宗教と道徳の意義
宗教と道徳の起源と意義 (そして日本文化の役割)
今日世界に存在する深刻な利害の対立や紛争、そして社会の混乱や道徳的退廃の根源に、宗教上の考え方の違いや、過去の非科学的知識の限界から生じる宗教不信があります。さらにその背景には、差別や貧困問題が絡んでおり、また今日の宗教がグローバルな現代的課題に応えていないという現状があります。その意味で豊かな先進国の宗教功利主義(深い省察や反省もなく利用できる所だけ利用する)の責任も重いのです。
とくに唯一絶対の創造神をもつキリスト教やイスラム教、そのセクト(教派)間の対立は、宗教が、かつては貧困問題を解決(緩和)するとして「心(精神)の優位」を唱え、自セクト優位主義から、逆に、宗教が集団間の政治的経済的利害がからんだ紛争の原因になることも多かったのです(中世末の十字軍遠征、近代初頭の宗教戦争等)。また、紛争(戦争)をもたらすのではなくても、特定宗教成立当初は、人間の内面にかかわることが現実の利害(権力支配)とかかわって、反権力的なものとなっていました(ユダヤ、ローマ帝国のキリスト教への迫害、メッカでのムハンマドへの迫害等)。
かつて多くの宗教の創立時の意義や役割は、当時の時代背景の中で、差別や貧困、人生の不条理(人生苦)に対する救済をもたらす純粋な思想や行動だったのです。しかし今日にあっては、人生の意味づけ(祈り・願い・希望・冠婚葬祭等)や祝祭、権力の正当化などに一定の役割を果たしているものの、宗教上の諸教義をグローバルに普遍的なものであると考えるには無理があります。
そこで、「生命言語説」の立場から、伝統的な宗教と道徳の起源と限界を明らかにして、世界に存在する宗教上思想上の対立や課題を克服する一助としたいとおもいます。
① 宗教の起源としての言語による人間存在の合理化
宗教の起源を考える場合、まず、宗教が持つ「人間とは何か」の意味づけを考えます。次いで、生物学的に人間の本質が言語であり、人間は高等動物に共通する生存欲求や感情反応を、言語的に意味づけ合理化しながら日常的に行動(生活)していることを明らかにします。
② 宗教上の絶対的基準は言語的産物
言語で示される「神」や「仏」、「天」や「祖霊」の示す意味内容が、人間の言語的創造力の産物であり、人間が世界や人間の生き方(救いや死後の世界)について解釈し意味づけるために創造したものであることを明らかにします。
③ 世界宗教の拡大は権力者の庇護による
宗教が偉大な宗教家や思想家によって創始され、後継者たちによって教義(聖典)化されて民衆に広がり、権力者による庇護・利用によって、拡大定着したことを明らかにします。
④ 道徳は宗教によって権威づけられる
道徳が日常生活を規制する社会規範として、宗教的教義によって善悪の判断基準を権威づけられ、道徳や法の成立の基準となっていること(や儒教道徳の政治的独自性) を明らかにします。
⑤ 宗教・道徳の今日的意義
以上の解明を宗教心理学的・認知行動療法的手法で行い、宗教や道徳の必要性を吟味し、それらが今日どのような教義や形態として普遍的であるかを検討します。また、初期仏教のように絶対者(救世主・預言者、仏陀・菩薩)を外在させず、内面的な覚醒・解脱によって心の救済・平安を得る可能性と、儒学のように仁義にもとづく現実主義的道徳の可能性を追求します。
人間は、生命進化の過程で、唯一言葉を獲得した動物であり、言語的認識によって創造的な存在となったのです。言語(音声信号)は、本来コミュニケーション(意思の伝達)のために、動物の叫び声・鳴き声から進化したものですが、同時に認識や思考、情報の蓄積(記憶)の手段となることによって、人間の生活や生き方(価値観)などの判断・行動を規制・精緻化することができるようになりました(参照☞ここ)。
人間の場合、言語信号を通じて対象(情報)を、どのように認識して表現するかという認識論上の問題が生じ、思考力・記憶力・構想(創造)力の発達を促しました。それに伴い、人間は欲求や感情や行動を、言語情報(世界理解)によって統制し、方向付けることができることにより、この世界をどう理解し表現するかが死活的な問題となります。例えば、死後の世界に「天国と地獄」が存在し、現世の行い(善行・悪行)で未来の去就が決まるという因果関係を想定すれば、現世の生き方に道徳的規制が働くこと(地獄を避け天国に行きたければどうすればよいか=因果応報)になります。
