スミス道徳論批判のために

マンドヴィル 『蜂の寓話』 1705刊行 私人の悪徳・公共の利得

上田辰之助訳 <抜粋>

「人間を社会的動物とするものは社交欲、善性、愛憐、愛想のよさ、その他外形の綺麗な雅性ではなく、そのもっとも醜く、忌わしい素質こそかえってかれを最大の、そして世間の通念からえて、もっとも幸福で繁栄と思われる社会にふさわしいものとするのにもっとも必要な条件であるということである。 ・・・・・・・

いったいここに述べられている蜂の巣は広い世界のいかなる国と理解したらいいかといえば、それはその法規や憲法、また住民の栄華、富裕、勢力、勤勉等への言及から、それが広大で、裕福で、そうして好戦的な、しかも幸福に統治されている立憲君主国であることは明白である。だから本文に出てくる諸職諸業やほとんどすべての階層および身分の人々に関する諷刺は、特定の人たちを傷つけあるいは指弾するのが目的ではなく、よく秩序だてられた社会の健全な混合体を集成している含有要素の低俗を示そうとするにすぎない。(逆にいえば)かくも美わしき機構が、きわめて軽蔑すべき肢体からうち建てられることを助ける政治的叡知の驚嘆に値する力を謳歌するのが目的である。」(原著者序文 邦訳p257ー58)

ブンブン不平を鳴らす 蜂 の 巣

悪漢ども化して 正直者となる話

警沢で安楽に暮らす蜂どもが

ぎっしり詰った広やかな蜂の巣―

でも法律と軍備では、巣立ちの早い

蜂の群れ大勢生むのと並んで評判。

その蜂の巣は科学と産業の

偉大な育成所ともてはやされる。

蜂仲間でもかれらほど善政をもち、

しかもむら気で足るを知らぬ者はない。

かれらは虐政の奴隷でない。

さればとて野放しの民主主義でもない。

国王はいるが、もともと無害な存在―

王権が法律で骨抜きにされているからだ。

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悪の根という貧欲には

かの呪われた邪曲有害の悪徳。

それが貴い罪悪「濫費」に仕え、

奢侈は百万の貧者に仕事を与え、

忌わしき鼻持ちならなぬ倣慢が

もう百万人を雇うとき、

羨望さえも、そして虚栄心もまた、

みな産業の奉仕者である。

かれらご寵愛の人間愚、それは移り気、

食物、家具、着物の移り気、

ほんとうに不思議な馬鹿気た悪徳だ。

それでも商売動かす肝腎の車輪となる。

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生ある者の幸福、何とはかなきことよ、

仕合せにおのずから限りあり、

この世では完全などということは

神々にも無理な注文と知るならば、

つぶやく虫ども不平なく

大臣や政府をも我慢しよう。

ところが失敗のある毎に、

救いの道なく捨てられたもののよう。

かれらは呪う政治家と陸海軍。

そして「ペテンを葬れ」と異口同音に叫ぶ

手前のペテンは百も承知して、

他人のペテン断然ご免蒙るという仕儀。

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教訓 The moral

さらば不平はやめよ、馬鹿者だけが

偉大な蜂の巣を正直にせんとする。

世界の佳きもの楽しみながら、

武威は輝き、生活は安泰、

そのうえさしたる悪徳なしということは

脳裡に宿る空しいユートピア。

詐り、箸り、誇りはやはりなくてはならぬもの、

そしてその恩沢をばわれらが受ける。

空腹は恐ろしい悪疫だ、ほんとうに、

だが空腹なくして誰が消化し身を養う。

酒のもと葡萄のよくできるのは干乾びた、

見窄らしい曲り歪った蔓のおかげではないか。

若芽のときは誰も顧みない。だがしかし

やがて他の木を窒息させ、幹に匍い上がる。

それでもこれを束ね切り込めば、

あの結構な果物をわれらに恵む。

かように悪徳にも恩沢がある。

正義によって裁断し、束縛すれば、

いな、国民が偉大を望むなら、

悪徳の国家に必要なること

空腹の食事におけるがごとし。

徳が高いというだけで国々の暮らしをば

豪勢にするは無理な話。黄金時代の復活を

冀う人々は楽園の「正直」のみならず、楽園の

「樫実」にも自由の襟度あらま欲し。

(『蜂の寓話 自由主義経済の根底にあるもの』 上田辰之助 著訳 著作集4 みすず書房より)



ハチスン『道徳哲学序説』

フランシス・ハチスン著 1747刊行 ; 田中秀夫, 津田耕一訳. -- 京都大学学術出版会

第1章 人間の本性とその役割

・・・・人生の全体を規制する学問たる道徳哲学は、もっとも高貴な目的を目指さなければならない。というのも、道徳哲学が任務としているのは、人間の理性のなしうる範囲内において、自然の意図にもっともかなった、もっとも幸福な人生のコースへと、われわれを導くことだからである。・・・・すべての哲学者は、たとえもっとも正反対の考え方をする者であっても、少なくとも言葉のうえでは次の命題「幸福は、徳および有徳な義務に存するか、それらを通じて獲得され保持されうるものである」という命題に賛成する。したがって、道徳において探究されるべき主要な問題点は、自然の意図にかなっているのはどのような人生の行路なのか、幸福はどこに存するのか、徳とはどんなものなのか、でなければならない。

