市場の欠陥性とは

市場の欠陥性(欺瞞性)とは何か 編集中

――利潤の源泉・格差の根源は何か、また「大転換時代の経済学」とは――

★ 市場におけるwin winの交換関係の欺瞞と真実を見抜き、新しい経済学を確立しよう

1.市場の交換契約は常に正義であると言えるか(交換的正義とは)

2.経済活動の調整・制御・規制における正義とは何か(分配的正義)

3.経済学において「市場の欠陥」はどのように扱われてきたか

4.「市場の欠陥」がもたらす社会問題と「市場の失敗」論の誤り

5.地球的縮小社会にふさわしい「大転換の時代」の経済学とは?

「市場の欠陥」すなわち「利己的互恵関係に潜む欺瞞性」を自覚して、 どのように交換と分配の正義を実現し、経済の運営を図るべきかを考えます。市場で儲けるとは、他人の労働から交換を通じて利益を得ることだから、市場に潜む道徳的欠陥性(欺瞞性)を調整するにはどうすればいいのでしょうか。

⇒ 市場、すなわち商品の価値交換・取引の場は、商品所有者の立場と交換意図(利己心)の無限の多様性(違い)によって、当事者間に相互利益win winや利益格差win loss、公正と不正、欺瞞や力関係が交錯し、社会的調整がなければ勝者と敗者、支配と被支配の格差と差別を拡大する本来的な欠陥をもつ不等価交換のシステムです。これに対し、主流の経済学では、市場経済は原則的に公正で効率的な経済システム(市場の完全性)であって、貧困や格差の拡大、環境や社会問題が起こっても、その失敗を法律の規制や予算を通じた分配によって調整するのが政治的役割であると考えます。このような立場は、アダム・スミス以来の西洋的経済合理主義の立場であって、現実の市場の本質を理解しているとは言えません。この欠陥の修正は、市場の正しい理解によってそれを構成する社会的人間の交換的・分配的正義を実現する道徳的公正さだけでなく、交換と分配の不公正な現実を法的に規制する道徳的政治的な統一的政策が必要になります。

資本主義とは、商品交換市場における現実の不等価交換が、経済学上の欺瞞的な等価交換(winA > winB, WIN>win)という交換契約行為をもたらし、労働力商品と一般的商品の交換を通じて利己的な利潤を獲得し蓄積するシステムである。

⇒ 市場を通じた営利行為の勝者は、必ず強者であり、また、勝者(強者)は敗者を救うための直接の援助・配慮を拒否してきた(自己責任)。そこで国家は民主政治を通じて、社会の格差(階級対立)と不安定を抑制するため対外侵略か、あるいは財政(税と分配)による福祉政策をとらざるを得なかった。しかし、21世紀の今日、資本主義は、スミスマルクスの誤り によって、その修正の社会福祉も社会主義的解決も閉塞状況に陥っている。さてどうするか?


はじめに

 現代の主流の経済学では、市場(商品交換によるモノやサービスの需給調節機構)が有効に機能すれば経済は成長し、その冨の恩恵は、多少の格差や時間の前後はあっても、過不足なく効率的に社会に配分される、と考えます。市場経済は、自由で平等な諸個人による売買契約(利己的互恵性)がおこなわれ、価格による需給の調整(市場メカニズム・見えざる手)によって、競争を通じた資源の効率的分配が行われるので、政府が介入する余地は基本的には存在しない(自由放任の推奨)というものです。従って、本来は市場に欠陥はなく、貧困や格差、公害や政争などの利害対立は、市場経済に欠陥があるからではなく、政治や宗教・道徳等による歪んだ人為的政治的介入か、または「市場の失敗」によるのであって、市場の本質的欠陥によるものではないと考えます。

 この経済学における市場の捉え方(利己的互恵主義または利己的公益主義)には重大な二つの欠陥があります。それは、(1)形式的(法的)な自由平等による売買契約が、実質的な不自由・不平等(不正義・不等価性)な関係で行われていることを見逃しています。また(2)無計画で利己的な競争(自由放任)は、競争の勝者による独占的利益をめざし、価格による需給の自動調節機能が働かなくなり制御不能の恐慌状態を生じさせることにもあります。いわゆる新自由主義経済学(フリードマン、ハイエク等)の市場原理主義は、社会主義や福祉政策を嫌悪するあまり、人間による社会的計画的介入を排除する経済学を打ち立てました。

 しかし、人間個性の違いと共に、地理的歴史的に形成された実質的不自由・不平等が市場競争において格差や混乱を引き起こし拡大するからこそ、社会的関係によって成立する経済活動には、科学的に検証できる人為的道徳的規制が必要なのです。そして現実の市場や経済活動は、民法や商法のルールに基づき独占規制や労働法制、環境や消費者保護、そして財政金融政策によって計画的に制御されています。だから、市場のあり方についての認識、すなわち政治経済学や経営学等のイデオロギー的領域(人文科学領域)では、介入の目標や程度について百家争鳴の議論が行われ、民主主義の多数決によって介入の程度を決め経済社会の運営を行っているのです。