しかし、原始(先史)時代の人間は、直示的(感覚的)な現象に囚われて、自然現象・森羅万象の因果関係を明確に捉えることができませんでした。自然の驚異(脅威)や人間の飢餓・病気・老化・死や人間関係の諍い(争闘)等についての「不安や恐怖(否定的感情:ストレスの原因)」は、抑制・忘却(適応機制:アンナ・フロイト)するか、または説明・解釈・納得の必要があるのですが、原始生活(未開社会)の当初は、霊魂や悪魔の存在が想定され、それらに対する「畏怖や祈り、呪術等」で緩和されると考えました。原始宗教(アニミズム、シャーマニズム等)がこれにあたります。
その後、原始宗教は、多神教に発展し、自然現象や死者などの「霊威・霊力」を感じさせるものすべてを明確な神と位置づけ、善(神・霊)悪(神・霊)の区別を設けることになりました。 さらに、民族間、集団間、諸個人間の戦争殺戮を通じて人間存在への根源的な反省が行われ、原始宗教・多神教の段階を越えて、人類共通の普遍性を持った宗教・思想(普遍宗教・世界宗教)が出現してきました。哲学者ヤスパースの言う枢軸時代(BC500頃)(注↓)です。
枢軸時代の頃中国では孔子(儒教)老子(道教)、インドでは釈尊(仏教)ギリシアではソクラテス等々が出現し、パレスティナではイエスにつながる予言者たちが現れました。今日とりわけ宗教・道徳教義の解明が必要なのは、現実に大きな力を持っている仏教,キリスト教,イスラム教です。それぞれの教義について詳細を述べられませんが,日本の神社神道(多神教)についても念頭に置きながら、宗教と道徳の起源について検討し,混乱した世界に人類的課題である平和と人類福祉を確立するための普遍的な道徳・価値について考えてみます。
Ⅰ 宗教の起源とイデオロギーとしての意義
人間は自らの存在を意味づけ合理化し、永遠の絶対(超越)的な安らぎや確信によって、「存在の非合理性とそれに由来する不条理や苦悩」を克服し、人生に救いや慰めや希望を求めてきました。そして、人生に平安や希望をもたらす超越(永遠)的心情・境地を現世で実現することを求めて、「現世での解脱・救済」を求めるか、または「死後に天国(極楽)での永遠の安らぎや救い」を期待するかという問題を、「究極的に(大多数の人はとりあえず)」解決しようとするのが宗教の起源とされてきました。人間は人生(苦の生存)への意味や生きがいを求める存在であり、その究極的な解決を提案してきたのが今までの世界(普遍)宗教と言えます。
通常、人間は世間の常識に感化され学習して、自己の生活や家族、自己の属する集団や民族や国家「のため」と称して、その永続性や繁栄を「目標や生きがい」として、日々その場その時を生きています。つまり、多くの人間は、日常の慣習・伝統や流行に身を任せて無自覚的に生きているのがほとんどで、永遠の安らぎを求めるほど深く悩んだり考えたりしません。「現実の欲と感情」にまかせて物質的な生活に追われ、刹那的快楽に身を委ねて日常を送り、病気や災厄や死などよほどの困難に遭遇しない限り、「何のために生きているのか」のように人生の意味について思い悩み、宗教的な救いや哲学的・科学的な意味づけを求めたりしません。
しかし、人類は、地球的な諸課題(貧困格差問題、資源エネルギー問題、環境問題、気候変動問題、イデオロギー問題等)を抱える不安な時代を迎え、自己の身辺や民族的なエゴイズムだけでは、持続的生存や幸福な人生を送ることが困難であることが分かってきました。それにもかかわらず、大多数の人々は、利己的快楽を追求し、貪欲と浪費に身を任せ、温室効果ガスの排出の削減もママならず、自己の権益侵害と戦争を恐れて軍備の増強に力を注いでいます。そこで本稿では、人類の抱える諸課題のうち、政治や経済の諸課題との関係については他所(ここ)に譲って、宗教とそれに付随する道徳について考えてみます。
