治意識の状況を見れば、伝統的に市民的自覚が低く、為政者の「由らしむべし、知らしむべからず」の意識が強く、また国民の「寄らば大樹の陰」の傾向もあります。大衆は目先の利害や娯楽に興じ、商業主義的メディアの享楽と政治家や官僚の欺瞞を見破ることがなかなかできません。

 なぜか、実は大衆は賢明なのです。真実を見破る目をもちながら、それを論理的に表現するのが苦手だったのです。例えば、今、地球環境問題が課題となっていますが、人間や地上の生命が危機的な状況になっていることの意味が、論理的に正しく理解されていないのです。目先の利益が優先されて、自分や家族そして職場を通じての生活、さらに地域や日本が、わがことのようにアジアや世界の利害とつながっているという論理的な理解が不十分なのです。だから「なにかおかしい」と思う気持ちに力強さが十分伴わないのです。

 生命としての人間が、一人一人は自己の個体維持とそれにつながる偏狭で排他的なエゴイズムに陥りやすいことは了解できるとしても、家(共同体や国家を含む)を守るためには自然環境・地球世界を守ることが将来子孫の幸福のためにもっと大切でしょう。「今ここで」の生活が大切なのは言うまでもありません。しかし、宇宙や自然が与えた生命と人間の存続を守るためには、個人や国家の権利・主権を守るだけでは不十分なのです。

 政治と社会参加のためには、単に目先の利益や心地の良い「欺瞞的な」言葉に騙されることなく、事実に基づく科学的な認識と正義・公正の判断による「自己と社会の本質的理解」が必要になります。それは一つの体系的理念・イデオロギーであり、人間にとっての共通のものの見方・考え方であると言えます。そのような人間の本質についての共通理解の上に立って、はじめて政治的主張・意図の実現、目先の利害にもとづく対立の調整や秩序の維持、対外関係の課題解決等を円滑に行うことができるのです。

 もちろん民主政治の仕組み・手続きはすでに既成のもので十分です。必要なのは、政治的参加のための主体的意識であり、民主主義の形骸化、お任せ民主主義の克服のための意識改革について述べています。人間とは何か、社会との関わりとは何かの疑問の解明が、政治参加の前提になるのです。目先の利害だけでの政治参加は、大衆民主主義という名の衆愚政治に陥りやすいのです。

 

以下、次のように続きます。

十三番目に、労働と所有、社会的責任(道徳)(要検索)について

十四番目に、新社会契約(要検索)について

番外として、 人類社会と国家の発展モデル