この宇宙とりわけ人間の本性は、神の叡知と意図によって形成されたのだ、と信じているすべての人々は、われわれ人間の心身構造のなかに、人類固有の本分を明らかにするなんらかの明瞭な証拠が見いだされるだろうと期待しているにちがいない。つまり、どのような人生の行路、どのような任務が、わが創造主の摂理と叡智によってわれわれに与えられているのか、また、どのようなものが幸福にいたる適切な手段なのかという疑問に対する明瞭な証拠である。したがってわれわれは、自らの本性の構造を正確に調べなければならない。そして、それによって、われわれがどのような種類の被造物であるのか、どのような目的のために自然はわれわれをつくったのか、わが創造主たる神は、われわれがどのような性格をもつことを望まれるのか、という問題を理解しなくてはならない。」(「第一章人間の本性とその役割」p17)

☞ 道徳哲学の任務は、創造主である神が、人間の本性としてどのような心身構造を与えているかを解明し、それによって人間にはどのような人生行路や任務が与えられており、幸福や徳はどのようなものであるかを探求をすることにある。このような前提から出発すれば、人間の現実をシェークスピアの戯曲のような悲喜劇に包まれたものであると理解する者にとっては、この世の人生は仮の姿であり、來世に希望を求める以外に救いがないという結論になってしまいがちである。実際に当時のイギリスでは政治権力とキリスト教の教義をめぐる凄惨な宗教的争いがまだ続いていたのである(名誉革命1688と反革命、また自然神学と啓蒙主義の時代)。

まず、人間の本性は魂と身体とから構成されている。そしてその魂と身体には、それぞれ固有の能力、役割、機能がある。身体の探究は、魂の探究に比べて容易であり、それは医者がなすべきことである。人間の身体が明らかに他の動物よりも高貴な構造をしていることは一目瞭然である。身体には、個体や種の保存に必要な、感覚器官を含むあらゆる部位があるだけではない。合理的で創造力に富む精神が意図する限りなく多様な行為やふるまいに必要な部位や、繊細な御業によってつくられた器官も身体にはある。(p18)

魂の役割あるいは能力は、身体よりいっそう輝かしく見える。それらは多様な種類からなるが、すべては知性と意志という二種類にまとめることができる。知性には、知識を目的とするすべての能力が含まれている。意志には、幸福を求め、不幸を避けようとする、いっさいのわれわれの欲望が含まれている。

知性のいくつかの働きについては、論理学と形而上学において充分に論じられているから、ほんの少しだけ述べることにする。それらのうち、はじめに論じられるべきなのはさまざまな感覚(sense)である。ここで、この感覚という言葉は、「ある特定の対象が魂にもたらされたとき[刺激受容]に、ある特定の感情や観念や知覚を生じさせる魂の構造あるいは能力[反応判断]」のいっさいを意味している。感覚は、外的であるか、あるいは内的、精神的かである。外的感覚(external sense)は、身体のある特定の器官に依存し、身体の外部からの刺激にせよ、身体の内部の力にせよ、そうしたものによってこの器官に作用が及ぼされたり、運動が引き起こされたりすると、特定の感情や概念が魂のなかに生じる、というふうになっている。身体にとって有益または有害ではない作用や変化が引き起こされると、それに続いて生じる感情は、一般的にいって、快いものであるか、少なくとも不快なものではない。しかし、身体にとって破壊的あるいは有害な作用や変化が引き起こされると、それに続いて生じるのは不快な感情である

身体的な快楽や苦痛は、魂にきわめて強い影響を及ぼす。しかし、周知のように、それらは短いあいだしか持続せず、すぐに消えてゆく。また実際にふたたび生じるとは思われないので、たんに過去の身体的な快楽を思い出しただけでは快いものとなることはめったにないし、また過去の苦痛を思い出しても、そのこと自体が不快なものとなることはめったにない。

以上のような感覚を通じてわれわれは、善と悪についての最初の概念を手に入れる。上に述べたような心地よい感覚を引き起こすものを、われわれは善と呼ぶ。苦痛な、あるいは不快な感覚を引き起こすものを、われわれは悪と呼ぶ。その他の対象もまた、なんらかの別種の感覚によって知覚され、快い感情を引き起こしているならば、われわれは同じように善と呼ぶし、それとは正反対のものを悪と呼ぶ。一般的にいって幸福とは、「今述べたような、ある種の心地よい感覚を引き起こすものがたくさんあって、しかも苦痛を免れている状態」である。不幸とは、「苦痛で不快な種類の感覚が、たびたびかつ持続的に生じていて、しかも心地よい感覚のいっさいが排除されていること」に存する。(p19-21 [ ]内は引用者による)