 今日のグローバル経済では、むしろ地球的限界状況の露呈による閉塞状況の中で、市場経済の限界と欺瞞性を隠蔽しながら強者を優遇し弱者を切り捨ててそこから生じる社会問題・矛盾を経済成長で繕おうとしている のです。しかもその繕い方は、貨幣を市中にばらまいて(金融緩和)浪費を煽り、投資を装った金融商品を利用して善良な市民から生活費を奪い取ろうとするあくどい手口です。これらの困難は、「市場の欠陥」を直視せず、「成長の限界」さえ積極的に解決策を模索せず、国益の利己的拡大のみを追求する狭量な主流経済学の無責任さをあらわしています。

 前置きが長くなりました。市場には多くの利便性がありますが、この小論では西洋近代の契約社会と民主主義の限界をふまえて、市場の欠陥を分析し、グローバル経済のあるべき姿を考えてみます。まずは市場原理主義の教義ともなるべきL.ミーゼスの次の文から「利己的公益主義」の本質を吟味して、拙論を読み進めてください。

「文明人の社会的協業と経済的努力の本質を、あたかも戦闘や、戦闘の遊戯的模倣であるゲームであるかのように見ることほど、根本的な誤解は恐らくないだろう。社会的協業においては、誰もが自分の利益に役立とうと努めることによって、仲間の人々の利益に役立つのである。自分自身の状態を改善しようという強い衝動に動かされて、他の人々の状態を改善するのである。」 (L.ミーゼス『経済科学の根底』村田稔雄訳 日本経済評論社 2002 p110)

★ 自由主義経済学は、経済成長の名の下に「強きを助け弱きを挫く」ばかりでなく、地球環境を破壊し資源を食い尽くして、地上の生命と人類の生存を危うくする経済学である。経済学を経世済民(世を治め民を救う)の学問とするために、格差社会の矛盾・混乱・危機(犯罪・暴力・テロ・戦争)は、経済の成長拡大によってしか解決できない、と考える市場原理(等価交換原則)主義を見直し、従来の国民経済学を地球的交換的正義を実現できるような国際規模の持続的調整経済学にする必要がある。

★ 経済的格差拡大の根源は、自然の差異と不平等を利用増幅する商品交換(市場)を、公正な「等価交換」であると欺く経済学全般の欺瞞性と、その理論を利用し強者支配を継続しようとする人間の利己的拡大(権力)欲にある。

 今まで自由放任(小さな政府・効率性)と実証科学の名の下に、道徳的要請に応えてこなかった経済<学>(社会福祉はもっぱら分配的正義による政治<学>の責任とされた)は、これからは、市場(交換・取引・ビジネス)における「道徳的意味」すなわち生産と消費における環境的配慮や情報の透明性をふまえて、交換的正義と社会的責任を実現できる経済学でなければならない。

1.市場の交換契約(商品売買)は、常に正義(等価)であると言えるでしょうか

 商品交換市場が、交換当事者間の相互利益のために拡大してきた(拡大志向は人間の言語的本性に由来する)のは間違いありません。しかし同時に、市場が常に社会に正義をもたらすかと言えばそれは正しくありません。市場の相互利益性(スミス的に言えば「利己的公益性」 )が、利益拡大のための競争原理に支配されるとき、市場に潜在していた「市場の欠陥」が露呈します。強者と弱者の格差が拡大・定着し、市場の調整メカニズムは崩壊します。市場の相互性は、自由・平等を基本とする当事者間の信頼(道徳性)を前提としますが、この欠陥を見逃すとき欺瞞的経済学が台頭して社会の道徳的退廃を招くのです。

「市場の欠陥」と言うべき一つの根拠、すなわち売買契約の実質的(実体経済的)な不自由・不平等とは何でしょうか。それは、近代人権思想と民主主義によって確立した自由・平等が、人間(個人)の「理性の信頼」に依拠しているため、理性(言語力)を十分に理解せずまた利用することもできない個人(弱者)にとっては、情報処理(知識と駆け引き)の面で競争的契約関係に不利益が生じることです。社会生活における様々の利害対立の場面に理性的対応が求められるのは当然ことですが、知力と財力のないものは社会的敗者になりがちで、自由競争のもとでは、それら勝者・強者と敗者・弱者の間には、格差や不平等がもたらされます(金持や貧乏になる自由)。

 そして、知力・体力・財力等の不平等の根源には、①個人的・家族的不平等、②私有財産(自然の占有・略奪・売買)の不平等、③地理的・風土的(資源・生活条件)不平等などと、それらの不平等(差異)に伴う不自由性(自然的・社会的・政治的制約、運不運、強者優位、弱肉強食)による貧富の格差拡大が生じます。そして格差は、「理性的・合法的」に強者支配の永続化という不公正・不正義の反道徳的社会を成立させるのです。

 競争市場における商品売買は、交換契約の公正性(民法的契約論理)を前提として経済学的に分析すれば、互恵的に(win win)契約が成立しているとされます。しかし、その実質内容(実体性)においては、当事者間では必ずしもwinA=winBとはならず、いかに理性的で公正な取引をしようとしてもwinA>winB(商品A≠商品B)の場合が多くなります。情報の非対称性が大きい品(中古車や保険商品等)、価値の変動が激しく不透明性が強い株式商品、個人の能力や力関係が反映する労働力商品などは、互恵性の内容が著しく不公正になると言えます。ここに市場交換の不等価性の根源が秘められています。