前述のように哲学者ヤスパースは,『歴史の起源と目標』(1949)において、枢軸時代に人間についての普遍的な思考が行われたことを指摘しています。今やグローバルな時代になって科学的知識が膨大なものになっています。しかし、「人間存在の本質やあり方」について十分共通の認識や価値観に到っているとは言えません。政治の世界では、平和・人権・民主主義を共通の価値観とするのですが、宗教の世界では、根本において価値観の隔たりは大きいのです。宗教が政治を歪める場合も多いのです。そこで人間存在の根源にさかのぼって、体系的に見直してみる必要があります。とりわけ人文系の知識については、西洋的合理主義にもとづく哲学・心理学・政治・経済の分野で(実存主義、唯物論、功利・実用主義、実証主義、精神分析、宗教的観念論、社会契約論、マルクス経済学、主流経済学等々)明らかな閉塞状況にあります。我々はすでに「生命言語説」に基づいて一定の結論を出しています(大江著『人間存在論』参照)が,現在普遍的とされる人権や民主主義の思想、かつて普遍的であるとされてきた世界宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)についても全面的な見直しが必要となっています。
宗教批判については「幸福論と宗教批判」で詳しく述べています。本論では「生命言語説」の立場から、人間が言語を離れて生活できないのと同様に、イデオロギー(宗教・思想などの知識・観念形態)を離れて生活できません。そうだとすると、日常生活における宗教の必要性は、伝統的世界宗教に代わるイデオロギーが存在しない限り、消失することはないという結論になります。イデオロギーは、共産主義やマルクス主義など社会変革の過激思想または空理空論として否定的に見られがちです。しかし、人間は本来観念(idea)的な側面を持つことが特性(想像、アイデア、計画、夢、希望など言語的構想力がなくては成り立たない)であり、観念を肯定的に評価して自覚的に人間をイデオロギー(観念学)的存在とする方が生産的であるというのが、生命言語説の立場です。そうすると生命言語説は観念論であり、階級闘争の歴史を隠蔽しようとするものだと批判が出そうですが、我々の立場は、階級闘争論でさえ言語的観念の産物であるというのですから、そのような批判の前に、「生命言語説」を批判的に吟味されるべきであると考えます。
人間の行動は、どのような心理(心の働き)にもとづくかという研究(心理学psychology)が必要なように、人間はどのような観念・知識(イデア)にもとづいて判断・行動するかについての探求(観念学ideology)も重要なのです。つまり宗教的観念・教義のイデオロギーが、否定的に評価される場合は「空理空論」となります(無神論の立場)。しかし、肯定的に評価する場合は、「知は力なり」と言う意味で、観念・知識が人間の心を捉える限り「真理・真実」「信じるものは救われる」ということになります。例えば「イエスが十字架刑の後復活した」ことを信じる(観念を持つ)人にとって、イエスは罪人を救う救世主であり、仏を念じることによって極楽往生できると信じる人にとって極楽往生という観念は真実なのです。
そこで、キリスト者のように全知全能の創造神を信仰する場合、創造神自体が人間の言語的被造物(観念・知識)であるにもかかわらず、観念・知識である創造神の存在が真理・真実であるという矛盾(神=創造主=人間の言語的被造物)が起こります。人間の造った神が、人間を創造するという我々にとって矛盾した観念は、キリスト者にとっては矛盾ではなく、単に「人間は神の被造物である」ということです。しかし、「生命言語説」によって、「人間の本質は言語である」と認めるとき「神の本質は、創造神(完全性、全能性)を求める人間の被造物としての観念・知識である」ということになるのです。
フランスの実存哲学者サルトルは、「実存は本質に先立つ」と言って本質的観念自体を批判(相対化)し、神の存在を否定しましたが、もっと明確に、「実存が本質を創った」あるいは「言語的存在(実存・人間)が、完全性(本質)を求めて神を創造した」とすべきなのです。
人間は、できるだけ(より)完全な平安や救済、心の安らぎや幸福な生活を求めますから、不完全で不安定な人間存在(人生苦)の現実を克服し(または逃避して)、何らかの完全性を持った存在や言葉・思想を求めます(快の持続の保証、永遠の平安)。それは物質的なもの(金銭・冨や衣食住など)や社会的な立場(親兄弟、恋人友人、地位や名誉など)ではあり得ません。なぜなら、物質的なものや社会的な立場は常に安定的なものではなく、苦あれば楽あり楽あれば苦ありで、いつかは、壊れ、滅び、失い、消え去っていくもの(無常)だからです。しかし、完全な状態や言葉はなくても、持続的で完全な平安や救済、心の安らぎや幸福を求め、それらを得させるような希望と勇気を与える言葉はあります。人間はそのような完全性を求める存在であり、たとえ不完全であっても完全を求める言葉が、人生に完全性の希望や勇気を与え、心の平安と永続的幸福を感じさせるのです。