☞ R.ベーコン、T.ホッブス以来イギリスの経験論哲学の認識論は、アダム・スミスの師である神学者・道徳哲学者ハチスンにも受け継がれ、感情主義sentimentalism(道徳感覚学派)と言われる。その特徴はドイツ、フランスの合理主義哲学者とは異なり、理性よりも感性、感覚、感情を重視する。

四 内的感覚(inner sense)とは、精神がもつ次のような能力あるいは決定力である。すなわち、精神が、自らのうちにおけるすべてのもの、その働き・情念・判断・意志・欲望・喜び・悲しみ・行為の目的を知覚したり、意識したりするのを可能にする能力あるいは決定力である。この能力のことを、意識とか内省と呼ぶ有名な著者(ロックなどを指す)もいる。というのも、ちょうど外的な感覚が外的な事物をその対象としているように、この能力は精神それ自体の性質や働きや状態をその対象としているからである。この二種類の感覚、外的感覚と内的感覚とによって、われわれはいっさいの観念を蓄える。そしてその観念の蓄えを素材にしてわれわれは、人類に特有の推論というかのもっとも高貴な能力[理性]を行使するのである。

この理性という能力を用いてこそ魂は、事物の関係と連関、その結果と原因を知覚できる。また、そこから引き続いて生じることや、それに先だって起こったことを推論できる。さらには、(事物のあいだの)類似性を認識できるし、また一望のもとに現在と未来を考察し、魂自体に人生の草案全体を示し、その草案に必要なあらゆる事物を準備することができる。

☞ 精神の働きを、上記のように「情念・判断・意志・欲望・喜び・悲しみ・行為の目的」と羅列せざるを得ないのは、脳生理学の存在しなかった当時の哲学者による心理分析の限界である。とくに生命言語理論の立場からは、高等動物とも共通する欲望と感情の区別、また人間特有の本質である言語が、精神の働きの中に位置づけられていない。そのため、理性能力が言語的思考力・判断力・構想力に依存していることが自覚されず、「事物の関係と連関、その結果と原因を知覚」できることの意味(what,how,why等の疑問の解明の意味)やその結果としての知識の意義が理解できず、道徳自体の必要性や根拠が十分に説明できない。

(p23~24) ところで、幸福にとって直接に重要なあらゆる種類の善は、いかなる見解や推論にも先立って、なんらかの直接的な能力あるいは感覚によって知覚されるにちがいない。(というのも、推論の仕事は、それぞれの感覚によって知覚されたそれぞれの善の種類を比較すること、そして、そうした善を獲得するための適切な手段を見いだすことだからである。) したがって、われわれは、より崇高ないくつかの知覚能力あるいは感覚を注意深く探究しなければならない。というのも、この能力によってこそわれわれは、どのような人生の状態あるいは行路が神と自然の意図にもっともかなっているのか、真の幸福はどこに存しているか、という問題に答えることができるからである。

しかしわれわれは、意志についての若干の考察を前もっておこなっておかねばならない。というのも、意志の動き、われわれが抱く感情、欲望、目的は、それらをその対象とし、またそれらにおける多様な性質と重要な差異とを知覚する鋭敏な感覚の対象だからである。

精神が、なんらかの種類の喜ばしい感覚や不快な感覚を通じて、善・悪についてのなんらかの概念を手に入れる。するとただちに、感覚そのものとは異なった意志の特定の動きが自然に発生する。すなわち、善への欲望と、悪に対する嫌悪である。というのも、すべての理性的存在においては、自らの幸福とそれに役立ちそうに思われるあらゆるものを欲し、自らを不幸にすると思われるその正反対のものを避けようとする、不変の本質的な性向が常にあるように思われるからである。もちろん、幸福にとって最重要なのはどのような事物なのかを、真剣に探究した者などほとんどいない。けれども、あらゆる人々は、幸福に対してなんらかの重要性をもつと思われるあらゆるものを自然に欲しているし、その反対のものを自然に避けている。

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(p25~)以上のような意志の動きのうちの静的で主要な二つ、欲望と嫌悪のほかに、一般に意志に帰されているものが、さらに二つある。喜びと悲しみである。しかし、この二つは、人を自然に行為へかりたてる意志の動きというよりは、むしろ魂のあらたな状態、あるいは魂のもつより純粋な感情や感覚(feeling or senses)と呼ばれるべきものである。しかしながらわれわれは、古代人が言及していたこの四種頬のもの、すべてが意志あるいは合理的欲求に帰されるこれらのものを、以下のように関係づけることができる。すなわち、獲得されるべき善が目前にあるとき、欲望が生じる。拒否されるべき悪が目前にあるとき、嫌悪が生じる。善が獲得されるか、悪が回避されると、喜びが生じる。善が失われるか、悪がわが身に起こると、悲しみが生じる。