 つまり「自由な交換の成立」は、実質(実体)上は必ずしも等価物の交換(等価交換)とは言えず、これを等価と見なすのは、「経済学の欺瞞」に過ぎないのです。現実の市場では、商取引上の「理性的駆け引き」が価格を規制しているのが実体です。同時に、市場の需要供給による価格の均衡または平均価格の法則性を絶対化することは、交換の不等価性や不正義性を粉飾するものというべきです。平均(均衡)価格を需給を支配する法則とみなして、平均から外れる価格を軽視・除外商とすることにも経済学の欺瞞性(マルクスもまた交換価値を支配する平均的価値法則を追求した)が隠されています。

 資本主義経済は、商品交換市場において効率的に最大利潤を追求し、かつ資源を市民に分配するのですが、そこに見られる「交換や分配」は常に「良い商品(goods)を安く買い、安く造って高く売る」という売買関係の人間的動機に支えられています。そして市場競争は、弱肉強食を煽ることによって効率性と技術革新を促進し、経済成長と物質的繁栄を実現して生活の質と量を拡大します。とりわけ大企業は、メディアを通じて自社商品の一方的な情報を流し(消費者の監視は制限される)、流行や製品改良を通じて欲望を刺激し、消費者大衆の購買・浪費意識を操作します。

 しかし経済学は以上のような経済発展の肯定的な側面のみを強調することによって、「市場の欠陥」を単なる「市場の失敗」に歪曲し、強者支配の永続化と人類文化の退廃・破壊を導いています。これは資本主義発展の歴史(専制と隷従、暴力と破壊、退廃と享楽など)が示しています。つまり「市場の欠陥」とは、外部性とされる「市場の失敗」が引き起こす社会問題(貧困と格差、環境破壊、退廃文化など)ではなく、自由で平等な理性的契約の欺瞞性そのもの表現(市場は欺瞞性を内包している)なのです。だから市場が人間の自由と幸福を増大させてきたという現実と同時にその欠陥をも助長させ、環境破壊・地球温暖化や資源・エネルギーの涸渇という現実に直面して、改めて見直す必要性――分配的正義だけでなく交換的正義に対する関心を深める必要があるのです。

[※win win の契約成立(自由交換による相互利益の原則)を、win=win とみなす契約合理性の単純な因果関係ほど、西洋的思考の限界を示すものはない。マルクスは資本制生産社会の解明の著作『資本論』の冒頭で、商品交換社会を科学的に分析するため商品A=商品B を前提におき、一般的等価形態=貨幣の出現を導いたが、マルクス的剰余価値説の誤りはこの出発点から始まっている。科学的認識とは、win=win という表面的な現象に欺かれることなく、常にその実質が検証されなければならない。例えば労働力商品(人間力)の価値は、資本家・経営者によって常に低く見積もられ売買されて、低賃金・劣悪な労働条件が強いられてきた。生産手段を持つ資本家の購買力は常に強く、生活手段さえ持たない労働者の立場は常に弱かったからである。商品市場の売買関係は常に競争関係であり、常に条件の有利な強者が、多くの利益を得る。win win の契約成立がwin=win であるのは、そう信じざるを得ないからであり、交換に伴う不等価性(最低限+α の生活、または、主観的利益)に甘んじているのは、実質的には余剰の創出による成長と豊かさへの幻想・欺瞞によって強いられているのである。商品交換における等価性・不等価性の分析は、さらに多くの事例検証を必要とするが、主流の経済学による不等価性の隠蔽は、経済成長の縮小と格差の拡大とともに明らかになるであろう。]

2.経済活動の調整・制御・規制における正義とは何でしょうか

 かつて19世紀自由放任の資本主義経済の時代、周期的に恐慌状態が起こり、マルクスはこれを社会の運動法則として分析し、「生産の無政府性」が根本にあるとしました。これは「市場(経済)の無計画性(自由放任性)」とも言うことができます。資本主義(自由市場)の長所は、利己的欲望が生産力の発展(冨の増大)に寄与する社会(A.スミス、ヘーゲルの「市民社会」)と言われます。しかし、自由市場は、社会経済の全体を調整する政治権力機能を欠いているので、市民社会(全体)における生産・交換・消費の連携・調整が取れず、競争心や利益期待が肥大化すると、消費需要をこえて生産過剰がおこり商品売買が滞ります。その結果在庫調整がすすまず、資金繰りが悪化して倒産・失業をまねき、経済活動が縮小するという悪循環となり、社会全体がパニック(恐慌)になるのです。

 そこでケインズ政策では、政府の財政支出によって有効需要を創り、産業の活性化を図って経済を立て直そうとします。これは経済の拡大成長が見込める場合はよいのです。しかし、ある程度生活が向上し人口増大も望めず、減価償却だけの限定的な「単純再生産」の状態になると、有効需要を増やそうとしても税収も増えないので、今日の日本のような過大な借金だけが残るようになります。景気の刺激策として政策金利を下げたり、銀行の信用創造によって通貨の供給を増やす金融政策を行いますが、いずれも一時しのぎに過ぎないのであって、市場の不安定性を調整する能力には限界があります。そればかりか、借金による需要の喚起や実体を伴わない通貨の増大は、悪政インフレを招きさらに貧富の差を拡大し経済・社会を混乱させます(マクロ経済政策の限界)。