それらの幸福感は、太陽の輝きを感じるとき、自然の恵みと美しさに感謝するとき、星空の神秘に言葉をなくすとき、音楽の調べに胸打たれるとき、宗教的な祈りに平安を感じるとき等々、言葉でその情景を伝え観念的に追体験することができます。体験するのは、その言葉によって刺激された心の反応(様々な感動・至福感)です。人が「信じるものは救われる」「祈りなさい」と言われて安心感(幸福、希望、勇気)が得られるときは、その信仰の内容にかかわらず、現実の困難が言語的に解消・克服されたということになります。言葉はその人の体験に即して、人格に影響を及ぼしその人固有の価値観(善悪・美醜)を創ります。
ところが、その言葉の内容が科学的検証に耐え、普遍性を持つかどうかは別の問題です。キリスト教のように創造神への信仰と愛に期待するのが正しいのか、仏教のように知識と修行によって悟りを得るのが正しいのか、これは吟味する必要があります。そして我々の結論は、「生命言語説」によって創造神崇拝は誤りであり、仏教の現代化こそが宗教的救済の問題を解決するというものです(参照☞「仏教の現代化」)その理由は、魂の救済は、究極には他者の援助は必要であるとしても、自らの解脱・救済は、自らの内面(心)において生起するものであり、正しい知識(明智)こそが救済・至福の状態(快・幸福の持続)を支え保証するものだからです。
Ⅱ 道徳の起源と正義の実現
上述の種々の宗教教義におけるように、人間は、自分を何者であるか(神の被造物、輪廻転生、精神的または物質的存在、死すべきもの等々)と合理化(意味づけ)するだけでなく、社会における諸個人の利害対立について納得のいく判断(公正・正義)を得ようとしてきました。
とりわけ他者を支配しうる権力者は、自らの統治の正当性を得るため、「絶対的な神の権威」や「伝統の力」を借りて人民を従え、また人民の間でも平和と秩序維持のための行動様式や価値観(神権崇拝、権力依存、寄らば大樹の陰等々)を求め利用してきました。ギリシア神話における神々の王ゼウスの権威と神々の位置づけ、不死なる神々と死すべき人間の在り方。ユダヤ民族の『旧約聖書』における神との契約と律法の遵守。古代インドの『ヴェーダ』におけるバラモンの権威とカーストの規制。中国古代の祖先崇拝と封建制。日本神話の現人神(アラヒトガミ)統治としての天皇制正当化。これらはすべて古代権力(支配階級)の指導・統治の正当性と人民の従属の原理・道徳を権威的に明示するもので、哲学的検討を排除する道徳的指導原理となっていました。
しかし、権力(者)の正統性が、統治の失敗(悪政)や外部(敵)の価値観との接触・交流によって揺らぎ、人民の不満によって社会が混乱すると新たな社会秩序の原理を求めて、倫理・道徳・哲学等として検討が加えられました。古代ギリシアの発展期には、交易拡大を通じて価値観が相対化し道徳的混乱が生じて、ソクラテス、プラトンらによる新たな精神(魂)的存在への探求が始まりました。また創造神を前提とする倫理(ユダヤ教)においてもローマの支配や他民族との接触によって、創造神の普遍化が行われ民族の宗教から人類の救済の宗教としてキリスト教が生まれました。ムハンマドの教義も神の命令や契約によって、現在と死後の永遠の幸福を保持し、そのために隣人愛や同胞意識を強めることを求めました。
インドでは釈尊の仏教が慈悲と解脱を軸に平和の道徳を説きましたが、厳しい戒律があり十分定着したとは言えませんでした。そのため大衆にも受容される大乗仏教として神秘化(菩薩信仰)されてしまい、北方に伝播拡大することになりました。中国では、春秋・戦国の長い混乱期を経て、孔子が人間関係の基本となる心情「仁」から道徳を説き、後に五倫五常を徳目とする儒教が成立しました。日本では稲作共同体の「和」のまとまりと「浄・明・正・直」の心を重視する神道の道徳が固有の文化でしたが、仏教・儒教と併存・融和しながらも、これらと対決して止揚・統合することはできませんでした。