(p28) ・・・・・人間には、ある無私の善良性があって、自分自身の利益を顧みることなく、最愛の人物の利益を究極的に追い求める。・・・・・

(p30)ところで、魂には、利己的で個別的ないくつかの情念だけでなく、魂それ自身の最高の幸福を求める揺るぎない性向もしくは衝動が深く植えつけられている。この性向は、いかなる人でもほんの少し内省をおこなえば、見いだせるものである。また、個別的で利己的な情念が、いかなるかたちにおいてであれ、この性向と対立するのなら、各人はそのいっさいの利己的な情念をこの性向によって抑制・支配できる。したがって、自分が冷静なときに、他の人々の身体構造、気質、性格を考察し、人間の本性について充分な観察をする人は誰でも、世界全体があまねく繁栄し幸福であるように願う、上述の性向に似た魂の全般的性向を見いだすことだろう。

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(p32-33)さらに、はるかにもっと高貴で有用な感覚が存在する。共感あるいは同胞感情(sympathy or fellow-feeling)である。この共感という感覚を通じて、われわれは他の人々の状況や境遇からはなはだしい影響を受ける。そして、それゆえにわれわれは、推論や思索をおこなう前に、本性の力そのものによって、もし他の人々が繁栄していれば、それを喜ぶし、悲惨であれば、その人々とともに悲しむ。というのも、われわれは自分自身の利害を考慮に入れることなく、他の人々が快活でいるのを目にすれば歓喜し、涙を流していればその人々とともに泣くという性向をもっているからである。

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一〇 ・・・・・(p34)人間は、自分自身の感情や行動について内省する能力と理性が授けられていて、しかも、優れた識別力と判断カを備えた多様な反省的な感覚ももっている。

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(p39)、。いかなる者であれ、ある行為がそれ自身の本性において神の許容できるものだと認めなければ、神から報償を期待できない。また、悪の行為には本性上の欠点があると想定しなければ、誰も神の罰を恐れるはずがない。・・・・・

この感覚[良心または道徳感覚(moral senses)]が生来的に植え込まれていること、それゆえにわれわれには、心の動きや行為が、おのずから、また、それ自身の本性において、正しく栄誉があり美しく賞賛に値すると思われるにちがいないこと、このことは、意志におけるもっとも自然な心の動きの多くを考えれば、明らかとなるだろう。というのも、そうした心の動きの多くは、穏当であれ、激烈であれ、われわれが自分自身の利益を考慮に入れることなく、他の人々の行動や性格や境遇を目にすると、自然に引き起こされるからである。

ヒュームの『人間本性論』

第2巻 情念について 1739出版 ( 編集中)

(石川徹、中釜浩一、伊勢俊彦 訳 法政大学出版部2011、( )内は訳者の言い換え、[ ]内は訳者による添加)

第一部 誇りと卑下について

第一節 主題の区分

「身体的な苦や快は、精神によって[実際に印象として]感じられる時にも、[単に観念として]考えられている時にも、多くの情念の源泉である。だが、これらの快苦自体は、心に生じるといっても身体に生じるといってもどちらでもよいが、何らかの思考や知覚に先行されることなく根源的な仕方で生じる。たとえば、痛風の発作は、悲しみ、希望、恐怖といった情念の長い連なりを生み出すが、それ自体は何らかの感情(affection)や観念から、直接に生み出されるものではない。[したがって、身体的快苦は反省的印象ではなく感覚の印象に分類される。]

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人間の精神という主題は、きわめて内容豊富で多様なので、より秩序だって進むために、私はここではこの通俗的でもっともらしい区分[感覚の印象(身体的快苦)と反省的印象――引用者による]を利用することにしたい。そして、われわれの観念に関しては、私が必要と考えるすべてのことをすでに言ってしまっているので、ここではこれらの激しい情動、すなわち情念について、それらの本性、起源、原因、結果を解明しよう。

さて、さまざまな情念を調べていくと、それらが「直接」(direct)情念と「間接」(indirect)情念に区分できることがわかってくる。直接情念ということで私が理解するのは、善悪、快苦から直接に生じるような情念である。間接情念ということで私が理解するのは、同じ諸原理(善悪、快苦)からではあるが、他の諸性質と結合することで生じるような情念である。この区別を私は今のところ正当化できないし、これ以上解明することもできない。私はただ一般的に次のように言うことができるだけである。私は間接情念の下に、誇り、卑下、野心、自負心、愛、憎しみ、妬み、哀れみ、悪意、寛大およびそれらに従属するものを含める。また、直接情念の下に、欲求、嫌悪、悲しみ、喜び、希望、恐怖、絶望、安心を含める。」(p6-7)