 主流の経済学者が期待するように、市場経済は、「売手良し、買手良し、世間良し」(win win win= 3win)とは限りません。また、全体として経済の拡大成長がなければ、上に述べたように社会全体の満足は得られず、格差は拡大し社会の不満はうっ積していくことになるでしょう。そのため経済調整の方法として、マネタリストの経済学では、中央銀行(金融資本の総帥)による通貨量の増減によって、市民社会全体の経済調整(景気変動の調整)を図ろうとしますが、これは「世間良し」の発想ではなく、経済をバブル化して資本主義的成長を図ろうとする一時しのぎの延命策であって、実体経済の成長の限界によって調整効果は限定される運命にあります。(新古典派経済学では、市場の効率性や調整能力、そして何よりも「利潤動機」が強調され、交換における不公正や格差・貧困、環境問題などは「市場の失敗」で処理し、経済活動における人間的道徳性はほとんど無視されます)。

 このような市場が本来的に持つ「欠陥性」に対して、政府(国家・政治権力)はどのように機能するべきなのでしょうか。かつて古代・中世では、商業市場を運営する商業資本は、権力者の経済を支え自らも権力の一端を担い、市民・民衆の活力を産み出し、商業資本自体が自治を行ってきました。絶対主義の時代になると、国家(国王)は、商業資本(特権商人)を取り込み、国内外の市場を活性化させ、軍事力によって海外市場獲得競争に乗り出しました。市場における欠陥(差異性・不等価性)を国家が積極的に利用し、富国強兵・殖産興業を推進したのです。

 19世紀になって産業資本が確立すると、この傾向はさらに強められ弱肉強食の帝国主義時代に入り、資本家は冨を蓄積して実力を付け、国内市場では労働力市場を支配し、民衆は搾取と貧困に苦しみ、景気の変動に伴って労働争議・革命が起こりました。労働者・大衆は、不満を募らせ政治の変革・社会主義に希望を見いだしました。それによって、参政権を拡大し、民主主義の進展とともに経済も成長し、労働者福祉制度が導入され、市民生活も向上してきました。

 近代の資本主義は、科学技術を活用した産業の発達と市場の拡大によって経済のグローバル化を図ってきました。その間、市場の欠陥(利己的互恵性における不公正と自由放任による無政府性)は、貧富の格差を再生産しこれを永続化(既得権益化)しようとしたため、途上国では革命による社会主義化(開発独裁)をおこない、先進国では民主政治の介入によって福祉国家化を図り利害の調整をしてきました。

 しかし、市場の欠陥に対して国家の作る法制度には限界があり、社会的信頼性と互助互恵を維持するための不断の検証と自己変革がなければ、社会は安定しません。法的権益は既得権益となり、社会の現状維持と退廃を招きます。このとき「新自由主義経済学」は、市場の活性化(競争による労働意欲の喚起)を求め、小さな政府(富裕層減税・自助努力・警察国家)と規制緩和をすすめようとしました。他方で管理通貨制度への移行に伴う貨幣流通量の調整によって供給側を刺激し、軍事・社会保障等の財政支出も増やそうとしたため財政赤字に陥りました(レーガン、サッチャー)。

 その結果、2008年に過剰な貨幣をめぐってリーマンショックなどの信用破綻が起き政治経済が停滞混乱に陥り、社会的不安が高まりました。そして、個々の社会集団内部の亀裂と集団間の対立が深まり、経済活動自体が停滞をもたらすことになります。このような事態の閉塞性を克服・打破するためには、強者支配と交換の不等価性を正当化する主流経済学の欠陥を明らかにする必要があります。そして同時に、近代合理主義にもとづく人間と社会への洞察を見直し、科学技術の革新と社会組織の活性化により構成員の福祉と幸福を導くため、「市場に公正と正義にもとづく自由な交換」のしくみを確立しなければなりません。そのために交換の公正さの条件となる情報の透明性と利他的互恵性の通用する社会道徳を確立する必要があります。

 これらはすべて知識の革新と教育の力によります。人々が、現状に満足し未来に希望を持つために、市民生活を支える農業を基礎とする産業の質的向上と、市場とそれを構成する人間と社会についての見識を深めることが今求められているのです。さらに具体的な処方については、「4.大転換の処方」で検討します。

3.経済学において「市場の欠陥」はどのように扱われてきたか

 18世紀イギリスの産業革命によって成立した近代産業資本主義は、その発展において人間と社会についての様々の学問(人文諸科学)を確立してきました。中でも経済学(当初は政治経済学)は、交換契約の合理性を前提として、交換はすべて等価でなされると考えてきました。その等価の基準は、労働価値説であり、交換を支配する法則(価値法則)と考えてきたのです。彼らは、商品価値の主観的評価は、交換の成立によって社会的価値となり、それを交換価値として絶対化しました。彼らは、市場での需要供給が価格を決めるが、それを究極で規定するのは商品生産に支出される労働力の価値に還元され、労働力の価値は、労働者の生活を支える生活費であると考えたのです。すくなくとも、J.S.ミルまでは、このように経済学は、社会の運動法則(冨の蓄積とそれの諸階級への分配法則)を究明するものと考えました。これをやがて滅亡する資本主義の運動法則として体系的にまとめたのがマルクスの『資本論』でした。