日本の道徳思想史の流れの中で、幕末の欧米帝国主義との出会いは、不幸な結果を招いてきました。とくに江戸中期頃から盛んになった国学(賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤)は、仏教・儒教、蘭学に対抗する形で成立し、日本の古来伝統を自覚し、欧米の植民地化に対抗しようとした点(尊皇攘夷)で貢献しました。しかし、偏狭な国粋主義を醸成(国家神道)したことは、後に負の影響をもたらすことになりました。古来文化の長所である「浄明正直」に見られる単純率直さが、自民族中心主義に片寄り、合理主義的思考や国際感覚を養うことの障害となりました(日本の右翼思想の限界)。
つまり、神道にもとづく国粋主義は、明治維新後の上からの近代化のために、神聖不可侵の天皇が統治する天皇主権の大日本帝国憲法体制となりました。さらに、欧米の植民地支配との対決のなかで大陸侵略(朝鮮の植民地化、満州国の建国、日中戦争)が行われ、「八紘一宇」「神州不滅」のスローガンのもと「アジア・太平洋戦争」を引き起こすことになりました。こうして明治維新以降の国家主義的道徳(明治憲法、教育勅語)は、大陸侵略をアジア解放と日本防衛のための「正義の戦争」であると肯定する根源となったのです。しかし歴史的事実として、日本の大陸侵略は、欧米帝国主義に対抗するためであっても日本帝国主義の無謀な侵略戦争であり、そもそも第一次大戦後は、正義の戦争を否定しようとする動きが現れていたのです(不戦条約1928:自衛権<戦争>は肯定された)。
このように道徳は、平和(善・仁愛・慈悲等)から戦争(悪・憎悪・暴力等)にいたるまで、その地域や国家の文化や社会の歴史・伝統に大きく影響を受けます。とすれば、グローバルな今日の世界にとって、どのような道徳が望ましいのか。そして道徳の普遍性のために21世紀の今日において、どのような道徳的ビジョンを持つべきなのかを考えてみます。
Ⅲ 普遍的道徳・価値と日本文化の役割
まず道徳の認識論的基礎として、道徳的実践には主観的快や満足を得る「精神的自由」と、家族や隣人、国家や人類社会、そして地球環境の保全という「社会的責任・義務」が要請されます。これらは生命の根源的原理である「個体と種の存続維持」という要請にもとづくもので「生命にとっての正義」となります。以上の原則の下に、新たな道徳構想の条件として以下の前提を設けます。
① 科学的検証の可能性 :言語概念の厳密な規定(言語相対主義)、正義概念の解明
② 伝統的道徳の意義 :神仏(絶対者)の権威によらない内面的正邪・善悪の基準の解明
③ 普遍的人間観・生命観の追求 :理性的人間としての道徳的内面的知の可能性の追求
今日の段階で未来の持続的生存と人類福祉・平和を目指して、何を正しい(正義)と認識するか?
我々は、西洋的道徳の根源にある「カント的道徳」の克服をめざします。カントは『実践理性批判』において、「幸福と道徳性とを厳密に一致せしめる根拠を含むような原因――換言すれば、全自然の原因であってしかも自然とは異なるような原因[神]の現実的存在が要請される。」(篠田他訳 岩波文庫p251)「神の現存を想定することは、道徳的に必然的なのである。」(同p252)と述べていますが、これは西洋思想の伝統に基づくものではあっても、科学的方法から逸脱したものです。人類普遍的な道徳としては、まず全生命からの要請である「生命の正義」を実現することが必要であると考えます。
① 生命とは何か
「世界の創造神」「来世における天国と地獄の存在」という検証不能な仮説(宗教教義)の克服、超人間的な霊能者・神格者の存在の検証、科学的生命観(仮説・観念)の確立
a. 生命存在の本質 :宇宙の特殊環境である地球での特殊存在「生命の誕生」(創造ではない)
b. 生命は物理化学的存在 :化学エネルギー反応、外界と異なる恒常的化学反応の持続システム
個体死と再生、遺伝子の多様性と細胞質の連続性
c. 環境への適応(動物の場合):多様な環境と刺激反応性、多様な生存様式と学習による適応
快欲求⇒認知⇒判断(感情の快不快反応と知的選択)⇒行動(快を求め不快を避ける)
② 人間とは何か
言語的(精神的)動物としての知的情報を駆使した環境への適応方法
a. 人間の本質的特徴 : 言語による認知・判断と社会的伝達・知の蓄積(伝達・思考・記憶)
b. 言語による認知・思考の特徴 : 間示的、論理的、創造的、共感的・相互的思考と言語構成
c. 言語における心の制御 : 言語的認識による心・精神(欲求・感情・言語)の理性的制御
③ 道徳の人間的基礎
社会正義についての内面的規範をどのように実現するか?