<ヒュームにおける情念理解の限界、情念・感情からの欲求の分離の必要性>

 ヒュームは、『人間本性論 第一巻 知性について』で、「人間の心[精神]に現れる一切の知覚perception[ヒュームの場合、知覚内容ないし観念のこと]」を「印象impression」と「観念idea」に区分する。印象は内的外的刺激に対する反応内容であり、観念はそれらの印象を連合・再構成(思考過程)したある種の知識である。生命言語説で言えば、観念を形成する思考過程では、受容された刺激状況について、何がどのように(what, how)、なぜ(why)あるのかが問われ、その一応の解答が、一定の知識・観念となる。ヒュームの例にある痛風の場合、痛みや苦痛という不快状況を知覚(情念反応としての印象)して、その痛みの原因を探り、精霊や魔物が痛風の原因という観念に達すれば、祈りと魔物を追い出す行為で不快の解消を図ろうとする。このように『知性について』は、理性よりも欲求や情念が、判断や行動に大きな影響をもたらしているという点で、ある程度の現代的適用が可能である。 しかし、『人間本性論 第二巻 情念について』では、情念(感情)を含む精神(心)の捉え方が、現代の科学的心理学から見ると、大きな隔たりがある。とくに情念・感情については、欲求や無意識についての論究に、誤りや無理解があるので、根底的な批判が必要である。まず上記引用文の冒頭、「身体的な苦や快は、・・・多くの情念の源泉である」という理解は、情念が情念の原因になるというヒューム情念論の基本となっている。この理解は様々な情念の間の因果関係だけを取り上げるだけなら誤りとは言えないが、苦(不快)と快という根源的情念の源泉(原因)についての言及がないために、人間精神における情念と情念から分離すべき生命原理の根源となる欲求の位置づけが明らかにならないという欠陥が生じている。

 つまり、「欲求実現行動の過程または結果である快・不快の感情反応」を「情念の源泉」とすることで、精神(心)の理解を困難にしているのである。多くの情念は「快・不快」の判断基準を内包しており、次の行動の動因または推進力になっているが、決して「情念の源泉」なのではない。「快・不快の感情反応」は、欲求実現の過程で、その実現の程度または基準を示すものであり、その基準は、「個体と種の維持・存続のための欲求実現(行動の目的)」がどれほど目的に合致しているかを示すものである。もちろん、欲求実現に近づけば快の感情は強くなるし、実現できない場合は不快の感情が強くなる。さらに人間の場合の欲求は、言葉の獲得によって想像力が増大し、欲求の肥大化や観念上の欲求が増加することによって欲求自体が無限の広がりを持ち、その結果、道徳的感情について検討する必要も自覚されるようになったのである。

<快・不快の感情反応と動因性、西洋的感情理解の限界>

 生命(動物)活動は、多様で変化する環境に適応しつつ生存を維持することを目的とする。知覚は、それぞれの生命に適した環境からの刺激の受容であり、知覚後の反応や判断・行動は、生得的な反応様式(食欲、性欲等の実現様式)と、習得(経験)的反応・行動様式(習慣・約束等)によって反応・行動基準は異なっている。欲求実現の過程において、なぜ情念(感情)が生じるのか?それは「個体の維持と種の存続」という根本動因(欲求)、すなわち飲食欲や安全欲、生殖欲や集団欲等が、満たされれば快反応が起こり、満たされなければ不快・苦反応が生じる生物学的過程なのである。後者の習得的な場合、前者の根本動因(個体と種の維持・存続)に加えて、さらに快を求め不快を避ける行動として、快・不快に対応した対称的感情・情念、すなわち誇りや卑下、優越や劣等、愛や憎しみ、希望と絶望、喜びと悲しみ等々が起こり行動が終結または持続するのである。したがって、感情・情念の本性は、欲求の満足(快)、不満足(不快)の生理的反応・判断が根本にある、ということになる。

 ここで最も重要になるのは、情念は単なる判断では終わらず、快反応であれば一応行動は収束するが、不快状況が続く場合、不快の解消のために不快情念自体が行動の推進力・動因にもなるということである。情念が生存行動継続の判断・反応(基準)であるとともに、行動の動因にもなっているのである。この情念・感情における反応性と動因性の二面性によって、古代哲学(プラトン)から今日の科学的心理学まで続く哲学的心理分析の混乱の原因があったのである。つまり、感情・情念を引き起こす根本原因である「欲求」を、情念から分離できない心理分析の伝統、また「情念の本性、起源、原因、結果」を究明できなかった西洋認識論哲学の限界があるのである。

快苦という根本感情は、感情生起の原因ではなく、欲求実現行動の基準としての結果であるとともに、次の行動の動因となる感情・情動反応である。ヒュームには、基本的な生存欲求を充足させる動因の認識がない。情念は生存欲求の基準として快苦の反応がある。快苦の情動は反応結果であるとともに、快は行動の終結と快をさらに求める原因を意味し、不快はその解消と快を求める行動の動因となる。例えば、乳児は好奇心(好奇欲求:原因)の対象に向かってハイハイするとき、低い段差があると安全欲求を満たすために恐怖心・不安感情(結果)が起こり、満たされない好奇心の実現のためにこの恐れを越え(原因)、好奇心を満たすことによって快を得ようとする(結果)。行動範囲を広める(安全の確認)ために、自らの安心欲求の保障をする保護者の援助と経験的学習を重ねながら成長をしていくのである。(「心の構造」参照)