 マルクスは、古典派経済学が市場交換の合理性(等価交換)を前提として、資本家の利潤や労働者の低賃金との格差・対立がどこから起こるのかを探求しました。彼は、ヘーゲルの弁証法を人類の階級闘争史と労働の自己実現の弁証法に適用し、等価交換の下で資本(家)の利潤は、剰余労働(資本家の利潤のための労働)の搾取にあると考えました。彼の思想はマルクス主義として資本主義の搾取の下で苦しむ労働者や貧しい農民、植民地支配の圧政に不満を持つ人々の間で支持を得ました。こうして「市場の欠陥」は、マルクスによって資本主義に反対の人々にも広く受け入れられ、「等価交換の下での搾取」「合意のもとでの搾取」を、経済学者たちは批判することができませんでした。

 こうしてマルクスの理論は、資本主義的経済体制を乗り越える社会主義運動と結合し、19世紀は革命の時代と言われ、資本家階級と労働者階級の対立が深刻になってきたのです。この動きに危機感を持ったのが新古典派の経済学者たちです。彼らはまず労働価値説に異議を唱え、商品価値は主観的効用で決まり、商品価格は、市場における需要と供給の関数で決まり、均衡価格に安定するものとしました。従って経済学はJ.S.ミルまでは労働価値説を前提として、経済的分配法則を追求する学問でしたが、限界革命(価値論における労働価値説は価値の客観的平均性・基準性を重視したが、限界効用説では価値の主観的効用を重視し需要供給による価格均衡点の変動性に注目した)以降は、経済変動を数学的に処理・分析する学問へと変質したのです。

 さてそこで、ここでは古典派最後の経済学者J.S.ミルの利潤論から新古典派の何人かの経済学者の市場論と利潤論を検討し、その批判者たちが主流経済学の市場論(利己的公益主義と効率重視)を越えられない状態を見てみます。

<J.S. ミルの利潤論>

「利潤が生まれる原因は、労働が、それの維持に必要とされるところのもの以上のものを生産する、ということである。・・・資本が利潤をおさめうる理由は、食料、医療、材料、道具が、それらのものを生産するのに必要とされる時間よりも長く保つということ、したがってもしも資本家が、労働者が生産したものはすべて自分が取るという条件をもって、それらの労働者に対しこれらのものを供給したならば、この一団の労働者は、彼ら自身の生活必需品や道具を再生産した上に、なおその時間の一部が残って、資本家のために働きうることとなる、ということである。したがって私たちは知る、利潤が生ずるのは、交換における付随事項からでなくて、労働の生産力からであり、一国の一般的利潤は、いつの場合も、その労働の生産力が、交換が行われると否とにかかわらず、つくるところのものである。」(J.S. ミル『経済学原理』第二篇第十五章 5 末永茂喜訳p409-410)

※☞ これは全くマルクス的剰余価値説と同様の説明をしていることに、読者は気づかれるでしょう。しかし、労働価値説が採用してきたこのような利潤論が誤りであることを、われわれは指摘してきました。利潤が生じるのは、交換における核心事項である「商業利潤原理」、すなわち「安く買い高く売る」ことによります。産業資本主義における労働者搾取による利潤も、また商業利潤原理によります。つまり、労働力商品を安く買い、その価値以上に所有者である労働者を酷使すること、そして安く大量の商品を生産し高く販売することによって、労働力商品と販売商品の両方から利潤を得ることなのです。すなわち、労働力と原材料を安く買い、技術革新を取り込みつつ生産コストを下げて「安く買い、安く造って高く売る」というのが産業資本の企業経営における要諦なのです。

 J.S. ミルが上記引用に言う「一国の一般的利潤」では、一国の総資本と総労働の格差を説明しても、大企業と中小零細企業との個別資本間の格差や、資本家・経営者と労働者間の格差は説明できません。一国の総利潤・総生産物(両概念は当然異なるが)の分配は、地代・配当・役員報酬・労働者賃金すべて強者優位の交換契約に基づいているのです。「見えざる手」によるとされる「冨の分配」は、すべてその情報を公開することのできる「不等な交換による冨の移動」であり、労働価値説にもとづく「等価交換」による冨の分配でも移動でもないのです。

◇ミーゼス的市場原理の誤りとは何か?

古典的自由主義の擁護者ミーゼスの社会主義・介入主義批判の根拠――市場原理正当化の欺瞞性

「市場経済は、生産手段の私有の下における、分業の社会的システムである。誰もが、自分のために行為しているが、誰の行為も、自分自身のニーズのみでなく、他人のニーズの充足を目指している。行為者はみな、他の市民に奉仕するとともに、他方では、誰も他の市民から奉仕されているのである。誰もが、自分自身、手段であるとともに目的であり、自分のための究極目的であるとともに、他人がその目的を達成しようとするときは、他人の手段でもある。(Everybody is both a means and an end in himself; an ultimate end for himself and a means to other people in their endeavors to attain their own ends.)このシステムを舵取りしているのが、市場である。