a. 人間的価値の基礎 : 快不快、好嫌、善悪、美醜、正邪、平和・戦争等の生得的・経験的判断力
b. 人生苦と社会葛藤の克服 : 労働、老化と死、危険と病気、利害対立、社会的逸脱、戦争等の克服
c. 道徳の根源 : 社会生活の中で起こる労苦や葛藤や不快(偽悪醜・不幸・戦争)を相互的・予備的に避け、安楽や調和や快(真善美・幸福・平和)を求める感性的・理性的工夫や智恵・知識⇒例えば、仁愛、慈悲、正義、誠実、他慮、礼節、勇気等。(愛が労苦を癒す)
・心身の労苦に対する癒し又は克服。不快を快へと転化する人間的智恵。
・利己主義の抑 制 : 「私悪すなわち公益」(利己的公益主義・自由放任主義)の否定。不公正な人権は独善となる。
④ 普遍的道徳と経済の成長発展
聖者釈尊は、戦乱と豊かな生活の中で出家して「慈悲と解脱」の道を説き、学者孔子は、春秋時代の混乱を、「仁の心と礼の絆」で天下太平を目指しました。また神の子イエスは、「神の愛への信仰」が救いの道であると説き、人が背負う原罪を十字架刑で贖ったとされました。預言者ムハンマドは、多神教の非道徳性を非難し、楽園へ行くための戒律を神の言葉で示しました。これらの世界宗教は、狭い集団や民族の枠を越えて人々の間に広がりました。
しかし、これらの宗教家の教えは、すべて近代科学の検証に耐えられず、儀式中心の形式主義に陥っています。さらに西洋近代の市民革命と産業革命で資本主義が世界を支配するようになると、物質的な生活は向上しましたが精神的価値は軽視され、一方的なメディアの情報が物欲を刺激し浪費を促します。また生活の便利さと快適さが宗教の必要性を減少させ、非道徳的交換原理(不等価交換・交換の不正義・貨幣万能主義)が世界を覆うようになり、格差は拡大しています。「衣食足りて礼節を知る」(管子)「恒産無くして恒心無し」(孟子)と言うものの、大衆民主主義と享楽的また格差的豊かさは、「礼節」も「恒心」も見失わせているように見えます。資源涸渇・環境破壊の問題は将来にわったって混乱を深めていくでしょう。
グローバル化した現代社会において、国際組織(国連)がある程度機能し、戦争による問題の解決は抑制されているものの、環境の激変や資源の枯渇は世界の平和を脅かしかねません。世界平和と人類福祉の確立のためには、現代の拡大成長を前提とする社会の在り方では早晩行き詰まります。現代の科学技術・物質文明を産み出した西洋的価値観――功利的合理主義・社会発展・進歩思想の限界は明らかであって、人権や民主主義の思想だけでは現代の閉塞状況は解決できず、平和的生存を持続させるためにはどうしても、今まで以上の普遍的道徳の確立(生命言語理解と交換的正義)が必要になります。
⑤ 普遍的道徳実現のための日本文化の役割
西洋近代の基本的人権と民主主義(社会契約)を基調とした道徳(天賦人権論や合理的経済人による商品の等価交換等)は、人間の自然的・生物学的本性と社会的正義・公正にもとづいてはいません。西洋的道徳は、人間を自律的理性的存在としてとらえ、自由でも平等でもない人間を、自然や社会から自立した自由・平等な人格とみなそうとしています。そのため抽象的社会や国家権力(神または神による権威―パウロの言葉)との契約(社会契約論、民主主義)によって市民社会が営まれていると捉えます。また国家による分配的正義の努力(福祉政策)は行われていますが、市場の欠陥の根本である交換的不正義(不等価交換)は、認識さえされていません。
それに対し、日本の独自文化である「和の精神」(参照「日本文化論」)は、基本的に性善説にもとづき、「浄明正直」を徳目とし、自然への信頼・融合と、商業における「三方良し(売り手良し、買い手良し、世間良し)」をめざしています。他方、その短所として、自然や権威への依頼心が強く、哲学的吟味が不十分で、災害・苦厄への「忍従(ありのまま、神ながらの道)」が人生を支えてきました。正義を求め真実を明らかにする心情を内に秘めながらも、「甘え、諦め、曖昧」を求める心が日本文化の根底にあって、良きにつけ悪しきにつけ他文化との対決や合理的解決を阻んできたのです。しかし、何事に対しても受容的であること、自然な繊細さを備えていることは、真実を見いだすのによい条件でもあります。