<欲求と快感情の追求、人間の言語的構想力のはたらき>

ヒュームの情念の捉え方と区分の誤りは、「直接情念と間接情念」という分類によく表れている。間接情念とは、自己と他者の人間関係(道徳)に関わる社会的評価の情念(愛憎、優劣、好悪、同情等)であり、直接情念とは、一般的な喜怒哀楽の感情である。ここで問題になるのは、ヒュームの直接感情における「欲求」と「希望」の取扱である。上でも述べたように、欲求実現行動は、快(感情)を求め不快(感情)を避ける過程である。欲求は、快を求め不快を避ける行動(過程)を通じて実現される。このような欲求実現過程によって、快(満足と弛緩)が生起すれば欲求が実現し、不快(不満と緊張)の状態であれば快を求める行動が継続する。欲求は行動の動因であり、快感情は行動の終結、不快感情は行動の継続を意味する。食欲は、空腹感という不快感情が、個体維持のための内的恒常性が維持されれば快感情(満腹感)となり、再び空腹となるまで休止する。

なお、「生命言語説」(心・精神構造の言語的説明理論)では、上記の基本的・生理的欲求としての「個体と種の維持・存続」の基礎のうえに、人間的・二次的欲求として言語的構想・想像力による基本的欲求の肥大化・複雑化・文化化・知性化・制度化等をあげることができる。例えば、人間の場合食欲は、単に空腹を満たすというだけでなく、より美味しくもっと栄養のありそうな食品を(過剰に!)求めがちである。また食事に伴う快・不快の情念・感情の内容についても、単に、個人的な満足感で終わらず、社会的・競争的評価が加わり、食材をめぐる高級志向や優越性が追求され、食事の好みや分配をめぐり人間関係において愛憎を伴う妬み、哀れみ、悪意、寛大等の感情が生じる。また異性間の性的欲求や競争、育児・子育て等の方法で起こる文化や生活様式から生じる多様な価値観と、そこから生じる価値感情の対立や相剋が、人間生活を豊かにしつつまた混乱をもたらしている。さらに、人間は、言語使用(言語的認識力)から生じる構想力・想像力・空想力は、現実に存在しない欲求対象、もっと多くの快楽、より確実な安全安心、より完全な自由、面倒の回避と便利さの追求、美的・感動的芸術世界の追求、未来への希望、死後の平安等の夢を追求して、意志堅固に、希望と信仰に支えられ、目的の実現をめざして、必ずしも永続的な幸福につながらない努力を続けている。

第二節 誇りと卑下について――それらの対象と原因

「誇りと卑下は正反対のものではあるが、それにもかかわらず同じ「対象」(object)を持つことは明らかである。この対象とは、自己(self)つまり、われわれがそれについて親密に記憶し、意識している、たがいに関係する観念や印象の継起である。われわれが誇りと卑下の情念のいずれかに心を動かされるとき、[精神の]視線は常にここに向けられている。われわれの自己についての観念が、より優れたものであるかそうでないかにしたがつて、われわれはこれらの対立する感情のいずれか一方を感じ、(優れたものである場合には)誇りによって高揚させられ、(そうでない場合には)卑下によって意気阻喪させられる。他のどんな対象が精神に捉えられているとしても、それらの対象は常に自己自身へと視線を向けながら思いうかべられる。そうでなければ、こうした対象はこれらの情念を引き起こすことも、またそれらをほんのわずかでも増減させることも、けっしてできないだろう。自己が考えの中に入り込まないときには、誇りや卑下の生じる余地は存在しないのである。」(p7-8)

<誇りと卑下は、優越感と劣等感であり、両者の格差を広げないこと>

☞ 第二節の表題を現代心理学的に訳せば、「誇りpride」は「優越感superiority complex」、「卑下humility」は「劣等感inferiority complex」と読み替えることができる。引用文においてヒュームの言うように、優越感や劣等感が「自己」の内面で引き起こされるのは確かである。しかし、それが自覚されているかどうかは別の問題である。両者の感情を感じるときは、自分と比べて「優劣の比較の対象」がまず意識される。感情・情念の反応・生起は、考えたり、思い浮かべたりすること(観念)によっても起こるが、まずはそのような思考過程の前に、ほぼ反射的に「感情反応」(ヒュームによれば「印象」)として起こるのである。

というのも、人間であっても感情・情念(という反応)は、考える前に(比較は知覚的にも、情報の知的操作や思考による比較・判断でも、到るところで行われるが)、知覚的刺激を受け、その情報に反応して引き起こされるのが最もわかりやすい。競走でライバルより早い(遅い)、今日のドレスはシンデレラより華やかだ(地味だ)、隣の車より大きい(小さい)、私のステーキは大きい等々は知覚的に確認され、反射的に優劣の感情反応が起こる。しかし、見えないところで、他人には知られず、優劣(美醜、大小、軽重、長短、強弱、明暗、合否等々)の感情反応が起こることは、日常的に経験することである。