 ・・・・・・ 市場は、どうすれば自己の福祉のみならず、他人の福祉をももっとも促進できるかを示し、指導する。市場が最高なのである。市場のみが、社会システム全体に秩序をもたらし、意義と意味を与える。」(『ヒューマン・アクション:人間行為の経済学』L.ミーゼス著 村田稔雄訳 新版 春秋社2008 p889)

※☞ さて、上に揚げた「市場の特徴」に対するミーゼスの説明文を読めば、A. スミスの「利己的互恵主義」の理解と極めてよく似ていることが分かります。そこでは、市場の取引によって意図しなくとも相互の利益と福祉の向上が実現することが述べられます。しかしこれは市場のすべてではなくその一面を示しているに過ぎません。 意図的に見逃されるか隠蔽されている他の側面は、交換によって得られる利益は売手と買手の相互にとって異なり、場合によってはその差ははるかに大きくなるということです。例えば労働力商品は、それが生産する価値は商品価格(賃金)の何倍にもなることがあります(剰余価値)。一般商品でも独占的商品となるとその超過利潤は企業の発展に大きく貢献します。・・・・問題はこのような市場の実態が正しく説明されず、利潤は商品の等価交換からは生じず、労働者の搾取(または企業の経営努力)によって生じると、商品交換の不等価性(市場の非道徳性)が隠蔽されることです。

 経済学はその成立以来、冨の生産と諸階級への分配の法則を求めてきました。分配の法則は、社会の三階級である地主・資本家・労働者にそれぞれ分配される地代・利潤・賃金の比率がどのように決まるか、それはそれぞれの階級が獲得する生産物(商品)の量ではなくこの生産物を取得するのに必要な労働量によって規定されると考えます(リカードの場合)。このような配分の原理は、市場の取引によるとは考えられないで、むしろ市場の商品価格が労働量によって規定される(自然価格!)と考えます。だから需給によって決まる市場価格の変動は、常に偶然的一時的と考えられるのです。

 しかしこれは全く転倒した議論です。市場の平均的価格を「自然価格」として考えても良いが、結局市場ではその商品価値は当事者が商品に含まれる労働量も考慮しながら、様々のコストや利潤を考慮して取引が行われているのです。とりわけ今までの経済学は、市場の交換関係に潜む利己性(非道徳性)を過小評価し隠蔽して、勝者(強者)のための偽善と欺瞞の経済学を成立させてきたのです。 市場において取引相手のニーズがどの程度かは正確には分からず、「駆け引き」による合意(売買成立)は合理的な装いを取りつつ、勝者と敗者の存在を隠蔽するのです。つまり自分のニーズを満たして後に相手のニーズを満たすことになるのですが、それは相手にどれほどの利益をもたらしているかは分かりません。むしろ、労働力商品や独占商品のように一方的な利益が移動・集積される場合が多いのです。

 市場の参加者は、すべて取引を通じて相互関連性を持ちますが、それぞれがその取引から得られる利益は多様なのです。相互に等しい利益があるどころか、一方的に利益を得ている場合が市場の現実であり、それを正当化するのが「市場の欠陥性=非道徳性」なのです。

 「市場経済では損益制度が働いて、多数の劣っている人々を始め、すべての人々の利益のために、優れた人々が奉仕せざるを得ないようにしている。この制度の下では、すべての人々に利益を与える行為によってのみ、最も望ましい状態に到達することができる。消費者としての立場で大衆は、すべての人々の収入と富を究極的に決定する。彼らは彼ら自身、すなわち大衆を最も満足させるために資本財を使用する方法を知っている者へ、その支配を委ねるのである。

・・・・・・・・・・

 いわゆる市場民主主義がもたらすものは、大衆が製品購入によって承認を与えた企業の生産活動を促進する仕組みである。消費者は、そのような企業に利潤を与えることによって、自分たちに最もよく奉仕する者の手中へ、生産要素の支配権を移す。消費者は、不手際な企業者の企業に損失を与えることによって、自分が賛成できないサービスを提供している企業者から支配権を取り上げる。政府が利潤に課税して人々のこのような決定を妨げるのは、言葉の厳密な意昧で反社会的である。純社会的立場から言えば、利潤に課税するよりも欠損に課税した方がもっと「社会的」であろう。」(L.ミーゼス『経済科学の根底』村田稔雄訳 日本経済評論社 2002 p140-141)

★☞ 上記引用は、ミーゼスが消費者主権について述べた文です。ここでは資本家・経営者は、労働者・消費者に奉仕するものとして描かれています。彼ら市場原理主義者は、今日の派遣労働者制度の拡充が、労働者のための多様な働き方の提供・奉仕と、消費者のために低価格の良品を提供するためであると説明するでしょう。しかし現実には、労働者を低コストで雇い、低価格競争は消費者主権にもとづくと説明するでしょう。しかしこの説明が、資本家・経営者の超過利潤の獲得と労働者・消費者支配の意志に基づくことは明らかです。市場とは利益を共有するものですが、市場原理主義とは、市場の欠陥を認めないために強者支配のためのイデオロギーになるのです。