そこで最後に、普遍的道徳と日本文化の役割をまとめておきます。普遍的道徳の基礎概念については、上記に述べましたが、具体的にどのような行動が考えられるでしょうか。
20世紀前半における二度の世界大戦の反省のもとに、世界平和のための「国際連合」(1945)が結成され、共通の道徳的目標として「世界人権宣言」(1948)が発せられ、さらに環境問題が緊急を要する課題になってからは、「宇宙船地球号」や「かけがえのない地球 Only One Earth」 「Think Globally, Act locally」という標語が定着しています。
しかし、世界の経済的一体化は進んでいるものの、政治・経済の分野では、宗教対立、貧困・格差問題は一向に解決がつかず、20世紀後半の課題であった東西問題・南北問題は、相変わらず世界の解決するべき問題です。これらの課題解決のためには、西洋近代思想のもとに形成されてきた思考の枠組みの限界を克服し、さらに世界の一体化(世界連邦の確立)とそのための思想やビジョンを確立しなければなりません。そしてその主導権を握れるのは、ヒロシマ・ナガサキでの原爆の劫火による悲惨な洗礼を受け、世界でもっとも先進的な平和憲法を持ち、しかも経済大国であるにもかかわらず国連の国連安保理常任理事国にもなることができない日本以外にはありません。
ただこのような日本文化の役割・使命を実現するためには、日本はアメリカの実質上の保護国の立場から真の独立を行い、そのためにまず日本国憲法を改正して、政治的な世界の一体化すなわち「世界連邦」の創立に取り組まねばなりません(参照「憲法改正の三条件」)。そのような過程の中で、従来の宗教的道徳が平和と安寧、人心の苦悩の救済と平安を目指して成立したことの意義も、肯定的に実現されるのです。<枢軸時代>に出現した哲人・聖者によって顕された世界宗教の真の役割の実現、それは「和の日本国」において始めて可能なのではないでしょうか。
(※注)ヤスパース『歴史の起源と目標』
「人間存在の形成は、特定の信仰内容にかかわりなく、西洋でもアジアでもあらゆる人間にとっても、経験的に必然的で理解可能な認識とはならないが、それでも経験的理解に基づいて納得しうるような様式で行なわれたものであろう。その結果あらゆる民族にとって、歴史的自覚という一つの共通な枠が生じたものであろう。この世界史の軸は、はっきりいって紀元前五〇〇年頃、八〇〇年から二〇〇年の間に発生した精神的過程にあると思われる。そこに最も深い歴史の切れ目がある。われわれが今日に至るまで、そのような人間として生きてきたところのその人間が発生したのである。この時代が要するに<枢軸時代>と呼ばれるべきものである。」
◇ 地球の危機、生命の危機、人類の危機についてのキーワード
資源の枯渇、気候変動、宗教の退廃、強者の横暴
心の危機、文明の危機、日本の危機、世界の危機、
この危機の時代に、自己の利益、自社の利益、日本の利益だけしか考えなくていいのでしょうか。
目先の快楽、当面の利益、他者との競争、権力欲だけに知力を使うだけでいいのでしょうか。
今日の強者・勝ち組に見られる利己主義に公正や正義はあるのでしょうか。
物質的な豊かさ・経済成長だけが人々の生きる意味なのでしょうか。
今日の宗教は、現代と将来の人類に貢献できるのでしょうか。
逆に、心の荒廃と愚鈍、欺瞞と災いにならないでしょうか。
◇ 創造神信仰とテロリズムの克服
人間は神の被造物ではなく、神こそが人間の被造物である。人間は言葉を獲得した生命である。人間への正しい理解から、偏狭な宗教信仰とテロリズムの克服が始まります。