つまり、優・劣の感情反応は、生理的動物的なもので、競争環境ではありふれたものである。限られた食糧を得るときや、異性を求め選択する行動など、自己の知的・観念的操作・思考とは無関係に、競争相手との力関係や比較によって誇りや卑下は日常的に生じるのである。そこで、過度な誇り(優越感)によって他人の人権を侵害し、卑下(劣等感)によって自らの自尊心を傷つけるような場合、そこから起こる争いや社会の亀裂を避け、連帯を維持するためには自他を傷つけないような道徳的配慮が必要になる。そのため、誇りと卑下の感情を打ち消し和らげるような、同情や共感、思いやりや憐れみのような道徳的善性(社会的連帯感情)が必要となる。

道徳的善性は、種族維持の欲求として生得的・本能的に備わっているものであるが、多くは社会的生活の中で経験的・習得的に与えられ身につけていくものである。つまり、まず感情の基準が生理的動物的基礎にあって、その上に理性の働きとして社会的責任や義務、道徳的行動への知的で合理的な意味づけや説明が必要とされるようになるのである。だから優劣の感情が激しくなり、怒りや憎しみを伴って肉体的・暴力的争いとなるようであれば、冷静に話し合うとか第三者の判断を求めようとか、慈悲・仁愛や怒りを抑える等の「言語的徳目」が力を発揮するようになるのである。

そこで、暴力を生じるような激しい感情的対立は、ヒュームやスミスのように放置する(!)のではなく、欲求や道徳的感情の社会的意味をより吟味し、誇りと卑下や愛と憎しみ、善意と悪意のような対立的感情、とりわけ否定的な感情のメカニズムを積極的に解明し、友好や協調、仁愛や平和が誰にでも理解されるように人間本性を解明し、教育・矯正する方法を確立する必要がある。そのために「精神(心)における言語(的思考)の役割」を理解することがまず大切になる。そのために、差別や偏見を生じやすい誇りや卑下の感情は、嫉妬や憎悪等の否定的感情とともに、生存適応的必要から生得的に備わっているとしても、抑制的な社会でありかつ心理的抑制の方法が必要なのである。

第三部 意志と直接情念について

第三節 意志に影響する動機について

「情念と理性の闘争について語り、理性を(情念に)優先させ、人間は理性の指令に従う限りにおいてのみ有徳であると主張すること、哲学においてもまた日常生活においてさえも、これほどありふれたことはない。すべての理性的被造物(人間)は、みずからの行動を、理性によって統御する義務があり、もし理性以外の動機や原理が、行動を指図することを要求してくるならば、人間はこれを完全に鎮圧するまで、あるいは少なくとも、上位の原理(理性)に服従するようになるまで、これと争わねばならない、と言われている。この思考法に、古代でも当代でも、道徳哲学の大部分が基礎をおいているように思われる。また理性が情念に優越するというこの想定ほど、通俗的な雄弁にとってと同様に、形而上学的議論にとっても、豊富な(話題を提供する)領域はないのである。前者(理性)の永遠性、不変性、神的な起源は最高に引き立つように誇示され、後者(情念)の盲目性、変わりやすさ、人を欺くことも同じように強く言い立てられてきた。このような[理性の情念に対する優越を唱える]哲学がすべて誤っているのを示すために、私は、まず最初に、理性だけでは、意志のどんな働きの動機となることもけっしてできないことを証明し、第二に、理性は意志に指図するという点において、情念と対立することは絶対にあり得ないことを証明するように努めよう。」(p160-61)

☞ ヒュームの人間理解は、現代哲学や社会心理学に通じるものがあると言える。ただヒュームの批判する理性優位の観念論哲学が「すべて誤っている」とは言えない。理性は、知性または知識を駆使することによって、欲求と情念・意志の方向や出現を抑制し転換することができる。

例えばキリスト教では、「神と最後の審判の知識(悔い改めによって天国での永遠の命が保障される)」によって、また仏教では、「四諦の知識と悟りを求める修行(欲望への執着を断ち切って極楽往生できる)」を通じて、人生苦に対する感情支配(永続的幸福への到達ないし苦痛や絶望からの救済)を可能にする教義である。ただ、通常、宗教教義(知識)を理解し、信仰・帰依・修行をすることには困難を伴う。

だから、空腹が不快の感情反応をもたらし、喉の渇きを潤すことが快感情をもたらすこと、あるいは、親から褒められるか、叱られたときのように、緊張・不安や喜び・安心のような動物的人間的感情を、完全に抑制・遮断しようとすることは、生命の持続的生存にとっては理性的・知性的判断とは言えない。つまり、人間は死後にしか安楽や幸福を得られないという宗教であるとすれば、その宗教や哲学の知識が、今日では、理性的・知性的判断を与えてくれるとは言えないだろう。