◇ 経済成長を前提とした市場原理主義を超えられない批判者たち

1)ジョン・ケイ『市場の真実』

「[自由市場の]信奉者たちが描く市場経済の姿は、私がアメリカン・ビジネス・モデルと呼ぶものだが、強欲こそが経済問題において人間の支配的な動機であるという前提に基づいている。すなわち、経済活動の規制は、そのほとんどが望ましくなく、最小限であるべきで、政府の経済的な役割は契約の履行や私的財産権の保護の強化に大きく限定されるべきである。そして課税は政府がそう知った目標を実現し、適度な福祉のセーフティネット提供に必要な水準を超えてはならない、と言う考え方である。」(『市場の真実』ジョン・ケイ著 佐和隆光監訳 中央公論社 p4)

※☞ ジョン・ケイは、完全競争市場の仮説には反対しているが、市場の欠陥についての洞察はない。しかし市場原理主義の市場理解が、強欲を肯定しバランスを欠く一方的なものであることを批判する。しかし市場について多元主義・折衷主義の立場を取り、市場の本質的な欠陥に気づくことはなく、冨の分配における格差の拡大に倫理的な危惧を提起するのみである。冨の分配の不公正(格差の拡大)の根源は、彼が何ら疑問を持つことのなかった交換の不公正、すなわち、冨を巡る利己的競争がもたらす、強者支配の横暴(能力の過信、社会的無責任、自己顕示と他者支配)によるのである。

 彼は、社会関係における価値評価についての交換・取引・報酬の決定に含まれる不等価性・不公正さに気づかない。カーネギーやビル・ゲイツが巨万の富を築けたのは、人類の文化と文明の最先端の効用に資本を投下し、多くの人に恩恵をもたらした。そして、そのことによって巨富を得るという社会的恩恵を受けたことを知っているが、自分だけがその有効活用を知っていると、慈善に使用することを含めて成果を独占しようとしたことは事実である。結局、このことから原書のタイトル“Culture and prosperity : why some nations are rich but most remain poor”も、日本語の表題『市場の真実 :「見えざる手」の謎を解く』も、内容を反映したものとなっていない。すべて主流経済学の欠陥である「交換における非道徳性」を洞察していないからである。既成の経済学を折衷しても『市場の真実』を見抜くことはできない。

2)A.H.シャンド『自由市場の道徳性:オーストリア学派の政治経済学』

「市場は理想化されるべきではない――つまり市場に過度の期待をかけてはならない――が、しかし、市場は情緒的には魅力のないものだが他のどんな選択肢よりも選ぶに値するものであるという議論は、知的説得力をもっている。市場とはその下では悪人が最小の害しかなしえないシステムである、ということは全体的に見ておそらく真実であろう。そして、最近のイギリス労働党の指導部が、市場の諸カには利点がないわけではないということを自分たちが認めているのだということをしきりに知ってもらおうとしているのも、その表れであろう。」(A.H.シャンド『自由市場の道徳性』中村秀一, 池上修訳 勁草書房 1994 p138-39)

※☞ 著者のように折衷主義者(新自由主義の批判的擁護者)は、無限の経済成長発展を前提としているため、見えざる手に任せる「利己的公益主義」の欠陥には気づかない。市場の交換における道徳的欠陥を過小評価することは、市場の道徳性を論じるに値しない。どのように金儲けをするのか。植民地支配、労働者搾取、悪質商品販売、廃棄物垂れ流し、環境破壊、違法操業、そしてアダム・スミスが公認した「利己的公益性」の欺瞞性、これらすべては公益性よりも利己性が優先され社会的無責任が横行してきた。自由市場が悪いのではなく、市場の持つ欠陥性を理解しないことが社会的無責任に当たることが問題なのである。

 だからシャンドは、ハイエクを高く評価して次のように述べている。

「全体として見ると、主に十八世紀のイギリスで生まれ、近年になって自信過剰な設計主義[社会主義、福祉国家主義など]によって侵食されてきた、抽象的で一般的な法の支配の長所[私有財産権、契約自由のルールなど]にたいする信頼をふたたび甦らせようとするハイエクのたゆまぬ努力は、たとえかれの社会理論があいまいさをもち自由の完全な保証という点で不満をのこすとしても、大いに歓迎されるべきである。」(同上p174)

 シャンドは、西洋的合理主義の背後に隠されている形式的(契約)自由の非道徳性や古典経済学・マルクス主義の欠陥を見抜けないために、ハイエクの自由民主主義的社会理論を積極的に評価する。しかし、ハイエクは、反マルクス主義で凝り固まっているために市場の限界を理解することも、資本主義の欠陥を見抜くこともできなかった。それはシャンドも含めてアダム・スミスの利己的公益主義を肯定し、市場交換の欺瞞性を理解しない限り、市場や経済学そのものの道徳性を論じる資格もないと言って良いのである。ちなみに、復習として、利潤の最大化の基本は「安く買って高く売る」という商業利潤の原理の上に、「安く大量に良品を造って売る」という産業利潤の原理が加わることにあるのである。

3)ジョージ・A・アカロフ 『不道徳な見えざる手 : 自由市場は人間の弱みにつけ込む 』

 原タイトル:Phishing for phools : the economics of manipulation and deception

ジョージ・A・アカロフ, ロバート・J・シラー著 ; 山形浩生訳 東洋経済新報社 , 2017.5

「もしビジネスマンたちが、経済理論で想定されているように純粋に利己的で純粋に自分のためだけに行動しているなら、私たちの自由市場システムはごまかしと詐欺を生み出しがちになる。問題は、悪いやつがたくさんいるということではない。ほとんどの人はルールを守るし、単によい生活を送ろうとしているだけだ。でも競争圧力のせいで、ビジネスマンたちはどうしてもごまかしと詐欺をやるようになり、おかげで私たちはいりもしない裂品を買い、高すぎる金額を支払つてしまう。そして、ほとんど目的意識を与えてくれない仕事をやらされることになる。あげくに、どうして人生がこんなにおかしくなってしまったのかと不思議に思うことになる。

 私たち著者2人は、自由市場システムの崇拝者として本書を書いたけれど、でもその中で人々がもっとうまく方向性を見つけてほしいと願っている。経済システムはごまかしだらけだし、みんなもそれを理解しておくべきだ。みんな自分の尊厳と誠実さを保つために、このシステムを乗り切る必要があるし、身の回りすべてを取り巻くイカレ具合にもかかわらず、がんばり続けるインスピレーションを見っける必要もある。

 本書は、あらゆる詐術を仕掛けられていて自衛の必要がある消費者たちのために書いた。同僚たちのシニシズムを見て落ち込みつつ、経済的な必要佳からそれをまねざるをえなくなっているビジネスマンたちのためでもある。ビジネスを規制するという、通常は感謝されない仕事をしている政府役人のためでもある。誠実さの側で働くボランテイア、慈善家、オピニオンリーダーたちのために書いた。そして、将来にわたる仕事を前に、どうやってそこに個人的な意義を見つけられるだろうかと思っている若者たちのために書いた。

 こうした人々にはすべて、「釣りphish」の均衡研究が役に立つ――つまり、阻止しようという勇気ある手だてを講じない限り、システムにごまかしと詐欺を組み込んでしまう経済の力の研究だ。また、英雄物語も必要となる。個人的な誠実さ(経済的な利得ではない)により、経済の中のごまかしを耐えられる水準にまで抑えるのに成功した人々の物語だ。そうした英雄の物語をたくさん紹介しよう」(p4-5)

※☞ 彼ら著者2人は優しい道徳的な言葉で真実を語ろうとしている。しかし彼らは、自由市場システムの崇拝者でもある。だから彼らは、この不道徳な経済システムが、強者支配と人間の愚民化を推進し、このシステムを擁護し永続化しようとする主流経済学者の意図を見抜いていない。また「市場の欠陥」が成長の限界に対応できないこと、それによって彼らの意図する市場の適正な運用によっても、市場の正義や公正が実現されず格差の拡大が進み、地球的規模の課題を解決できないことが理解されていない。

「阻止しようという勇気ある手だてを講じない限り、システムにごまかしと詐欺を組み込んでしまう経済の力」とは本来的な自由市場システムではない。「競争圧力」が、ごまかしや詐欺の犯人であるかのようにアカロフたちは述べるが本当だろうか。

 商品交換の動機は「余剰と不足」つまり、余った不要のものを、不足のため欲しいものと交換することであるが、その不要度と不足度は、売り手の側でも買い手の側でも常に不均衡であり主観的なものである。この二つの不均衡・非対称性のために交換は、常にwin win と主観的に判断しても不均衡・不等価が生じている。たまにごまかしや詐欺という不正が顕在化(win loss)したとしても「市場の失敗」とされがちであるが、そうではなく原理的な「市場の欠陥」によるのである。

 このような交換の原理的不等価の上に、利潤を追求すれば自らを欺き、他者をも欺くことを強いられる。弱肉強食の競争経済とはそのようなものである。自分が損しても他者に得を得させて喜ばす交換ならば推奨されるが、競争原理の下での相互利益は、生産拡大・成長経済でなくては生じない。そして景気の変動は、拡大成長ばかりとは示すとは限らず、また、世界経済の縮小は、有限の地球においては避けられないのである。

さらに深めるために ☞ 経済的人間観の批判  人間と社会 Q&A2


4.「市場の欠陥」がもたらす社会問題と「市場の失敗」論の誤り

 交換・取引・ビジネスにおける公正と正義とは。

 市場の欠陥とは、契約合意の名(社会契約的合理性)における等価交換が、実体経済においては不等価であるという経済学的反道徳性の問題である。これは資本主義的生産様式における格差拡大の根源となっている。このような「市場の欠陥」を解明することによって初めて資本主義が道徳的公正さを調整・維持することができるようになる。「市場の失敗論」や「等価契約論」がつづく限り、資本主義経済の矛盾を克服することも社会の縮小を人類の発展に転化させることもできない。(以下編集中)

・不等価交換は市場の本質であり、win win の幻想が経済活動の推進力であることを自覚せよ!

5.地球的縮小社会にふさわしい「大転換の時代」の経済学とは?

交換的正義、すなわち市場交換における透明性、公正性、平等性、相互性、互助互恵性等の道徳性が、商品交換に貫かれることが経済活動の原則となること。そしてこの原則には労働賃金や役員報酬等の評価にも貫かれ、投機的・偶然的評価は可能な限り排除され、共生共存、互助互恵を目指す経済学であること。(以下編集中)