喜怒哀楽等の感情・情念は、生存のための本能的・生理的反応であり、自然な生命の反応であるから、自然状態であれば自然に任せて感情の生起に従えばよかった。しかし言葉を獲得し、欲望が増大し快を求め不快を避け、それらの起こる原因を考えるようになった人間は、快・不快の感情反応とその原因を追求または解消しようとすることによって、複雑多様で豊饒とも言える生活様式を生み出し、より多くの価値と意味、文化と文明を創造するに到った。その点から考えると、言語的構想力によってはたらく理性は、人間が自然か受け継いだ欲求と感情をより豊かに発展させたものとすることができる。つまり、感情・情念と知性・理性との関係は、優劣を付けるものではなく、人間精神のそれぞれ不可欠の機能として調和とバランスを保つものでなくてはならないだろう。そのためにこそ精神・心の科学としての心理学存在の意義があるのである。

「われわれが理性と情念の闘争について語っているときには、われわれは厳密に哲学的に話しているのではない。理性は情念の奴隷であり、また、ただ情念の奴隷であるべきなのであり、理性が、情念に仕え従う以外の役割を要求することは、けっしてできないのである。」(p163)

☞ 「理性は情念の奴隷であるべきである」というのは、理性と情念の定義を厳密に検討する必要はあるものの、情念は理性と知性(知識)によって抑制できるし、反道徳的な情念(例えば、他人の存在を認められない・殺したいほどの情念;憎悪・怨恨等)は、よく生起することがあるものだから、正しくない。われわれは日常このような情念に対して、決して奴隷にはなっていない。また、このような否定的感情に対して、優しさや思いやりの肯定的な情念があるから、両者のバランスによって殺人が防げているだけだというような主張も正しくない。動物には理性や知性がないから欲望や情念のバランスまたは自然法則によって種の保存や平和が保たれていると言える。しかし、人間の場合は、知性や理性が多少ともあるから、情念の奴隷にならなくても、理性的に社会秩序・平和が維持され、また逆に、反乱や戦争が起こされてきたのである。

「真理や理性に反することができるのは、真理や理性に関係を持つものだけだということ、そして、われわれの知性の判断だけがこの関係を持っているのだから、情念が理性に反することができるのは、情念が何らかの判断や意見を伴っている場合に限られる、ということが帰結しなければならない。きわめて明白で自然なこの原理にしたがえば、何らかの感情を理性に反すると呼ぶことができるのは、次の二つの意味においてだけである。第一に、希望や恐れ、悲しみや喜び、絶望や安心といった情念が、実際には存在しない対象が存在するという想定に基づいている場合である。第二に、何らかの情念を働かせる(情念によって行動を起こす)際に、計画された目的に対して不十分な手段をわれわれが選択し、原因結果についての判断において思い違いをする場合である。情念が誤った想定に基づいているのでも、目的に対する不十分な手段を選択しているのでもない場合は、知性は情念を正当化することも断罪することもできない。・・・・・・・要するに情念が理性に反するためには、何らかの誤った判断が伴っていなければならない。そして、その場合でさえ、正しく言えば、理性に反するのは情念ではなく、判断なのである。・・・・・・

[ここから生じる]帰結は明らかである。誤った想定に基づいている場合か、計画された目的のためには不十分な手段を選択する場合かのどちらか以外には、情念を理性に反すると呼ぶことは、いかなる意味でもできないので、理性と情念が相互に対立したり、意志と行為の支配を争ったりすることは不可能である。[情念が基づいている]想定が誤っていることや、[情念が選択した]手段が不十分であることにわれわれが気づくとただちに、われわれの情念は理性に屈して、何ら対立することはない。私は、ある果物を、すばらしい風味がすると[想定して]欲求するかもしれない。しかし、私の間違いを納得させられれば、必ず私の切望は止む。[また、]私は欲求されている善を獲得する手段として、ある行為を行なうことを意志するかもしれない。しかし、私がこのような行為を意志することは、単に二次的なだけ、つまり、それらの行為が、目標となる結果の原因であるという想定に基づいて[生じて]いるだけであるから、私がこの想定の誤りを発見するや否や、これらの行為は私にとってどうでもよいものになるに違いない。」(p163-65)

☞ 理性や情念とは何か?が不明確であるために、上記引用のようなわかりにくい表現が生じる。理性は、情念と人間の行動をある程度制御・抑制できるが、多くの人にとっては、理性の働きは欲望と情念に従っている。理性は知識(想定)によって判断し、欲望や情念は自然的生理的に判断する。ヒュームは情念の働きを重視するが、理性が情念の「想定や判断」の誤りに「気づく」と欲望や情念・行為は停止すると考えている。しかし、この「想定や判断」こそ理性的ないし知性の働きであることに気づいていない。「想定」が可能なのは、理性・知性の働きがあるからなのである。